愛する君を消す
最後の祈り
図書館の自動ドアを抜けると、絨毯の上で消えていたタイヤの音が、舗道の継ぎ目の上でもう一度、車いすの震えとして戻ってきた。十二月の夕方の空はもう暗い方の色に傾き、月明かりが薄く差しはじめる時刻に入っていた。
タクシーは植え込みの陰の少し先で、エンジンを低く点けたまま待っていた。
「次は、神社まで」と低い声で頼んだ。
ミラーの中で、運転手が短く頷くのが分かった。古い神社のことを知っている頷きだった。
***
参道の入口に着く頃には、十二月の薄い夕陽が鳥居の柱の根元に橙色の縁を引いていた。タクシーを降り、車いすを歩道に降ろす。
「一時間ほどで戻ります。少し先で待っていていただけますか」
運転手は静かに頷き、エンジンを切ってロータリーの端へ車を寄せていった。鳥居の手前で車いすを止めた。塗料の落ちた柱、根元の苔。——第一部の夏に透と上がったとき、ここには紫陽花が積み上がっていた。今はその一枚も残っていない。
車いすの正面にまわって屈み、毛布を直し、マフラーの巻きを首元で半巻きやり直した。手を引き戻す流れのなかで、左手首の文字盤に右手の指の腹が一度だけ触れた。膝のお守りの白地は午後のあいだじゅう留まり続け、夕暮れの薄い光のなかでもまだ白さを保っていた。
「ここが、神社です。あなたと来た、神社です」
「一年前の夏祭りの夜、麓の通りで、宇治金時のかき氷を、一つの匙で、食べました」
唇のかたちだけで続けた。祖母が、夏祭りの時は、いつも、これだったんです。私はそう言った。今夜は、もう、早くないですよ、とも言った。あなたはちゃんと口をつけてくれた。今夜は、何も食べない。
答えはなかった。鳥居をくぐった。砂利の参道は、車いすのタイヤの幅でちょうど押し通れるだけの均しが、参拝者の足で踏み固められていた。第一部の夏、私と透が二人で歩いた幅と同じだった。気づかなかったあの夏のことを、今夜は気づいていた。
ゆるい上りをひと押しずつ進んだ。肩甲骨のあいだに薄い張りが上がってきて、ハンドルを握り直した。一八〇センチを乗せた車体は、押すというより体重で支えながら前へ送るに近かった。タイヤが砂利のひと粒を踏み直し、車体が小さく前に逃げた。肩で押し戻し、足を踏み変えた。鼻から二度、息を整えた。——祖母も、この参道のどこかで、二度休んだのでしたね。
参道の途中、石灯籠の根元を車いすが通り過ぎた。一年前の夏、ここに色の褪せた小さなお守りがひとつ置かれていた。私はあなたに言った。「ここに、昔はお守りを置いて帰る人もいたみたいですよ」と。あなたは何も答えなかった。
でも、いつだったかは分からないけれど、あなたは一人でここまで来てくれていたのですね。年に何度かしか開かない社務所の小窓から、白地に紺の紐のお守りをひとつだけ買って帰った。そのお守りが今、膝の毛布の上にある。一年前のクリスマスイブの夕方、救出の後に私に渡してくれた、あの白地に紺の紐。
タイヤの下で砂利が鳴る間隔がいつの間にか一定になっていた。子どもの頃、祖母の半歩後ろを歩いて、足音だけで残りの距離を測っていた、あの感じだった。
右手に手水鉢。両側の低い石垣のうえに、夏には紫陽花が並んでいた段差が、いまは黒い枝の影だけになっていた。坂を登り切ると、砂利の薄く敷かれた平場が開けた。風はないのに、空気のいちばん高いところから、白い粒が一つ、二つ、ゆっくり落ちてきた。正面にこぢんまりとした拝殿、その前に賽銭箱。本殿は拝殿の奥の闇のなかに、屋根の輪郭だけを薄く沈めていた。今夜の足はその奥までは行かない。連れていけるのは拝殿の前まで——それで足りた。
