執愛隠した策士な御曹司は偽装婚約で激情露わに囲い堕とす
思いがけない言葉に驚き、千花は車内の彼を見つめる。

「ビジネスの話?」
「ごめん、ここに長く車を停めておけないから、とりあえず乗って」

奏に「早く」と急かされた千花は、慌てて後部座席に乗り込む。

すると中はゆったりとして座面の座り心地がよく、身体を包み込む感覚に思わず感心してしまった。秘書が運転する車が緩やかに走り出したのを感じながら、千花は隣に座る奏に向かって問いかける。

「ねえ、話って何? わたし、このあと用事があるから早く帰りたいんだけど」

問いかけながら、千花はまたもや彼と接触してしまったことに戸惑っていた。

一昨日帰国してからというもの、三日連続で奏と会っているが、それは相当な頻度だ。彼はこちらに復縁を持ちかけており、つきあうつもりのない千花は極力接触を避けたい。

(でも……)

ビジネスの話と言われれば無視はできず、奏の返答を待つ。すると彼が口を開いた。

「じゃあ、手短に話すよ。千花さんは大学でフランス語を学んで、その後六年間向こうに住んでいたわけだけど、会話のレベルは客観的に見てどのくらい?」

意外な質問に眉を上げつつ、千花は答える。

「大学でずっと専攻と履修をしていて、渡仏した頃はDALF――フランス語上級学力資格試験でB1レベル、つまり日常会話に不自由せず一般的な話題なら議論ができる感じだった。それから六年向こうにいたから、今はC1くらいかな」
「C1というと?」
「ビジネスなどの幅広い場面で、複雑な内容を柔軟かつ自然に話せるレベルのこと。ちゃんと試験を受けたわけじゃないけど、多分そのくらいだと思う」

するとそれを聞いた奏が納得した表情になり、改めて口を開く。

「そのくらい話せるなら、即戦力ということか。――だったら千花さん、フランス語の通訳として俺の仕事を手伝う気はない?」
「えっ?」
「うちの取引先は欧州の企業が多くて、商談の際にいちいち通訳を雇うのが手間だと思ってたんだ。千花さんなら信用できるし、安心して任せられる」

あまりに意外な申し出に、千花は慌てて彼を見た。

「そんな、無理だよ。わたしの本業はライターで、日常的に打ち合わせや取材、原稿執筆があるから、全然暇なわけじゃないし」
「フルタイムじゃなく一日二時間とかスポット的に、自由な勤務形態にしてくれて構わないよ。仕事内容は商談の場での同時通訳とフランス語の書類の精査、向こうの取引先とのメール対応を考えてる。報酬は時給換算でどうかな」

奏が提示した時給は法外で、一日二時間、週に五日の仕事だとしてもかなりの金額になる。

千花は戸惑いながらつぶやいた。

「こんなすごい金額を提示されたら、かえって腰が引けちゃうよ。いくらフランス語を話せるといっても、わたしはちゃんとした資格を持つ通訳じゃないんだから、正直荷が重い」

それが商談なら、なおさらだ。

外国語は言い回しの違いひとつで誤解を生むことがあり、もし自分のせいで彼の会社に損害を与えたらと考えると、気軽に引き受けられる話ではない。千花がそう告げたところ、奏が答える。

「千花さん、さっきプレス発表会の会場で、お母さんの入院費と治療費が大変だって言ってただろ。ライターの仕事を増やすといっても簡単な話じゃないだろうし、貯金を切り崩すのも不安なはずだ」
「それは……」

彼の言うとおり、母親の治療費の問題は千花の心に重くのし掛かっていた。

頼れる親族がいないため、母親に関することはすべて娘である自分が何とかしなければならない。それは当然だと思いつつも、いざそうなってみるとプレッシャーが半端なく、じりじりとした焦りに駆り立てられていた。

(仕事を増やすためにいろんな媒体に営業をかけるとしても、すべてが上手くいくわけじゃないし、実際に収入に反映されるのには時間がかかる。だからそれまでは生活を切り詰めて、病院に関するお金は貯金から出そうって考えていたけど……)

もし奏から持ちかけられた通訳の仕事を引き受ければ、その問題はきれいに解決する。
一日二時間ならさほど負担にはならず、本業であるライターの仕事と両立するのは容易なはずだ。

そう考えた瞬間、追い詰められていた心に一筋の光明が差し込んだ感覚になり、千花は慌ててそんな自分にブレーキをかける。すると彼がふと思いついたようにつぶやいた。

「そうだ。フランス語の通訳もいいけど、対外的な〝婚約者〟になってもらうっていう手もあるな」
「……は?」
「このところ、あちこちから縁談を持ち込まれるようになって困ってるんだ。早瀬グループは財界でそれなりに名前を知られているから、その創業者一族で若くして子会社の代表に就任した俺は、優良物件に見えているらしい」

