執愛隠した策士な御曹司は偽装婚約で激情露わに囲い堕とす
* * *
今日は朝から曇り空で、空にはどんよりと重い雲が垂れ込めている。
会社の自分のデスクで共同投資ファンド構想の資料を読み込んでいた奏は、ソファスペースに視線を向けた。この一ヵ月ほど、千花は一日二時間程度この部屋のソファでフランス語の翻訳をしてくれていたが、今はその姿はない。
一昨日に「忙しくなったため、しばらく翻訳の仕事はいい」と連絡して以来、彼女に会っていなかった。その理由を考え、奏は深く息をつく。
(これまで聡真のことは基本的に放置してきたけど、そうも言っていられなくなってきたな。本社で流れているネガティブな噂に加え、俺が自身の恋人を通訳として雇って高額な手当を支給しているという話まで回り始めてる。その目的は、おそらくグループの次期CEOを巡る政治的な思惑からだ)
早瀬ホールディングスの現CEOは伯父だが、創業者の孫という点では聡真と奏は同じ立ち位置だ。
奏がその地位に昇り詰めるためには、グループを総括するにふさわしい揺るぎない実績が必要になる。
(昔は会社経営にまったく興味がなかったが、今は違う。俺は千花さんの傍に立って見劣りしないよう、何としてもグループのCEOになりたい)
いつか自分の出世の邪魔になるであろう従兄たちを追い落とすため、奏は数年前から少しずつ準備をしてきた。
千花の存在を自身の足を引っ張るための材料として取り沙汰されたのだから、それを使うのは今だ。
そう決意し、しばらく自身のオフィスで仕事をした奏は、やがて近くのカフェで休憩をするために外に出る。徒歩で駅の方面に向かおうとした瞬間、ふいに後ろから「早瀬くん」と声をかけられ、驚いて足を止めた。
「あなたは……」
そこにいるのは、大倉怜子だ。
千花の友人である彼女とは、約一ヵ月前にハイブランドのプレス発表会で顔を合わせた。怜子がこちらに歩み寄りながら言った。
「久しぶり。ちょうど早瀬くんに会いに行くところだったの」
彼女に向き直った奏は、「どんなご用ですか」と問いかける。
怜子とは面識があるがそれは大学でよく千花と一緒にいた人物だからであり、直接的な友人ではない。そのため、彼女がなぜ一人で自分に会いに来たか理由がわからず、奏はあらゆる可能性について目まぐるしく考える。
すると怜子が、やや気後れした様子で口を開いた。
「千花について、話したいことがあるの。少しだけ時間をもらってもいいかな」
「このあと予定がありますので、ここで立ち話でよければ」
「その前に、ひとつだけ確認させて。母親の治療費に困っていた彼女に、『フランス語の通訳をしないか』って持ちかけて報酬を支払ってるって聞いたけど、それは本当なの?」
奏が「ええ、まあ」と答えたところ、怜子が重ねて問いかけてくる。
「最近千花の服装がハイブランドものばかりなのは、早瀬くんがプレゼントしたから? 彼女と復縁したい気持ちがあるから、いろいろと力になってるってこと?」
「そうですが、それが何か」
それを聞いた彼女が表情を曇らせ、言いづらそうに「実は」と口を開いた。
「日本に帰国してきてから、千花は原稿の締め切りを連絡もなく破ったり、予定していたブランドの取材をすっぽかして相手を怒らせたりと、やりたい放題なの。どうも早瀬くんとつきあっていることや、オレール・アルヴィエのインタビュアーに指名されたことで、天狗になってるみたい」
「……千花さんが?」
それは自分が知っている千花のイメージとかけ離れていて、奏が眉をひそめてつぶやくと、怜子が頷いて言葉を続ける。
「ええ。彼女、六年前に早瀬くんと別れたときに『価値観が違いすぎる』『やっぱり年下は駄目だ』って、さんざん悪口を言ってたの。それなのにこっちに戻ってきた途端、今のあなたの肩書にコロッと態度を変えて、その恩恵に与ってるでしょ。『大学時代は奏が早瀬ホールディングスの御曹司だなんて知らなかったけど、今の彼は次期CEOを狙える位置にいる』『だから復縁しようと思ってるんだ』って得意げに話していて、それを聞いて私、すごく許せなくなった。早瀬くんが千花に都合よく利用されているように感じて」