賽銭箱の手前で車いすを止め、タイヤの止め具を踏んで固定した。車いすの右側にまわり、私の半歩後ろに彼の右肩が来る位置に身体を置いた。あの夏の構図の鏡像だった。
ゆっくり屈み、片膝を砂利の上に置いた。革靴の縁から夜の冷えが膝頭まで上がってくる。透の額の上に垂れた前髪を耳の後ろに回した。顔を近づけ、額に唇を触れさせた。短く、一度だけ。唇の下の皮膚は冷たくはなかった。マフラーの中で何ヶ月も首元の動脈が運び続けてきた、その温度だった。
上体を戻した。額に口紅の跡はない。今朝、鏡の前で半呼吸迷って引かなかった。痕跡を残さない方を選んでいた。
***
立ち上がり、賽銭箱の前に立ち直した。透の車いすは私の右半身のすぐ後ろ、肩の幅ほどのところにある。賽銭は入れなかった。鈴緒にも触れなかった。言い伝えには入れろとも触れろとも書かれていない。透も入れなかったし、触れなかった。
ゆっくり目を閉じ、心の中で唱えた。一字一字、間違えないように。祖母から教わった、あの形を。
愛する者を運命から取り戻すには、二つの心から、その者の面影を消し去るしかない。
祖母も、ここに、立った。同じ場所で、同じことを。
踵の幅だけ、右の踵を後ろにずらした。踵の外側が車いすのフットレストの金属にほんのわずかに触れた。半歩後ろに彼の体重が確かにある——それを足の縁で確かめてから、息を吸う一拍のあいだに続けた。
——今度は、二人の心から。残された半分を、私が、揃えに来ました。
目を閉じたまま、車いすのハンドルに添えた右手の小指を一度だけ動かした。毛布越しの彼の指の輪郭を確かめる、というよりは、こちらの輪郭を知らせるように。
十二月の終わりに一人でこの賽銭箱の前で手を合わせたあの日、差し出した手と受け取るはずの何かとの間に、ひと指のぶんの間が空いていた。あの間を、今夜は彼の気配が埋めていた。
——二人分目を、私が、捧げます。
心の中で賽銭箱の方へ短く唱えた。続けてもう一行、自分の身体の方へ重ねた。言い切る前に、半呼吸、間が空いた。膝のお守りの方へ目を伏せ、指先で刺繍の縁を一度だけ撫でた。布は人肌の温度のところで止まっていた。吐いた息が長く白く伸び、ほどけずに一拍残った。
——愛するあなたを消します。
風はない。図書館の棚で指の側面が触れたときの、布の冷たさのすぐ隣にあった温度。神社のベンチで「二つの心、ね」と半段下げた声。今日、布張りの本の表紙に重ねた、彼の右手の重み。ひとつずつではなく、まとめて差し出した。顔の輪郭ではなく、それを思うときに胸の中で動いていた方を。
鎖骨の下で、息の通り道が一本、細くなった。私の側と、後ろの彼の側が、同じ高さで一度に抜けていく。吸ったぶんがそのまま戻らずに、砂利の音にも風にもならずに、境内のどこかへ薄く引いていった。
頬をひと筋、湿った。拭わなかった。透の顔が心のなかでわずかにぼやけた。顔は覚えている。覚えている、その上に、薄い膜が一枚、降りていた。
目を開けた。賽銭箱の縁、夕暮れの最後の橙、薄く差しはじめた月明かり。半歩後ろから、衣擦れに似たごく薄い音がひとつ立った——ような気がした。風はなかった。鳴るはずの理由もなかった。たしかめなかった。半歩後ろは振り返らなかった。
屈み込み、毛布の上からお守りを取った。両手で持ち、賽銭箱の脇の砂利の上にそっと下ろす。紐の輪が薄明かりの下で半円の影を地面に落とした。
「お返しします」
と、言葉にしないまま置いた。砂利の上の白地に自分の手の影が一瞬かぶさり、それから引いた。引いたあとの白地の輪郭の上に、祖母の手の影がほんの一瞬だけ重なって見えた気がした。年月の数だけずれた角度で、同じ場所に同じ白地を置いた手があった。たしかめなかった。
