死者を救う試練で、初恋の騎士は眠れぬ番犬になっていた ~エルディーテの冥界追想録~
プロローグ
大きな手、低く冷たい声。にこりともせず、いつも仏頂面だった騎士が居た。
時折向けられるのは、まるで季節が冬のまま時が止まったように凍てついた瞳。
けれどその表面とは裏腹に手付きはとても優しかった。
覚えているのは耳を裂くような激しい剣戟、今にも崩れ落ちそうな柱。そしてばちばちと激しく火の粉が舞う熱の恐怖。
濡れたハンカチで口元を覆ぎ、ことの行方を見るしか出来ず、硬い腕に抱え上げられてようやく安堵した夜。グラウス公爵家の令嬢、エルディーテは専属護衛騎士の手で助け出された。
燃え盛る邸の方が外の暗闇よりもはるかに明るかった。
「お嬢様を頼む。火傷をされている、早く処置を!」
見た事のない必死の形相で他の騎士に指示すると彼は迷いなく立ち上がる。
「待って!駄目よ!」
「お嬢様はなにも心配いりません。グラウス家は私がお守りします」
その言葉に身体の痛みを忘れ反芻しエルディーテは眼を瞠った。
火の手が回った邸に戻ろうとする背中が、もう二度と戻ってこないような気がしたのだ。
「駄目だってば!!言うこと聞きなさいっ!」
今までになく強い口調で止めたが彼はたったの一瞬も振り返ってくれなかった。
やっと願いが叶った矢先の出来事だった。
「ねぇっ!私の騎士でしょうっ!?」
失ってしまいそうな恐ろしさから足が震え叫ぶ。よろけながら立ち上がって追い縋ろうとしたが、しかし強い力で両親達に止められた。
年が離れてるから、子供がやる事だから、周りはいつもそう捉えていたが違う。
一方的なものだったが確かにエルディーテは彼に恋をしていた。
迷惑がられても、相手にされなくても、だけど傍に居て欲しかった。
エルディーテの不安は当たり、どれほど待っても彼は戻ってこなかった。
もう会えないのだと理解すると悲しくて、悲しくて、胸が張り裂けそうで……そしてエルディーテは彼の記憶に蓋をした。
「――――誰が死んだって言ったの?お父様」
「なんでもないよ、エルディーテ。私たちは我が家に仕える騎士達のおかげで生きている。それだけ覚えていればいい」
起きたのは不幸な火事。数名の死者を出したが、私兵の騎士らの働きがあってグラウス家の人間は生き延びることが出来た。
抜け落ちてしまった記憶に断片的に残るのは、自分を守ってくれたのが高潔な騎士であったということ。
幻影のような曖昧な偶像から勇気をもらって、エルディーテは騎士になった。
今度は自分が誰かを守れるように。
――――冥界に繋がると言い伝えられる石の扉は、エルディーテが前に立つと歓迎するかのように開いた。
扉の先は薄暗く、冷気と共に静寂が漂う。
左手に下げていたランタンの持ち手を握り直し足元を照らすと、淀んだ灰色の岩が映った。
人工的な道ではない、まるで幾重にも踏み固められて出来た天然の階段のようだった。
それは話に訊いたとおり下へ向かって繋がっている様子が窺える。
ここから先は、冥界の入口。
死者と生者の世界を繋ぐ道となる。
生気を奪うような雰囲気に圧倒され、エルディーテは一度だけ後ろを振り返り、目を細めた。
外は夕暮れの陽ざしに空が赤く染まっている。
慎重に深い呼吸を二度繰り返し震える肩を鎮め、心を整えるように双眸を固く閉じた。
――本当は恐ろしい。
だがここで躊躇して悩んでいれば、今も自分を追っているであろう弟が辿りつくかもしれない。
意を決して一歩、エルディーテは足を踏み入れた。
そして影が完全に中へ納まったその時、ふと背中を照らしていた光が消えた。
強く打ち付ける心音を飲み込み咄嗟に振り返ると、石の扉が音も立てず閉まっていた。
この扉は”挑戦者”が中に居る間は開かない。