彼女は「それに」と言い、こちらを見た。
「千花はあなたに隠れて、デザイナーのオレール・アルヴィエと親密になってる。インタビューをきっかけに距離が近づいて、早瀬くんと会ってないときはいつも彼と一緒にいるみたい。つまり、二股と取られても仕方ない真似をしてるってことだよ。ここ最近の千花の行動があまりにもひどいから、あなたに伝えなきゃと思って、今日はここに来たの」
「――……」
彼女の表情には思い詰めた色があり、本当にこちらを心配して会いに来たという雰囲気を醸し出している。
奏は怜子を見下ろし、確認するように言った。
「なるほど。僕のためを思って、わざわざここまで来てくれたんですね」
「ええ。早瀬くんとはまったく知らない仲じゃないし、千花に騙されているのを知っていながら黙っているのは、すごく申し訳なくて」
彼女が勢い込んでそう告げてきて、奏はそれを見つめながら言葉を続けた。
「でも、おかしいですね。ここ最近の千花さんは、大抵お母さんの病院か自宅にしかいないはずですが」
「えっ?」
「実は彼女のスマホに、位置情報アプリを入れてるんです。それから近頃は何かと物騒ですし、早瀬家の人間と親しくしていることがわかれば不埒なことを考える人間がいないともかぎりませんから、千花さんにボディガードをつけてひそかに身辺警護をしてもらっています。ですから僕は彼女がいつどこにいるか行動のすべてを把握していおり、昨日の時点で大倉さんの言うようにオレール・アルヴィエといつも一緒にいるという報告は上がってきていません」
怜子が唖然として、言葉を失う。奏は淡々と言葉を続けた。
「それに千花さんは自身の仕事に真剣に取り組んでおり、締め切りを破ったり取材をすっぽかすということは絶対にないと断言できます。彼女はフランスでファッションライターとして高い評価を受けていて、今手掛けている仕事はほぼ自力でつかみ取ったものです。つまりあなたの言うことはすべて嘘ということになりますが、わざわざ虚言を吹き込むために僕の元を訪れ、千花さんの評価を失墜させようとする目的は何ですか」
今日は朝から曇り空で、空にはどんよりと重い雲が垂れ込めている。
会社の自分のデスクで共同投資ファンド構想の資料を読み込んでいた奏は、ソファスペースに視線を向けた。この一ヵ月ほど、千花は一日二時間程度この部屋のソファでフランス語の翻訳をしてくれていたが、今はその姿はない。
一昨日に「忙しくなったため、しばらく翻訳の仕事はいい」と連絡して以来、彼女に会っていなかった。その理由を考え、奏は深く息をつく。
(これまで聡真のことは基本的に放置してきたけど、そうも言っていられなくなってきたな。本社で流れているネガティブな噂に加え、俺が自身の恋人を通訳として雇って高額な手当を支給しているという話まで回り始めてる。その目的は、おそらくグループの次期CEOを巡る政治的な思惑からだ)
早瀬ホールディングスの現CEOは伯父だが、創業者の孫という点では聡真と奏は同じ立ち位置だ。
奏がその地位に昇り詰めるためには、グループを総括するにふさわしい揺るぎない実績が必要になる。
(昔は会社経営にまったく興味がなかったが、今は違う。俺は千花さんの傍に立って見劣りしないよう、何としてもグループのCEOになりたい)
いつか自分の出世の邪魔になるであろう従兄たちを追い落とすため、奏は数年前から少しずつ準備をしてきた。
千花の存在を自身の足を引っ張るための材料として取り沙汰されたのだから、それを使うのは今だ。
そう決意し、しばらく自身のオフィスで仕事をした奏は、やがて近くのカフェで休憩をするために外に出る。徒歩で駅の方面に向かおうとした瞬間、ふいに後ろから「早瀬くん」と声をかけられ、驚いて足を止めた。
「あなたは……」
そこにいるのは、大倉怜子だ。
千花の友人である彼女とは、約一ヵ月前にハイブランドのプレス発表会で顔を合わせた。怜子がこちらに歩み寄りながら言った。
「久しぶり。ちょうど早瀬くんに会いに行くところだったの」
彼女に向き直った奏は、「どんなご用ですか」と問いかける。
