本気のキスに甘くすがって
父は「女」を主語にして、あらゆることを否定する。それが、「女」である柚子の尊厳や、時には母のことさえも傷付けているということに、まったく気が付いていない。
そんな父を嫌い、父の言うことには常に反抗心を抱いていた。しかし、いつも最後には、父の言葉に従ってきてしまったように思う。大学に進学し、卒業後は就職して働くつもりでいるが、実は働く業界や業種には、なんの希望も思いもない。仕事としてやりたいと思い描けたことが、一度もないのだ。
これでは父の言うような、「女は仕事などせず家庭に入るべき」という道を進むしかない。その道を進むことを、肯定してしまうような気がする。柚子はそう恐れていた。
(気持ちがぐちゃぐちゃ……もうやだ……)
父の価値観になど合わせず、社会に出て働き、自立したいと思う。けれども、どんな仕事をしたいのか、それはまったく見えない。自分が働いているところが、何も想像できない。公務員試験という目標が目の前に迫ってきているが、「公務員になりたい」と憧れたことなど、一度もない。第一志望に掲げてはいるものの、その進路すらも、「公務員なら父の文句が少しだけ減るから」ということで、結局は父親の顔色をうかがった結果なのだ。
(やだ……もうやだ……っ)
柚子はスマホを持ってベッドに寝転ぶと、ぎゅっと体を小さく丸めた。
自分の人生には、なんの意味があるのだろう。やりたいことを見つけられず、選ぶこともできていないのに、果たして社会に出られるのだろうか。父親の言うことが嫌で、拒む気持ちがあるのに、どうしてその価値観に沿ったような道を行こうとしてしまうのだろう。
そんな自分が弱くて惨めで、悔しくてはがゆい。けれども、いまいる場所から離れられない。劇的に変わったり、成熟したりできない。柚子の心を覆う黒くて濁った泥は、ますます重みを増していく。
――ブルッ。
その時、柚子のスマホが一回だけ振動した。
柚子ははっとして、スマホの画面に視線をやる。
〈来週の土曜日、十四時から少しだけ会えないか〉
(賢人さん……)
じんわりと涙が浮かび始めていた目で、柚子は賢人からのメッセージをじっと見つめた。
賢人と最後に会ってから、もう一カ月も経っている。大学の授業と試験勉強、それに就活の事前セミナーや説明会など、日々のスケジュールをこなすのに必死で、賢人とはこの一カ月、メッセージのやり取りしかしていない。通話ならできるかも、と思っていたが、夜は毎日ぐったりと寝てしまうので、落ち着いて数分の電話をすることもできていなかった。
(会いたい……けど……)
柚子はベッドの上にスマホを置いたまま、バッグの中に入れっぱなしのスケジュール手帳を取りに行く。そしてそれを開き、来週の土曜日の予定を確認する。午前中に会社説明会の予定が一件入っていたが、それは十二時前には終了する予定なので、十四時から賢人と会うことはできるだろう。
だが、こんなにも重たい気持ちで賢人に会うのは憚られた。就活のこと、試験のこと、父親とのことで頭も心もぐちゃぐちゃで、穏やかな気持ちで賢人に会える気がしない。今の自分は、いつも以上に賢人に不釣り合いな、全然きれいでもかわいくもない、自己嫌悪の塊のような女だ。
柚子はベッドに戻り、スマホを手に取る。忙しいから、という理由で断ろうとも思うが、画面に映し出された賢人からのメッセージを見ていると、ふと、賢人に甘えてしまいたい気持ちにもなった。賢人は社会人で、当たり前だが就活を経験している。いま自分が抱えている漠然とした悩みを、賢人に聞いてほしい気もする。
(でも……)
それは迷惑じゃない? 就活の悩みなんて、社会人の賢人からしたら戯言のように聞こえるだけで、そんな話をされても鬱陶しいだけじゃない? いつも真っ先に顔を出す「いい子の柚子」が、そう引き止める。
けれどもその一方で、こんな声もする。甘えてもいいんじゃないかと。賢人になら、この心を侵食する不快な気持ちさえも出してしまっていいんじゃないかと。なぜなら、きっと賢人は、頼られるのを待っている気がする。頼られて嫌だ、迷惑だ、鬱陶しいと、そんなことを言う人ではない。
