ひみつ図書室の名探偵~本の言葉が教えてくれる、学校のふしぎ事件~
最終話 ひみつ図書室の名探偵
展示会の当日は、晴れだった。
七月の初めの、風が少しある日で、ろうかの窓から差し込む光が床に長く伸びていた。
しおりは朝から、胃のあたりがずっとざわざわしていた。朝ごはんをいつもより少ししか食べられなくて、お母さんに「顔色悪いよ」と言われた。大丈夫、と答えたけれど、大丈夫かどうかは自分でも分からなかった。
登校すると、ひなたが昇降口で待っていた。
「しおり、来た」
「うん」
「緊張してる?」
「してる」
「そっか」とひなたは言った。それだけだった。「大丈夫だよ」とも「頑張って」とも言わなかった。ただ、しおりのとなりに並んで、いっしょにろうかを歩いた。
それで、少し楽になった。
展示は、昼休みに行うことになっていた。
場所は、ひみつ図書室の前のろうかだ。狭いけれど、校長先生と朝比奈先生に来てもらうだけならじゅうぶんだった。
午前中の授業の間、しおりは何度も書いた文章を頭の中でたどった。うまく読めるか分からない。声が震えるかもしれない。でも、昨夜書いた言葉は、本当のことだった。本当のことなら、どこかに届くはずだと思った。
三時間目の休み時間に、黒瀬くんが「準備、終わってる」と言いに来た。
黒瀬くんは昨日の放課後、学校新聞の号外を一枚作っていた。ひみつ図書室の歴史と、卒業文集から集めた言葉を並べたものだ。
内容を確認したとき、しおりは驚いた。黒瀬くんの文章は、事実を並べるだけじゃなくて、その事実が何を意味するかをちゃんと書いていた。
「黒瀬くん、うまいね」
「新聞係だから。でも、材料が良かった」
こはるちゃんは展示用のポスターを描いてきた。ひみつ図書室の内側を描いた絵で、だいだい色のカーテンと、本棚と、テーブルの上のページが、細い線で丁寧に描かれていた。見ていると、あの部屋の空気がそのまま伝わってくる気がした。
「こはるちゃん、ありがとう」
「うまく描けたか分からないけど。描きながら、この部屋のこと、なくしたくないなって思ってた」
小野寺さんは飾りつけを手伝ってくれていた。ろうかの壁に、卒業文集の言葉を書いた紙を並べて貼っていた。「どうせやるなら、ちゃんとかわいくしないと」と言いながら、紙の間隔を定規で測っていた。小野寺さんがやると、こういうことが丁寧になる。
昼休みになった。
校長先生と朝比奈先生がろうかに来た。
校長先生はろうかに並んだ展示を一枚一枚ゆっくり見た。卒業文集の言葉。こはるちゃんのポスター。黒瀬くんの号外。貸し出しカードに残った名前たち。
朝比奈先生は「これを全部、自分たちで」と少し驚いた様子で言った。
「黒瀬くんと、こはるちゃんと、小野寺さんと、ひなたちゃんと、いっしょに。わたしだけじゃなくて」
しおりは伝えた。
「そうですね」
朝比奈先生はそう言って、展示をまた見た。
校長先生が、一枚の紙の前で止まった。ひみつ図書室の最初の記録のことを書いた紙だった。三十五年前、一人の先生が古い準備室の鍵を開けておいた、という話。
「この先生のことを、どこで知ったんですか?」
校長先生が尋ねた。
「卒業文集の中に、少しだけ書いてありました。名前までは分からなかったけど」
しおりが答えた。
校長先生はその紙をじっと見ていた。
「私が五年生のときの、担任の先生です。その先生が、鍵を開けておいてくれました」
しおりは少し驚いた。
「……そうだったんですね」
「知りませんでした、あなたたちが調べてくれるまで」
校長先生はそう言って、また展示の続きを見た。
しおりが文章を読む番になった。
みんなが並んでいた。校長先生と朝比奈先生と、ひなたとこはるちゃんと小野寺さんと黒瀬くん。それから、ろうかを通りかかった何人かの子が足を止めていた。
しおりは紙を持った。手が少し冷たかった。
ひなたがとなりに来た。何も言わなかった。ただ、しおりのとなりに立った。
しおりは、一度だけ深呼吸した。
読み始めた。