安堵する一方で、無意識に利き手の指先は腰に下げた鞘へと伸びるが、どうやらただ扉が閉まっただけで、直ぐに何が起きるといった様子はなかった。
エルディーテは周囲を警戒しながら慎重に階段を降りて行く。
どこからか一挙手一投足を見られているような気配を感じながら、自分の足音だけが響く道を長らく下へ向かって進み、そしてついに開けた場所へと辿り着いた。
今まで通った道が突然開放的になり、エルディーテは周囲を見遣りながら、そして恐る恐る呼びかけた。
「誰か……誰かいないのか。私はエルディーテ・グラウス、リシア帝国のグラウス公爵家の者だ。王女サフィアの魂を返して欲しい」
すると突如、足元が大きく揺れたと同時に巨大な黒い何かがエルディーテの前に立ち塞がるよう落ちてきた。
砂煙が立ち、思わず目を瞑り咳き込む。
状況を把握すべく瞼を開くと、目の前には巨大な三つ首の犬。ケルベロスが居た。
伝説に聞いた通りの風貌で、獰猛な牙を剥き出して唸っている。
エルディーテを威嚇するように睨む目はそのどれもが冷たかった。
初めて目にする強大な存在に背筋が凍りそうになったが、恐怖を抑えつけ眦を吊り上げエルディーテは見上げた。
「――試練に挑む者か」
ケルベロスの真ん中の首が、身体の芯に響くような低い声で問う。
「……そうだ。試練を達成すれば魂を返してもらえると聞いてここへ来た。私は騎士だ、規則にはきちんと従う。どうかチャンスを与えて欲しい」
ゆっくりと、しかし声を張り上げ懇願すると、ケルベロスはじっとエルディーテを射抜くように見遣ったまま押し黙った。
重苦しい沈黙が落ち、緊張から瞳は揺れる。
一抹の希望に縋ってここへ来た。
ケルベロスが存在したのならば、あの噂だって本当のはずだ。
まだもらえぬ返答に胸を焦がしていたその時、凶悪な牙が持ち上がり再び唸った。
「――ならば俺を眠らせてみろ。それが出来ればお前が求める魂を地上へ帰す」
時折向けられるのは、まるで季節が冬のまま時が止まったように凍てついた瞳。
けれどその表面とは裏腹に手付きはとても優しかった。
覚えているのは耳を裂くような激しい剣戟、今にも崩れ落ちそうな柱。そしてばちばちと激しく火の粉が舞う熱の恐怖。
濡れたハンカチで口元を覆ぎ、ことの行方を見るしか出来ず、硬い腕に抱え上げられてようやく安堵した夜。グラウス公爵家の令嬢、エルディーテは専属護衛騎士の手で助け出された。
燃え盛る邸の方が外の暗闇よりもはるかに明るかった。
「お嬢様を頼む。火傷をされている、早く処置を!」
見た事のない必死の形相で他の騎士に指示すると彼は迷いなく立ち上がる。
「待って!駄目よ!」
「お嬢様はなにも心配いりません。グラウス家は私がお守りします」
その言葉に身体の痛みを忘れ反芻しエルディーテは眼を瞠った。
火の手が回った邸に戻ろうとする背中が、もう二度と戻ってこないような気がしたのだ。
「駄目だってば!!言うこと聞きなさいっ!」
今までになく強い口調で止めたが彼はたったの一瞬も振り返ってくれなかった。
やっと願いが叶った矢先の出来事だった。
「ねぇっ!私の騎士でしょうっ!?」
失ってしまいそうな恐ろしさから足が震え叫ぶ。よろけながら立ち上がって追い縋ろうとしたが、しかし強い力で両親達に止められた。
年が離れてるから、子供がやる事だから、周りはいつもそう捉えていたが違う。
一方的なものだったが確かにエルディーテは彼に恋をしていた。
迷惑がられても、相手にされなくても、だけど傍に居て欲しかった。
エルディーテの不安は当たり、どれほど待っても彼は戻ってこなかった。
もう会えないのだと理解すると悲しくて、悲しくて、胸が張り裂けそうで……そしてエルディーテは彼の記憶に蓋をした。
「――――誰が死んだって言ったの?お父様」