息を深く、ひとつ吸った。
「祖母も、ここに、置いていったのでしょうか」
息を吐いたとき、祖母の手の影はもう見えなかった。私の手の影だけが残っていた。立ち上がった。
拝殿の脇に古い桜の木があった。見上げた。十二月の終わり、桜の枝先にはつぼみすらまだ立ち上がっていなかった。枝の上に、いま落ちはじめた粉雪が、ひと粒、ふた粒と止まりはじめていた。
でも、確かに、枝はそこにあった。来年、また芽吹く。
風がわずかに吹いた。ほどけるように通って、止まった。冷たくはなかった。雪片が一枚、頬に触れた。確かめずに、目を閉じた。
賽銭箱の脇の砂利の上に置いたお守りの白地に、いつの間にか雪がひとひら載っていた。溶けずに、結晶の形のまま、白地の刺繍の上に止まっていた。もう一度、拝殿のほうに向き直った。ゆっくりと上体を傾け、深く頭を下げ、ゆっくりと戻した。鈴緒の影は揺れていない。風はもう止んでいた。
車いすのハンドルに両手を添えた。手のひらの下に、彼の体重をのせた車体のほんの薄い揺れが伝わってきた。透の横顔をひととき見た。閉じた瞼、睫毛の影、マフラーの中の首元の薄い温度。昔の彼はここにはいない。
顔を上げた。鳥居の上の枝の先、雪が薄く積もりかけた桜の枝の輪郭が、夜の側へ細い影で食い込んでいた。その枝の下、鳥居の向こうへ視線を送ると、参道の下りていく西の空に、陽の落ちた最後の橙がまだ薄く残っていた。その光の少し上、木立の上の低いところに、青く強い星がひとつ、西へ傾いて光っていた。夏に透と見上げた、こと座の、あの楽器の星だった。夏には頭の真上近くにあったそれが、冬の宵には西へ深く傾いて、これから夜をかけて、ゆっくりと闇の側へ降りていくところだった。
ひととき、その星を見ていた。
——今からいきますね。
半歩後ろの重みを、ハンドルに添えた手のひらの下にもう一度確かめた。もう、はぐれない、そう言葉にする手前で、息を吸った。
目を閉じた。
視界が、暗くなった。
タクシーは植え込みの陰の少し先で、エンジンを低く点けたまま待っていた。
「次は、神社まで」と低い声で頼んだ。
ミラーの中で、運転手が短く頷くのが分かった。古い神社のことを知っている頷きだった。
***
参道の入口に着く頃には、十二月の薄い夕陽が鳥居の柱の根元に橙色の縁を引いていた。タクシーを降り、車いすを歩道に降ろす。
「一時間ほどで戻ります。少し先で待っていていただけますか」
運転手は静かに頷き、エンジンを切ってロータリーの端へ車を寄せていった。鳥居の手前で車いすを止めた。塗料の落ちた柱、根元の苔。——第一部の夏に透と上がったとき、ここには紫陽花が積み上がっていた。今はその一枚も残っていない。
車いすの正面にまわって屈み、毛布を直し、マフラーの巻きを首元で半巻きやり直した。手を引き戻す流れのなかで、左手首の文字盤に右手の指の腹が一度だけ触れた。膝のお守りの白地は午後のあいだじゅう留まり続け、夕暮れの薄い光のなかでもまだ白さを保っていた。
「ここが、神社です。あなたと来た、神社です」
「一年前の夏祭りの夜、麓の通りで、宇治金時のかき氷を、一つの匙で、食べました」
唇のかたちだけで続けた。祖母が、夏祭りの時は、いつも、これだったんです。私はそう言った。今夜は、もう、早くないですよ、とも言った。あなたはちゃんと口をつけてくれた。今夜は、何も食べない。
答えはなかった。鳥居をくぐった。砂利の参道は、車いすのタイヤの幅でちょうど押し通れるだけの均しが、参拝者の足で踏み固められていた。第一部の夏、私と透が二人で歩いた幅と同じだった。気づかなかったあの夏のことを、今夜は気づいていた。
