カタオモイ・ファミリー
カタオモイ・ファミリー
「お兄ちゃん、早く行かないと遅刻しちゃうよ!」
階段をトントンと小気味よく駆け下りてくる音。
振り返ると、高校の制服に身を包んだ妹の結衣が、ポニーテールを揺らしながら満面の笑みを浮かべていた。
結衣の身長は155センチ。
170センチの僕の視線からは、ちょうど彼女のつむじや、上目遣いにこちらを見上げる大きな瞳がよく見える。
この15センチの身長差は、僕にとって「兄と妹」の証明であり、同時に、これ以上近づいてはいけないという残酷な境界線でもあった。
「ほら、ネクタイ曲がってる」
結衣が当たり前のように僕の胸元に手を伸ばし、小さな手でネクタイを整え始める。
ふわりと、シャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐった。ドクン、と心臓が大きな音を立てる。
「……ありがと。ほら、もう行くぞ」
僕は内心の動揺を隠すように、そっけない声で結衣の頭をぽんぽんと叩いた。
結衣は「もう、子供扱いしないでよ」と頬を膨らませる。
子供扱いしているわけじゃない。そうしないと、僕の目線が「兄」のものではなくなってしまうからだ。
僕は結衣が好きだ。
妹としてではなく、ひとりの女の子として。
けれど、僕たちは兄妹だ。この想いは絶対に知られてはいけない。
僕は一生、彼女の「優しいお兄ちゃん」という仮面を被り続ける。そう心に誓っていた。
その決意は、高校2年の秋、あまりにもあっけなく崩れ去ることになった。
雨の降る日曜日。
父親に頼まれて書斎の引き出しから古い書類を探していた僕は、一枚の紙に目を留めた。それは、我が家の戸籍謄本だった。
何気なく目を走らせた僕は、そこに書かれた記載に息を呑んだ。
『坂本瑠衣:長男(養子)』
心臓がバクバクと激しく鐘を鳴らす。
何度も見返したが、見間違いではなかった。
僕は幼い頃にこの家に引き取られた子供で、結衣とは一滴の血も繋がっていない──。
「お兄ちゃん? 書類あった?」
リビングから結衣の声がする。僕は慌てて戸籍謄本を元の場所に隠し、掴んだ書類を持って部屋を出た。
結衣の顔を見た瞬間、めまいがした。
俺たちは、本当の兄妹じゃない……?
血の繋がりという呪縛から解放されたという、狂おしいほどの歓喜。
しかし同時に、もしこれが公になれば、今までの温かい「家族」の日常が壊れてしまうかもしれないという恐怖が押し寄せる。
「お兄ちゃん、顔色悪いよ? 大丈夫?」
心配そうに覗き込んでくる結衣。
その優しさが、今の僕にはあまりにも眩しく、そして苦しかった。
それからの僕は、結衣とどう接していいか分からなくなった。
一緒にテレビを見ていても、触れそうになる肩を反射的に避けてしまう。
結衣の頭を撫でようとして、その手が宙で止まる。
「……最近、お兄ちゃん冷たい」
ぽつりと呟いた結衣の寂しそうな横顔に、僕は胸を痛めながらも、何も言えずにただ拳を握りしめることしかできなかった。
季節は巡り、高校3年の夏。
地元の花火大会に、僕たちは二人で行くことになった。
両親が「たまには二人で行ってきなさい」と言ってくれたのだ。
人混みの中、浴衣姿の結衣はいつも以上に大人びて見えた。
「はぐれないようにしてよ、お兄ちゃん」
結衣がそう言って、僕の浴衣の袖をきゅっと掴む。
その小さな手に、胸が締め付けられる。
神社の下を歩いている時、酔っ払いの集団が僕たちの横を通り過ぎた。男のひとりが結衣にぶつかりそうになる。
「っと、危ない!」
僕は反射的に結衣の肩を抱き寄せ、自分の胸の中に引き込んでいた。
「……あ」
男たちは行ってしまったが、僕たちの時間は止まった。
腕の中に収まる、結衣の華奢な体。
トクトクと速い心臓の鼓動が、僕のものなのか結衣のものなのか分からない。
「……ごめん。驚かせたな」
慌てて手を離そうとした、その時だった。
結衣の小さな手が、今度は僕の胸元の浴衣を、ぎゅっと強く握りしめた。
「……離さないで」
「結衣?」
結衣はうつむいたまま、蚊の鳴くような声で言った。
「知ってるよ。……お兄ちゃんと私が、本当の兄妹じゃないこと。ずっと前から、知ってた」
頭を殴られたような衝撃だった。
