久我くんの過保護が止まらない!
陽菜が首を傾げる。

「どうしたの?」

「今日何作るん」

「晩ご飯?」

「ん」

「まだ決めてない」

すると湊は少し考えるように視線を逸らした。

「……肉じゃが」

ぼそり。

「食べたいの?」

「別に」

「食べたいんだ」

「言うてへんやろ」

「わかりやすいなぁ」

陽菜が笑う。

湊は不服そうだった。

しかし否定もしない。

結局食べたいのだろう。

「じゃあジャガイモ安かったらね」

「ん」

今度こそ満足したらしい。

竹刀袋を肩に掛け直す。

「帰り暗なるから気ぃ付けや」

「大丈夫だよ」

「大丈夫ちゃうって」

「駅前のスーパーだし」

「それでもや」

過保護である。

昔からだ。

中学生くらいまでは一緒に買い物へ来ようとしていた。

家から歩いて五分くらいのコンビニでも、だ。

さすがにそれは断ったけども。

「はいはい」

「はいは一回」

「はい」

まるで保護者だった。

陽菜は思わず吹き出す。

「お父さんみたい」

「親父と一緒にすんな」

「なんで」

「嫌なもんは嫌や。」

即答だった。

すると廊下から剣道部員の声が聞こえてくる。

「久我ー!早く来い!」

「エース様ー!」

「サボり疑惑出てるぞー!」

「うるさいわ」

湊が面倒そうに返事をする。

そして、教室を出る直前。

「連絡して」

「え?」

「スーパー出る時」

「必要?」

「必要」

「なんで?」

「心配やから」

あまりにも当然のように言われた。

これも、いつものことだ。

「わかった」

「ん」

それだけ言って湊は廊下へ出ていく。

数秒後には剣道部員たちに囲まれて見えなくなった。

陽菜は苦笑する。

「相変わらずだなぁ」

小さい頃からずっとそうだ。

風邪を引けば看病してくるし、

夜道は危ないと言い張って、どうにかして着いてくる。

荷物が重ければ持とうとするし、些細な怪我でも隠したらめちゃくちゃ怒る。

(.........ま、家族だもんね。)

今日の特売は何だろう。

肉じゃがにするならじゃがいもと人参と玉ねぎと――。

まずはスーパーだ。

晩ご飯を楽しみにしている家族がいるのだから。


結果から言うと―――

今日はとんでもない当たり日だった。

「ふふふふふ……」

陽菜は上機嫌で住宅街を歩く。

右手にレジ袋。

左手にもレジ袋。

しかも両方ぱんぱんである。

じゃがいもは特売。

玉ねぎも安かった上に、牛肉も思ったより安く買えた。

いつも買い忘れがちなティッシュと牛乳も無事にゲット!!

ここまでも十分勝利なのだが――。

今日一番の収穫は別にあった。

ミネヤのレジで会計をしていた時のことだ。

『あら陽菜ちゃん』

『こんにちは!』

『いつもありがとうねぇ』

顔なじみのパートさんだった。

陽菜が小学生の頃から働いている人だ。

気付けばすっかり覚えてくれている。

そして。

『そうだ、これ使う?』

『?』

『期限近いから。常連さんに配ってるのよ』

渡された紙を見て、陽菜は思わず二度見した。

全品10%オフクーポン。

しかも次回使えるやつだ。

『え、いいんですか!?』

『もちろん』

『ありがとうございます!!』

あの時は危うく飛び跳ねるところだった。

10%引きクーポン。

たかが10%。

されど10%。

10%引きをバカにするものは、10%引きに泣くのだ!!!

