執愛隠した策士な御曹司は偽装婚約で激情露わに囲い堕とす
* * *
窓の外から、春らしい眩しい日差しが差し込んでいる。
その日、出社した奏は、新たな協業案件として投資戦略室から上がってきたシンガポール系ソブリンファンドの調査報告書に目を通していた。
ビジネスパートナーとしてふさわしいかどうかをデータから分析しつつも、頭の隅で千花のことを考える。
(お母さんが危篤になったときはどうなるかと思ったけど、何とか持ち直してよかった。うちの実家の伝手で心臓血管外科の権威の病院に転院できそうだし、早く手術ができればいいな)
奏にとって喜ばしいのは、それだけではない。
母親の病院に同行して以来、千花の態度が目に見えて軟化したのだ。あの日、彼女はたった一人の家族を失うかもしれない状況にひどく動揺していた。
他に頼れる親族がいないこと、娘である自分だけで母親を背負わなくてはならない重圧や心細さを吐露した千花に対し、奏は「自分が力になるから、何も心配しなくていい」と告げた。
どうやらここ最近の彼女は通訳兼婚約者が期間限定であるのを鑑み、なるべくこちらに依存しないよう心の距離を置こうとしていたらしい。奏に復縁を諦めさせるためにわざとデザイナーとの仲をアピールしていたのだと聞いたとき、奏は二人の関係が自分が心配していたものではないことを悟り、深く安堵した。
(千花さんは俺との格差に引け目を感じて身を引こうとしていたようだけど、そんなのは些末な問題だ。俺は絶対に彼女を諦める気はないし、何とかしてもう一度恋人になりたい)
かつて金銭的な問題で別れを選択した過去がネックになっていたという千花だが、こちらが差し出す厚意を素直に受け入れる気になったのか、奏の前でよく笑うようにになった。
その態度からは、再会して以来ずっとあった見えない壁が消えていることが如実に感じられ、ぐっと気持ちを惹きつけられた奏がキスをしても千花は拒まなかった。
(まるで、恋愛の初めの部分をやり直しているみたいだ。少しずつ歩み寄って関係を深めていくのはもどかしいけど、すごく楽しい)
ここ数日は〝婚約者のふり〟ではなくほぼプライベートで出掛けていて、そのたびに奏は千花にキスをしている。
彼女がそれを拒まず、かすかに頬を染めて受け入れる様子を目の当たりにすると、奏の心は疼いた。できれば一足飛びに関係を深めたいところだが、焦りは禁物だ。
確実に千花の信頼を得て、本当の恋人になりたい。二度と別れなくて済むように、盤石な関係を築きたい――それが奏の願いだった。
そのときオフィスのドアがノックされ、秘書の奥村が奏に向かって言う。
「社長、そろそろ本社に行くお時間です」
「ああ」
早瀬ホールディングスでは月に一度の頻度でグループ経営戦略会議が開催されており、本社の上級役員の他、そのときの議題によって主要子会社の代表や経営企画部のメンバー、財務や法務、M&A、IRの責任者など、十数人が招集される。
早瀬インベストメント・ストラテジーは自社の事業の他にホールディングスのM&A戦略の提案を行っているため、代表である奏は毎回参加していた。
パソコンを閉じて出掛ける準備をしながら、奏はじっと考える。
(今日の会議は、もしかしたら少々面倒なことになるかもしれないな。……聡真の動きが気にかかる)
従兄の聡真は本社のグループ戦略本部に在籍しており、M&Aを統括する部署であることから、早瀬インベストメント・ストラテジーと担当領域が被っている。
奏が代表に就任して以降、彼はこちらが本社に稟議を上げるたびに横槍を入れ、〝ガバナンスの強化〟と言う名目で意思決定を鈍らせることが続いていた。重箱の隅をつつくように細かい確認を繰り返し、そのいちいちに返答しなければならないため、スピード感が失われている。
奥村と共に車で虎ノ門にある本社に向かいながら、奏は後部座席で今日の会議の報告内容をチェックした。社屋に入ると、顔見知りの社員たちが「お疲れさまです」と声をかけてくる。それに応えながら廊下を歩き、奏が上階にある会議室に向かうと、既に中にいたメンバーの何人かがこちらを見る。
(何だ? 雰囲気が……)
室内には聡真とその弟である直樹の姿もあり、こちらを遠巻きにして何やらヒソヒソと話しているのがわかった。
釈然としないまま会議に臨んだ奏は、それから約一時間後に部屋を出た。そして先ほどのやり取りを、脳内で反芻する。
(もしかしたら聡真が絡んでくるかもしれないと思っていたが、案の定だな。投資先の一部の不調を、あたかも重大問題のように膨らませて話すのは悪質だ)
投資は右肩上がりの業績が約束されているわけではなく、長い目で見ることが必要だ。
それがわかっていながら、聡真や直樹がことさら奏が無能であるという流れに持っていこうとするのは初めてではなく、心底うんざりする。