ゆるい上りをひと押しずつ進んだ。肩甲骨のあいだに薄い張りが上がってきて、ハンドルを握り直した。一八〇センチを乗せた車体は、押すというより体重で支えながら前へ送るに近かった。タイヤが砂利のひと粒を踏み直し、車体が小さく前に逃げた。肩で押し戻し、足を踏み変えた。鼻から二度、息を整えた。——祖母も、この参道のどこかで、二度休んだのでしたね。
参道の途中、石灯籠の根元を車いすが通り過ぎた。一年前の夏、ここに色の褪せた小さなお守りがひとつ置かれていた。私はあなたに言った。「ここに、昔はお守りを置いて帰る人もいたみたいですよ」と。あなたは何も答えなかった。
でも、いつだったかは分からないけれど、あなたは一人でここまで来てくれていたのですね。年に何度かしか開かない社務所の小窓から、白地に紺の紐のお守りをひとつだけ買って帰った。そのお守りが今、膝の毛布の上にある。一年前のクリスマスイブの夕方、救出の後に私に渡してくれた、あの白地に紺の紐。
タイヤの下で砂利が鳴る間隔がいつの間にか一定になっていた。子どもの頃、祖母の半歩後ろを歩いて、足音だけで残りの距離を測っていた、あの感じだった。
右手に手水鉢。両側の低い石垣のうえに、夏には紫陽花が並んでいた段差が、いまは黒い枝の影だけになっていた。坂を登り切ると、砂利の薄く敷かれた平場が開けた。風はないのに、空気のいちばん高いところから、白い粒が一つ、二つ、ゆっくり落ちてきた。正面にこぢんまりとした拝殿、その前に賽銭箱。本殿は拝殿の奥の闇のなかに、屋根の輪郭だけを薄く沈めていた。今夜の足はその奥までは行かない。連れていけるのは拝殿の前まで——それで足りた。
賽銭箱の手前で車いすを止め、タイヤの止め具を踏んで固定した。車いすの右側にまわり、私の半歩後ろに彼の右肩が来る位置に身体を置いた。あの夏の構図の鏡像だった。
ゆっくり屈み、片膝を砂利の上に置いた。革靴の縁から夜の冷えが膝頭まで上がってくる。透の額の上に垂れた前髪を耳の後ろに回した。顔を近づけ、額に唇を触れさせた。短く、一度だけ。唇の下の皮膚は冷たくはなかった。マフラーの中で何ヶ月も首元の動脈が運び続けてきた、その温度だった。
上体を戻した。額に口紅の跡はない。今朝、鏡の前で半呼吸迷って引かなかった。痕跡を残さない方を選んでいた。
***
立ち上がり、賽銭箱の前に立ち直した。透の車いすは私の右半身のすぐ後ろ、肩の幅ほどのところにある。賽銭は入れなかった。鈴緒にも触れなかった。言い伝えには入れろとも触れろとも書かれていない。透も入れなかったし、触れなかった。
ゆっくり目を閉じ、心の中で唱えた。一字一字、間違えないように。祖母から教わった、あの形を。
愛する者を運命から取り戻すには、二つの心から、その者の面影を消し去るしかない。
祖母も、ここに、立った。同じ場所で、同じことを。
踵の幅だけ、右の踵を後ろにずらした。踵の外側が車いすのフットレストの金属にほんのわずかに触れた。半歩後ろに彼の体重が確かにある——それを足の縁で確かめてから、息を吸う一拍のあいだに続けた。
——今度は、二人の心から。残された半分を、私が、揃えに来ました。
目を閉じたまま、車いすのハンドルに添えた右手の小指を一度だけ動かした。毛布越しの彼の指の輪郭を確かめる、というよりは、こちらの輪郭を知らせるように。
十二月の終わりに一人でこの賽銭箱の前で手を合わせたあの日、差し出した手と受け取るはずの何かとの間に、ひと指のぶんの間が空いていた。あの間を、今夜は彼の気配が埋めていた。
——二人分目を、私が、捧げます。