怜子とは面識があるがそれは大学でよく千花と一緒にいた人物だからであり、直接的な友人ではない。そのため、彼女がなぜ一人で自分に会いに来たか理由がわからず、奏はあらゆる可能性について目まぐるしく考える。
すると怜子が、やや気後れした様子で口を開いた。
「千花について、話したいことがあるの。少しだけ時間をもらってもいいかな」
「このあと予定がありますので、ここで立ち話でよければ」
「その前に、ひとつだけ確認させて。母親の治療費に困っていた彼女に、『フランス語の通訳をしないか』って持ちかけて報酬を支払ってるって聞いたけど、それは本当なの?」
奏が「ええ、まあ」と答えたところ、怜子が重ねて問いかけてくる。
「最近千花の服装がハイブランドものばかりなのは、早瀬くんがプレゼントしたから? 彼女と復縁したい気持ちがあるから、いろいろと力になってるってこと?」
「そうですが、それが何か」
それを聞いた彼女が表情を曇らせ、言いづらそうに「実は」と口を開いた。
「日本に帰国してきてから、千花は原稿の締め切りを連絡もなく破ったり、予定していたブランドの取材をすっぽかして相手を怒らせたりと、やりたい放題なの。どうも早瀬くんとつきあっていることや、オレール・アルヴィエのインタビュアーに指名されたことで、天狗になってるみたい」
「……千花さんが?」
それは自分が知っている千花のイメージとかけ離れていて、奏が眉をひそめてつぶやくと、怜子が頷いて言葉を続ける。
「ええ。彼女、六年前に早瀬くんと別れたときに『価値観が違いすぎる』『やっぱり年下は駄目だ』って、さんざん悪口を言ってたの。それなのにこっちに戻ってきた途端、今のあなたの肩書にコロッと態度を変えて、その恩恵に与ってるでしょ。『大学時代は奏が早瀬ホールディングスの御曹司だなんて知らなかったけど、今の彼は次期CEOを狙える位置にいる』『だから復縁しようと思ってるんだ』って得意げに話していて、それを聞いて私、すごく許せなくなった。早瀬くんが千花に都合よく利用されているように感じて」
彼女は「それに」と言い、こちらを見た。
「千花はあなたに隠れて、デザイナーのオレール・アルヴィエと親密になってる。インタビューをきっかけに距離が近づいて、早瀬くんと会ってないときはいつも彼と一緒にいるみたい。つまり、二股と取られても仕方ない真似をしてるってことだよ。ここ最近の千花の行動があまりにもひどいから、あなたに伝えなきゃと思って、今日はここに来たの」
「――……」
彼女の表情には思い詰めた色があり、本当にこちらを心配して会いに来たという雰囲気を醸し出している。
奏は怜子を見下ろし、確認するように言った。
「なるほど。僕のためを思って、わざわざここまで来てくれたんですね」
「ええ。早瀬くんとはまったく知らない仲じゃないし、千花に騙されているのを知っていながら黙っているのは、すごく申し訳なくて」
彼女が勢い込んでそう告げてきて、奏はそれを見つめながら言葉を続けた。
「でも、おかしいですね。ここ最近の千花さんは、大抵お母さんの病院か自宅にしかいないはずですが」
「えっ?」
「実は彼女のスマホに、位置情報アプリを入れてるんです。それから近頃は何かと物騒ですし、早瀬家の人間と親しくしていることがわかれば不埒なことを考える人間がいないともかぎりませんから、千花さんにボディガードをつけてひそかに身辺警護をしてもらっています。ですから僕は彼女がいつどこにいるか行動のすべてを把握していおり、昨日の時点で大倉さんの言うようにオレール・アルヴィエといつも一緒にいるという報告は上がってきていません」
怜子が唖然として、言葉を失う。奏は淡々と言葉を続けた。
「それに千花さんは自身の仕事に真剣に取り組んでおり、締め切りを破ったり取材をすっぽかすということは絶対にないと断言できます。彼女はフランスでファッションライターとして高い評価を受けていて、今手掛けている仕事はほぼ自力でつかみ取ったものです。つまりあなたの言うことはすべて嘘ということになりますが、わざわざ虚言を吹き込むために僕の元を訪れ、千花さんの評価を失墜させようとする目的は何ですか」