『身代わり結婚』いただきます!不浄の辺境伯様は、どうやら私の◯◯がお気に召した御様子です。
 その姿が目に入った瞬間、トカゲみたいだ、とまず思った。

 全身はざらざらした質感の緑色の皮膚に覆われ、体の両側から生えているのは腕ではなくコウモリのように薄い翼。
 のっぺりとした平坦な顔で、真っ黒で大きな瞳だけがギラギラと光っている。

 ひ、とマリアベルお嬢様が短く悲鳴を上げた。

「……っ!」

 その途端、トカゲの魔物がぐるりと頭を回転させてこちらを見た。
 ばっちり、目が合った。

「いやああああッ!!」

「――下がれッ! ベル奥様もだ!!」

 口から悲鳴がこぼれて止まらなくなったお嬢様を、私はとっさに引っ張った。
 真っ青なデズモンドが私ごとお嬢様を抱き締め、力ずくで後退させる。

 デズモンドの腕の隙間からピエールさんに目をやれば、ピエールさんの手に巨大なシャベルが握られているのに気がついた。

「どぅりゃあああああッ!!」

 ピエールさんがシャベルを大きく振りかぶる。

「頑張って、お客様っ! シャベルのお代わりならまだたくさんありますからねっ!」

 横薙ぎにシャベルでぶん殴られ、魔物が商品棚に激突する。
 会計をしてくれたお姉さんが、商品らしきシャベルを床にどんどん重ねていけば、ピエールさんが血走った目でお姉さんを振り返った。

「剣はないのかよ、剣はっ!?」

「うちは日用品店ですよ、ドロッパゲが切れるような剣があるわけないでしょっ!? せいぜい包丁、どっちがいい!?」

「ならシャベル一択だあああっ!! うおおおおおッ!!」

 頭を振って起き上がりかけた魔物を、ピエールさんが再び力任せに殴打する。物が倒れる凄まじい音が店内に響き渡った。

(あれが……、ドロッパゲ?)

 ぞわりと肌が粟立って、私は自分の体を抱き締める。
 足がガクガクと震えて立っていられない。痛いほどに腕をつかまれ、私ははっとして振り返る。

「ベルさん。マリアベル様を連れて、今すぐにここから逃げてくださいっ」

「……に、逃げるって。言われても」

 ピエールさんを置いてはいかれない。

 頭が混乱してうまく考えがまとまらず、私はただ首を横に振った。
 私に抱き着いて泣くお嬢様の涙が、服に染みて濡れる感触がする。その温かさに、やっと私は我に返った。

(入口は……壁が壊れてる。ドロッパゲは倒れているし、急いで横を走り抜ければ脱出できそう)

 すばやく店内に目を走らせ、決心する。
 デズモンドにお嬢様を託し、二人には辺境騎士団を呼んでもらおう。

「……っ、ベルさん!?」

 お嬢様をデズモンドの方へと押しやった。
 そのまま床に置いてあるシャベルに手を伸ばし、見様見真似で構える。
 店員のお姉さんも同じく臨戦態勢で、シャベルを傾けニッと口角を上げた。

「ドロッパゲがこっちに来たら、協力して滅多打ちにしてやりましょう」

「が、頑張ります。……デズモンドさん、お嬢様をお願いします。助けを、助けを呼んできて!」

「駄目です、ベルさん! ここに残って戦うべきは、あなたじゃなく僕の方だ!」

 私の手からシャベルを奪い取り、デズモンドが前に立つ。

「ど、どうかマリアベル様を。行ってください――……さあ!!」

「……っ」

 逡巡している暇はない。

 私はマリアベルお嬢様の手を引っつかみ、起き上がろうともがくドロッパゲの様子を確認する。
 深呼吸して、一気に横を走り抜けた。

「なっ!? ベル奥さ――……しまっ!?」
「マリアベルお嬢様、走って!!」

 華奢なお嬢様の背中を押して、私たちは店外へと飛び出していく。
 店の外には人が集まり始めていて、「逃げて!」と必死で叫んだ。

「騎士団を呼んできて! 中にドロッパゲがいるの!!」

「――伏せろ、ベル奥様ッ!!」

 ピエールさんのひび割れた声が追ってきて、私は反射的に地面に倒れ込んだ。
 お嬢様の背中を押さえて身を伏せれば、うなじがチリッと粟立った。突風に髪があおられて、すぐ側を何かが通り過ぎていったことを知る。

「ま、まずいぞ! ドロッパゲが外に出ちまったっ」
「おい急げっ、屋内に避難するんだ! ドロッパゲが飛び回れない場所に逃げろっ!」

(……あ……!)

