終着駅のワンナイトは終わらない〜策士なイメチェン元後輩(一見ワンコ)の執着に囚われました〜【一話から】

1. 終着駅での再会

「あの……もうすぐ終点に着きますよ。起きられますか?」
「………え………?」

 ゆっくりと温かな手がトントンと控えめに右肩を叩いて、桐谷(きりや)雪那(せつな)は、ハッと意識を取り戻した。
 けれど画面を開いたままフリーズしたパソコンのようにやたらと重い頭は何の情報処理もしてくれない。雪那ができたのは重たい瞼だけをどうにか持ち上げることくらいだ。そのままグラグラと揺れる視界に、人の姿は映らない。乗車した時にはかなりの人数がいたはずだが、今は座席の前に苛立って立つ人がいないどころか、横一列の対面座席には顔を振りつつ視界を広げてもポツリポツリと足が見えるくらいだった。

「ぇ………なんで……」
「大丈夫ですか?」

 再度、左斜め上から聞こえる低くも高くもない落ち着いた男性の声。
 もう一段階、五感が戻ってくる。
 ズキリと首筋が鈍く痛んだ。左に向かってかなり痛い。何かに頭が当たっている。硬い。ガタン、と一つ大きな揺れがあってぐらりと体が傾いだ。勢い余って頭がずるりと滑り落ちそうになる。体勢を整えたところでやっと雪那の頭は急速に状況を理解した。

「す、すみませんっ!私ったら!!」

 隣の男性に寄りかかって眠ってしまっていたのだ。頭を上げてしっかりと起き上がれば、一気に冷や汗が吹き出してくる。それと同時にゆっくりと電車が止まる振動が来た。

 『灰田瀬西、灰田瀬西。終点です。この電車は車庫に入ります。ご乗車できませんのでご注意ください』

 知らない駅名と終点らしいアナウンスに、ヒヤリとさらに背中が冷たくなった気がした。視界をグラグラと歪めていた酔いも一気に冷める。

「あの、本当に申し訳ありませんでした!」

 もしや涎を垂らしていないか不安になり、慌てて顎を擦る。深々と頭を下げてから顔を上げた先には、形のいい色白の輪郭と眉を隠すような長さの前髪に対してさっぱりと短く切られた横髪に囲われた顔の中で特徴的と言える垂れ目の青年が、薄い微笑みを浮かべてこちらを見ていた。
 
 (わっ……美形……っ)

 どくん、と一瞬で心臓が跳ね、頬に熱が集まったのがわかる。雪那はこんなカッコいい人に寄りかかって呑気に眠りこけていた自分を恥じた。いくら泥酔するほど飲んだからと言っていい大人が。役得などより、羞恥で死にそうだと思った。
 彼の顔をなるべく見ないようにしながら、改めて「本当にすみません」とペコペコ頭を下げ、雪那は慌てて電車を降りた。まばらな人の波に紛れて、そのまま反対側のホームに急いで向かおうとしたところ、後ろから声がかかる。

「あの……もしかして貴女も乗り過ごしですか?もう反対側の電車はありませんよ」
「え……っ」
 
 雪那は一昨年のボーナスで清水の舞台から飛び降りるつもり奮発して買った時計を見た。みんながスマホやスマートウォッチが便利だというなか、キラキラと光る宝石が入った時計を見る都度、頑張った自分を思い出し背筋が伸びるので愛用している。今日ばかりは、それはひどく苦い気持ちも思い起こさせるが。
 短針は11、長針は3を少し過ぎたところだった。

「え?まだこんな時間なのに……?」
「びっくりですよね。実は俺もさっき起きたところで、慌てて戻りの電車を調べたらもう朝の時刻しか出なくて……」
「嘘……でしょう……」

 雪那は屋根もない吹き晒しのホーム上で肩からかけたカバンの取手をにぎりしめたまま固まった。
 
(嘘……もう引き返す電車もないの?ここがどこかもわからないのに……?)
 