.......とまぁ、食費を預かる身としては大事件である。

「10%引き……!」

思わず呟く。

次の買い物が楽しみだ。

百円が九十円になる。

千円なら百円浮く。

積み重なれば大きい。

「んふふふ」

自然と頬が緩む。

その時。

スマホが震えた。

取り出して確認する。

案の定だった。

『スーパー出た?』

湊からだ。

陽菜は思わず笑う。

まだ部活中のはずなのに。

律儀というか何というか。

少し考えてから返信した。

『出たよ!』

数秒後。

『今どこ』

『公園の前』

『荷物重い?』

『ちょっと』

『ちょっとちゃうやろ』

なぜバレるのか。

写真も送っていないのに。

しかし湊はなぜか当てる。

『大丈夫だよ』

『その台詞信用できへんから』

『失礼な』

『前科ありやからな』

反論できなかった。

以前、

『軽い軽い』

と言いながら二リットルのペットボトルを四本買っていたことがある。

見つかった時めちゃくちゃ怒られた。

『もうすぐ家だから大丈夫!』

『ならええ』

そこでメッセージは終わった。

陽菜はスマホをしまう。

そして再び歩き出した。

夕暮れの住宅街。

オレンジ色の光が道路を照らしている。

少し先には見慣れた家並み。

帰れば夕飯を作らなければならない。

今日は肉じゃが。

たぶん帰宅したら嬉しそうな顔をするだろう。

本人は隠しているつもりだろうけれど。

陽菜にはわかる。

「よし」

レジ袋を持ち直す。

今日はいい買い物ができた。

献立もすんなり決まったし、おまけにクーポンも貰えた。

なんだか幸せな気分で、陽菜は家への道を歩いていった。


湊が帰宅したのは、それから二時間半ほど経った頃だった。

午後七時少し前。

玄関の扉が開く音がする。

「ただいま」

聞き慣れた低い声。

キッチンで肉じゃがを煮込んでいた陽菜は、すぐに返事をした。

「おかえりー」

ぱたぱたとスリッパの音が近付いてくる。

リビングへ入ってきた湊は、部活帰りらしく少し疲れた顔をしていた。

ジャージ姿のままスポーツバッグを床へ置く。

額にはうっすら汗。

部活終わりなのがよく分かった。

「お疲れ様」

「ん」

短く返事をしながら、ふと鼻を鳴らす。

数秒。

そして。

「ええ匂い。」

「でしょ!」

「腹減った......」

その声がほんの少しだけ弾んでいた。

陽菜は思わず笑う。

やっぱり分かりやすい。

本人は絶対認めないだろうけれど。

「手洗いうがい」

「子どもちゃうんやけど」

「風邪引いたら晩ご飯抜きだからね~」

「横暴や」

文句を言いながらも洗面所へ向かう。

ちゃんと従う辺りが湊だった。

数分後。

手洗いとうがいを済ませた湊が戻ってくる。

今度は制服ではなく部屋着に着替えていた。

キッチンのカウンター越しに圧力鍋を覗き込む。

「うまそ。」

「まだ味見してないよ」

「陽菜が作るならうまいやろ」

「そういうの困るんだけど~」

「なんで」

「大体感想雑なんだもん」

本当に困る。

毎回美味しいと言ってくれるのは嬉しい。

けど、『陽菜が作るなら何でもうまい』

では改善点も分からないし献立も考えづらい。

すると湊は少し考えてから言った。

「じゃあ今日の肉じゃがは」

「うん」

「見た目からしてうまそう」

「進歩してない」

「少ないボキャブラリーで頑張ったんやけど」

真顔で言うので余計に面白い。

陽菜が吹き出したその時。

玄関の方からまた音がした。

「ただいまー!」

元気な声。

恒一だ。

しかし次の瞬間。

「あっっっっ!!」

大声が響いた。

陽菜と湊が揃って顔を上げる。

「どうしたの?」

「陽菜ぁぁぁ!!」

恒一がリビングへ飛び込んでくる。

なぜか両手を広げながら。

「大変だ!!大事件だよこれは!!!」

「嫌な予感しかしない」

「今日依頼人さんから高級プリン貰ったんだけど......」

「へぇ」

「途中で落としてきちゃったっぽい!!」

沈黙。

数秒後。

「……何個?」

陽菜が静かに聞く。

恒一は目を逸らした。

「六個」

「全部?」

「全部」

再び沈黙。

湊がそっと目を閉じる。

ああ、終わったな。

という顔だった。

陽菜は笑顔になった。

とても綺麗な笑顔だった。

「お父さん?」

「はい」

「どうして落としたのかな?」

「えっと」

「なんでかなぁ?」

「ごめんなさい」

即座に謝罪が飛び出した。

それを見ていた湊はそっとキッチンへ避難する。

巻き込まれたくない。

長年の経験で学んでいる。

「高級プリンだったんだよね?」

「はい」

「六個全部?」

「はい」

「しかも貰い物?」

「はい……」

どんどん小さくなる父。

どんどん圧が強くなる娘。

その様子を見ながら湊は肉じゃがの鍋を見つめた。

そして小さく呟く。

「今日も平和やな」

もちろん。

聞こえた陽菜に睨まれた。

「湊?」

「すんません」

即座に謝罪した。

絶対に怒らせてはいけない人間が、一ノ瀬家には一人いるのである。


「反省してる?」

陽菜が腕を組む。

恒一は正座していた。

「してます」

「本当に?」

「本当に」

「高級プリンだったんだよ?」

「はい」

「ぜーんぶ落としちゃったんだ」

「はい……」

どんどん声が小さくなる。

陽菜はむすっとしたまま頬を膨らませた。

「もったいない」

「ごもっともです」

「私食べたかった」

「本当に申し訳ございません」

しゅん、と肩を落とす恒一。

弁護士として法廷に立つ時は圧倒的な説得力を誇る男だが、娘の前では無力だった。

完全敗北である。

数秒の沈黙。

そして。

「……お父さん」

「はい」

「今日は肉じゃがの肉抜き」

「えっ」

「じゃが」

「えっ」

「じゃが!!」

大事なことなので二回言った。

恒一が固まる。

湊が吹き出した。

「っ、ふ。」

「湊」

「はいすんません」

即座に真顔へ戻るが、肩が震えている。

「陽菜ぁ.......それはちょっと厳しくないかな?」

「高級プリン六個」

「はい」

「異論は認めません。

お父さんじゃが確定ね。」

「はーい……」

異議申し立ては却下された。

恒一は項垂れる。

「肉……」

「じゃが」

「肉じゃがの存在意義が……」

「じゃが」

問答無用だった。

湊がついに耐えきれなくなった。

「親父」

「なに」

「諦めぇや」

「湊は味方してくれないの!?」

「自業自得やろ。

あーあ、俺も食いたかった。高級プリン」

ばっさりだった。

恒一がさらに沈む。

そんな父を見ながら、陽菜はまだ少しむすっとしていた。

しかし。

その顔を見ていると、だんだん怒る気も失せてくる。

昔からそうだ。

父は本気で反省している時ほどしょんぼりした大型犬みたいになる。

今もまさにそれだった。

「……はぁ」

陽菜がため息をつく。

「今回は特別だからね」

恒一の顔がぱっと上がった。

「え?」

「肉抜き中止」

「やったぁ!!」

「次やったらじゃがだけだからね。絶対。」

「気を付けます!」

即答だった。

湊は呆れたようにその様子を見ていたが、どこか楽しそうだった。

結局。

食卓に並んだのは普通の肉じゃがだった。

いただきます、と三人で手を合わせる。

恒一は一口食べて感動したように言った。

「うまい……」

「よかったね」

「プリン失った心が癒やされる……」

「反省して?」

「してる」

「ほんとに?」

「お父さんしょんぼり中だから.......」

そんなやり取りを見ながら。

湊は肉じゃがを口に運ぶ。

やっぱりうまい。

陽菜の作る肉じゃがが昔から好きだった。

向かいでは父が生き返ったような顔をしていて、

その隣では陽菜が苦笑している。

騒がしくて。

平和で。

温かい。

昔の自分なら想像もできなかったような食卓だった。

「どう?」

ふいに陽菜が聞いてくる。

「ん?」

「肉じゃが」

湊は少し考えた。

そして。

「うまい」

いつもの感想を口にする。

すると陽菜がじとっとした目を向けてきた。

「だから雑。」

「ほんまにうまいんやけど」

「ボキャブラリー増やして」

「難しい注文やな」

そう言うと、陽菜は呆れたように笑った。

その笑顔を見ながら。

湊も少しだけ口元を緩めた。


「ごちそうさま」

三人で手を合わせる。

食卓には綺麗になった皿が並んでいた。

肉じゃがもほとんど残っていない。

恒一はしっかりおかわりまでしていた。

「満足……」

幸せそうな顔でお茶を飲んでいる。

数十分前まで肉抜き判決に怯えていた人間とは思えない。

陽菜は苦笑しながら食器をまとめた。