「お兄ちゃんが最近、私を避けるようになったから……気づいちゃったんだって、分かった。お兄ちゃんは優しいから、『兄妹』じゃなくなったら、私が困ると思って、離れようとしてるんでしょ?」
結衣の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「でも、違うの……。私、お兄ちゃんにお兄ちゃんでいてほしくて泣いてるんじゃないの。お兄ちゃんが私を『妹』としてしか見てくれないのが、ずっと……ずっと苦しかったの!」
夜空に、大きな大輪の花火が弾けた。
その爆音に消されそうな結衣の告白が、僕の耳に、まっすぐ突き刺さった。
花火の光に照らされた結衣の顔は、涙で濡れていた。
その涙の理由が、僕と同じ「切なさ」から来るものだと知った瞬間、僕の中で何かが弾け飛んだ。
僕はもう一度、結衣の肩を強く抱き寄せた。今度は守るためじゃない。引き離したくないからだ。
「結衣、顔を上げて」
僕の声に、結衣が驚いたように目を見開く。
「勘違いするな。俺がギクシャクしてたのは、お前を妹だと思えなくなったからじゃない。本当の兄妹じゃないって知って……お前を、ひとりの女の子として好きだって気持ちが、抑えきれなくなったからだ」
結衣の瞳が、花火の光を反射してきらきらと輝く。
「俺は、お前の優しいお兄ちゃんでいようとした。でも、もう無理だ。お兄ちゃんは、もうやめる」
僕は結衣の涙を親指でそっと拭った。
「結衣。俺はお前の兄貴じゃなくて、お前の隣に立つ男になりたい。……俺の恋人になってくれないか?」
結衣は一瞬、呆然とした表情を浮かべた後、ひまわりが咲いたような、今までで一番綺麗な笑顔を見せた。
「……うん! 喜んで!」
結衣が僕の胸に飛び込んでくる。
15センチの身長差。今、僕の腕の中にいる彼女は、妹ではなく、僕の愛しい恋人だ。
帰り道、僕たちは手を繋いで歩いた。
「ねえ、これからはなんて呼べばいい?」と嬉しそうに聞いてくる彼女に、僕は少し照れながら、「普通に名前で呼んでよ」と答えた。
「じゃあ……瑠衣。これからもよろしくね」
新しく刻まれ始めた二人の時間。
兄妹としての物語はここで終わり、僕たちの新しい恋の物語が、今ここから始まる。
階段をトントンと小気味よく駆け下りてくる音。
振り返ると、高校の制服に身を包んだ妹の結衣が、ポニーテールを揺らしながら満面の笑みを浮かべていた。
結衣の身長は155センチ。
170センチの僕の視線からは、ちょうど彼女のつむじや、上目遣いにこちらを見上げる大きな瞳がよく見える。
この15センチの身長差は、僕にとって「兄と妹」の証明であり、同時に、これ以上近づいてはいけないという残酷な境界線でもあった。
「ほら、ネクタイ曲がってる」
結衣が当たり前のように僕の胸元に手を伸ばし、小さな手でネクタイを整え始める。
ふわりと、シャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐった。ドクン、と心臓が大きな音を立てる。
「……ありがと。ほら、もう行くぞ」
僕は内心の動揺を隠すように、そっけない声で結衣の頭をぽんぽんと叩いた。
結衣は「もう、子供扱いしないでよ」と頬を膨らませる。
子供扱いしているわけじゃない。そうしないと、僕の目線が「兄」のものではなくなってしまうからだ。
僕は結衣が好きだ。
妹としてではなく、ひとりの女の子として。
けれど、僕たちは兄妹だ。この想いは絶対に知られてはいけない。
僕は一生、彼女の「優しいお兄ちゃん」という仮面を被り続ける。そう心に誓っていた。
その決意は、高校2年の秋、あまりにもあっけなく崩れ去ることになった。
雨の降る日曜日。
父親に頼まれて書斎の引き出しから古い書類を探していた僕は、一枚の紙に目を留めた。それは、我が家の戸籍謄本だった。
何気なく目を走らせた僕は、そこに書かれた記載に息を呑んだ。
『坂本瑠衣:長男(養子)』
心臓がバクバクと激しく鐘を鳴らす。
何度も見返したが、見間違いではなかった。
僕は幼い頃にこの家に引き取られた子供で、結衣とは一滴の血も繋がっていない──。
「お兄ちゃん? 書類あった?」
リビングから結衣の声がする。僕は慌てて戸籍謄本を元の場所に隠し、掴んだ書類を持って部屋を出た。
結衣の顔を見た瞬間、めまいがした。
俺たちは、本当の兄妹じゃない……?