奏いわく、縁談は断りにくい筋から持ち込まれることも多く、角が立たないように立ち回るのはなかなか骨が折れるのだという。

また、それ以外でもパーティーなどで知り合った女性から積極的にアプローチされることがあり、うんざりしているようだ。それを聞いた千花は、急いで彼の言葉を遮って言った。

「そんなの無理だよ。わたしたち、今はつきあってるわけじゃないのに」
「あくまでも〝ふり〟だよ。実際に結婚するわけじゃなく、女性よけのために役立ってほしいだけだ。通訳兼婚約者になってくれるなら、報酬はさっき提示した金額の倍出す」
「ば、倍?」

通訳の時給だけでも驚くような金額だったのに、その倍の報酬を出すと言われ、千花はぎょっとして奏を見た。

そんな金額をポンと出せる人間は、世の中にそうそういない。彼は大企業の御曹司で、自身も会社の代表を務めているのだから、きっとかなり裕福なのだろう。

それはわかっていたものの、つい先ほどまで金策に頭を悩ませていた千花はひどく複雑な気持ちになった。

(これって、わたしがお金に困ってるのを察したからわざわざ持ちかけてくれた話ってことだよね。奏にとってはこの程度、全然たいした金額じゃないから)

そう考えた千花は、じわりと不快になる。

かつて奏と別れを決めた理由は金銭感覚と価値観、そして出自の違いだったが、改めてその問題が浮き彫りになった形だ。六年前に彼から「すべての金を肩代わりするから、バイトを辞めればいい」と言われたことは、それまでの努力とプライドを否定されたように感じて、千花のトラウマになっていた。

たった今提案された内容は、あのときとほとんど相違ない。奏が金銭的な力を使って自分を囲い込もうとしているように感じ、千花は強い拒否反応をおぼえた。

(でも……)

母の治療費で困っているのは事実で、かなり追い詰められているのが現状だ。

彼に提示された金額はライターの仕事で新規の案件を取るよりもはるかに高額で、病院にかかる費用を充分賄える。

(そうだよ。フランス語のスキルを活かせるなら、仕事としてのハードルは低い。しかもこの先ずっとやるわけでもないんだし、お母さんが退院するまでのことなんだから、わたしにとっては願ってもないことかも)

明らかに相場より高い報酬は奏の厚意であり、それを受け取るのはプライドが傷つくものの、背に腹は代えられない。

そう考えた千花は、確認するように問いかけた。

「あの、婚約者になるのは暫定的なもので、実情を伴わない〝ふり〟でいいんだよね?」
「うん」
「わたしの本業はライターだから、どうしても日にちをずらせない取材があればそっちを優先することになる。それでもいいの?」
「構わないよ。千花さんの仕事を最優先に、無理のない範囲で働いてくれたらいい。ただ、婚約者がいると周囲にアピールしなきゃならないから、あちこちに一緒に出掛けてもらうことになるけど」

確かに奏は次々と舞い込む縁談を回避したいのだから、そうした周囲へのアピールは必要になるだろう。

そう納得した千花は、ドクドクと鳴る心臓の音を意識しながら後部座席のシートで奏に向き直って告げる。

「その条件でいいなら……通訳兼婚約者になることを引き受ける。お母さんの治療費で頭を悩ませていたのは事実で、これ以上ない待遇だと思うから」
「本当?」
「うん。その代わり、きちんと雇用契約を結んでくれる? 引き受けたからには責任感を持って仕事をするし、役に立てるように頑張るから」

降って湧いた思いがけない話に、正直なところまだ少し躊躇いがある。

提示された高額な報酬を本当に受け取っていいのか、それに見合った働きができるのかという不安が強くあった。しかしライターの仕事をしつつ収入を増やす手立ては他になく、彼の話に乗るしかない。

(大丈夫だよね。奏とまた関わらなきゃいけないのは予想外だけど、あくまでも婚約者の〝ふり〟なんだから仕事だと思えばいい。それでお金の心配をしなくてよくなるなら、万々歳だ)

そんな決意をする千花を見つめ、奏がニッコリ笑う。彼は明るい口調で言った。

「わかった。早急に条件面を記載した契約書を作成するから、安心して仕事をしてほしい。これから俺たちはギブアンドテイクの、対等な関係だ」
「う、うん」
「これからよろしく、――千花さん」
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