「ひみつ図書室で見つけたもの、と題して、五年二組、森沢しおりが読みます」
声が、思ったより出た。
「ひみつ図書室で見つけたものは、本だけではありませんでした。消された作文のあと、返されなかった本、なくした鍵、白いリボン、卒業文集の言葉。それは全部、誰かがうまく言えなかった気持ちでした」
「わたしは、最初、この部屋を自分だけの場所みたいに思っていました。静かで、誰にも急かされなくて、ここにいると息がしやすかったからです。でも、ひなたちゃんや、こはるちゃんや、小野寺さんや、黒瀬くんや、月島先輩が来て、少しずつ分かりました」
「好きな場所は、ひとりでしまっておくより、誰かと分けた方が、もっと大事な場所になることがあります。だから、わたしは、この部屋を残したいです。昔のままじゃなくてもいいです。名前が変わってもいいです。でも、ここにあった本と、ここに残っていた言葉が、次に来る誰かにも届く場所であってほしいです」
ろうかが静かだった。
足を止めた子たちも、動かなかった。こはるちゃんは胸の前で手を握っていた。小野寺さんは、いつものように何かを言おうとして、でも言わなかった。黒瀬くんはノートを開いていなかった。ただ、しおりの方を見ていた。
しおりは紙を持ち直した。
「わたしは、本が好きです。休み時間も、放課後も、図書室にいることが多いです。教室の声が多すぎて、頭の中が分からなくなるから。本の前にいると落ち着くから。そういう理由で図書室が好きでした」
「今年の春、ひみつ図書室を見つけました。古い準備室の中にある、小さな部屋です。そこには本棚があって、古い本がたくさんあって、しゃべるしおりがいました」
くすっと笑う声が聞こえた。小野寺さんだった。
しおりの手の冷たさが、少しだけ引いた。
「そのしおりは、ページといいます。えらそうで、口うるさくて、でも本当は、この部屋のことをずっと心配している。三十年以上、ひとりでここにいました」
しおりは少し間を置いた。
ページは、展示台の上で動かなかった。金色の房も、ぴんと立っていない。ただ、静かに垂れていた。まるで、自分のことを読まれるのが少し照れくさいみたいだった。
「ひみつ図書室で、いろんな事件がありました。言えなかった夢を隠していた子のこと。鍵をなくした先輩のこと。夜の図書室に一人で本を読みに来ていた子のこと。友だちのことを書き留めたノートを隠した子のこと。全部、違う事件でした。でも、全部に共通していることがありました」
しおりは顔を上げた。
校長先生が、まっすぐこちらを見ていた。
「誰かが、言えなかった気持ちを持っていた。言いたかったのに言えなくて、でも消してしまうこともできなくて、どこかに残ってしまっていた。ひみつ図書室は、そういう気持ちが集まる場所でした。三十年以上前から、ずっと」
声が少し揺れた。でも、止まらなかった。
ここで止まったら、この部屋に残っていた言葉まで、また閉じてしまう気がした。
「わたしも、そういう子でした。教室で声が多すぎて、どこにいればいいか分からなくて、本の前に逃げてきた子でした。でも、ひみつ図書室で、友だちができました。事件を解くうちに、自分の読書好きが誰かの役に立つことを知りました。言えなかった気持ちを、言葉にする練習をしました」
しおりはもう一度、深呼吸した。
紙の上の文字が、少しにじんで見えた。でも、読めた。
「本を読むことは、答えを覚えることじゃないと思います。誰かの言葉を受け取って、自分の言葉で返すことだと思います。ひみつ図書室は、そのための場所でした。しゃべるのが苦手な、おとなしい子が逃げてくる場所じゃなくて、おとなしい子も息ができる場所でした。この場所を、残してほしいと思います。終わります」
しおりは紙を下げた。
ろうかが、少しの間静かだった。
それからひなたが「よかった」と言った。小さな声で。
小野寺さんが拍手をした。こはるちゃんも、黒瀬くんも、続いた。朝比奈先生も。