とはいえ業績に問題がないのはデータを見れば一目瞭然であり、印象操作だけで判断するメンバーはいないだろう。そう思いつつも、何となく会議の雰囲気がよそよそしく感じたのは事実で、奏は小さく息をついた。
そのとき「早瀬さん」という声が聞こえ、顔を上げるとそこには二十代半ばの青年が立っている。奏は眉を上げ、彼に呼びかけた。
「石田くん、久しぶり」
「ご無沙汰しています。あ、もう〝さん〟付けではなく、〝早瀬社長〟と呼ぶべきですね。すみません、うっかりしていて」
彼――石田孝之は、奏が本社勤務をしていたときの同僚だ。
若くして経営企画部に抜擢された優秀な人物で、かつては奏の右腕的存在だった。彼が周囲の様子を窺いながら「少しいいですか」と言ってきて、頷いた奏は人気のない廊下に向かう。
すると石田が、声を抑えつつ口を開いた。
「最近社内で嫌な噂を耳にするようになって、早瀬さんに連絡をしようか迷っていたんです。今日グループ経営戦略会議があると聞き、終わるのを待っていました」
「噂?」
奏が問い返したところ、彼が躊躇いがちに頷く。
「はい。――早瀬さんが子会社の代表に就任したのは数ヵ月前ですが、その能力を疑問視する話が聞こえてきているんです。『早瀬インベストメント・ストラテジーは資料が荒く、本社が目を光らせていなければ取引先との間で問題が起きかねない』とか、『勢い先行で統制が甘い』というもので、噂の中心になっているのは本社のグループ戦略本部のようです」
それを聞いた奏は、小さく息をついて答える。
「グループ戦略本部は、うちが上げた稟議に差し戻しを繰り返している。本社側がわざと細かい確認を増やしている状態だけど、傍から見れば差し戻し件数の多さや修正依頼の頻発、それに承認に時間がかかる部分があるのは事実だから、『早瀬インベストメント・ストラテジーは勢い先行で統制が甘い』という評価になってもおかしくないだろうな」
「それだけじゃないんです。グループ戦略本部は経営企画部との会議で、早瀬さんが手掛けた案件企業の財務面や規制リスク、ESG面の懸念ばかりを何度も指摘し、あたかも『早瀬インベストメント・ストラテジーの案件は、本社のレビューなしでは危ない』という印象操作を行っています。早瀬さん本人についても、『これまでの成功は優秀な部下のおかげで、本人の目利きではないのではないか』とまで言ってるんです。本当に許せないですよ」
窓の外から、春らしい眩しい日差しが差し込んでいる。
その日、出社した奏は、新たな協業案件として投資戦略室から上がってきたシンガポール系ソブリンファンドの調査報告書に目を通していた。
ビジネスパートナーとしてふさわしいかどうかをデータから分析しつつも、頭の隅で千花のことを考える。
(お母さんが危篤になったときはどうなるかと思ったけど、何とか持ち直してよかった。うちの実家の伝手で心臓血管外科の権威の病院に転院できそうだし、早く手術ができればいいな)
奏にとって喜ばしいのは、それだけではない。
母親の病院に同行して以来、千花の態度が目に見えて軟化したのだ。あの日、彼女はたった一人の家族を失うかもしれない状況にひどく動揺していた。
他に頼れる親族がいないこと、娘である自分だけで母親を背負わなくてはならない重圧や心細さを吐露した千花に対し、奏は「自分が力になるから、何も心配しなくていい」と告げた。
どうやらここ最近の彼女は通訳兼婚約者が期間限定であるのを鑑み、なるべくこちらに依存しないよう心の距離を置こうとしていたらしい。奏に復縁を諦めさせるためにわざとデザイナーとの仲をアピールしていたのだと聞いたとき、奏は二人の関係が自分が心配していたものではないことを悟り、深く安堵した。
(千花さんは俺との格差に引け目を感じて身を引こうとしていたようだけど、そんなのは些末な問題だ。俺は絶対に彼女を諦める気はないし、何とかしてもう一度恋人になりたい)
かつて金銭的な問題で別れを選択した過去がネックになっていたという千花だが、こちらが差し出す厚意を素直に受け入れる気になったのか、奏の前でよく笑うようにになった。
その態度からは、再会して以来ずっとあった見えない壁が消えていることが如実に感じられ、ぐっと気持ちを惹きつけられた奏がキスをしても千花は拒まなかった。
(まるで、恋愛の初めの部分をやり直しているみたいだ。少しずつ歩み寄って関係を深めていくのはもどかしいけど、すごく楽しい)
ここ数日は〝婚約者のふり〟ではなくほぼプライベートで出掛けていて、そのたびに奏は千花にキスをしている。
彼女がそれを拒まず、かすかに頬を染めて受け入れる様子を目の当たりにすると、奏の心は疼いた。できれば一足飛びに関係を深めたいところだが、焦りは禁物だ。
