本気のキスに甘くすがって
 なんだかずいぶんと大げさに褒められてしまったような気がして、柚子はいたたまれないと思った。自分は、そんなたいそうな人間ではない。賢人が言うようなことを、できている自覚もない。

「親父さんの価値観は、鞄だと思えばいい」
「鞄……ですか?」

 賢人の言うことがすぐには理解できず、柚子は少しだけ間の抜けた表情になった。

「親父さんはこれまでの長い人生、その鞄を手に持ってずっと歩いてきたんだ。だからその鞄の中には、親父さんが生きるのに必要なものがあれこれと入っている。でもその鞄は、親父さん自身ではない。ましてや、柚子でもない。親父さんが柚子に価値観を押し付けてくるときは、自分が持っている鞄の中身を押し付けてきていると思えばいい」
「そんな……おかしなこと……」
「そう、おかしいだろ? おかしなことなんだよ。だから、気にしなくていい」

 賢人がそう言うと、柚子は困ったような表情でくすっと笑った。

「柚子は柚子の鞄を持っているんだ。女には学が要らない、っていうのは、鞄の中に財布を入れるな、って言っているようなもんだ。そんなわけにはいかないだろ。逆に、柚子の鞄の中にも予備のネクタイを入れておけ、って言うのは変だろ。親父さんの価値観の押し付けは、とにかくおかしなことなんだよ。でも一方で、親父さんの鞄の中にも柚子の鞄の中にも、ハンカチやティッシュ、スマホや手帳……同じものも入っている。柚子が公務員になろうと考えているのは、親父さんの価値観に合わせたからじゃない。公務員はいいなと、きっとどこかで柚子自身が思ったからだ。たまたま同じ柄のハンカチが鞄の中に入っているようなもんだ。そういうふうに考えたら、少し楽になれるんじゃないか」
「なるほど……」

 賢人にしては、ずいぶんと冗談めいた喩え話だ。失礼にもそう思ってしまったが、たしかに価値観を鞄に喩えると、少し違った気持ちで父の言葉を処理できるような気がした。
 違う人生を歩み、違う鞄を持っているのに、その中身を全部父親と同じにするのはおかしな話だ。それを強要してくる父もまた、おかしな人だ。けれども、財布やスマホのように、同じものが鞄に入っていることは、何もおかしくはない。だから、父と同じものを選ぶということは、決して不自然なことではないのだ。

 それに賢人の言うように、働きたい業界や職種が何も絞れないからこそ、逆に公務員はいいかもしれない。日々黙々と市民の生活を支えることは、「やって当然」と思われて、ろくに感謝もされないだろうが、自分はそのことを苦には思わない気がする。たとえ褒められなくても、やるべきことを淡々と行う。ストレスや不満なくそれを行えるのは、数少ない自分の強みのように思えた。それに、同じ地域に住む人々の生活を支えるということは、自分なりにやりがいを感じられるような気もする。

「それにな、柚子。エントリーシートとか面接とか、自分以外のみんなはできているように思えるけどな、みんなそれぞれ、うまく取り繕ってるだけだよ。本心は柚子と同じで、自分に足りないものと向き合うのを怖がってる。やりたいことなんて何もない、って思ってる奴も多い。立派なESを書いて、立派なことを面接で言って、立派な企業に就職できた奴がたった三カ月で辞めるなんて、よくあることだ。最初から名のある〝何者か〟だった奴なんて、ほとんどいない。最終的にはどれだけ長く、コツコツ、地道にその場で積み上げられるかだ。だから、まだ学生の柚子が空っぽでも、全然いいんだよ。そこを満たしていくのはこれからなんだ。まあ、一般企業の内定を勝ち取るためには、周りの奴らがやっているようにかなり取り繕う必要があるけど」

 いびつだよな、この国の就職活動ってやつは――賢人はそう付け加えると、柚子の頭をやさしくなでた。

「よく言えたな。まだ言えていないこともあるだろうが……柚子がつらくて苦しいっていう弱音を言ってくれて……ちょっと安心した」
「安心……ですか?」
「ああ。お前はすぐ我慢して耐えるから、いつも心配だよ。どこかで限界がきて一瞬で壊れてしまいそうで……だから、こうしてちょっとでも、そのつらさを出してくれると安心する」
「でも……賢人さんは嫌ではないですか……こんな……学生の甘ったれた愚痴なんて……」
「全然? だって、相手が柚子だからな。ほかの女子大生の愚痴だったら絶対に聞かないが、柚子の愚痴だったらいつでも聞くよ」

 賢人はそう言うと、柚子の唇に軽くふれるだけのキスをした。涙が伝ったせいか、ほんの少ししょっぱい。そのしょっぱさを舐め取るように舌をからめたいと思ったが、その欲望は抑えつけておく。

「まだ就活は続くが……頑張れそうか」
「はい……たぶん……」
「我慢の限界がくる前に、つらくなったら言えよ。電話でもいいし、メッセージだけでもいいし……いつでも柚子の味方でいてやるから」

 ふと賢人は、そんなことを異性に言うなんて、ずいぶんと自分は変わったなと思った。一年前――柚子と出会う前の自分なら、決してそんなことは言わなかっただろう。女性の愚痴なんて、聞いたところで全部スルーしていただろうし、なんなら鬱陶しくてかなわない、とすら思ったかもしれない。こんなふうに異性をいたわる気持ちなんて、以前の自分はまったく持ち合わせていなかったはずだ。
 けれど、柚子のことだけは本当に特別だ。できれば彼女には苦しんでほしくないと思うし、それでも頑張るというのならこうして応援してやりたい。柚子が自分を頼って弱音を吐いてくれると安心するし、そんな柚子を無条件に甘やかしたくもなる。

「賢人さん……ありがとうございます」

 乾き途中の涙を全部ティッシュで拭いて、柚子はややぎこちない笑顔になった。
 胸の中に抱えていたものを、全部出せたわけではない。賢人からもらった助言も、うまくこの先に活かせるかはわからない。エントリーシートを書くつらさも、面接で受け答えする際の違和感も、たぶん、今すぐ変わるわけではない。
 ただ、賢人に対して情けなさを吐露できたこと。これまで他人に対してできなかった、弱音を吐くということ。それができた自分は、きっと以前の自分から少し変わった。情けなくて弱い姿のはずなのに、それを人に見せられた自分は、逆に少し強くなれたのではないかと思う。

 大人の賢人に少しでも釣り合うように、少しずつでもいいからこうして、変わっていきたい。自立した大人になって、彼と同じ目線を持ちたい。その意欲を胸に、試験と就活に挑もう。
 そう思いながら、柚子は自分からも賢人の唇にキスをした。心の底から賢人を想う、本気のキスを。
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