〜落ちこぼれ魔女は天才の弟子に溺愛される〜
 ◇

 セディオスを拾ったのも、こんな風に寒い冬の日のことだった。
 その時のことは、今でもよく覚えている──しんしんと雪が降り積もる中、シェリーは、依頼主の家から帰宅しようと、道を急いでいるところだった。
 その頃はまだ独立して一年も経っておらず、仕事も今以上になくて、だから、常に空腹を抱えていた。その日も無論、とてもお腹が減っていた。

 冷たい風に首をすぼめ、シェリーは近道をしようと薄暗い森の小道に入る。
 ──そこでうずくまっていたのが、セディオスだった。

 男の子……?

 木の根元にまるまったかたまりに、シェリーは思わず足を止めた。
 彼は、ボロボロのシャツとつぎはぎだらけのズボン姿で震えていた。丈の短すぎる袖から覗いた手足にはあちこちに打撲の跡が残っていて、あまりにも異様なその姿に、気づけばシェリーは駆け寄っていた。

『僕、僕、大丈夫?』

 雪の上に膝をついて声をかければ、ぼんやりした紅い瞳がシェリーを見上げた。

『お姉さん……誰?』

 少年のかさつきひび割れた唇が微かに動いて、シェリーははっと息を呑んだ。その小さな顔中にも、青紫色の痣が残っていたからだ。中でも一番ひどいのは左目で、そこは眼球を隠すように腫れあがっていた。

『お医者に行きましょう』

 シェリーは無抵抗のセディオスをおぶって、街医師のもとへと運んだ。
 その数日後、回復したセディオスからよくよく事情を聞き出して、シェリーはさらに胸を痛めた。
 セディオスは幼い頃、口減らしのために親に売られ、その奉公先から逃げ出し、それからはずっと、たったひとりで生きてきたのだそうだ。そうして、空腹に耐えかね盗みを働いてしまったところを店の者に罰として折檻され、あそこでうずくまっていたと。
 そう、ぽつりぽつりと、話してくれた。

 シェリーはこんなに小さな少年が住む場所もなくひとりで生きてきたことが信じられなかった。ひどい目に遭ってきただろうことを思えば尚更腹がたった。
 助けてあげたい。
 そう強く思ってしまったのは、天涯孤独という意味で、同じ境遇だったからだろうか。

『ねえ、セディオスくん。私の弟子にならない?』
『……でし?』

 シェリーの提案に不思議そうに首を傾げるセディオスは、天使の彫像みたいに可愛らしかった。
 こんな弟がいたらどんなに可愛がったことだろう。
 微笑んでしまいながら、シェリーは頷く。