悩んだ末に、柚子は「はい、会えます。でも午前中が説明会なので、服装がスーツになってしまうのですが、大丈夫ですか」と返事を送った。すぐに既読マークが付いて、「問題ない」という返事と待ち合わせ場所が送られてくる。
その場所と時間をスケジュール手帳に書き込むと、柚子の心はほんの少しだけ軽さを取り戻していた。
◆◇◆◇◆
「おっ……美味しい……っ!」
そして一週間後、久しぶりに会えた賢人が柚子を連れて向かったのは、ホテルのアフタヌーン・ティーだった。九十分という時間制限付きだが、好きな紅茶が飲み放題で、用意されたケーキと軽食をゆっくりと味わえるコースだ。地上二十八階にあるロビーラウンジを囲む大きなガラス張りの外には、遠くの山まで見渡せるほどの広大な眺めが広がっており、都会の混雑した道の様子も、なだらかな山の稜線も青い空も、まるで神様にでもなったかのように見渡せる。
何カ月も待たないと予約ができないほど人気らしいのだが、賢人は仕事の関係で、偶然にもこの時間だけ予約できたのだそうだ。
「すごい……小さいのに、上品で丁寧な味がします」
「そりゃよかった。この量じゃ俺は食べた気がしないが、柚子にはちょうどよさそうだな」
賢人はティーカップを優雅に持ち、目を輝かせてイチゴのケーキを頬張る柚子をあたたかな目で見つめた。
けれども賢人のその目は、柚子の元気のなさを正確に見抜いていた。
最近話題になったネットの動画や、テレビで見たかわいい猫のエピソードなどを話しながら、柚子はフルーツケーキもチョコレートケーキも、ゼリーのようなケーキもセイボリーも味わって食べている。だが、その姿勢はどこか小さくなっていた。笑顔を向けてくれるが、その笑顔はどうにかこうにか無理やり作ったもののように見える。二人が初めて会ったあの日の合コンで、無理して場の和を保とうとしていた時と同じなのだ。
「柚子、このあとの時間は?」
「このあとは……」
時間いっぱいまでアフタヌーン・ティーを楽しんでからホテルのロビーを出ると、賢人は柚子に尋ねた。
午前中に会社説明会があったという柚子はパンツスーツで、これ以上あまり歩きたくないだろう。短時間ではあるが久しぶりに柚子と会えたし、今日はこれで解散でもいい。そう思ったのだが、柚子の元気のなさがどうしても気になっていた。
そんな父を嫌い、父の言うことには常に反抗心を抱いていた。しかし、いつも最後には、父の言葉に従ってきてしまったように思う。大学に進学し、卒業後は就職して働くつもりでいるが、実は働く業界や業種には、なんの希望も思いもない。仕事としてやりたいと思い描けたことが、一度もないのだ。
これでは父の言うような、「女は仕事などせず家庭に入るべき」という道を進むしかない。その道を進むことを、肯定してしまうような気がする。柚子はそう恐れていた。
(気持ちがぐちゃぐちゃ……もうやだ……)
父の価値観になど合わせず、社会に出て働き、自立したいと思う。けれども、どんな仕事をしたいのか、それはまったく見えない。自分が働いているところが、何も想像できない。公務員試験という目標が目の前に迫ってきているが、「公務員になりたい」と憧れたことなど、一度もない。第一志望に掲げてはいるものの、その進路すらも、「公務員なら父の文句が少しだけ減るから」ということで、結局は父親の顔色をうかがった結果なのだ。
(やだ……もうやだ……っ)
柚子はスマホを持ってベッドに寝転ぶと、ぎゅっと体を小さく丸めた。
自分の人生には、なんの意味があるのだろう。やりたいことを見つけられず、選ぶこともできていないのに、果たして社会に出られるのだろうか。父親の言うことが嫌で、拒む気持ちがあるのに、どうしてその価値観に沿ったような道を行こうとしてしまうのだろう。
そんな自分が弱くて惨めで、悔しくてはがゆい。けれども、いまいる場所から離れられない。劇的に変わったり、成熟したりできない。柚子の心を覆う黒くて濁った泥は、ますます重みを増していく。
――ブルッ。
その時、柚子のスマホが一回だけ振動した。
柚子ははっとして、スマホの画面に視線をやる。
〈来週の土曜日、十四時から少しだけ会えないか〉
(賢人さん……)
じんわりと涙が浮かび始めていた目で、柚子は賢人からのメッセージをじっと見つめた。