校長先生は拍手をしなかった。でも、しおりの方を見て、少し目を細めた。それは、いつも遠くを見ているような目じゃなかった。今日は、ちゃんとここを見ていた。
放課後、校長先生に呼ばれた。
しおりとひなた、二人で校長室に入った。
「今日の展示と、森沢さんの文章を受けて、少し考えました」
校長先生は机の上で手を重ねていた。
「古い準備室を完全に取り壊すのは、やめることにしました」
しおりの胸が、ぱっと動いた。
「ただし、今のまま残すことも難しい。床の補修が必要ですし、安全の確認もしなければなりません。工事のスケジュールも、大幅には変えられない」
「では、どうなるんですか?」
しおりが聞いた。
「改修後に、少し形を変えて残します。あの区画の一角を、小さな読書スペースにする。ひみつ図書室、という名前は、あなたたちだけのものとして残していいけれど、学校の施設としては、ひみつ図書コーナー、という形で」
しおりはその言葉をゆっくり受け取った。
「ページは……」
「それは、私には分かりません。ただ、本棚は残ります。本も残ります。場所が残れば、残るものがあるかもしれない」
ひなたが「ありがとうございます」と言った。
しおりも「ありがとうございます」と言った。
校長先生は少し笑った。
「あなたたちが見つけたものは、ただの謎ではなかったのでしょう。あの先生に、お礼を言いたい気持ちです。三十五年前の」
その日の夕方、最後にひみつ図書室へ行った。
しおり、ひなた、黒瀬くん、小野寺さん、こはるちゃんの五人で、引き戸を開けた。
だいだい色のカーテンが、夕方の光を滲ませていた。本棚が静かに並んでいた。テーブルの上に、ページがいた。
いつもより、房がしっかり立っていた。
「ページ、校長先生が、場所を残してくれることになりました」
しおりは伝えた。
ページはしばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと文字が浮かんだ。
『知っておる』
「よかった」
『読書係が、ちゃんと言葉を届けたからじゃ』
「みんながいたから、できたんです」
『それも分かっておる』
ひなたが「ページ、これからも会えるよね」と聞いた。
ページは少しの間、何も書かなかった。
金色の房が、ゆっくり一度揺れた。
『わしがどうなるかは、わしにも分からぬ。ただ、本があれば、言葉がある。言葉があれば、わしのようなものは生まれる。また生まれるかもしれぬし、ここにいられるかもしれぬ』
「はっきり言ってよ」
ひなたが言った。
『突撃係は、せっかちじゃ』
「だってー」
『読書係』
ページがしおりに向けて文字を出した。
しおりは少し前に進んだ。
『読書係……いや、しおり。おぬしはもう、立派な名探偵じゃ』
しおりは、その言葉を受け取った。
名前で呼ばれたのは、初めてだった。
「名探偵じゃなくていいよ。わたしは、ちゃんと読む係でいたい」
ページの房が、すっと立った。それから、ゆっくり揺れた。それはきっと、笑っている形だとしおりは思った。ページが笑うとき、房がそういう動きをする。最近、分かるようになってきた。
ひなたが「じゃあ、あたしは突撃係ね!」と言った。
「それはずっとそうだよ」
黒瀬くんがそう言うと、ひなたが頬をふくらませた。
「黒瀬、うるさい」
「事実じゃないか」
小野寺さんが「二人ともうるさい」と言った。
こはるちゃんがくすくす笑った。
笑い声が、ひみつ図書室の中に小さく広がった。
それが静かになるのを待っていたみたいに、ページの金色の房が、ゆっくり動いた。
『しおり』
ページが、もう一度しおりに文字を向けた。
今度は、みんなも何も言わなかった。
『この部屋は、形を変える。わしがその先にいるかどうかは、まだ分からぬ』
「……うん」
『じゃが、おぬしはもう、ここで見つけた言葉を読める。言えなかった気持ちを、なかったことにせずにいられる』
しおりは、ページを見た。
古い革のしおり。金色の房。顔も声もないのに、いつの間にか、しおりにはページの機嫌が分かるようになっていた。怒っているとき。得意そうなとき。少しさみしそうなとき。