『そう。私ね、魔法使いなの。魔法の使い方を教えてあげる。だから一緒に暮らしましょう?』

 とたん、セディオスが花開くようにふわりと笑った。
 初めに心を奪われたのは、この時だったのかもしれない。

『うん、俺、お姉さんのでしになるよ。頑張る』

 だから捨てないでね。

 頼りなげな声が痛くて切なくて、シェリーは、彼の小さな手を握りしめた。

『当たり前じゃない』

 その約束を、セディオスはずっとずっと覚えていたのだ。



 ──だから、こんなにも怒っているのだ。

「約束、破る気ですか?」

 ひどいな、とセディオスが吐き捨てるように笑った。部屋中が凍てつき始めたのは、彼の魔法だろう。向かいで音をたてて立ち上がったセディオスが、歩いてくる。

「ああそれとも、子供(ガキ)とした約束なんて覚えてない?」
「セディオスく……」
「俺はあんたに捨てられないよう必死だったってのに」

 真横に立ったセディオスが、シェリーを見下ろす。
 暖炉の炎もキャンドルの灯りも消えた今、室内を満たすのは青い月の光だけだった。

「最悪だ」

 セディオスの呪うような言霊に、室内の温度はぐんと下がった。
 シェリーは唇を噛み締めて、セディオスを見上げた。

 知らなかった。
 彼の無表情がこんなにも恐ろしいだなんて。
 セディオスはいつだって、にこにこと笑ってくれていたから。

 低い声が続く。

「俺はあんたに気に入られるためになんだってしたのに。良い子でいたのに。だから、なあ、料理も掃除も洗濯も、魔法だって完璧だったろ? なのに今更、俺を捨てるの」

 別人みたいに豹変したセディオスを、シェリーはただただ見上げ続ける。

「ねえ、答えてくださいよ。先生」

 しゃがみ込んだセディオスが、今度はシェリーを見上げる形になる。伸ばされた手が、シェリーの膝に乗せられた。

「約束、破るの?」

 真っ直ぐに見つめられて、思わずシェリーは全てを打ち明けてしまいそうになった。
 あの日のことを忘れるわけがないし、セディオスを捨てようだなんて、考えたこともない。
 できることならシェリーだって、ずっとずっとこのままでいたかった。
 彼と一緒にいたかった。
 けれどセディオスの才能を目の当たりにするたび、どうしてもシェリーは、あの日偶然彼を見つけたのが自分でさえなければと、そう思わずにはいられなかった。

 極め付けは、学院からの勧誘だった。
 数日前、セディオスが留守にしていた時のこと。学院の高位魔術師たちに囲まれたシェリーは、彼らに懇々と説得を受け続けた。

『あなたはあんなに優秀な魔術師の人生を奪うつもりなのですか』

 ずっと抱え続けていた罪悪感を突つかれ、シェリーは決断した。
 せめて、セディオスが普通の男の子だったらずっと一緒にいられたのだろうに。
 ごめんね。

 シェリーはだから、この特別な夜を選んだ。
 彼が傷ついて、怒って、自分を嫌ってくれるように。
 ひどい女になろうとした。
 そうしたら、彼も心置きなく学院に行けるはずだと。
 そう決めたのだ。

 シェリーは心を鬼にして、膝上に置かれたセディオスの手を払いのける。

「いい加減にして。脅しのつもり?」

 ぴくりと、セディオスの眉が動いた。

「先生……?」
「だいたい、あんたって何? 言葉遣いが悪すぎるわ」
「それは謝ります、だから」
「もうやめて。とにかく全部決まったことなの。子供じゃあるまいし、言うことを聞いてよ」

 シェリーは立ち上がり、彼に背を向ける。

「さよなら。今までありがとう。早く荷物をまとめてね」

 凍てついた室内は、きっと彼の心を体現していた。
 シェリーは、泣くのは彼が旅立ってからにしようと必死に堪える。その、とたん。

「嫌だ」

 セディオスが後ろからシェリーを閉じ込めるように抱きしめた。窓ガラスが凍りついて、すっかり外が見えなくなる。

「セディオスくん、魔法を止めて」

 このままでは、家が氷で閉ざされてしまう。けれど彼は子供みたいにかぶりを振るだけだった。

「お願い、捨てないで──じゃないと俺」

 腰に回された腕が、締め付けを増した。

「先生を、どうにかしてしまいそうだ」

 パキパキと、そばのワインまでが凍りついた。

「ねえ先生。俺はもう、あなたよりずっと強いんですよ。ちゃんとわかってますか」

 不意に締め付けられていた腕の力が緩まり、かと思うと身体を反転させられる。覗き込むようにセディオスに見つめられていた。

「ねえ。先生。本当に俺のこと捨てるの?」

 寂しげにつぶやいたセディオスの瞳が滲んでいた。

「どうしたら考え直してくれますか? あなたが嫌なら恋人じゃなくてもいい。元の関係に戻りましょう。一緒に暮らすのが嫌なら別に部屋を借ります……でも、お願いだから、同情でもいいから、そばにいさせてください」

 両肩を掴まれて、懇願される。

「お願いです」

 ほろほろと涙をこぼすセディオスに、シェリーの心臓が鈍く痛む。

「セディオスくん……」

 シェリーはそっと手を伸ばして、彼の白い頬を撫でた。氷みたいに、冷たくなっている。
 彼に恋をしてしまったのは、いつからだったのだろう。

 異界の儚い恋愛悲劇──ロミオとジュリエットを読むたび、シェリーはずっと思っていた。
 たったの数時間で恋に落ちたふたりの気持ちが、どうしてもわからないと。
 今もそうだ。
 弟みたいに可愛かったセディオスをひとりの男性として好きになったきっかけが、思い出せない。わからない──。
 作者なら答えてくれるのだろうか。

