執愛隠した策士な御曹司は偽装婚約で激情露わに囲い堕とす
顔を上げると、そこにはセミロングの髪をアップスタイルにまとめ、コンサバ系のファッションに身を包んだ二十代後半の女性が立っている。

千花は笑顔で応えた。

「ううん、さっき来たところ。久しぶりだね、怜子(りょうこ)

彼女――大倉(おおくら)怜子は、千花の大学時代の友人だ。

国際教養学部で共にメディア論や社会学、語学を学び、同級生の中で一番仲よくしていた。怜子は大学卒業後に出版社に就職し、現在女性向けハイエンド雑誌〝ÉLÉNA(エレナ)〟の編集者をしている。

向かいの席に腰掛けた彼女が、笑顔で言った。

「こうして直接会うの、六年ぶりだよね。千花ったらフランスに行ったきり、全然こっちに戻ってこないんだもの。元気だった?」
「おかげさまで」

怜子はオーダーを取りに来たスタッフにアイスコーヒーを注文し、バッグからタブレットを取り出しつつ言う。

「千花が書いた記事、改めて全部読んだよ。すごく表現が豊かだし、エスプリも効いてて読みやすい文章だと思う。でも、うちの雑誌は日本語で書いてもらうことになるけど、大丈夫?」
「もちろん」
 
すると彼女が、雑誌のコンセプトを説明した。 

〝エレナ〟は幅広い年齢層の女性をターゲットにしており、上質なファッションやアート、建築、旅を通して〝自らを育てる贅沢〟を提案する女性誌だという。 

「千花にはこれまで他誌に寄稿していたのと同様に、ハイブランドの記事を書いてもらおうと思ってる。明日都内で行われる〝Luce di Mare(ルーチェ・ディ・マーレ)〟のプレス発表会の記事が、うちの会社での最初の仕事になるね」

〝ルーチェ・ディ・マーレ〟はイタリアのファッションブランドで、地中海沿岸ののびやかな雰囲気を取り入れたリゾートウェアや香水、ジュエリーを展開している。

千花は日本に帰国するつもりだと知ったブランド関係者から事前に招待状を受け取っており、それを知った怜子から記事の執筆を打診されていた。

千花は笑顔で告げた。

「明日のプレス発表会は、怜子も同行できるんだよね。何を着ていくかもう決めた?」

それからしばし、明日着ていく予定の服や最近のファッション業界の話で盛り上がる。
三十分ほどしたところで、怜子がタブレットを閉じながら笑顔で言った。

「友達である千花と一緒に仕事ができることになって、今すごくワクワクしてるんだ。〝エレナ〟の担当編集は私になるから、わからないことは遠慮なく聞いてね」
「わたしも怜子とこういう形で仕事ができることになってうれしいし、記事の執筆を依頼してもらえて感謝してるよ。ライターとして期待に沿えるように頑張るから、これからよろしくね」


翌日は朝から快晴で、春らしい穏やかな天気だった。

青山にあるギャラリーを貸しきって行われるプレス発表会は完全招待制で、業界向けのショールームとプレゼンテーションは午前十一時から行われ、ランウェイやインスタレーション形式の発表は午後一時からを予定している。

最寄りの駅で十二時半に怜子と待ち合わせた千花は、彼女と連れ立って会場に向かった。すると百貨店やセレクトショップ、ECサイトのバイヤーやスタイリスト、ファッション誌やプレスといったメディア関係者などが集まり、既に盛況だ。

受付で名前を告げて招待状を提示すると来場者リストと照合され、ブランド側のセールス担当者が対応を引き継ぐ。そして今季のテーマやキールックとなるもの、素材へのこだわりを説明してくれ、千花は興味深く話を聞いた。

参加者は展示されたサンプルをスマホやカメラで撮影しつつ、写真と品番、卸価格が掲載されたラインシートと呼ばれるものにメモをしたり、担当者に質問をしたりと、ひどく活気がある。

怜子が目の前の商品に触れて言った。

「七月号で旅とファッションの特集があるから、このワンピースを撮影で借りたいな。こっちのネイビーも可愛いよね」
「うん。最近はユニセックスなアイテムが増えてるから、このメンズラインのジャケットは女性が着てもいいかも」

そうするうちに怜子が顔見知りのスタイリストを見つけ、そちらのほうに行ってしまう。

残された千花はブランド関係者に積極的に質問をし、持参したデジタル一眼レフでサンプルの撮影をした。やがて担当者が一礼して去っていき、頭の中で記事の構成を考えながら何気なく周囲を見回したところ、ふと人混みの中に見知った顔を見つけて息をのむ。

(えっ、嘘。何で……?)