賢人と最後に会ってから、もう一カ月も経っている。大学の授業と試験勉強、それに就活の事前セミナーや説明会など、日々のスケジュールをこなすのに必死で、賢人とはこの一カ月、メッセージのやり取りしかしていない。通話ならできるかも、と思っていたが、夜は毎日ぐったりと寝てしまうので、落ち着いて数分の電話をすることもできていなかった。
(会いたい……けど……)
柚子はベッドの上にスマホを置いたまま、バッグの中に入れっぱなしのスケジュール手帳を取りに行く。そしてそれを開き、来週の土曜日の予定を確認する。午前中に会社説明会の予定が一件入っていたが、それは十二時前には終了する予定なので、十四時から賢人と会うことはできるだろう。
だが、こんなにも重たい気持ちで賢人に会うのは憚られた。就活のこと、試験のこと、父親とのことで頭も心もぐちゃぐちゃで、穏やかな気持ちで賢人に会える気がしない。今の自分は、いつも以上に賢人に不釣り合いな、全然きれいでもかわいくもない、自己嫌悪の塊のような女だ。
柚子はベッドに戻り、スマホを手に取る。忙しいから、という理由で断ろうとも思うが、画面に映し出された賢人からのメッセージを見ていると、ふと、賢人に甘えてしまいたい気持ちにもなった。賢人は社会人で、当たり前だが就活を経験している。いま自分が抱えている漠然とした悩みを、賢人に聞いてほしい気もする。
(でも……)
それは迷惑じゃない? 就活の悩みなんて、社会人の賢人からしたら戯言のように聞こえるだけで、そんな話をされても鬱陶しいだけじゃない? いつも真っ先に顔を出す「いい子の柚子」が、そう引き止める。
けれどもその一方で、こんな声もする。甘えてもいいんじゃないかと。賢人になら、この心を侵食する不快な気持ちさえも出してしまっていいんじゃないかと。なぜなら、きっと賢人は、頼られるのを待っている気がする。頼られて嫌だ、迷惑だ、鬱陶しいと、そんなことを言う人ではない。
悩んだ末に、柚子は「はい、会えます。でも午前中が説明会なので、服装がスーツになってしまうのですが、大丈夫ですか」と返事を送った。すぐに既読マークが付いて、「問題ない」という返事と待ち合わせ場所が送られてくる。
その場所と時間をスケジュール手帳に書き込むと、柚子の心はほんの少しだけ軽さを取り戻していた。
◆◇◆◇◆
「おっ……美味しい……っ!」
そして一週間後、久しぶりに会えた賢人が柚子を連れて向かったのは、ホテルのアフタヌーン・ティーだった。九十分という時間制限付きだが、好きな紅茶が飲み放題で、用意されたケーキと軽食をゆっくりと味わえるコースだ。地上二十八階にあるロビーラウンジを囲む大きなガラス張りの外には、遠くの山まで見渡せるほどの広大な眺めが広がっており、都会の混雑した道の様子も、なだらかな山の稜線も青い空も、まるで神様にでもなったかのように見渡せる。
何カ月も待たないと予約ができないほど人気らしいのだが、賢人は仕事の関係で、偶然にもこの時間だけ予約できたのだそうだ。
「すごい……小さいのに、上品で丁寧な味がします」
「そりゃよかった。この量じゃ俺は食べた気がしないが、柚子にはちょうどよさそうだな」
賢人はティーカップを優雅に持ち、目を輝かせてイチゴのケーキを頬張る柚子をあたたかな目で見つめた。
けれども賢人のその目は、柚子の元気のなさを正確に見抜いていた。
最近話題になったネットの動画や、テレビで見たかわいい猫のエピソードなどを話しながら、柚子はフルーツケーキもチョコレートケーキも、ゼリーのようなケーキもセイボリーも味わって食べている。だが、その姿勢はどこか小さくなっていた。笑顔を向けてくれるが、その笑顔はどうにかこうにか無理やり作ったもののように見える。二人が初めて会ったあの日の合コンで、無理して場の和を保とうとしていた時と同じなのだ。
「柚子、このあとの時間は?」
「このあとは……」
時間いっぱいまでアフタヌーン・ティーを楽しんでからホテルのロビーを出ると、賢人は柚子に尋ねた。
午前中に会社説明会があったという柚子はパンツスーツで、これ以上あまり歩きたくないだろう。短時間ではあるが久しぶりに柚子と会えたし、今日はこれで解散でもいい。そう思ったのだが、柚子の元気のなさがどうしても気になっていた。