血の繋がりという呪縛から解放されたという、狂おしいほどの歓喜。
しかし同時に、もしこれが公になれば、今までの温かい「家族」の日常が壊れてしまうかもしれないという恐怖が押し寄せる。
「お兄ちゃん、顔色悪いよ? 大丈夫?」
心配そうに覗き込んでくる結衣。
その優しさが、今の僕にはあまりにも眩しく、そして苦しかった。
それからの僕は、結衣とどう接していいか分からなくなった。
一緒にテレビを見ていても、触れそうになる肩を反射的に避けてしまう。
結衣の頭を撫でようとして、その手が宙で止まる。
「……最近、お兄ちゃん冷たい」
ぽつりと呟いた結衣の寂しそうな横顔に、僕は胸を痛めながらも、何も言えずにただ拳を握りしめることしかできなかった。
季節は巡り、高校3年の夏。
地元の花火大会に、僕たちは二人で行くことになった。
両親が「たまには二人で行ってきなさい」と言ってくれたのだ。
人混みの中、浴衣姿の結衣はいつも以上に大人びて見えた。
「はぐれないようにしてよ、お兄ちゃん」
結衣がそう言って、僕の浴衣の袖をきゅっと掴む。
その小さな手に、胸が締め付けられる。
神社の下を歩いている時、酔っ払いの集団が僕たちの横を通り過ぎた。男のひとりが結衣にぶつかりそうになる。
「っと、危ない!」
僕は反射的に結衣の肩を抱き寄せ、自分の胸の中に引き込んでいた。
「……あ」
男たちは行ってしまったが、僕たちの時間は止まった。
腕の中に収まる、結衣の華奢な体。
トクトクと速い心臓の鼓動が、僕のものなのか結衣のものなのか分からない。
「……ごめん。驚かせたな」
慌てて手を離そうとした、その時だった。
結衣の小さな手が、今度は僕の胸元の浴衣を、ぎゅっと強く握りしめた。
「……離さないで」
「結衣?」
結衣はうつむいたまま、蚊の鳴くような声で言った。
「知ってるよ。……お兄ちゃんと私が、本当の兄妹じゃないこと。ずっと前から、知ってた」
頭を殴られたような衝撃だった。
「お兄ちゃんが最近、私を避けるようになったから……気づいちゃったんだって、分かった。お兄ちゃんは優しいから、『兄妹』じゃなくなったら、私が困ると思って、離れようとしてるんでしょ?」
結衣の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「でも、違うの……。私、お兄ちゃんにお兄ちゃんでいてほしくて泣いてるんじゃないの。お兄ちゃんが私を『妹』としてしか見てくれないのが、ずっと……ずっと苦しかったの!」
夜空に、大きな大輪の花火が弾けた。
その爆音に消されそうな結衣の告白が、僕の耳に、まっすぐ突き刺さった。
花火の光に照らされた結衣の顔は、涙で濡れていた。
その涙の理由が、僕と同じ「切なさ」から来るものだと知った瞬間、僕の中で何かが弾け飛んだ。
僕はもう一度、結衣の肩を強く抱き寄せた。今度は守るためじゃない。引き離したくないからだ。
「結衣、顔を上げて」
僕の声に、結衣が驚いたように目を見開く。
「勘違いするな。俺がギクシャクしてたのは、お前を妹だと思えなくなったからじゃない。本当の兄妹じゃないって知って……お前を、ひとりの女の子として好きだって気持ちが、抑えきれなくなったからだ」
結衣の瞳が、花火の光を反射してきらきらと輝く。
「俺は、お前の優しいお兄ちゃんでいようとした。でも、もう無理だ。お兄ちゃんは、もうやめる」
僕は結衣の涙を親指でそっと拭った。
「結衣。俺はお前の兄貴じゃなくて、お前の隣に立つ男になりたい。……俺の恋人になってくれないか?」
結衣は一瞬、呆然とした表情を浮かべた後、ひまわりが咲いたような、今までで一番綺麗な笑顔を見せた。
「……うん! 喜んで!」
結衣が僕の胸に飛び込んでくる。
15センチの身長差。今、僕の腕の中にいる彼女は、妹ではなく、僕の愛しい恋人だ。
帰り道、僕たちは手を繋いで歩いた。
「ねえ、これからはなんて呼べばいい?」と嬉しそうに聞いてくる彼女に、僕は少し照れながら、「普通に名前で呼んでよ」と答えた。
「じゃあ……瑠衣。これからもよろしくね」
新しく刻まれ始めた二人の時間。
兄妹としての物語はここで終わり、僕たちの新しい恋の物語が、今ここから始まる。