「お父さん、お皿お願い」

「はい」

「湊はテーブル拭いて」

「ん」

二人とも素直に動く。

これも一ノ瀬家の日常だった。

食器洗いを終えた後。

陽菜は小さな保存容器に肉じゃがを取り分けた。

じゃがいもと人参、それからお肉も少し。

ラップをかける。

それを持ってリビングの隅へ向かった。

そこには小さな仏壇があった。

母の仏壇だ。

陽菜は慣れた手つきで肉じゃがを供える。

「今日は肉じゃがだよ」

誰に聞かせるでもなく呟く。

写真の中の母は穏やかに微笑んでいた。

もう何年も前の写真なのに、不思議と色褪せない。

陽菜は静かに手を合わせた。

母が亡くなったのは小学生の頃だ。

悲しくなかったわけじゃない。

寂しくなかったわけでもない。

けれど、母は最後まで笑っていたから。

陽菜も、泣いてばかりはいられなかった。

――お母さんならどうするかな。

気付けばそれが癖になっていた。

手を合わせ終え、顔を上げる。

「今日ね」

ぽつりと話しかける。

「スーパーでクーポン貰ったの」

少し嬉しそうな声だった。

「十パーセント引き」

本当に、これはなかなか大きい。

「あと、お父さんが高級プリン全部落としちゃったの。」

仏壇の向こうで母が笑った気がした。

「だから危うく肉抜きだったんだよ」

くすっと笑った。

「陽菜。」

不意に後ろから声がした。

湊だった。

「ん?」

「春佳さんの花、替えといた」

「あ、ありがとう」

見ると新しい花が供えられていた。

陽菜が気付く前にやってくれたらしい。

湊は写真へ視線を向ける。

そして小さく頭を下げた。

言葉はない。

仏壇の写真は何も答えない。

それでも。

この家の時間は今もちゃんと繋がっている。

母がいて。

父がいて。

湊がいて。

自分がいる。

陽菜は写真に向かってもう一度微笑んだ。

「また明日も頑張るね」

その言葉に答えるように。

窓の外で夜風がそっとカーテンを揺らした。


翌朝。

一ノ瀬家の朝は今日も早かった。

「……よし」

陽菜は炊飯器の蓋を閉める。

味噌汁よし。

卵焼きよし。

ウインナーよし。

昨日の肉じゃがを少しアレンジした肉じゃがコロッケよし。

今日もお弁当は順調だった。

ちなみに三人分である。

「陽菜ぁ」

リビングから情けない声が聞こえた。

「何ー?」

「眼鏡どこー?」

陽菜は無言で天井を見上げた。

朝である。

まだ朝六時台である。

なのにもう始まった。

「お父さん」

「はい」

「昨日どこで本読んでた?」

「ソファ」

「その横」

「なんでわかるの!?」

「わかるから」

数秒後。

「あった!!」

歓声が響いた。

陽菜はもう驚かない。

いつものことだ。

むしろ見つからなかったら心配になる。

そんなことを考えていると、今度は二階から足音が聞こえた。

階段を下りてきたのは湊だった。

まだ少し眠そうで、黒髪がいつもより乱れている。

「おはよう」

「おはよ」

短いやり取り。

だが陽菜は気付いた。

「眠い?」

「ちょっと」

珍しい。

湊は基本的に朝に強い。

すると後ろから恒一が顔を出した。

「昨日遅くまで勉強してたんじゃないか?」

「別に」

「何時まで起きてたの?」

「一時くらい」

「遅!」

湊が目を逸らした。

「テスト近いし」

「だからって睡眠削っちゃだめ」

「削ってへん」

「削ってる」

きっぱり。

反論は認めない。

湊は小さくため息を吐いた。

しかしそれ以上言い返さない。

言っても勝てないからだ。

その時だった。

陽菜のスマホが震える。

「ん?」

画面を見る。

クラスのグループチャットだった。

メッセージが大量に流れている。

「どうした?」

恒一が覗き込む。

陽菜は内容を読んだ。

そして。

「あ」

「何や」

湊も近付いてくる。

「今日、小テストだって」

沈黙。

一秒。

二秒。

三秒。

「聞いてない」

陽菜が言う。

「俺も」

湊が言う。

「先生昨日言ってたんじゃなかったか?」

恒一が言う。

二人が揃って父を見た。

「なんで知ってんねん」

「昨日迎えに行った依頼人さんの息子くんが同じ学校だから~」

ふふんとドヤ顔をする父は二人ともガンスルーだ。

それどころじゃない。

「その情報今じゃない」

陽菜は頭を抱えた。

確かに昨日の終礼。

何か言われていた気がする。

その時はちょうどの献立ことで頭がいっぱいで、完全に聞き流していた。

「英語だって」

「終わった」

「終わってへんやろ」

湊が呆れたように言う。

「陽菜、英語得意やん」

「勉強してない。

.........そもそも湊のほうが得意じゃん」

「俺もしてへんし、今回はやばいわ」

「湊はなんとかなるじゃん」

「ならんて」

絶対なる。

陽菜はそう思った。

そして案の定。

朝食を食べながら教科書を開く陽菜の隣で、湊は平然と味噌汁を飲んでいた。

「勉強しないの?」

「今見たら昨日やったとこと範囲かぶっとったわ」

「……あ」

そうだった。

一時まで起きていた人だ。

陽菜がじとっと睨む。

湊は知らん顔をした。

そんな二人を見ながら。

恒一は今日も平和だなぁ、と呑気にお茶を飲む。

もちろん、その直後にお茶を盛大にこぼして陽菜に怒られたのは言うまでもない。

一時間目。

英語の小テスト。

結果から言おう。

散々だった。

チャイムが鳴り、解答用紙が回収される。

陽菜は机に突っ伏した。

「終わった……」

声に生気がない。

本当に終わったかもしれない。

少なくとも手応えは最悪だった。

「陽菜」

「なに……」

「強く生きて。」

友人に肩を叩かれ、陽菜は顔だけ上げた。

「無理……」

「そんなに?」

「そんなに」

即答だった。

周囲から笑いが漏れる。

「珍しいじゃん」

「陽菜がここまでダメージ受けてるの見たことないかも」

「あるよ........」

陽菜は力なく言った。

「去年の期末」

「あー」

「数学かぁ」

「伝説のやつだ」

その時、前の席の男子が振り返った。

「予想何点くらい?」

「わかんない」

「七十?」

「もっと下かも」

「一ノ瀬が?」

「今回は本当にやばい」

がっくり。

再び机に沈む。

友人たちはけらけら笑っていた。

「朝から騒いでたもんね」

「聞いてない、聞いてないーって」

「顔真っ青だったなー」

「だってほんとに聞いてなかったんだもん!」

思わず顔を上げる。

「献立考えてたら終礼終わってたし!」

「主婦じゃん」

「主婦だ」

「高校生だよ!?」

さらに笑われた。

納得いかない。

本当に納得いかない。

しかし反論できない。

実際、昨日はスーパーの特売のことで頭がいっぱいだった。

「陽菜」

不意に聞き慣れた声がする。

振り返ると、窓際の席から湊がこちらを見ていた。

「何点くらい取れそう?」

「聞かないで」

「五十」

「聞かないでって言ったよね?」

「四十」

「やめて」

湊は少し考える。

「三十後半」

「湊?」

「はい」

陽菜の声に圧が混じった。

湊は素直に口を閉じる。

しかし、その口元は少しだけ笑っていた。

「あ、ねぇ」

友人の一人が言う。

「ちなみに久我くんは?」

「普通」

「自己採点は?」

「九十くらいちゃう」

教室が静まった。

陽菜も静まった。

数秒後。

「爆発してくれないかなぁ?」

ぼそりと独り言ちる。

その一言に、教室中が吹き出した。

「理不尽!」

「久我くん悪くない!」

「逆恨みだ!」

大笑いである。

湊も肩を震わせていた。

「陽菜」

「なに」

「昨日ちゃんと勉強せんから」

「うるさい」

「自業自得」

「知ってるってば!」

机に額をぶつける。

ごん。

鈍い音がした。

その様子を見ていた友人たちは腹を抱えて笑っていた。

「ほんと珍しい」

「完璧そうに見えて意外と抜けてるよね」

「わかる」

「これ以上傷えぐらないで……」

陽菜は力なく呟く。

そんな彼女を見ながら。

湊はふと目を細めた。

いつもはしっかり者で、誰かの面倒ばかり見ていて自分のことは後回し。

だからこうして珍しく失敗して落ち込んでいる姿は、少しだけ新鮮だった。

そして―――少しだけ、可愛いと思った。

「まあ」

湊が言う。

「次頑張ればええやろ」

慰めるような声だった。

陽菜は顔を上げる。

「……そうする」

「ん。前向きぃや。」

それだけ。

それだけなのに。

友人たちはなぜか顔を見合わせた。

(今の優しくない?)

(優しかった)

(あの久我くんが?)

(この久我くんが..........)

