次の世界でも、私を探してくださいね。

20

 その朝起きた時、遠音皇子は芍薬麗園を訪れようと思った。
 あの庭は母の庭。母が大好きだった庭。
 考えてみると、自分は明るい時刻に訪れたことが一度もない。母が散策したはずの時刻に、庭を覗いてみるのもよいだろう。
 そう決めると、皇子は起きて支度をするのが苦痛でないどころか楽しくなって、昔歌った歌を口ずさんでいた。これはどういうことかと、愉快な気持ちになった。
 
 このところ遠音皇子は不機嫌でならなかった。心の奥に波が立って、抑えたくても、抑えられない辛い日々が続いていたのだ。そのことを侍女達は熟知していて、彼が爆発しないよう、細心の気を使って仕えてきた。しかし、遠音皇子には、それはそれでまた癇の種になるのだった。

 そんな遠音皇子が、この朝食はおいしいと褒めたのだったので、侍女は「ありがとうございます」と頭を下げながら、さて、どこがそんなによかったのだろうかと頭を傾げた。
 同じようなものを出しても、同じようなことをしても、時に叱ったり、時にほめたりするから、お付きには、皇子の価値基準がわからないのである。

 あの時、皇子が芍薬麗園に来て竹香の姿を探していたら、叫び声が聞こえたのだ。池の中央で、声をあげながら上着を脱いで、船底の穴につめようとしているところを見た。

 竹香は何をしているのだろうと伺っていると、舟はぶくぶくと泡をたてながら沈んで、竹香が悲鳴をあげた。
 おぼれている。
 これはまずいではないか。
 皇子が上着を脱いで飛び込もうとしたら、誰かが先に飛び込んだ。

 その人物は泳いでいって、竹香の下着をつかみ、それから身体を捕まえた。
「ぼくに、つかまるんだ」

 そう言ったのは、離山だった。

 ふたりが岸に上がると、遠音皇子が駆け寄った。
「大丈夫か」
 
 はい。
 竹香は濡れた顔のままで頷いた。
「大丈夫です。恐縮です」
 と答えたのは離山だった。

「竹香を私の宮殿へ連れて行って、手当をさせよう」
 と皇子が言った。

「水は飲んではいませんから、心配はいりません。私の部屋で大丈夫です。着替えがありますから」
 離山の声には誰をも拒む強い響きがあったので、皇子でも尻込みした。

「それなら、そうしてもらいましょうか。必要なものがありましたら、何なりと言ってください」
 
 着替えって、何。
 離山さまの部屋に、わたしの着替えがあるはずはないですよね。竹香はまだ離山の左手をしっかりと掴んだまま考えていた。       
  
 遠音皇子は離山がなぜあそこにいて、竹香を助け、連れて行くことになったのか、おかしいではないかと理不尽に感じながら、呆気に取られていた。勢いに流されてしまったようだ。

 
 遠音皇子はあの泥饅頭を投げられた夜から、よく竹香のことを思うようになっていた。彼の母親の麗妃は皇帝の妃だったが、遠音が10歳の時、この池に身を投げて死んだのだった。

 麗妃は皇帝から特に寵愛されていたので、後宮の女たちから相当ないじめを受けていたという話を、皇子は後になってから知った。
 どうして母の味方になり、慰めてあげることができなかったのか、そう思うと悔しくてならない。
 だから、後宮の女はどれもこれも大嫌いだ。いつか復讐してやりたいという怒りを胸にもっているが、どうしてよいのかわからない。そんな悲しみや苛立ちが収まらない夜は、町に出かける。

 母が死んだあと、皇后や王妃たちはこの池を埋めてほしいと懇願したが、皇帝は池をそのままにして、この庭園を遠音皇子に贈与した。
 だから、遠音皇子にとって芍薬麗庭は神聖な場所なので、人の出入りを禁じていた。しかし、彼にとっても行きたい気持ちはあっても、行きたくない場所でもあった。

 でも、今朝は、どうしても母の庭を見たいという気持ちが湧いてきたのだった。
 あの泥饅頭を投げられた時は暗くて、竹香の顔はよく見えてはいなかった。けれど、今日池から助け上げられた時に見たその顔は、母上によく似ているように思った。もっとも、母はあんなに威勢のよい人ではなかったが。
 
 竹香という娘は夜に庭で泥棒を捕まえようと隠れていたり、泥饅頭を投げつけたり、池に溺れたり、実に騒がしい人だと皇子は笑った。
 いつか、この庭で踊っていたのも、この娘ではなかっただろうか。

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