最初に会ったとき、ページは「おぬしたちが来るのを、待っておった」と書いた。
今なら、その意味が少し分かる気がした。
ページは、ただ誰かが部屋を見つけるのを待っていたのではない。
ここに残った言葉を、次に渡してくれる誰かを待っていたのだ。
「ページ」
『なんじゃ』
「わたし、忘れません。ここにあった本のことも、ここに来た子たちのことも、ページが教えてくれた言葉も」
ページの房が、ゆっくり下がった。
『忘れぬだけでは足りぬ』
「え?」
『読むのじゃ。そして、必要なときには、誰かに渡すのじゃ。それが、読書係の仕事じゃ』
しおりは、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
「……はい」
それは、返事というより、約束だった。
ページはそれ以上、何も書かなかった。
でも、テーブルの上に置かれた古いしおりは、少しだけ軽くなったように見えた。ずっと一人で守ってきたものを、ようやく誰かに預けられたみたいに。
夕方の光の中で、しおりはひみつ図書室を見渡した。
本棚。古い本。だいだい色のカーテン。丸い木のテーブル。金色の房を揺らすページ。
夏休みが来れば、この部屋は一度閉じられる。工事が終われば、形が変わるかもしれない。ページがどうなるかは、ページにも分からないと言った。
でも今日、ここにいる。みんなで、ここにいる。
今日のことは、消えない。ページが薄れても、部屋が変わっても、今日みんなでここにいたことは、しおりの中に残る。
本を読むことは、誰かの言葉を受け取って、自分の言葉で返すことだ。
しおりは今日、初めて大勢の前で言葉を届けた。怖かったけれど、届いた。
それが、しおりの中で、何かが変わった瞬間だった。
逃げてくるだけだった場所が、誰かに言葉を渡せる場所になった気がした。
ひなたが「帰ろう」と言った。
しおりは「うん」と答えた。
引き戸を出るとき、しおりは一度だけ振り返った。
(おしまい)
七月の初めの、風が少しある日で、ろうかの窓から差し込む光が床に長く伸びていた。
しおりは朝から、胃のあたりがずっとざわざわしていた。朝ごはんをいつもより少ししか食べられなくて、お母さんに「顔色悪いよ」と言われた。大丈夫、と答えたけれど、大丈夫かどうかは自分でも分からなかった。
登校すると、ひなたが昇降口で待っていた。
「しおり、来た」
「うん」
「緊張してる?」
「してる」
「そっか」とひなたは言った。それだけだった。「大丈夫だよ」とも「頑張って」とも言わなかった。ただ、しおりのとなりに並んで、いっしょにろうかを歩いた。
それで、少し楽になった。
展示は、昼休みに行うことになっていた。
場所は、ひみつ図書室の前のろうかだ。狭いけれど、校長先生と朝比奈先生に来てもらうだけならじゅうぶんだった。
午前中の授業の間、しおりは何度も書いた文章を頭の中でたどった。うまく読めるか分からない。声が震えるかもしれない。でも、昨夜書いた言葉は、本当のことだった。本当のことなら、どこかに届くはずだと思った。
三時間目の休み時間に、黒瀬くんが「準備、終わってる」と言いに来た。
黒瀬くんは昨日の放課後、学校新聞の号外を一枚作っていた。ひみつ図書室の歴史と、卒業文集から集めた言葉を並べたものだ。
内容を確認したとき、しおりは驚いた。黒瀬くんの文章は、事実を並べるだけじゃなくて、その事実が何を意味するかをちゃんと書いていた。
「黒瀬くん、うまいね」
「新聞係だから。でも、材料が良かった」
こはるちゃんは展示用のポスターを描いてきた。ひみつ図書室の内側を描いた絵で、だいだい色のカーテンと、本棚と、テーブルの上のページが、細い線で丁寧に描かれていた。見ていると、あの部屋の空気がそのまま伝わってくる気がした。
「こはるちゃん、ありがとう」
「うまく描けたか分からないけど。描きながら、この部屋のこと、なくしたくないなって思ってた」