しかし当の陽菜は、そんなことよりテストの点数の方が心配だった。


昼休みのチャイムが鳴った。

途端に教室の空気が緩む。

陽菜の席の周りには早速友人たちが集まり始めていた。

「今日のお弁当なにー?」

「コロッケ」

「やったー!」

「綾のじゃないよ?」

いつものやり取り。

いつもの昼休み。

一方その頃。

湊は席を立っていた。

目的地は決まっている。

陽菜の席だ。

朝作ってもらった弁当を回収しに行くだけである。

ただそれだけ。

――のはずだった。

「久我先輩」

聞き慣れない声がして足を止める。

振り返ると、廊下に女子生徒が立っていた。

見覚えはある。

たぶん、一つ下―――他学年の生徒だ。

「……何」

女子はびくりと肩を震わせた。

その反応に湊は内心ため息をつく。

別に睨んだつもりはない。

いつもの顔だ。

しかし相手は妙に緊張している。

顔も赤いし、視線も落ち着かない上に指先をもじもじさせている。

そして。

「ちょ、ちょっとお話が……」

そこで察した。

ああ、そういうやつか。

湊は無表情のまま天井を見上げた。

逃げたい。

非常に逃げたい。

だが相手は勇気を出しているのだろう。

無視するのも後味が悪い。

「どこで」

「校舎裏……」

やっぱり。

校舎裏。

もはや美しいまでのテンプレである。

湊は小さく息を吐いた。

「……わかった」

女子の顔がぱっと明るくなる。

2人はそのまま廊下を歩き出した。

そして教室では、一連の流れを見ていたクラスメイトたちがざわついていた。

「今の」

「呼び出し?」

「絶対そうだろ」

「校舎裏だったよな?」

「校舎裏だった」

男子も女子も食いついている。

もちろん陽菜も気付いた。

「ん?」

廊下を見る。

ちょうど湊の背中が見えた。

「どしたんだろ」

友人たちが一斉に振り返る。

「どしたんだろじゃない」

「どう見ても告白でしょ」

「校舎裏だよ?」

「え?」

陽菜がきょとんとした。

「そうなの?」

「そうなの!?」

「鈍すぎる!」

悲鳴が上がる。

しかし陽菜は本当に分かっていなかった。

「でも確定じゃないでしょ?」

「九十九パーセント」

「百パーセントだよ」

「久我くんだし」

満場一致だった。

陽菜は少しだけ考える。

そして。

「あー」

納得した。

「まぁそっか」

「今さら!?」

友人たちが総ツッコミを入れる。

その頃、校舎裏では。

女子生徒が緊張した様子で両手を握りしめていた。

「その……」

声が震えている。

湊は黙って聞いていた。

早く終わらんかな、と思いながら。

「ずっと前から好きでした!」

やはりだった。

予想通り。

だから驚きはない。

女子は必死に言葉を続ける。

「試合見てかっこいいと思って……!」

「……」

「もしよかったら……!」

期待。

不安。

緊張。

全部が混ざった瞳だった。

だからこそ。

湊は曖昧な返事をしない。

「ごめん」

即答だった。

女子の顔が固まる。

「好きな人おるから」

静かな声。

けれど迷いはない。

女子は唇を噛んだ。

少しだけ泣きそうな顔になる。

「……そう、ですか」

「ごめんな」

「っ、いえ。」

強がるように笑う。

「教えてくれてありがとうございました。」

それだけ言うと、女子は頭を下げて走っていった。

一人残された湊は小さく息を吐く。

そして。

「腹減った......」

ぽつり。

一番最初に出てきた感想がそれだった。

昼休みは短い。

早く戻らないと陽菜が先に食べ始めてしまう。

そんなことを考えながら、湊は教室へ向かった。


その日の放課後だった。

終礼を終え、湊は竹刀袋を肩に掛けて教室を出る。

剣道部の練習は今日もある。

県大会も近い。

正直面倒ではあるが、部員たちに引きずられるようにして始めた剣道も、今ではそれなりに嫌いではなかった。

廊下を歩いていると。

「久我先輩」

また呼び止められた。

聞き覚えのない声だった。

湊は足を止める。

振り返る。

そこには女子が二人。

いや。

正確には三人いた。

「……何」

その瞬間。

湊は無表情のまま固まった。

見覚えがあったからだ。

昼休み。

校舎裏。

告白。

振った女子。

その本人が。

二人の後ろに隠れるように立っていた。

しかも。

「ひっく……」

泣いていた。

めちゃくちゃ泣いていた。

目は真っ赤。

鼻も赤い。

ぐすぐすしている。

完全に泣いた後だった。

「……」

湊は天井を見上げた。

嫌な予感しかしない。

そして大体こういう予感は当たる。

案の定だった。

「先輩」

前に立つ女子の一人が口を開く。

「今日、紗希を振りましたよね?」

「たぶん」

「たぶんじゃありません」

「まぁ......」

「振りましたよね?」

「..........はぁ、振ったよ。それが?」

ため息交じりにそう答えると、湊はめんどくさそうに前髪をかき上げた。

女子たちの眉がぴくりと動いた。

どうやら正直すぎたらしい。

「紗希、すごく傷ついてるんです!」

「そら振られたら傷つくやろ」

「なら!」

「だから曖昧にせんかったんやけど」

女子たちが詰まる。

湊は本気で意味が分かっていなかった。

だから困っている。

「変に適当なこと言うほうが失礼やろ」

淡々と言う。

「付き合う気ないのに保留したり悩んだふりする方があかんやん」

それは確かに正論だった。

実際、湊は最初から誠実に断っている。

だが。

感情は理屈だけでは整理できない。

「でも!」

「先輩の言い方のせいでもあるじゃないですか!」

「はぁ?言い方?」

「好きな人いるからって!」

その言葉に。

後ろで泣いていた女子がびくりと肩を震わせた。

ああ。

そこか。

湊はようやく理解した。

「だってほんまやし」

「本当にいるんですか!?」

「おるよ」

即答だった。

迷いが一切ない。

女子二人が顔を見合わせる。

「誰なんですか」

「それは言わへん」

「なんでですか」

「関係ないからに決まってるやろ」

ぴしゃりと言い切った。

取り付く島もない。

その時だった。

「湊?」

聞き慣れた声がした。

廊下の向こう。

鞄を肩にかけた陽菜が立っていた。

今日は日直だったため帰りが少し遅かったのだ。

「何してるの?」

てくてく近付いてくる。

女子たちが振り返るのと同時に、湊も振り返った。

そして―――

少しだけ............本当に少しだけ、表情が緩んだ。

「なんや、陽菜か。」

「部活行く途中?」

「そ。」

それだけの会話。

しかし。

目の前の女子二人は見逃さなかった。

昼休みからずっと無表情だった湊のまとう空気が、

今だけ明らかに柔らかいことを。

「……」

「……」

二人の視線が陽菜へ向く。

そして、昼休みから泣いていた女子も恐る恐る陽菜を見た。

小柄で、浮かべる笑顔が優しそうだ。

そして何より。

久我湊が唯一自然に話している相手。

女子たちは何となく察した。

「?」

陽菜は事情が分からず首を傾げた。

「何かあった?」

誰にともなく聞く。

すると、女子二人は顔を見合わせた後。

「……いえ」

そう答えた。

もう何となく分かってしまったからだ。

勝ち目がないとかそういう話ではなく。

たぶん最初から。

久我湊の隣には誰も入れなかったのだろう。

ずっと。

ずっと前から。

「行こ、紗希」

「……うん」

泣いていた女子も小さく頷くと、去り際に一度だけ振り返った。

「失恋だぁ……」

ぽつりとこぼれたその呟きは、誰にも聞こえなかった。

女子たちはそのまま廊下の向こうへ去っていく。

残された陽菜は首を傾げた。

「知り合い?」

「いや、知らん」

「え、そうなの?」

「たぶん」

「たぶんって何??」

相変わらずである。

そして湊はそんな陽菜を見て、小さくため息を吐いた。

「それより」

「ん?」

「なんか用やったん?」

「あ、そうそう」

陽菜がぱんと手を叩いた。

忘れかけていたらしい。

「ねね」

「何」

「剣道部」

「うん」

「久しぶりに見に行ってもいい?」

その言葉に、湊が固まった。

「…………」

「湊?」

「…………なんで」

「なんでって」

陽菜はきょとんとする。

「最近見てないなーって思って」

確かにそうだ。

一年の頃はたまに見に行っていたが、

二年に上がってからはお互い忙しくなり、剣道部の見学などほとんどしていない。

「県大会近いんでしょ?」

「せやけど―――」

「頑張ってるとこ見たいなぁって思って。」

ニコニコしている。

悪気ゼロの笑顔だった。

そんな陽菜とは相反して、湊は内心大混乱だった。

嫌ではない。

むしろ来てほしい。

めちゃくちゃ来てほしい。

ただ、来られると非常に困るのだ。

なぜなら―――

陽菜が見ている日は妙に張り切ってしまうから。

自覚はあるし、部員にもバレている。

顧問にもたぶんバレている。

去年なんか、

『今日一ノ瀬さん来てるぞ』

と言われた瞬間に面を三本連続で決めて、

『わっかりやす』

と部員全員に笑われた。

黒歴史である。

「だめ?」

陽菜が少し首を傾げる。

その仕草に湊は目を逸らした。

「……別に。

来たいんなら来たらええやん」

ぶっきらぼうな返事。

しかし、陽菜は知っている。

これは湊なりの許可だ。

「やった」

嬉しそうに笑う。

その顔を見て、湊はまた小さくため息を吐いた。

絶対今日調子狂う。

そんな未来しか見えない。

陽菜は上機嫌で歩き出す。

「じゃあ見学席で見てるね」

「好きにせぇよ。

ただ―――親父みたいに騒いだら追い出すからな」

「流石にそれはしないって.......」

恒一は息子の試合になるとやたら熱くなる。

以前地区大会で、

『湊いけぇぇぇ!!』

と叫んで審判に注意された前科まである。

「ならええけど。」

そして、体育館の扉を開けた瞬間。

「久我ー!!」

「遅ぇぞ!」

剣道部員たちの声が飛んできた。

だが、その直後。

「あれ?」

「一ノ瀬さん?」

「おー!久しぶり~!」

部員たちの顔がにやぁっと歪む。

嫌な予感がした。

「久我」

副主将が肩を叩く。

「今日気合い入るな?」

「うっさいわボケ」

「一ノ瀬さん見学だって」

「俺が連れてきたんやから知っとるわ。」

「張り切るなよ?」

「張り切らんし」

「「「「へぇ~~~???」」」」

全員が疑いの目を向けた。

それから数十分後。

陽菜は体育館の端に座っていた。

体育座りで膝に頬杖をつく。

完全にくつろいでいる。

目の前では竹刀がぶつかり合う乾いた音が響いていた。

「めーん!!」

「こてぇ!!」

部員たちの声が飛び交う。

防具姿の集団はなかなか迫力がある。

剣道に詳しくない人間なら少し怖いかもしれない。

だが陽菜はもう見慣れていた。

小学生の頃から湊の試合を見ている。

むしろ久々で懐かしいくらいだった。

「相変わらず強いなぁ」

ちょうど今、湊が先輩相手に一本決めたところだった。

面が綺麗に決まる。

審判役の部員が即座に旗を上げた。

「一本!」

「おー」

陽菜は素直に拍手する。

すると、近くで見ていたマネージャーの女子が苦笑した。

「一ノ瀬さん来ると毎回こんな感じなんだよね」

「ん?」

「久我くんのことだよ」

陽菜が首を傾げる。

「そうなの?」

「そうだよ~~」

即答だった。

「今日、今ので何本目だと思う?」

「え、何本目?」

「八本」

「え」

「まだ始まって三十分なのにね。」

陽菜が瞬きをする。

そんなにすごいのか。

申し訳ないけど、私の動体視力ではよく分からない。

すると別の部員が会話に入ってきた。

「というか機嫌いいんだよな今日」

「わかるー」

「それな」

「え、そうなの?」

陽菜は思わずコートの中央を見る。

そこにはいつもの湊がいた。

無表情で真顔。

相変わらず、初対面の人が見たら腰を抜かしそうだ。

「全然わかんない」

「一ノ瀬さん、不機嫌なあいつ見たことないからじゃね?」

「俺らにはわかる!!!」

「今日テンション高いよな」

「?え、どこが?」

意味が分からなかった。

そんな話をしていると。

「久我ぁ!」

部長が竹刀を肩に担ぎながら叫んだ。

「次の対戦俺な!」

「はいはい」

「手加減なしな!」

「それ毎回言うてるやん」

「今日は負ける気しねぇ!」

「へぇ~」

その返事がやたら挑発的だった。

周囲の部員たちが吹き出す。

「終わったな部長」

「ご愁傷様」

「南無」

そして試合開始。

数秒後。

「面!!!」

ぱぁん!!

