姫の花道
知らないことについて話す
馬の固い足音と体に伝わってくる振動にセリスは走り始めこそびくびくとしたものの、ラムウィンドスの両腕に囲まれていることで体勢は安定していたので、すぐに周囲の景色を見るのに夢中になった。
空が青く、風は乾いていて道を取り巻く木立には光が注いでいる。前方に目を凝らしても森が深く道は蛇行しているようで、まだ王宮の建物らしきものは見えない。
体感として、馬の移動はひとの足よりずいぶん速いようだ。
セリスにとって「速度」を感じるのは初めての経験であり、足を動かさずとも遠くまで運ばれるいまの状態をどう言い表せば良いのか、その表現すら浮かばなかった。
(ずっと離宮で生活してきたわたしには「距離」というものもうまく理解できないのよね。徒歩一時間でどれだけ遠くまで進めるのかとか、この馬の速さで進めばどのくらい遠くまで行けるかということが、皆目わからないのだもの。そもそも、世界がどのくらい広大であるかも知らない――)
ずっとセリスの住処であり運命の姫君を捕らえておくべき檻であった離宮からは、あっという間に遠くまで来たようだ。永遠にそこにいるのかもしれないと何度となく思っていたので、ものの数分で自分がまったく未知の場所にいる事実が不思議でならない。
「あっけない、こんな簡単なことだったなんて……」
振り返っても、もう離宮の外観を見ることはできないだろう。
驚くべきことに、呟きを聞きつけたらしいラムウィンドスから声をかけられた。
「あっけないとは、脱獄のことか? 一生出られないとでも思っていたのか?」
セリスはラムウィンドスの腕の中で体を軽くひねり、下の角度から鋭角的な顎を見つめて口を開く。
「脱獄というのは牢から出ることですよね? 牢は罪人のものです。罪を犯したのでも裁かれたわけでもないわたしが暮らしていた離宮は、牢ではありません」
これまで詰め込んできた知識を、言葉にする。
それはセリスにとって、心が昂りドキドキとする体験であった。
(わたしの話し言葉が、初対面の男性であるラムウィンドスに通じることはわかったわ。意思の疎通というものができているのよね。でも、現にこの場にないものに関する会話は成立するのかしら?)
セリスは牢というものを見たことがなく、罪人を裁くという過程も本当の意味では理解できていない。ただレルワニが説明していたことを知っているに過ぎない。
その知識が、外の世界の人間であるラムウィンドスの知識とぴたりと合わさるものなのか、それともずれがあるのか。自分に与えられた知識は正しいものであったのか。いままで選ばれたことしか教えられてこなかったセリスにとって、外の世界に住まう人間との答え合わせはどんなに願ってもできなかったことだ。
彼が答えるまでの一瞬、期待をして待つ。
「姫は罪を犯していないのか」
紡がれた言葉は飄々として、セリスを試すような響きがあった。
その内容をセリスは考えに考え抜き、自分は「罪人」ではないのではないか? という結論に至る。
「わたしが離宮で暮らし始めたのは物心つく前のことです。離宮の外で『罪人』になるような行いは、おそらくしていないのではないかと思います。つまり、窃盗ですとか……暴力ですとか」
ラムウィンドスは、前を見たままそっけなく言い放った。
「たしかに、物心つく前の行為に対して罪か否かを突き詰める意味はないな。たとえ陛下に暴言を吐いていたとしても、取り合う大人のほうがおかしいと俺は思う。しかし姫、物心をついてからはどうなのだ。それこそ姫は離宮でたったひとりの王族だ。側仕えの者たちに八つ当たりをして難癖をつけ、首を跳ねるなりライオンのいる野に追い出すなりといったこともできただろう?」
思いがけず長く彼が話すのを聞いて、セリスは少しだけ驚いた。話し方はぶっきらぼうであるが、言葉を惜しまない。セリスと会話をする気はあるらしい。そのことがセリスには妙に嬉しい。
ただ、理解はできなかった。セリスがいままで考えたこともなかった「仮定」の話だからだ。この場に無いものの話というより、彼がいま口にしたのは実際には起きていないことだ。
「なんでそんなことをするんですか?」
セリスは離宮の者たちを傷つけようと考えたことはない。外に出たいと泣きたい気持ちもあったが、それを口にしたり他人に聞かせたりしたこともなかった。離宮の者たちにその判断の権限はないと知っていたからだ。
「なるほど。姫はわがままを下の者にぶつけたいと思ったことも無いのか」
「ぶつけても意味がないと思っていましたので……それに、首を跳ねるというのはそもそもどういう意味なのでしょう? なんの意味がありますか?」
ラムウィンドスは沈黙の後、独り言のように呟いた。「そこからか」と。その声にはうっすらと苦いものが混じっている。セリスはその意味を考えて、不意に閃き悟った。
向かってきたライオンをためらわずに殺した彼は、人間をも同じように殺すのだろう。