「先生」

 振り払わなくちゃ。そう思うのに、シェリーはセディオスを拒むことが出来なかった。

「好きです、あなたに助けられた時から、ずっと」

 シェリーはセディオスの告白に耳を傾けた。

「父さんも母さんもクズみたいな人間だったし、奉公先の家族は金持ちだけどケチで悪趣味な奴らでした。パン屋は売れ残りをひとつ盗んだくらいで憂さ晴らしみたいに殴ってきました……先生だけでした、俺の味方になってくれたのは」
「そんなことないわ……私と会わなかったら、他の人が助けてくれたと思う」
「でも、あの時助けてくれたのはシェリーだ」

 強く言われて、シェリーはそっと顔をあげた。
 そうだ。どんなに後悔しても時間は戻せない。だからこそシェリーはやり直そうとしたのに。

「そばにいてくれますよね」

 頬を撫でるシェリーの手を、セディオスが握りしめた。
 シェリーは泣き出しそうになりながら、唇を噛み締める。
 あと一歩だったのに。

「ごめんなさい」
「……先生?」
「……嘘よ、全部。遊びだなんて言ったの、嘘。セディオスくんのことはずっと大好き。離れたくない。でもね、本当にこれが、あなたのためになると思ったの」
「先生」

 セディオスがほっとしたように笑う。

「よかった、安心した……心臓が潰れるかと思った」

 そのままぎゅうっと抱きしめられ、シェリーは彼にしがみつきながら、ほろほろと涙をこぼす。

「でも、でもね、契約書にサインはしちゃったのは本当なの」
「それくらい大丈夫。明日取り消してもらいましょう」

 にこりと笑って、セディオスはシェリーを抱え上げた。

「セディオスくん……っ? なに」

 驚いて目を丸くするシェリーに、セディオスが下から煌めく笑顔を見せる。

「俺、今はとりあえず笑ってますけど、結構……いや、かなり傷ついてるんですよ」
「ご、ごめんなさい」
「もう勝手なこと、しちゃダメですよ」
「わかったわ……」

 彼の首に手を回して、頷く。これではなんだか、師弟が逆みたいだ──力の差で言えば、もうずっと前から逆転していたのだけれど。

 シェリーを抱き抱えたまま、セディオスはゆっくりと寝室に向かった。

「ねえ、セディオスくん」
「はい?」
「ひとつ聞いてもいい?」
「もちろん」
「あのね、セディオスくんは、恋人いたことあるの?」

 建て付けの悪い扉を器用に開けながら、セディオスはちらとシェリーを見つめた。

「いませんよ。俺だって先生だけです」
「でも……じゃあ……キスとか、どこで覚えたの?」

 それは。

「本能じゃないですか」

 言いながら、セディオスはゆっくりとベッドに恋人を降ろした。縫い止められるようにシーツに沈み込む。セディオスの温もりが優しく覆い被さってきた。

 外では雪が、降り続いていた。



 ◇

 眠るシェリーを見つめながら、セディオスは夜明けを待っていた。
 早く学院に行って、契約を破棄しなくては。
 何度も何度も断っているのに、本当にしつこい連中だった。
 シェリーがどんな風に言いくるめられたかはわからないけれど、大方彼女の善意に付け込んだのに違いなかった。

 でも、もう大丈夫。

 セディオスは、安心しきったように眠る師を見つめてゆるく微笑む。
 もう彼女が妙なことで悩まなくて済むように、セディオスは近々、魔術師資格を取得する予定だった。
 申請には彼女のサインが必要だから、明日にでも説得しようと思う。
 過保護なシェリーは、まだ危ないと言って去年は受けさせてくれなかったから。
 自分だって同じくらいの歳に試験を受けていたくせに。

 セディオスは少しふてくされながら、息を吐く。
 試験にさえ合格すれば、今以上にたくさんの仕事を受けることができる。シェリーが気にしている生活面も一緒に支えてあげられるのだ。やっと。

 セディオスはまだ訪れない夜明けに痺れを切らして、もうひと眠りしようと両目を閉じた。

 朝目覚めた時、シェリーは枕元に置いたプレゼントにどんな反応を示してくれるだろう。
 なぜだか、貰う側だった時よりもわくわくしていた。
 早く朝がくるといいのに。
 祈るように願いながら、セディオスはシェリーを抱きしめる。こんな日がいつまでも続いてくれたらいいと、そう、思った。
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