体育館に響く綺麗な打突音。

「一本!」

「早っ!」

部長が膝をついた。

体育館に爆笑が広がる。

「一分!?」

「記録更新では?」

「湊すごっ!」

陽菜も思わず笑ってしまう。

すると、その笑い声が聞こえたのだろう。

湊がちらりとこちらを見た。

―――少し、口元を緩めて。

「…………」

体育館が静まる。

部員たちが固まる。

顧問まで固まる。

「見た?」

誰かが言った。

「見た」

「今笑った?」

「笑った」

「久我が?」

「マジか」

ざわざわし始める部員たち。

「?」

首を傾げる。

何かあったのだろうか。

その横でマネージャーがぼそりと呟いた。

「これだから一ノ瀬さんが来る日は面白いんだよなぁ……」

その言葉の意味を、陽菜は最後まで理解できなかった。


その翌日のことだった。

朝。

いつものように陽菜と湊は登校し。

いつものようにクラスメイトたちに囲まれ。

いつものように一時間目を迎える――

はずだった。

ホームルーム開始のチャイムが鳴る。

担任の佐々木が教室へ入ってきた。

しかし様子がおかしい。

なぜかニヤニヤしている。

嫌な予感しかしない。

「はいはい、おはよう」

「おはようございまーす」

いつもの挨拶。

だが。

担任は出席簿を閉じた。

そして。

「今日はみんなにお知らせがあります」

教室がざわつく。

こういう前置きにろくなことはない。

小テスト追加。

委員会。

行事。

だいたいその辺だ。

だが。

担任は爆弾を投下した。

「転校生が来ます」

一瞬。

教室が静まり返った。

そして。

「ええええええええええええええええ!?」

大爆発した。

「転校生!?」

「この時期に!?」

「マジで!?」

「漫画じゃん!!」

教室中が騒ぎ始める。

陽菜も目を丸くした。

「転校生だって」

「らしいな」

隣の湊は平然としている。

「興味ないの?」

「別に」

即答だった。

知ってた。

一方。

女子たちは大盛り上がりである。

「男子かな!?」

「女子かな!?」

「イケメン希望!!」

「美少女希望!!」

「欲望丸出しやん」

男子も負けていない。

「女子だろ!」

「女子来い!」

「頼む!」

「神様!」

「必死すぎる」

陽菜が苦笑する。

そんな中。

担任が教壇を叩いた。

「静かにしろ」

しん。

「入ってきていいぞ」

教室の視線が一斉に扉へ向く。

がらり。

扉が開いた。

そして。

一人の男子生徒が入ってくる。

少し長めの黒髪。

整った顔立ち。

すらりとした体型。

どこか大人びた雰囲気。

教室が静まり返った。

「うわ」

「イケメン」

「やば」

「芸能人みたい」

小声が飛び交う。

女子たちがざわつく。

転校生は黒板の前に立つ。

そしてチョークを受け取った。

さらさらと名前を書く。

綺麗な字だった。

『久我 渚』

その瞬間だった。

陽菜が固まった。

「え?」

隣の湊も固まった。

「……は?」

教室中は気付いていない。

だが、二人は真っ先に気付いた。

今。

立った今、聞き捨てならない苗字が出た。

久我。

久我である。

あの久我だ。

湊が捨てた……いや、正確には今も旧姓として使っている苗字。

教室がざわつく。

「久我?」

「久我くんと同じ?」

「親戚?」

「偶然?」

当然そうなる。

そして、転校生――渚は、ゆっくり教室を見渡した。

その視線がまっすぐに湊を捉える。

数秒の沈黙。

そして、渚が、ぱっと花開くように笑顔になった。

「見ーつけた……っ」

とても小さな声。

だが、次の一言は静まり返った教室には十分聞こえた。

「―――兄ちゃん。」

教室の時が止まった。

完全に止まった。

「…………」

「…………」

「…………」

誰も動かない。

陽菜も。

担任も。

クラスメイトも。

全員固まっている。

そして、一番固まっていたのは兄と呼ばれた張本人。

湊が、人生で見たことがないくらい固まっていた。

「……は?」

教室中が思った。

いや待て。

今なんて言った?

兄ちゃん?

久我が?

あの久我が兄?

すると、

転校生は湊の机まで駆け寄ってきてもう一度言った。

「兄ちゃん……!!」

教室。

大爆発。

「えええええええええええええええええええええええ!?」

ホームルーム終了のお知らせだった。


教室が大爆発している中。

一人だけ。

いや、二人か。

二人だけ空気が違った。

「兄ちゃん!!」

渚は満面の笑みだった。

今にも尻尾が見えそうなくらい嬉しそうだった。

対して。

「…………」

湊は呆然としていた。

人生で見たことがないくらい呆然としていた。

剣道の県大会決勝で相手が突然三刀流になったとしても、もう少し良い反応ができると思う。

だが今は無理だった。

脳が処理を拒否している。

なぜなら。

目の前の相手を、まったく知らないからだ。

なのに。

そいつは自分を「兄ちゃん」と呼んでいる。

「兄ちゃん!!」

渚は机まで一直線に駆け寄ってきた。

そして。

湊の右手を掴む。

両手で。

ぎゅっと。

「会いたかった!!」

ぶんぶんぶんぶん。

振る。

「ちょ」

ぶんぶんぶん。

「待」

ぶんぶんぶんぶん。

「誰やお前」

ぶんぶんぶんぶんぶん。

「話聞け!!」

ようやく止まった。

しかし手は離さない。

両手で握ったまま。

きらきらした目で見上げている。

「兄ちゃんだ……」

感動していた。

すごく感動していた。

もはや推しに会ったファンみたいになっている。

一方、クラスメイトたちは混乱していた。

「兄?」

「え?」

「久我くん兄なの?」

「弟いたの!?」

「初耳なんだけど!?」

大騒ぎである。

当然だ。

湊は家族の話をほとんどしない。

陽菜と父親の話はたまに出るが、実家側の話は皆無だった。

突然現れた謎の少年に困惑するのも無理はない。

なにせ、陽菜すら弟の存在を知らなかったのだから。

「兄ちゃん!」

「うるっさいわ」

「兄ちゃん!」

「聞こえとるっちゅーの」

「兄ちゃん!」

「ああもう、連呼すな!」

全然効いていない。

それどころか、渚は嬉しそうだった。

その様子を見ていた陽菜は、困惑した様子で尋ねた。

「……弟、さん?」

湊が即座に否定する。

「知らん」

「え?」

渚が反応してぱっと振り返る。

そして―――

「え。」

固まった。

「え?」

陽菜を見た。

もう一度見た。

さらに見た。

まじまじと見た。

そして。

「えええええええええ!?」

今度は渚が叫んだ。

教室が静まる。

「兄ちゃん!」

「今度はなんや」

「陽菜さん!?」

「せやけど」

「本物!?」

「はぁ?何がや。

そもそもニセモンおらんねん」

渚は頭を抱えた。

信じられないという顔だった。

「存在してたんだ……」

「お前失礼やな」

「だって!!」

渚は真剣だった。

「父さんから聞いてた話だと、

兄ちゃんと昔から一緒にいる女の子って……なんかもう伝説みたいな感じで!」

教室が静寂に包まれ、湊が固まる。

「……は?」

クラスメイトたちの声が揃った。

渚は気付いていない。

自分がとんでもない爆弾を投下したことに。

「兄ちゃんさ!」

渚は続ける。

「父さんがさ、昔――」

「おい」

湊が遮った。

クラスメイトですら聞き馴染みのない、低い声だった。

「ん?なになに?」

「それ以上喋んな」

「なんで?」

「ええから今すぐ黙れ」

「え~?」

しかし遅かった。

クラス中の視線が、一斉に湊へ。

そして陽菜へ向く。

そして誰かがぽつりと呟いた。

「父さんって……」

「久我くんの?」

「え、じゃあ……」

ざわざわと広がる。

嫌な方向へ。

とても、嫌な方向へ。

湊は舌打ちしたくなったが、それより先に渚が無邪気に言った。

「俺さ、父さんが昔不倫してた時にできた子なんだって!」

今度は時が完全に止まった。

「…………」

「…………」

「…………」

誰も動かないし、誰も喋らない。

空気が凍りつくとは、こういうことを言うのか。

「…………」

湊は無表情だった。

だが、その無表情が逆に怖かった。

陽菜も言葉を失っている。

渚だけが何も分かっていない顔でニコニコ笑った。

「だから兄ちゃんとは初対面なんだけど!」

その瞬間。

クラス全員が思った。

これはとんでもないやつが来た。

そして湊は生まれて初めて、ホームルーム中に本気で帰りたいと思った。

凍りついた教室。

誰も喋らない。

誰も動かない。

なんなら、担任の佐々木まで固まっていた。

「…………」

「…………」

「…………」

空気が重い。

重すぎる。

そんな中、一番最初に我に返ったのは陽菜だった。

「え、えっと!」

がたっと立ち上がる。

全員の視線が集まった。

まずい。

この空気はまずい。

とてもまずい。

陽菜は必死に頭を回転させた。

「お、弟さんなんだねぇ~!」

出てきた言葉がそれだった。

全然誤魔化せていない。

だが本人は必死だった。

「えっと、その!」

「陽菜さん?」

渚がきょとんとする。

「家族って色々あるもんね!」

「そうなんだよ!!」

なぜか渚は元気よく頷いた。

「父さんもそう言ってた!」

「へ、へぇぇ~~!」

全然フォローになっていない。

むしろ掘り返している。

陽菜の背中に冷や汗が流れた。

すると。

「よし!!」

突然大声が響いた。

担任だった。

佐々木が勢いよく教壇を叩く。

ばん!!

教室中がびくっとなる。

「以上!!