離宮では一度も見かけることがなく必要性も感じなかった「処刑」「殺人」が王宮では身近で起こり得ることだと、彼は言いたいのかもしれない。
空が青く、風は乾いていて道を取り巻く木立には光が注いでいる。前方に目を凝らしても森が深く道は蛇行しているようで、まだ王宮の建物らしきものは見えない。
体感として、馬の移動はひとの足よりずいぶん速いようだ。
セリスにとって「速度」を感じるのは初めての経験であり、足を動かさずとも遠くまで運ばれるいまの状態をどう言い表せば良いのか、その表現すら浮かばなかった。
(ずっと離宮で生活してきたわたしには「距離」というものもうまく理解できないのよね。徒歩一時間でどれだけ遠くまで進めるのかとか、この馬の速さで進めばどのくらい遠くまで行けるかということが、皆目わからないのだもの。そもそも、世界がどのくらい広大であるかも知らない――)
ずっとセリスの住処であり運命の姫君を捕らえておくべき檻であった離宮からは、あっという間に遠くまで来たようだ。永遠にそこにいるのかもしれないと何度となく思っていたので、ものの数分で自分がまったく未知の場所にいる事実が不思議でならない。
「あっけない、こんな簡単なことだったなんて……」
振り返っても、もう離宮の外観を見ることはできないだろう。
驚くべきことに、呟きを聞きつけたらしいラムウィンドスから声をかけられた。
「あっけないとは、脱獄のことか? 一生出られないとでも思っていたのか?」
セリスはラムウィンドスの腕の中で体を軽くひねり、下の角度から鋭角的な顎を見つめて口を開く。
「脱獄というのは牢から出ることですよね? 牢は罪人のものです。罪を犯したのでも裁かれたわけでもないわたしが暮らしていた離宮は、牢ではありません」
これまで詰め込んできた知識を、言葉にする。
それはセリスにとって、心が昂りドキドキとする体験であった。
(わたしの話し言葉が、初対面の男性であるラムウィンドスに通じることはわかったわ。意思の疎通というものができているのよね。でも、現にこの場にないものに関する会話は成立するのかしら?)
セリスは牢というものを見たことがなく、罪人を裁くという過程も本当の意味では理解できていない。ただレルワニが説明していたことを知っているに過ぎない。
その知識が、外の世界の人間であるラムウィンドスの知識とぴたりと合わさるものなのか、それともずれがあるのか。自分に与えられた知識は正しいものであったのか。いままで選ばれたことしか教えられてこなかったセリスにとって、外の世界に住まう人間との答え合わせはどんなに願ってもできなかったことだ。
彼が答えるまでの一瞬、期待をして待つ。
「姫は罪を犯していないのか」
紡がれた言葉は飄々として、セリスを試すような響きがあった。
その内容をセリスは考えに考え抜き、自分は「罪人」ではないのではないか? という結論に至る。
「わたしが離宮で暮らし始めたのは物心つく前のことです。離宮の外で『罪人』になるような行いは、おそらくしていないのではないかと思います。つまり、窃盗ですとか……暴力ですとか」
ラムウィンドスは、前を見たままそっけなく言い放った。
「たしかに、物心つく前の行為に対して罪か否かを突き詰める意味はないな。たとえ陛下に暴言を吐いていたとしても、取り合う大人のほうがおかしいと俺は思う。しかし姫、物心をついてからはどうなのだ。それこそ姫は離宮でたったひとりの王族だ。側仕えの者たちに八つ当たりをして難癖をつけ、首を跳ねるなりライオンのいる野に追い出すなりといったこともできただろう?」
思いがけず長く彼が話すのを聞いて、セリスは少しだけ驚いた。話し方はぶっきらぼうであるが、言葉を惜しまない。セリスと会話をする気はあるらしい。そのことがセリスには妙に嬉しい。
ただ、理解はできなかった。セリスがいままで考えたこともなかった「仮定」の話だからだ。この場に無いものの話というより、彼がいま口にしたのは実際には起きていないことだ。
「なんでそんなことをするんですか?」
セリスは離宮の者たちを傷つけようと考えたことはない。外に出たいと泣きたい気持ちもあったが、それを口にしたり他人に聞かせたりしたこともなかった。離宮の者たちにその判断の権限はないと知っていたからだ。
「なるほど。姫はわがままを下の者にぶつけたいと思ったことも無いのか」
「ぶつけても意味がないと思っていましたので……それに、首を跳ねるというのはそもそもどういう意味なのでしょう? なんの意味がありますか?」
ラムウィンドスは沈黙の後、独り言のように呟いた。「そこからか」と。その声にはうっすらと苦いものが混じっている。セリスはその意味を考えて、不意に閃き悟った。
向かってきたライオンをためらわずに殺した彼は、人間をも同じように殺すのだろう。
離宮では一度も見かけることがなく必要性も感じなかった「処刑」「殺人」が王宮では身近で起こり得ることだと、彼は言いたいのかもしれない。