心の中で賽銭箱の方へ短く唱えた。続けてもう一行、自分の身体の方へ重ねた。言い切る前に、半呼吸、間が空いた。膝のお守りの方へ目を伏せ、指先で刺繍の縁を一度だけ撫でた。布は人肌の温度のところで止まっていた。吐いた息が長く白く伸び、ほどけずに一拍残った。
——愛するあなたを消します。
風はない。図書館の棚で指の側面が触れたときの、布の冷たさのすぐ隣にあった温度。神社のベンチで「二つの心、ね」と半段下げた声。今日、布張りの本の表紙に重ねた、彼の右手の重み。ひとつずつではなく、まとめて差し出した。顔の輪郭ではなく、それを思うときに胸の中で動いていた方を。
鎖骨の下で、息の通り道が一本、細くなった。私の側と、後ろの彼の側が、同じ高さで一度に抜けていく。吸ったぶんがそのまま戻らずに、砂利の音にも風にもならずに、境内のどこかへ薄く引いていった。
頬をひと筋、湿った。拭わなかった。透の顔が心のなかでわずかにぼやけた。顔は覚えている。覚えている、その上に、薄い膜が一枚、降りていた。
目を開けた。賽銭箱の縁、夕暮れの最後の橙、薄く差しはじめた月明かり。半歩後ろから、衣擦れに似たごく薄い音がひとつ立った——ような気がした。風はなかった。鳴るはずの理由もなかった。たしかめなかった。半歩後ろは振り返らなかった。
屈み込み、毛布の上からお守りを取った。両手で持ち、賽銭箱の脇の砂利の上にそっと下ろす。紐の輪が薄明かりの下で半円の影を地面に落とした。
「お返しします」
と、言葉にしないまま置いた。砂利の上の白地に自分の手の影が一瞬かぶさり、それから引いた。引いたあとの白地の輪郭の上に、祖母の手の影がほんの一瞬だけ重なって見えた気がした。年月の数だけずれた角度で、同じ場所に同じ白地を置いた手があった。たしかめなかった。
息を深く、ひとつ吸った。
「祖母も、ここに、置いていったのでしょうか」
息を吐いたとき、祖母の手の影はもう見えなかった。私の手の影だけが残っていた。立ち上がった。
拝殿の脇に古い桜の木があった。見上げた。十二月の終わり、桜の枝先にはつぼみすらまだ立ち上がっていなかった。枝の上に、いま落ちはじめた粉雪が、ひと粒、ふた粒と止まりはじめていた。
でも、確かに、枝はそこにあった。来年、また芽吹く。
風がわずかに吹いた。ほどけるように通って、止まった。冷たくはなかった。雪片が一枚、頬に触れた。確かめずに、目を閉じた。
賽銭箱の脇の砂利の上に置いたお守りの白地に、いつの間にか雪がひとひら載っていた。溶けずに、結晶の形のまま、白地の刺繍の上に止まっていた。もう一度、拝殿のほうに向き直った。ゆっくりと上体を傾け、深く頭を下げ、ゆっくりと戻した。鈴緒の影は揺れていない。風はもう止んでいた。
車いすのハンドルに両手を添えた。手のひらの下に、彼の体重をのせた車体のほんの薄い揺れが伝わってきた。透の横顔をひととき見た。閉じた瞼、睫毛の影、マフラーの中の首元の薄い温度。昔の彼はここにはいない。
顔を上げた。鳥居の上の枝の先、雪が薄く積もりかけた桜の枝の輪郭が、夜の側へ細い影で食い込んでいた。その枝の下、鳥居の向こうへ視線を送ると、参道の下りていく西の空に、陽の落ちた最後の橙がまだ薄く残っていた。その光の少し上、木立の上の低いところに、青く強い星がひとつ、西へ傾いて光っていた。夏に透と見上げた、こと座の、あの楽器の星だった。夏には頭の真上近くにあったそれが、冬の宵には西へ深く傾いて、これから夜をかけて、ゆっくりと闇の側へ降りていくところだった。
ひととき、その星を見ていた。
——今からいきますね。
半歩後ろの重みを、ハンドルに添えた手のひらの下にもう一度確かめた。もう、はぐれない、そう言葉にする手前で、息を吸った。
目を閉じた。
視界が、暗くなった。