 今日は風が強い。冬というのをしっかりと感じさせる身を切るような空気の冷たさが、手袋のない手とマフラーのない鼻先を凍らせ、温かだった車内と散々接種したアルコールによりどこか熱っていた体を容赦なく冷やしていく。
 早くスマホを出して駅名から宿泊先を探さなければ。頭はそう指示しているのに、急速に冷えたせいかガチガチと歯が鳴って、何なら血の気が引いてきた。ついでに胃の中のアルコールがぐるぐると回りだし、社会人としてあってはならない事態を引き起こしかねない予感すらした。

「あの、大丈夫ですか……?」

 何故か先程まで肩を借りてしまった美青年が、さらに雪那に話しかけてくる。話しかけられたら答えないと。強がりな雪那は邪険にもできず、引き攣った笑みを浮かべた。

『本当、お前は最後まで可愛げがないな!まさに鉄の女だよ!』

 しかし、突如吐き捨てられた言葉が脳裏に蘇り、弱っている胃にまたズンと重いものがのしかかった気がする。

「えぇ、どうも……大丈夫、です。ご親切に、見ず知らず、のこんな無礼な人間に……ええ……でも大丈夫なので……お気になさらず」

 腹立たしいその幻聴を振り払い、強がりの言葉を吐き出した。ぐわんぐわんと耳鳴りがして、古めかしい電灯のオレンジの灯りは辺りを照らしているはずなのに、目の前が暗くよく見えない。
 
(早くどこかに行ってくれたらトイレに駆け込むのに。その前に座りたい。そもそもトイレはどこ?しゃがみ込みたい。もう、早くいなくなってよ)

 心配してくれる相手に身勝手に腹を立てていると、自然と俯いていた視界に、先の尖ったおしゃれな革靴がやたらと近く見えた。

「……見ず知らずって。もしかして、全然気がついてないです?忘れちゃいました?ショックだなぁ……俺です。橋谷(はしたに)ですよ。読み間違い仲間だった、橋谷玲司(れいじ)です。桐谷リーダー」

 その言葉に、雪那はとっさに顔を上げ、目を見開いた。黒に侵された視界に、光度も彩度も変わらず足りていないが、淡いオレンジの光が戻ってくる。
 目の前に立つ明らかに顔のいい彼。ウールの仕立ての良さそうなコートとスーツをしっかり着こなしていて肩幅も体の厚みもある。5センチヒールを履いた雪那より頭半分まだ高い背丈。
 え、誰?
 雪那は咄嗟にそう思ったが、今時の男の人らしい細い顎におさまる薄い唇の右下に小さな黒子が二個並んでいるのを見つる。「口の下に黒子がある方がたに、目元に黒子がある方がや、とかキャッチネームつけましょうか」と珍しく笑った声が急速に蘇った。そうすると、突如、もっと全体的にモサモサな丸い髪型で、黒縁眼鏡のフレームにつくほど長くて厚い前髪でろくに顔がわからなかった口元に黒子がある彼の姿が重なる。
 
「……………………はしたに?……はしやくん?」
「ええ。きりたにさん?お久しぶりですね」

 嬉しそうな声を出し、目の前の彼がパッと鮮やかに微笑んだ。
 人懐っこい笑顔は緊急案件により会議室で夜を明かしたときを思い出させる。先ほどまで張り詰めていた緊張の糸が一気に切れた。
 三年前に退職した別部署の後輩。二、三件のプロジェクトで、雪那は営業として、システム開発部の彼と同じ案件に携わっただけ。若いのに有能で、鎧でガチガチの雪那が何となく自然体で話せた珍しい存在。
 そう認識した途端、ドッと冷や汗が出てきて全身の力が抜けてしまった。カバンを掴む手が震えて肩から半分紐が落ち、根性で止めていた胃のむかつきが上限を超える。

「橋谷くん……ひさし……、ぅ……ちょっと、ムリ……かも」
「え、桐谷さんっ?!」

 その場にしゃがみ込んだ雪那の頭上から焦った声が聞こえた。
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