小野寺さんは飾りつけを手伝ってくれていた。ろうかの壁に、卒業文集の言葉を書いた紙を並べて貼っていた。「どうせやるなら、ちゃんとかわいくしないと」と言いながら、紙の間隔を定規で測っていた。小野寺さんがやると、こういうことが丁寧になる。
昼休みになった。
校長先生と朝比奈先生がろうかに来た。
校長先生はろうかに並んだ展示を一枚一枚ゆっくり見た。卒業文集の言葉。こはるちゃんのポスター。黒瀬くんの号外。貸し出しカードに残った名前たち。
朝比奈先生は「これを全部、自分たちで」と少し驚いた様子で言った。
「黒瀬くんと、こはるちゃんと、小野寺さんと、ひなたちゃんと、いっしょに。わたしだけじゃなくて」
しおりは伝えた。
「そうですね」
朝比奈先生はそう言って、展示をまた見た。
校長先生が、一枚の紙の前で止まった。ひみつ図書室の最初の記録のことを書いた紙だった。三十五年前、一人の先生が古い準備室の鍵を開けておいた、という話。
「この先生のことを、どこで知ったんですか?」
校長先生が尋ねた。
「卒業文集の中に、少しだけ書いてありました。名前までは分からなかったけど」
しおりが答えた。
校長先生はその紙をじっと見ていた。
「私が五年生のときの、担任の先生です。その先生が、鍵を開けておいてくれました」
しおりは少し驚いた。
「……そうだったんですね」
「知りませんでした、あなたたちが調べてくれるまで」
校長先生はそう言って、また展示の続きを見た。
しおりが文章を読む番になった。
みんなが並んでいた。校長先生と朝比奈先生と、ひなたとこはるちゃんと小野寺さんと黒瀬くん。それから、ろうかを通りかかった何人かの子が足を止めていた。
しおりは紙を持った。手が少し冷たかった。
ひなたがとなりに来た。何も言わなかった。ただ、しおりのとなりに立った。
しおりは、一度だけ深呼吸した。
読み始めた。
「ひみつ図書室で見つけたもの、と題して、五年二組、森沢しおりが読みます」
声が、思ったより出た。
「ひみつ図書室で見つけたものは、本だけではありませんでした。消された作文のあと、返されなかった本、なくした鍵、白いリボン、卒業文集の言葉。それは全部、誰かがうまく言えなかった気持ちでした」
「わたしは、最初、この部屋を自分だけの場所みたいに思っていました。静かで、誰にも急かされなくて、ここにいると息がしやすかったからです。でも、ひなたちゃんや、こはるちゃんや、小野寺さんや、黒瀬くんや、月島先輩が来て、少しずつ分かりました」
「好きな場所は、ひとりでしまっておくより、誰かと分けた方が、もっと大事な場所になることがあります。だから、わたしは、この部屋を残したいです。昔のままじゃなくてもいいです。名前が変わってもいいです。でも、ここにあった本と、ここに残っていた言葉が、次に来る誰かにも届く場所であってほしいです」
ろうかが静かだった。
足を止めた子たちも、動かなかった。こはるちゃんは胸の前で手を握っていた。小野寺さんは、いつものように何かを言おうとして、でも言わなかった。黒瀬くんはノートを開いていなかった。ただ、しおりの方を見ていた。
しおりは紙を持ち直した。
「わたしは、本が好きです。休み時間も、放課後も、図書室にいることが多いです。教室の声が多すぎて、頭の中が分からなくなるから。本の前にいると落ち着くから。そういう理由で図書室が好きでした」
「今年の春、ひみつ図書室を見つけました。古い準備室の中にある、小さな部屋です。そこには本棚があって、古い本がたくさんあって、しゃべるしおりがいました」
くすっと笑う声が聞こえた。小野寺さんだった。
しおりの手の冷たさが、少しだけ引いた。
「そのしおりは、ページといいます。えらそうで、口うるさくて、でも本当は、この部屋のことをずっと心配している。三十年以上、ひとりでここにいました」
しおりは少し間を置いた。
ページは、展示台の上で動かなかった。金色の房も、ぴんと立っていない。ただ、静かに垂れていた。まるで、自分のことを読まれるのが少し照れくさいみたいだった。