 街の人たちのせわしない声を聞き、私はやっと己の失態に気がついた。

 そうだ。
 ドロッパゲは、障害物の多い場所では機動力が落ちて鈍重な魔物に成り下がる。

 ピエールさんがせっかく、教えてくれたのに……!

「マリアベルお嬢様、一人で立って! すぐに店の中に戻って!!」

「だ、だめ……。たて、ない……わ」

 私たちの頭上をドロッパゲが飛んでいる。

 あっちへふらふら、こっちへふらふら。
 羽ばたきを止めて落ちかけたかと思えば、すぐにグンと力強く上昇する。行っては戻り、離れては戻るを繰り返す。

 ――その間もドロッパゲの真っ暗な目だけは、ずっと私たちの方に固定されている。

「……っ、お嬢様、なら絶対にここから動かないで!」

「! いやッ、どこへ行くのベル!?」

 飛び起きるみたいに立ち上がった私に、お嬢様は悲鳴を上げてすがりつく。
 私は唇を噛み締め、彼女の手を取った。腰のベルトへと誘導し、プレゼントしたばかりの魔物鈴に触れさせる。

「……マリアベルお嬢様なら、大丈夫。この鈴が絶対に守ってくれますから。ね?」

 チリンチリン、という場違いに平和な音を聞きながら、私は口元に無理やり笑みを形作った。
 お嬢様の頬に流れた涙をそっとぬぐい、覚悟を決める。

(……もう、お嬢様を振り返ってはだめ)

 そう自分に言い聞かせ、今度こそ立ち上がる。
 頭上のドロッパゲに大きく手を振り、わああッ、とお腹の底から声を出す。真っ暗な瞳としっかり視線を絡ませてから、通りの向かいにある店を目指して駆け出した。

(……やっぱりっ)

 ヒュウッと風が巻き起こる音がする。
 粘りつくような視線が私を追ってきているのを感じる。

 予想通り、ドロッパゲは私ひとりに狙いを定めたのだ。

(逃げる相手を、真っ先に狙うんだ。だからドロッパゲは、私たちを追って店の外に出ちゃったんだ……!)

 死に物狂いで、走る。

 あと少し。
 あともう少しで、店の中に逃げ込める――!

「ベルッ! いやああああッ!!」

 お嬢様の悲鳴に、ぎゅっと目をつぶる。

 きっと今、私の真上にはドロッパゲが――……

「――ベル。しゃがみ込め」

 頭上から低く落ち着いた声が降ってきて、とっさに私はつんのめるようにひざまずいた。真っ白な頭のままで、言われた通り背中を曲げて小さく丸まる。

「ようし、いい子だ。――そして終わりだ、ドロッパゲ!」


 ――ザシュッ!!


 風を切る鋭い音のすぐ後に、ゴトンと何かが落ちる音がした。

 その瞬間、周囲にわっと歓声が弾ける。

「領主様だ! 領主様が一撃で仕留めなさった!!」
「屋根の上から降ってきなさったぞ!」
「ははッ、まさかドロッパゲが頭上を取られるとはなぁっ!」

 倒れ込んだときに膝を擦りむいたのか、じんわり痛い。
 うずくまって震えるばかりの私を、力強い腕が抱き上げて立たせてくれる。

「ベル。遅くなってすまなかった」

「……っ」

 怖かったろう、と優しく頭を撫でられて。

 こらえていた涙が一気にあふれる。
 包み込むように抱き締められ、安堵で胸がいっぱいになる。

「よしよし。もう大丈夫だから、泣くな泣くな」

「……む、りっ。とまんな、ふええっ」

「そうか、ならば泣け泣け。俺の側なら安全だ。安心して思う存分泣くといい」

 アレクシス様の、温かな腕の中。

 あやすみたいに背中を叩かれて、私は声を上げてわんわん泣いた。
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