「なんでもないよ、エルディーテ。私たちは我が家に仕える騎士達のおかげで生きている。それだけ覚えていればいい」
起きたのは不幸な火事。数名の死者を出したが、私兵の騎士らの働きがあってグラウス家の人間は生き延びることが出来た。
抜け落ちてしまった記憶に断片的に残るのは、自分を守ってくれたのが高潔な騎士であったということ。
幻影のような曖昧な偶像から勇気をもらって、エルディーテは騎士になった。
今度は自分が誰かを守れるように。
――――冥界に繋がると言い伝えられる石の扉は、エルディーテが前に立つと歓迎するかのように開いた。
扉の先は薄暗く、冷気と共に静寂が漂う。
左手に下げていたランタンの持ち手を握り直し足元を照らすと、淀んだ灰色の岩が映った。
人工的な道ではない、まるで幾重にも踏み固められて出来た天然の階段のようだった。
それは話に訊いたとおり下へ向かって繋がっている様子が窺える。
ここから先は、冥界の入口。
死者と生者の世界を繋ぐ道となる。
生気を奪うような雰囲気に圧倒され、エルディーテは一度だけ後ろを振り返り、目を細めた。
外は夕暮れの陽ざしに空が赤く染まっている。
慎重に深い呼吸を二度繰り返し震える肩を鎮め、心を整えるように双眸を固く閉じた。
――本当は恐ろしい。
だがここで躊躇して悩んでいれば、今も自分を追っているであろう弟が辿りつくかもしれない。
意を決して一歩、エルディーテは足を踏み入れた。
そして影が完全に中へ納まったその時、ふと背中を照らしていた光が消えた。
強く打ち付ける心音を飲み込み咄嗟に振り返ると、石の扉が音も立てず閉まっていた。
この扉は”挑戦者”が中に居る間は開かない。
安堵する一方で、無意識に利き手の指先は腰に下げた鞘へと伸びるが、どうやらただ扉が閉まっただけで、直ぐに何が起きるといった様子はなかった。
エルディーテは周囲を警戒しながら慎重に階段を降りて行く。
どこからか一挙手一投足を見られているような気配を感じながら、自分の足音だけが響く道を長らく下へ向かって進み、そしてついに開けた場所へと辿り着いた。
今まで通った道が突然開放的になり、エルディーテは周囲を見遣りながら、そして恐る恐る呼びかけた。
「誰か……誰かいないのか。私はエルディーテ・グラウス、リシア帝国のグラウス公爵家の者だ。王女サフィアの魂を返して欲しい」
すると突如、足元が大きく揺れたと同時に巨大な黒い何かがエルディーテの前に立ち塞がるよう落ちてきた。
砂煙が立ち、思わず目を瞑り咳き込む。
状況を把握すべく瞼を開くと、目の前には巨大な三つ首の犬。ケルベロスが居た。
伝説に聞いた通りの風貌で、獰猛な牙を剥き出して唸っている。
エルディーテを威嚇するように睨む目はそのどれもが冷たかった。
初めて目にする強大な存在に背筋が凍りそうになったが、恐怖を抑えつけ眦を吊り上げエルディーテは見上げた。
「――試練に挑む者か」
ケルベロスの真ん中の首が、身体の芯に響くような低い声で問う。
「……そうだ。試練を達成すれば魂を返してもらえると聞いてここへ来た。私は騎士だ、規則にはきちんと従う。どうかチャンスを与えて欲しい」
ゆっくりと、しかし声を張り上げ懇願すると、ケルベロスはじっとエルディーテを射抜くように見遣ったまま押し黙った。
重苦しい沈黙が落ち、緊張から瞳は揺れる。
一抹の希望に縋ってここへ来た。
ケルベロスが存在したのならば、あの噂だって本当のはずだ。
まだもらえぬ返答に胸を焦がしていたその時、凶悪な牙が持ち上がり再び唸った。
「――ならば俺を眠らせてみろ。それが出来ればお前が求める魂を地上へ帰す」
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