転校生紹介終わり!!」

終わっていない。

絶対終わっていない。

「席つけ!!」

無理やりだった。

けれど先生も必死なのだ。

このままだとホームルームどころではない。

学級崩壊待ったなしである。

「久我渚!」

「はい!」

「空いてる席そこ!」

「はいっ!」

「座れ!」

「はーいっ!」

渚は素直だった。

にこにこしながら席へ向かう。

途中、湊へ向かって手を振った。

「兄ちゃん後で話そーね!」

「話さん」

「なんで!?」

「なんでやと思う?」

即答だった。

しかし渚は全く堪えていない。

陽菜は頭を抱えた。

周囲のクラスメイトたちは。

もう完全に授業どころではなかった。

「え、待って」

「情報量」

「多すぎる」

「不倫って言った?」

「言った」

「兄弟?」

「たぶん」

「いや意味分からん」

ひそひそひそひそ。

止まらない。

「静かにしろ!!」

佐々木が怒鳴る。

「ホームルーム中だぞ!!」

すると。

渚が席に座りながら陽菜へ視線を向けた。

きらきらの目。

完全に興味津々である。

嫌な予感しかしない。

一方、湊は机に肘をつきながら窓の外を見ていた。

無表情。

だが。

長年一緒にいる陽菜には分かる。

めちゃくちゃ疲れている。

まだ朝なのに。

ホームルームが始まって十分も経っていないのに。

たぶん、今日一日の気力を八割くらい持っていかれていた。

「……陽菜。」

小さく呼ぶ。

すると―――

「帰りたい」

陽菜は驚きのあまり思わずむせた。

「げっほ!!げほっ、ごほっ!」

珍しい。

本当に珍しい。

あの湊がここまで露骨に疲弊しているなんて。

「兄ちゃん!」

「授業始まるやろ、前向けや」

「昼休み話そうね!」

「嫌言うとるやん」

「なんで!?」

朝のホームルーム終了まで残り数分。

まだ誰も知らない。

この転校生が、これからさらに教室をかき回す存在になることを。

昼休み。

人の噂というものは恐ろしい。

朝のホームルームからまだ数時間しか経っていないというのに。

学校中がその話題でもちきりだった。

『久我くんに弟いたらしい』

『転校生でしょ?』

『でも初対面って聞いたよ』

『ん?どゆこと??』

『久我くん養子らしいから、その関係じゃない?』

『え、そうなの?』

『親に捨てられたらしいよ』

『マジ?』

『虐待受けてたって聞いた。』

『施設にいたらしーよ』

『借金取りに追われてたんだって。』

『なーんか壮絶そー。

イメージ崩れちゃったなぁ~』

もはや伝言ゲームである。

だが問題は、その中に事実も混ざっていたことだった。

――親に捨てられた。

――虐待。

もちろん言葉は雑に変形している。

だが、完全なデマとも言い切れなかった。

だから余計に質が悪い。

陽菜は昼休みになってから何度目かのため息をついた。

「はぁ……」

いつもの席。

いつものメンバー。

しかし空気はいつもと違う。

「大丈夫?」

心配そうに聞かれ、陽菜は苦笑した。

「.........大丈夫じゃないかも」

正直な感想だった。

もちろん、湊自身は噂程度で傷付く人間ではない。

それは知っている。

だが、好きで話したいような過去ではないことも知っていた。

小学生の頃、引き取られたばかりの湊は夜中によくうなされることがあった。

夢を見ていたのだろう。

泣きながら目を覚ますこともあった。

本人は覚えていないと言い張っていたけれど、陽菜は知っている。

だから、他人の好奇心で面白おかしく語られるのは、あまり気分の良いものではなかった。

「ねぇ陽菜」

友人の一人が遠慮がちに言う。

「ごめんね」

「ん?」

「私たちは事情知ってるから変なこと言わないけど……」

言葉を濁す。

陽菜は小さく笑った。

「ありがと」

その時だった。

教室の扉が勢いよく開いた。

「陽菜さん!」

来た。

その場にいる全員が思っただろう。

転校初日とは思えない勢いである。

一直線に陽菜の席へ向かってくる。

「陽菜さん!」

「は、はい」

「兄ちゃん知らない!?」

「知らない」

即答だった。

陽菜は知っていた。

湊が昼休み開始と同時に逃亡したことを。

いや。

逃亡という表現が正しい。

チャイムが鳴った瞬間、

『用事。』

と言い残して消えた。

絶対避難である。

「兄ちゃん逃げるんだもん!」

渚が不満そうに頬を膨らませる。

「朝からずーーーーっと!」

「まぁ……」

それはそうだろう。

流石の陽菜でも逃げる。

すると、渚は周囲をきょろきょろ見回して声を潜めた。

「陽菜さん」

「ん?」

「兄ちゃん、学校でも人気者なんだね」

「そうだよ」

「びっくりした」

渚は本当に驚いているらしかった。

「廊下歩いてたらみんな兄ちゃんの話してる」

陽菜の笑顔が引きつった。

その話題は今触れられたくない。

「しかも」

渚が続ける。

「兄ちゃんが親に捨てられたとか言われてたし」

ぴたり。

周囲の空気が止まった。

友人たちも黙る。

渚はまだ気付いていない。

「あと虐待とか」

「渚くん」

陽菜が優しく呼ぶ。

「うん?」

「その話はね」

言葉を選ぶ。

慎重に。

「本人がいないところであんまりしない方がいいかな。
あ、いやまぁ……本人がいても極力しないでほしいけど」

渚が目をぱちくりさせた。

そして、数秒後。

「あ……」

ようやく理解したらしい。

「ご、ごめんなさい」

「大丈夫」

陽菜は微笑んだ。

怒ってはいない。

ただ、少しだけ胸が痛かった。

「何の話?」

その時、低い声が教室に響いた。

教室の入口からだった。

全員が振り返る。

そこには、紙パックの牛乳を片手に持った湊が立っていた。

無表情のままの、いつもの顔。

だけど、陽菜には分かった。

今は機嫌がすこぶる悪い。

「兄ちゃん!」

渚が立ち上がる。

「見つけた!」

「見つけんでええ。

てか俺にもう関わんな」

即答だった。

そのまま陽菜の席へ歩いてくる。

そしていつものように、陽菜の後ろへ回り込んだ。

顎を陽菜の頭の上に乗せる。

「重いってば」

「弁当。」

いつものやつだった。

いつも通りすぎる風景。

だからこそ、周囲のクラスメイトたちは少しだけ安心していた。

変な噂が広がっていても、湊自身は変わらない。

そして、陽菜も変わらない。

それだけで救われる気がした。

すると、ぽかんと二人を見ていた渚が口を開いた。

「……兄ちゃん」

「何や」

「何してるの?」

「見りゃわかるやろ。

弁当もらってるんや。」

「そうじゃなくて」

渚は真顔だった。

「なんでそんな自然にくっついてるの?」

教室が再び静寂に包まれ、

陽菜も湊も固まった。

(それ聞く!?)

渚を除いた教室にいる全員の心が合致した瞬間だった。


「なんでって……」

陽菜が困ったように笑って、髪の毛を耳にかけた。

「昔からだし....?」

「いやいやいや」

渚は首を横に振った。

「昔からでもおかしいよ!?」

「そう........かな?」

「そうだよ!?」

教室中の人間も心の中で全力で頷いていた。

そうだよ。

おかしいよ。

今さらだけど。

めちゃくちゃ今さらだけど。

するとその時、湊が小さく舌打ちした。

「……面倒くさ」

ぼそりとした低い声に陽菜が振り返る。

「湊?」

そして開き直ったように、べっと舌を出した。

「俺のもんやからに決まっとるやん」

しんと教室が静まり返った。

完全に、音一つしないレベルで。

「…………」

「…………」

「…………」

クラス全員の思考が止まった。

「................は?」

渚がぽかんとした顔で言った。

至極真っ当な反応だ。

「兄ちゃん何言ってんの?」

「陽菜は俺んやろ。」


湊は平然とした顔で当たり前のように言う。

「違うよ!?」

もうツッコミが追い付かなかった。

「人を物みたいに言わない!」

「物扱いしてへんし」

わちゃわちゃ。

わちゃわちゃ。

一方クラスメイトたちは、完全に置き去りにされていた。

「え?」

「今なんて?」

「俺のもん?」

「聞き間違い?」

「いや聞こえた」

「俺も聞こえた」

「幻聴じゃなかった」

ざわ。

ざわざわ。

ざわざわざわ。

教室が一気に騒がしくなる。

「久我くん!?」

「いや今久我くんこのクラスに二人いるから!!」

「それどういう意味!?」

「待って待って待って!」

「爆弾落とすな!」

大混乱だった。

しかし当の本人は、

「うるさいな」としか思っていない。

「兄ちゃん!」

渚が叫ぶ。

「そういう意味で言ってないよね!?」

「そういう意味ってなんやねん」

湊は少しだけ考えた。

そして―――

「家族やから」

その回答に、教室中がずっこけそうになった。

「先に言え!!」

誰かが叫んだ。

全員同意だった。

だが、陽菜だけは気付いていた。

今の返答に、微妙な間があったことを。


そうしてようやく迎えた放課後。

湊はげっそりしていた。

人生でそう何度もないレベルでぐったりして机に突っ伏している。

完全に電池切れだった。

「湊?」

陽菜が心配そうに覗き込む。

「大丈夫?」

「無理.......」

即答だった。

湊は基本的に多少のことでは疲れた顔をしない。

だが、さすがに今日は話が違うらしい。

なにせ、朝からずっとだったのだから。

『久我くん、大変だったんだね……』

『私は理解できるよ』

『辛かったら相談して?』

『私、そういうの偏見ないから』

『久我くんは悪くないよ』

ぞわ。

思い出しただけで鳥肌が立った。

正直吐き気がする。

本当に反吐が出る。

今日話しかけてきた人間の大半を軽蔑した。

話したこともなければ、名前も知らない。

昨日まで近寄りもしなかった人間が今日になった途端、

事情を知った気になって理解者の顔をして近付いてくる。

(何が理解者や)