「ひみつ図書室で、いろんな事件がありました。言えなかった夢を隠していた子のこと。鍵をなくした先輩のこと。夜の図書室に一人で本を読みに来ていた子のこと。友だちのことを書き留めたノートを隠した子のこと。全部、違う事件でした。でも、全部に共通していることがありました」
しおりは顔を上げた。
校長先生が、まっすぐこちらを見ていた。
「誰かが、言えなかった気持ちを持っていた。言いたかったのに言えなくて、でも消してしまうこともできなくて、どこかに残ってしまっていた。ひみつ図書室は、そういう気持ちが集まる場所でした。三十年以上前から、ずっと」
声が少し揺れた。でも、止まらなかった。
ここで止まったら、この部屋に残っていた言葉まで、また閉じてしまう気がした。
「わたしも、そういう子でした。教室で声が多すぎて、どこにいればいいか分からなくて、本の前に逃げてきた子でした。でも、ひみつ図書室で、友だちができました。事件を解くうちに、自分の読書好きが誰かの役に立つことを知りました。言えなかった気持ちを、言葉にする練習をしました」
しおりはもう一度、深呼吸した。
紙の上の文字が、少しにじんで見えた。でも、読めた。
「本を読むことは、答えを覚えることじゃないと思います。誰かの言葉を受け取って、自分の言葉で返すことだと思います。ひみつ図書室は、そのための場所でした。しゃべるのが苦手な、おとなしい子が逃げてくる場所じゃなくて、おとなしい子も息ができる場所でした。この場所を、残してほしいと思います。終わります」
しおりは紙を下げた。
ろうかが、少しの間静かだった。
それからひなたが「よかった」と言った。小さな声で。
小野寺さんが拍手をした。こはるちゃんも、黒瀬くんも、続いた。朝比奈先生も。
校長先生は拍手をしなかった。でも、しおりの方を見て、少し目を細めた。それは、いつも遠くを見ているような目じゃなかった。今日は、ちゃんとここを見ていた。
放課後、校長先生に呼ばれた。
しおりとひなた、二人で校長室に入った。
「今日の展示と、森沢さんの文章を受けて、少し考えました」
校長先生は机の上で手を重ねていた。
「古い準備室を完全に取り壊すのは、やめることにしました」
しおりの胸が、ぱっと動いた。
「ただし、今のまま残すことも難しい。床の補修が必要ですし、安全の確認もしなければなりません。工事のスケジュールも、大幅には変えられない」
「では、どうなるんですか?」
しおりが聞いた。
「改修後に、少し形を変えて残します。あの区画の一角を、小さな読書スペースにする。ひみつ図書室、という名前は、あなたたちだけのものとして残していいけれど、学校の施設としては、ひみつ図書コーナー、という形で」
しおりはその言葉をゆっくり受け取った。
「ページは……」
「それは、私には分かりません。ただ、本棚は残ります。本も残ります。場所が残れば、残るものがあるかもしれない」
ひなたが「ありがとうございます」と言った。
しおりも「ありがとうございます」と言った。
校長先生は少し笑った。
「あなたたちが見つけたものは、ただの謎ではなかったのでしょう。あの先生に、お礼を言いたい気持ちです。三十五年前の」
その日の夕方、最後にひみつ図書室へ行った。
しおり、ひなた、黒瀬くん、小野寺さん、こはるちゃんの五人で、引き戸を開けた。
だいだい色のカーテンが、夕方の光を滲ませていた。本棚が静かに並んでいた。テーブルの上に、ページがいた。
いつもより、房がしっかり立っていた。
「ページ、校長先生が、場所を残してくれることになりました」
しおりは伝えた。
ページはしばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと文字が浮かんだ。
『知っておる』
「よかった」
『読書係が、ちゃんと言葉を届けたからじゃ』
「みんながいたから、できたんです」
