本気のキスに甘くすがって
「もう数時間だけ大丈夫なら、うちに来ないか。スーツであちこち歩きたくはないだろうし……でも試験勉強があるだろうから、暗くなる頃には解散で」
「はい……大丈夫です」

 柚子は少しばかりためらったが、久しぶりに会えた賢人ともう少し一緒にいたかったので、ややぎこちなくも頷いた。
 そうして向かった賢人のマンションの部屋は、最後に来た時とほとんど変わっていなかった。ただ、少し家事に手が回っていなかったのか、ペットボトルとコンビニ弁当の容器がゴミ箱からはみ出そうになっていた。

「賢人さん……忙しいんですか」

 テレビの前のソファに座った柚子は、キッチンに立っている賢人に尋ねた。

「ん? ああ……悪いな、汚くて。まあ、年度始めだからな」

 多忙になる時期は年に何回かあるが、決算月の繁忙期に比べたら、今はまだ早く帰宅できているほうだ。それでも、今年度の事業計画達成に向けて今からやるべきことは多く、先回りして片付けられるものを必死でこなしている日々だ。

「柚子は? 公務員試験を受けるけど、民間企業の採用面接も受けるんだろ」

 自分にはブラックコーヒー、柚子には砂糖と牛乳を入れたカフェオレを作った賢人は、ソファの前にあるローテーブルの上に二人分のマグカップを置いた。柚子はありがとうございます、とお礼を言ってから、マグカップを両手で持つ。

「はい。練習が目的みたいなものですが、説明会に行って、エントリーシートを出して……今日までに何回か、一次面接を受けてきました」
「エントリーシート……ESか。懐かしいな。あれを書くだけでも、なんか無意味に心が削られるよな」

 数年前に自分が通った道を思い出して、賢人は苦々しい顔になった。
 賢人は運動も勉強もできたが、決して楽に高い能力を得られたわけではない。何度も基礎を反復したり、暗記や理解に時間をかけたり、ようは普遍的な努力をたゆまなく繰り返した。だから優秀なのだ。その努力のつらさ、大変さは、身をもって理解しているつもりだ。

「はい……その、私……将来やりたいことなんて……何もないので」
「そうなのか?」

 賢人が意外そうに尋ねると、柚子はこくりと頷いた。それから、柚子は俯いてしまう。
 将来の夢、自分のやりたいこと。社会に出て、成し遂げたい何か。どんな業界で、どんな職種で、どんなふうに働きたいのか。
 就活に励む同世代の学生たちが考え、あるいは夢見る将来の自分の姿を、自分は何も思い描けていない。兄が懸命に父を説得してくれたおかげで大学に通えているというのに、その時間を使っても、自分の今後のことを何も考えられていない。

「公務員は、柚子のやりたいこと……ではないのか」
「私……」

 柚子が社会に出て働くこと自体をよく思っていない父が、唯一公務員だけは仕事として認める、というようなことを前に一度言っていた。だから公務員になると――公務員試験を受けようと、そう思っただけだ。公務員なら父の価値観に合うかもしれないと、父の理念に自分の生き方を合わせるために。

「私……何もないんです……」

 柚子の胸の奥が、目の奥が熱くなる。

「働き、たいって……思っているけど……でも、私……何もない……っ」

 大学を卒業したら社会に出て働く。その道を、漠然とではあるが望んでいる。けれども、どんな仕事をしたいのか、そのビジョンはまったくない。だから、エントリーシートを書くのが本当に苦痛だ。輝かしい経歴も、ごたいそうな志望動機も、入社後にどんなふうに会社に貢献したいかも、求められる答えを何も書けない。何も持っていない。自分の中には何もない。ひどく空っぽだ。このままでは、社会人になどなれない。

「ほかの、人は……みんな……できてるのに……私は……全然、立派じゃない……空っぽで……」

 柚子の頬に、つーと涙が伝ってくる。それはあっという間に柚子の顎に届き、柚子のパンツスーツを遠慮なく濡らした。

「お、父さんの……言いなりは……嫌なのにっ……でも、お父さんの……言うような……道に……進んでしまいそうで……」

 女は働く必要などない。卒業したら見合いをして結婚をして、家庭に入ればいい。そうして、社会や世間との関わりの薄い、家族だけがすべてのような世界観で生きていく。
 それが父の良しとする道。そして実際に、母が歩んだ道。でも、自分はその道を良しとは思えない。母の生き方を否定することになってしまうので、声を大にして否定したくはないが、社会や世間との関わりが少ない生き方は、怖くもある。いつか常識を失って、無知な愚か者になってしまうような気がして。

「もう、やだっ……つらい……苦しい……っ」

 将来のことを何も描けないのは、未熟な自分が悪い。将来のことを考えるべき大学生活だったのに、何も考えてこなかったのは自分の怠慢だ。そう反省したところで、「何かして働きたい」以外の希望が、自分の中に何も浮かばないのだ。かといって、働かずに家庭に入るという選択肢は嫌だと思う。
 進もうとする力を身に付けないくせに、進めなくて苦しいなんて――都合がいい弱音にもほどがある。

「あのっ、……賢人さんに……こんな話、なんか……しちゃって……」

 全部ではないが、自分の中の黒く濁った気持ちを賢人の前で出してしまったことに気付き、柚子ははっとした。

「その……ごめんなさい」

 賢人に話すべきではなかった。社会人として実際に働いている賢人からしたら、就活中の大学生の愚痴なんて、「甘えるな」の一言ですべて片付くものだろう。社会人にはもっとつらくて苦しいことが――人によってはメンタルを大いに壊してしまうような苦難が多々あることだろう。それに比べれば、就活がつらいなんて愚痴は、ゴミ箱からはみ出て落ちそうになっている空のペットボトルくらい、なんの役にも立たない不要物だ。

「柚子」
「ご、ごめんなさいっ……ごめん、なさい……っ」

 短い呼吸を何度も繰り返して謝る柚子の背に手を伸ばし、賢人は彼女の背中をさすってやった。

「柚子、落ち着け。大丈夫だから」
「でも、こんな……私……っ」
「大丈夫、大丈夫だ。落ち着け、過呼吸になるぞ。ゆっくり息を吐け」

 柚子の背をさすりながら、賢人は低くて落ち着いた声をかけた。
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