心の中で吐き捨てる。

理解なんかできるわけないやろ。

自分でも整理しきれてへんのに。

しかも、そういう連中に限って目が笑っているのだ。

可哀想な自分に酔っているというか。

悲劇の主人公を慰める自分に酔っているというか。

とにかく、気持ちが悪かった。

「久我くんって強いよね」

違う。強いわけやあらへん。

「頑張って生きてきたんだね」

お前はなんも知らんやろ。

「辛かったよね」

今日初めて話したお前に何が分かる。

誰と話しても。

何度話しても吐き気が募る一方だった。

だから耐え切れなくなって、何人かには普通に言ってしまった。

『知らん奴に理解されたくない』とか。

『勝手に分かった気にならんといて』とか。

『同情される筋合いないから』とか。

結果、さらに噂になったので即中止になったが。

『久我くん、めちゃめちゃ荒れてる』

『トラウマ刺激しちゃったのかな』

『可哀想……』

もう駄目だった。

話が通じない。

宇宙人の方がまだ意思疎通できる気がする。

「湊。」

湊がのろのろと顔を上げる。

目の前の陽菜は、いつもの顔で、いつもの声だった。

それだけで少しだけ気分が楽になる。

「……疲れた」

ぽつりと呟かれたその一言は、湊にしては珍しい弱音だった。

陽菜が目を丸くする。

「そんなに?」

「.......もう無理や.....限界。」

即答だった。

隣で聞いていた友人たちが気まずそうな顔をする。

彼らも今日の騒動を見ていたからだ。

「ごめんな……」

「別に」

湊は首を振った。

「クラスの奴らは何もしてへんし」

実際そうだった。

クラスメイトたちは最初こそ驚いていたが、事情を聞き出そうとはしなかった。

陽菜の友人たちも。

男子連中も。

ただいつも通り接してくれた。

だから助かった。

本当に。

「……あいつらが気持ち悪いだけや」

その低い声に押し黙ると、ふっと息を吐いた。

「帰ろっか」

湊が顔を上げる。

「今日は肉じゃがじゃないけど」

「別に肉じゃがしか食わん訳ちゃう」

「ハンバーグだよ」

「帰る」

即答だった。

周囲が吹き出す。

張り詰めていた空気が緩んだ。

家に帰ろう。

陽菜と親父のいる家に。

いつもの温かい家に。

今日はもう、それ以外いらなかった。


買い物のために立ち寄ったスーパー・ミネヤは、夕方の主婦や学生でそこそこ賑わっていた。

自動ドアが開いた瞬間、陽菜のテンションが一段階上がる。

「今日はクーポンの日……!」

きらきらしている。

本当にきらきらしている。

さっきまで湊の心配をしていた人とは思えないくらい、目が輝いていた。

「見て見て、

十パーセント引きクーポン!」

財布から大事そうに取り出して見せてくる。

湊はそれを見て少しだけ口元を緩めた。

「今日使うために取っておいたんだ~!」

しかも今日は条件がいい。

なぜなら。

「今日は湊もいるし!」

陽菜がどや顔をした。

「いっぱい買っても大丈夫!」

「いつもも大丈夫やろ」

「今日はもっと大丈夫!」

手は四本。

自分一人で持つ日とは違う。

牛乳も。

お米も。

調味料も。

なんでも来いである。

「楽勝です!」

陽菜はカゴを手に意気揚々と歩き出した。

数十分後。

カゴは順調に重くなっていた。

「……陽菜」

「ん?」

「これ楽勝か?」

「?楽勝だよ?」

カゴの中には牛乳二本、卵、野菜、肉、冷凍食品、シャンプー、トイレットペーパーまで入っている。

もはや週末のまとめ買いだった。

湊は無言でカゴを持ち替える。

重い。

普通に重い。

だが陽菜は楽しそうだ。

特売シールを見つけるたびに足を止め、嬉しそうにカゴへ入れていく。

「あ、これ安い!」

「それ昨日も安かった」

「でも今日はクーポン使えるから実質もっと安い!」

「実質の使い方雑やな」

そんなやり取りをしながら店内を回っていると、レジ近くで顔なじみのパートさんに声をかけられた。

「あら陽菜ちゃん、今日は彼氏さんと一緒?」

ぴたり。

陽菜が固まる。

湊も固まる。

数秒の沈黙。

「ち、違います!」

陽菜が慌てて手を振った。

「弟です.....!」

「あらごめんなさい。仲がいいからつい」

パートさんはにこにこ笑っている。

悪気は一切ない。

だが。

陽菜の顔はほんのり赤い。

湊は視線を逸らした。

そしてぼそりと。

「……別に間違ってへんのに」

「何か言った?」

「何も」

即座に誤魔化した。

会計を終え、店を出る。

レジ袋はたくさんあった。

だが今日は本当に楽だった。

重い袋は湊が持ってくれている。

陽菜は軽い袋を二つ持つだけだ。

夕暮れの道を並んで歩く。

さっきまでげっそりしていた湊の顔色も、少しだけ戻っていた。

陽菜はそれに気付いて、こっそり安心した。

「ねえ湊」

「ん?」

「今日お肉いっぱい買えたから、ハンバーグ増量しようか」

「する」

返事が早い。

陽菜はくすっと笑った。

その笑い声を聞きながら、湊も小さく息を吐く。

学校は最悪だった。

でもこうして並んで歩いていると、少しだけどうでもよくなる。

そんな帰り道だった。


家に帰宅したのは午後六時前だった。

「ただいまー」

「……ただいま」

返事をする相手はいない。

恒一はまだ仕事中だ。

靴を脱ぎ、買い物袋をどさりと床に置く。

「陽菜」

「ん?」

「冷蔵庫入れとく」

湊が当然のように袋を持ち上げた。

「あ、助かる」

陽菜も当然のように頷く。

昔からの役割分担だった。

みんなで買い物をした日は陽菜が料理担当。

湊が荷物整理担当。

そして恒一は――

「食べる担当」

以前本人が胸を張ってそう言った結果、

「戦力外ってこと?