『それも分かっておる』
ひなたが「ページ、これからも会えるよね」と聞いた。
ページは少しの間、何も書かなかった。
金色の房が、ゆっくり一度揺れた。
『わしがどうなるかは、わしにも分からぬ。ただ、本があれば、言葉がある。言葉があれば、わしのようなものは生まれる。また生まれるかもしれぬし、ここにいられるかもしれぬ』
「はっきり言ってよ」
ひなたが言った。
『突撃係は、せっかちじゃ』
「だってー」
『読書係』
ページがしおりに向けて文字を出した。
しおりは少し前に進んだ。
『読書係……いや、しおり。おぬしはもう、立派な名探偵じゃ』
しおりは、その言葉を受け取った。
名前で呼ばれたのは、初めてだった。
「名探偵じゃなくていいよ。わたしは、ちゃんと読む係でいたい」
ページの房が、すっと立った。それから、ゆっくり揺れた。それはきっと、笑っている形だとしおりは思った。ページが笑うとき、房がそういう動きをする。最近、分かるようになってきた。
ひなたが「じゃあ、あたしは突撃係ね!」と言った。
「それはずっとそうだよ」
黒瀬くんがそう言うと、ひなたが頬をふくらませた。
「黒瀬、うるさい」
「事実じゃないか」
小野寺さんが「二人ともうるさい」と言った。
こはるちゃんがくすくす笑った。
笑い声が、ひみつ図書室の中に小さく広がった。
それが静かになるのを待っていたみたいに、ページの金色の房が、ゆっくり動いた。
『しおり』
ページが、もう一度しおりに文字を向けた。
今度は、みんなも何も言わなかった。
『この部屋は、形を変える。わしがその先にいるかどうかは、まだ分からぬ』
「……うん」
『じゃが、おぬしはもう、ここで見つけた言葉を読める。言えなかった気持ちを、なかったことにせずにいられる』
しおりは、ページを見た。
古い革のしおり。金色の房。顔も声もないのに、いつの間にか、しおりにはページの機嫌が分かるようになっていた。怒っているとき。得意そうなとき。少しさみしそうなとき。
最初に会ったとき、ページは「おぬしたちが来るのを、待っておった」と書いた。
今なら、その意味が少し分かる気がした。
ページは、ただ誰かが部屋を見つけるのを待っていたのではない。
ここに残った言葉を、次に渡してくれる誰かを待っていたのだ。
「ページ」
『なんじゃ』
「わたし、忘れません。ここにあった本のことも、ここに来た子たちのことも、ページが教えてくれた言葉も」
ページの房が、ゆっくり下がった。
『忘れぬだけでは足りぬ』
「え?」
『読むのじゃ。そして、必要なときには、誰かに渡すのじゃ。それが、読書係の仕事じゃ』
しおりは、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
「……はい」
それは、返事というより、約束だった。
ページはそれ以上、何も書かなかった。
でも、テーブルの上に置かれた古いしおりは、少しだけ軽くなったように見えた。ずっと一人で守ってきたものを、ようやく誰かに預けられたみたいに。
夕方の光の中で、しおりはひみつ図書室を見渡した。
本棚。古い本。だいだい色のカーテン。丸い木のテーブル。金色の房を揺らすページ。
夏休みが来れば、この部屋は一度閉じられる。工事が終われば、形が変わるかもしれない。ページがどうなるかは、ページにも分からないと言った。
でも今日、ここにいる。みんなで、ここにいる。
今日のことは、消えない。ページが薄れても、部屋が変わっても、今日みんなでここにいたことは、しおりの中に残る。
本を読むことは、誰かの言葉を受け取って、自分の言葉で返すことだ。
しおりは今日、初めて大勢の前で言葉を届けた。怖かったけれど、届いた。
それが、しおりの中で、何かが変わった瞬間だった。
逃げてくるだけだった場所が、誰かに言葉を渡せる場所になった気がした。
ひなたが「帰ろう」と言った。
しおりは「うん」と答えた。
引き戸を出るとき、しおりは一度だけ振り返った。
(おしまい)