確実に千花の信頼を得て、本当の恋人になりたい。二度と別れなくて済むように、盤石な関係を築きたい――それが奏の願いだった。
そのときオフィスのドアがノックされ、秘書の奥村が奏に向かって言う。
「社長、そろそろ本社に行くお時間です」
「ああ」
早瀬ホールディングスでは月に一度の頻度でグループ経営戦略会議が開催されており、本社の上級役員の他、そのときの議題によって主要子会社の代表や経営企画部のメンバー、財務や法務、M&A、IRの責任者など、十数人が招集される。
早瀬インベストメント・ストラテジーは自社の事業の他にホールディングスのM&A戦略の提案を行っているため、代表である奏は毎回参加していた。
パソコンを閉じて出掛ける準備をしながら、奏はじっと考える。
(今日の会議は、もしかしたら少々面倒なことになるかもしれないな。……聡真の動きが気にかかる)
従兄の聡真は本社のグループ戦略本部に在籍しており、M&Aを統括する部署であることから、早瀬インベストメント・ストラテジーと担当領域が被っている。
奏が代表に就任して以降、彼はこちらが本社に稟議を上げるたびに横槍を入れ、〝ガバナンスの強化〟と言う名目で意思決定を鈍らせることが続いていた。重箱の隅をつつくように細かい確認を繰り返し、そのいちいちに返答しなければならないため、スピード感が失われている。
奥村と共に車で虎ノ門にある本社に向かいながら、奏は後部座席で今日の会議の報告内容をチェックした。社屋に入ると、顔見知りの社員たちが「お疲れさまです」と声をかけてくる。それに応えながら廊下を歩き、奏が上階にある会議室に向かうと、既に中にいたメンバーの何人かがこちらを見る。
(何だ? 雰囲気が……)
室内には聡真とその弟である直樹の姿もあり、こちらを遠巻きにして何やらヒソヒソと話しているのがわかった。
釈然としないまま会議に臨んだ奏は、それから約一時間後に部屋を出た。そして先ほどのやり取りを、脳内で反芻する。
(もしかしたら聡真が絡んでくるかもしれないと思っていたが、案の定だな。投資先の一部の不調を、あたかも重大問題のように膨らませて話すのは悪質だ)
投資は右肩上がりの業績が約束されているわけではなく、長い目で見ることが必要だ。
それがわかっていながら、聡真や直樹がことさら奏が無能であるという流れに持っていこうとするのは初めてではなく、心底うんざりする。
とはいえ業績に問題がないのはデータを見れば一目瞭然であり、印象操作だけで判断するメンバーはいないだろう。そう思いつつも、何となく会議の雰囲気がよそよそしく感じたのは事実で、奏は小さく息をついた。
そのとき「早瀬さん」という声が聞こえ、顔を上げるとそこには二十代半ばの青年が立っている。奏は眉を上げ、彼に呼びかけた。
「石田くん、久しぶり」
「ご無沙汰しています。あ、もう〝さん〟付けではなく、〝早瀬社長〟と呼ぶべきですね。すみません、うっかりしていて」
彼――石田孝之は、奏が本社勤務をしていたときの同僚だ。
若くして経営企画部に抜擢された優秀な人物で、かつては奏の右腕的存在だった。彼が周囲の様子を窺いながら「少しいいですか」と言ってきて、頷いた奏は人気のない廊下に向かう。
すると石田が、声を抑えつつ口を開いた。
「最近社内で嫌な噂を耳にするようになって、早瀬さんに連絡をしようか迷っていたんです。今日グループ経営戦略会議があると聞き、終わるのを待っていました」
「噂?」
奏が問い返したところ、彼が躊躇いがちに頷く。
「はい。――早瀬さんが子会社の代表に就任したのは数ヵ月前ですが、その能力を疑問視する話が聞こえてきているんです。『早瀬インベストメント・ストラテジーは資料が荒く、本社が目を光らせていなければ取引先との間で問題が起きかねない』とか、『勢い先行で統制が甘い』というもので、噂の中心になっているのは本社のグループ戦略本部のようです」
それを聞いた奏は、小さく息をついて答える。
「グループ戦略本部は、うちが上げた稟議に差し戻しを繰り返している。本社側がわざと細かい確認を増やしている状態だけど、傍から見れば差し戻し件数の多さや修正依頼の頻発、それに承認に時間がかかる部分があるのは事実だから、『早瀬インベストメント・ストラテジーは勢い先行で統制が甘い』という評価になってもおかしくないだろうな」
「それだけじゃないんです。グループ戦略本部は経営企画部との会議で、早瀬さんが手掛けた案件企業の財務面や規制リスク、ESG面の懸念ばかりを何度も指摘し、あたかも『早瀬インベストメント・ストラテジーの案件は、本社のレビューなしでは危ない』という印象操作を行っています。早瀬さん本人についても、『これまでの成功は優秀な部下のおかげで、本人の目利きではないのではないか』とまで言ってるんです。本当に許せないですよ」