役立たずなの?」

と陽菜に真顔で返されたことがある。

以来あまり言わなくなった。

学習はしたらしい。

たぶん。

陽菜はエプロンをつけると、手を洗って冷蔵庫から材料を取り出した。

今日の夕飯はハンバーグ。

玉ねぎをみじん切りにして炒め、ひき肉と混ぜる。

卵とパン粉も投入。

「よし」

こねこねこねこねこねこね。

陽菜はこの作業が結構好きだった。

無心になれるし、

綺麗にまとまっていくのを見るのも楽しい。

しばらくして綺麗な楕円形のタネが完成した。

「今日は大きめにしようかな」

どうせよく食べる人が二人いる。

少し大きくしたところで問題ない。

こねこねぺちぺち。

空気を抜いて形を整える。

すると。

「陽菜」

冷蔵庫整理を終えた湊がやってきた。

「何?」

「つまみ食いしたい」

「だめ」

「あ、なんだ。

まだ焼いてへんやん」

「そーだよ。

だからなおさらだめ~」

即却下だった。

湊は真顔で引き下がったが、諦めてはいない。

焼き始めたらまた来るのだ。

成型したタネをフライパンに並べる。

じゅうううう

いい音がした。

香ばしい匂いが広がる。

途端。

リビングにいたはずの湊が戻ってきた。

「戻って来るの早。」

「匂いした」

焼いて、ひっくり返して、蒸してまた焼く。

その繰り返し。

そうして、ちょうど最後の一枚を焼き終えた頃だった。

玄関から物音が聞こえた。

「ただいまー!」

元気な声。

恒一だった。

陽菜と湊が同時に顔を上げる。

「おかえり」

「おかえり」

リビングに入ってきた恒一はネクタイを緩めながら笑った。

「今日は早く帰れたぞ」

「十分遅いよ」

「弁護士の中では早い」

「労働基準法どうなってんだ」

陽菜が呆れる。

恒一はそんな娘の頭をぽんと撫でようとして。

「手洗い」

真顔で止められた。

「あっはい」

即座に洗面所へ向かい、しばらくして戻ってくる。

そして。

テーブルの上に並び始めた料理を見るなり。

「おぉ……!」

目を輝かせた。

「ハンバーグ!」

「そ。ハンバーグ」

「しかも大きい!」

「大っきいでしょ~!」

陽菜が頷く。

恒一は嬉しそうだった。

「今日はいい日だなぁ」

「仕事うまくいったの?」

「それもある」

恒一は笑った。

「でも一番は、二人が家にいることかな」

一瞬。

空気が静かになる。

陽菜が少し照れくさそうに笑った。

湊は視線を逸らした。

「何言うてんねん」

「本心だぞ?」

「親父、そういうとこや」

「どういうとこだ」

「重いねん」

「ひどい!」

恒一がショックを受ける。

陽菜が吹き出した。

いつもの家だった。

いつもの夕方だった。

学校では色々あった。

面倒なことも。

嫌なことも。

吐き気がするようなことも。

けれど。

こうして家に帰ってくれば。

少なくとも今だけは忘れられる。

フライパンの上で最後のハンバーグがじゅうっと音を立てた。

その匂いに誘われるように。

三人の腹がほぼ同時に鳴った。

「「「いただきまーす」」」

三人で手を合わせた。

早速ハンバーグを一口食べる。

「ん、うま。」

湊が手を止めることなく頬張っている。

「ありがと」

陽菜が嬉しそうに笑った。

恒一も負けじとハンバーグを切り分ける。

「おー、うまっ!」

「毎回同じ反応だね」

「だって美味しいんだもん」

「親子そろってボキャブラリー狭すぎ。」

陽菜が呆れた。

しばらくは穏やかな夕食だった。

ハンバーグ。

サラダ。

味噌汁。

白米。

いつもの食卓。

だが、ふと湊が箸を止めた。

「親父」

「ん?」

「今日さ」

恒一が顔を上げる。

陽菜もなんとなく察した。

たぶん。

学校の話だ。

「朝の件か?」

「それもやけど」

湊は少し顔をしかめた。

「その後がだるかった」

「ほう」

「めちゃくちゃだるかった」

かなり珍しい。

同じ言葉を二回使うくらいにはだるかったらしい。

恒一は黙って聞く。

弁護士モードではない。

父親モードだ。

「事情知った途端に寄ってくる奴多すぎて」

「うん」

「理解できるとか言われた」

「うん」

「辛かったねとか」

「うん」

「相談乗るよとか」

「うん」

恒一は相槌を打つ。

否定もしない。

評価もしない。

ただ聞いている。

「気持ち悪かった」

ぽつり。

湊はそう言った。

「別に同情してほしくて話したわけちゃうし」

「うん」

「知らん奴に分かった気になられんのも嫌やし」

「うん」

「なんかもう……」

そこで言葉が止まる。

少し考えて。

「吐きそうやった」

正直な感想だった。

陽菜がちらりと恒一を見る。

怒るかな。

そう思った。

だが。

恒一はなぜか吹き出した。

「ぶふっ」

「親父?」

「いや、ごめんごめん」

笑いながら手を振る。

「でも安心した」

「は?」

「ちゃんと気持ち悪いって思えてるじゃないか」

湊が眉をひそめた。

意味が分からない。

恒一は箸を置いた。

「湊」

「何」

「世の中にはな」

妙に軽い口調だった。

「不幸自慢大会が好きな人種がいる」

「は?」

「俺の方が辛かった」

「私の方が可哀想」

「だから私が理解できる」

恒一は肩をすくめる。

「弁護士やってると結構見る」

なんだか嫌な話だった。

「でもな」

恒一は笑う。

「本当に辛かった人ほど、他人の痛みを勝手に理解した気にならない」

湊が黙る。

「だって知ってるからな」

「……何が」

「人それぞれ違うってこと」

静かな声だった。

「同じ怪我でも痛みは違うし」

「同じ家庭環境でも感じ方は違う」

「だから普通は」

恒一は味噌汁を飲む。

そして。

「勝手に分かった気にならない」

そう言った。

食卓が少し静かになる。

「だから安心した」

恒一は続けた。

「湊がちゃんと嫌がってて」

「……」

「それはお前が、自分の人生を他人の肴にされるのを不快に思ったってことだろ?」

湊は答えない。

けれど。

否定もしなかった。

恒一はにやりと笑う。

「いいじゃないか」

「嫌なら嫌で」

「気持ち悪いなら気持ち悪いで」

「別に我慢する必要ないぞ」

「……」

「お前は可哀想な主人公じゃなくて」

そこで。

恒一は当たり前みたいに言った。

「俺の息子なんだから」

湊の箸が止まる。

「それだけで十分だろ」

軽い口調だった。

まるで大したことじゃないみたいに。

けれど。

その言葉は不思議と胸に残った。

昔からそうだ。

この人は。

たまにこういうことを言う。

押し付けない。

説教もしない。

でも。

気付いたら少し楽になっている。

「……親父」

「ん?」

「ちょっとクサすぎひん?」

「ひどくない!?

今結構いいこと言ったでしょ、父親として!!尊敬してよ!!」

即座に抗議が飛ぶ。

陽菜が吹き出した。

「ちょっと分かる」

「陽菜まで!?」

「お父さん、重いんだもん」

「なんでだぁぁぁ!」

恒一が頭を抱える。

その様子を見て。

湊は小さく息を吐いた。

なんだか少しだけ。

本当に少しだけ、胸の中に立ち込めていた重苦しい霧が晴れた気がした。


その日の夜だった。

日付が変わるにはまだ少し早い時間。

家の中は静かだった。

恒一は明日の裁判の資料を確認しているらしく書斎に籠っている。

陽菜も自室にいるはずだ。

だから。

家にはちゃんと人がいる。

独りじゃない。

独りじゃないのに。

「……」

湊はベッドの上で天井を見上げていた。

眠れなかった。

目を閉じても。

眠気は来ない。

代わりに思い出すのは朝のことだった。

渚。

転校。

お兄ちゃん。

学校中に広まった噂。

気持ち悪かった同情。

理解者面。

そして。

ずっと昔のこと。

忘れていたと思っていた。

もう平気になったと思っていた。

なのに。

今日一日で無理やり引きずり出された気分だった。

昔は独りで寝るのが怖かった。

母親は帰ってこないし、電気もつかない。

当たり前に腹も減る。

何をしていいか分からない。

小学生だった俺は、ただひたすらに怖かった。

今日こそ捨てられたのかもしれない。

もう誰も帰ってこないかもしれない。

そう思ってしまう夜が怖かった。

でも。

この家に来てからは違った。

陽菜がいたし、恒一がいた。

毎日ご飯があって、おはようと言ってくれる人がいた。

おかえりと言ってくれる人がいた。

それを当たり前だと感じさせてくれるような家だった。

だから忘れていた。

この感覚を。

「……はぁ」

独りが怖い。

久しぶりにそう思った。

今さら高校生にもなって。

(....アホみたいやな)

けれど、怖いものは怖かった。

幸せだったからだ。

幸せな時間が長すぎた。

上書きされていた。

だから余計に、昔の記憶が顔を出した時の落差が大きい。

その時だった。

こんこん。

不意にドアがノックされた。

湊が顔を上げる。

「……何」

返事をすると。

ドアが少し開いた。

「起きてた」

陽菜だった。

パジャマ姿で、片手にはマグカップを持っている。

「なんか電気ついてたから」

そう言いながら部屋に入ってくる。

湊は慌てなかった。

昔からだ。

陽菜は全然普通に入ってくる。

ノックするだけまだマシである。

「どしたん」

「んー」

陽菜は少し考えて言った。

「ホットミルク作ったけど、飲む?」

軽くマグカップを上げる。

「……子供ちゃうねんけど」

「知ってる」

陽菜は笑う。

「飲まない?」

断ろうと思った。

思ったのだが。

差し出されたマグカップから甘い匂いがした。

結局受け取る。

「...........さんきゅ。」

「どういたしまして」

陽菜はベッドの横の床に座った。

いつものように。

自然に。

「眠れない?」

「まあ」

「そっかぁ~」

それ以上聞いてこない。

無理に理由も聞かない。

だから楽だった。

しばらく沈黙が続く。

静かな時間。

湊はホットミルクを一口飲んだ。

温かかった。

「……陽菜」

「ん?」

「今日さ」

ぽつり。

言葉が漏れる。

「久しぶりに思い出した」

陽菜は何も言わない。

ただ聞いている。

「昔のこと」

「うん」

「別に今さらどうこうちゃうけど」

「うん」

「なんか……」

そこで言葉に詰まった。

情けない。

こんなの。

でも。

「ちょっと怖かった」

ようやく出てきたのはそんな言葉だった。

陽菜は少しだけ目を丸くした。

そして。

「そっか」

優しく笑った。

それだけだった。

大丈夫だよ、とも。

気にしなくていいよ、とも言わない。

ただ。

「そっか」

もう一度そう言った。

まるで。

その気持ちが当たり前みたいに。

受け止めるように。

湊は視線を落とした。

昔からそうだ。

陽菜は。

慰めるのが上手いわけじゃない。

励ますのが上手いわけでもない。

でも。

隣にいるのが上手かった。

ただそれだけで。

十分だった。

「ねえ」

陽菜がふと思い出したように言う。

「小学校の時覚えてる?」

「何が」

「雷の日」

湊が固まる。

嫌な予感がした。

「やめろ」

「湊が怖がって」

「やめろ」

「私の部屋に来て」

「陽菜」

「布団の端っこ握って寝てた」

「殺すぞ」

即答だった。

陽菜が吹き出す。

「懐かしいなぁ」

「忘れろ」

「無理」

「なんで覚えとんねん」

「だって可愛かったし」

「最悪や」

本当に最悪だった。

だが。

気付けば。

少しだけ笑っていた。

さっきまで胸の奥にいた息苦しさが。

ほんの少しだけ薄くなっていた。

陽菜はそれを見て。

何も言わずに微笑んだ。

それからしばらく。

二人は取り留めのない話をした。

学校のこと。

渚のこと。

明日の献立のこと。

そんな他愛もない話を。

眠気が来るまで。

ずっと。
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