そこにいるのは、スーツ姿の奏だ。

ブランドのデザイナーやショップの責任者の説明を鷹揚に聞いていて、まるで彼のほうが立場が上のように見える。

そのとき奏がこちらの視線に気づき、顔を上げた。そして千花と目が合うと彼らとの会話を切り上げ、秘書らしき男性を伴って歩み寄ってくる。

「千花さん、来てたんだ」
「奏、どうしてここに……」

彼がチラリと秘書を見ると、三十代半ばとおぼしき男性が心得たように離れていく。
奏が改めてこちらに向き直って言った。

「うちの会社と〝ルーチェ・ディ・マーレ〟が、資本提携してるんだ。だから招待されて来た」
「資本提携?」
「昨日言っただろ、IT分野やメディア、ファッションブランドへの投資を行ってるって。その一環だよ」

つまりブランドにとっては彼の会社が大口のスポンサーであるため、デザイナーやショップ責任者が直々に対応していたということらしい。

「千花さんは、取材でここに?」
「うん。フランスにいるとき、たまたま会ったここのブランドの関係者に日本に帰国することを話したら、『東京でプレス発表会があるから』って言って招待状をくれたの。新規で仕事をする雑誌の初仕事にちょうどいいってことになって、それで」
「そっか。ところでお母さんの病院には、もうお見舞いに行った?」

どうやら奏は母親の病状を気にかけてくれていたようで、千花は昨日医師から聞いた内容をざっくりと説明する。
すると真剣な表情で話を聞いていた彼が、考え込みながらつぶやいた。

「なるほど、お母さんによりよい治療を受けさせるためには、経済的な問題があるわけか」
「基本的な部分は医療保険で賄えるんだけど、高度な治療をしようとしたら持ち出し分がかなりあるみたい。だからわたしが仕事を頑張らないと」

そこで怜子がこちらに戻ってきて、千花に声をかけてくる。

「千花、待たせてごめんね。すっかり向こうで話し込んでしまって――……」

奏に目を留めた彼女がふと言葉を途切れさせ、彼の顔をまじまじと見つめる。そして驚きの表情で声を上げた。

「もしかして、早瀬くん? 大学時代に千花とつきあってた」
「ええ。あなたは確か、大倉さんですよね。千花さんと仲がよかった」

奏が眉を上げると、目を輝かせた怜子が矢継ぎ早に問いかける。

「大学を卒業以来だから、六年ぶり? どうして早瀬くんがここにいるの、もしかして千花とずっと連絡を取り合ってたとか?」
「ち、違うよ。あのね……」

千花が慌てて奏が実家が経営する企業の子会社の代表で、このブランドの大口スポンサーであること、先ほど会場内で偶然見かけて立ち話をしていたのだと説明すると、彼が名刺を取り出して告げる。

「大学卒業後に早瀬ホールディングスに入社し、数ヵ月前から早瀬インベストメント・ストラテジーの代表をしています。名刺はこちらに」
「あ、私は株式会社鳳栄社(ほうえいしゃ)のエレナ編集部で、編集者をしてるの。女性向けハイエンド雑誌で、千花に原稿を依頼してて」

二人が名刺交換をしたタイミングでやって来た奏の秘書が、何やら耳打ちする。
頷いた彼が、こちらに向き直って言った。

「すみません。もっとお話ししたいのは山々なのですが、呼ばれているようなので、これで」
「うん」

二人が連れ立って去っていき、名刺に記載された奏の肩書を眺めていた怜子が感心したようにつぶやく。

「早瀬くん、千花とつきあってるときから何となくハイソっぽい雰囲気を感じてたけど、こんなに大きい会社の御曹司だったんだね。千花は知ってた?」
「あ、うん。別れる少し前に聞いた」
「しかもあんなイケメンになってるなんて、びっくりだよ。千花、彼を振ったのをちょっと後悔してるんじゃない?」

冗談めかしてそう言われ、千花は「まさか」と首を横に振る。

その後、ランウェイとインスタレーション展示を見た千花と怜子は、午後一時半に会場を後にした。二時から打ち合わせがあるという彼女はここからバスで移動するといい、千花に向かって笑顔で言う。

「じゃあ、草稿ができたらメールで送ってくれる? 何かわからないことがあったら、時間を問わずいつでも連絡して」
「わかった。お疲れさま」

怜子と別れた千花は、駅に向かって歩き出す。

すると後ろから静かに近づいてきた黒塗りの高級車が真横につき、後部座席の窓が開いて奏が顔を出した。

「千花さん、今帰るの?」
「そうだけど……あの、もし『送るよ』っていう申し出なら、気を使ってくれなくていいから」
「ビジネスの話があるんだ。五分でいいから、話す時間をくれないかな」
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