my天の川に流るる
20
◇
渡り廊下から中庭を見下ろしていた。咲菜は教室で鷲羽(わしゅう)さんと昨日の打ち上げを振り返っているに違いない。楽しかった出来事とは、その後もまた色付くものなのだ。そして色褪せないうちに重ね塗りするものなのだ。
共有するもののない星子(しょうこ)は、七尾のことを考えていた。彼は誘われていながら断っていた。元の予定で共にいるはずだった星子の手前、断るしかなかったのだろうか。彼に気を遣わせていた。急用ができたと言った後、すぐさま退散していればよかったのだ。何故、そうしなかったのだろう。
『星子ー、おはよー』
何故、気を回せなかったのだろう。今までにもこういった野暮な立ち居振る舞いに気付くこともなく、相手に損益ばかり与えていたことが何度もあったのだろう。
七尾に悪いことをしてしまった。詫びるべきではなかった。詫びれば、優しい七尾は赦すほかないというのに、赦すことを強いた。七尾に赦されると分かっていながら詫びたのかもしれない。七尾に甘えた。彼は損をしてばかりだ。だが損をさせたのは誰か……
『星子ー。おはよう、おい、星子』
視界が塞がる。濃く刻まれた手相が見えた。
我に返り、人の気配に気付く。隣をみると、七尾が立っていた。
「あ、あ、な、七尾くん、ごめ……あっ、お、おはようございます……」
「なんだよ、改まって。よく寝れたか?」
「あ、う、うん………夢に七尾くん、出てきたよ」
七尾の眉頭に電撃が走るようだった。
「は」
星子はまた、我に返った。朝から早々に気味の悪い話をしている。彼は咲菜が好きなのだ。そうでない女子の夢に出たところで迷惑な話だろう。出演料を払うべきだ。
「あ、その……鷲羽さんも出てきたよ」
夢の中で、星子は七尾と廊下にいた。しかし教室にいる鷲羽さんたちに誘われ、教室に入った七尾に、目の前で扉を閉められてしまう。開けようとしても開かず、小窓には振り返った七尾の疲れた微笑が見え、そのうち後姿に変わるのだった。
「夢に出てくるのは、そいつのこと好きだからとかなんとかって、星子、前に言ってなかったか。小野小町の時代だったかな。お前、俺のこと好きなんじゃねーの」
「んな感じの夢じゃなかったよ、へへへ」
開けて、開けてよ、と嘆いていた幼少期を星子は思い出した。だが季節が違った。親に開扉を求めて喚いたのは冬の夜だった。記憶が正しければ、夕食の味噌汁をこぼしたためだ。
「じゃあ、どんな感じの夢」
七尾が興味を示すとは思わなかった。彼ならば、夢などという曖昧模糊とした支離滅裂で荒唐無稽な現象を冷笑していそうなものだった。
「クラスのみんなが教室に入っていくのに、わたしの目の前で扉が閉まっちゃって、開かなくなる夢」
七尾の詳細は言わなかった。
「お前……そんな切ない夢みてたの」
三白眼がまろくなる。星子は真正面からその表情を受け止めると、爪先が教室か裏校舎か、どちらを向きかけた。
「切なくはないよ……」
「なぁんだ。俺と2人きりの話かと思った」
「ご、ごめんね。こんな話して。夢の話なんて、オチもないし、生産性(イミ)もないよね」
「いや、俺が聞きたいって言ったんだし、そこまで言ってねーよ」
三白眼が星子から逃げ、少し泳ぐとまた戻ってくる。
「………。……寝落ち電話してやろうか?」
「そうしたら、本当に七尾くんが出てきちゃうよ」
「2人じゃ嫌だって?」
「嫌じゃ、ないけれど……悪いじゃん……」
「どのように」
「……夢に出てくるなら、好きな子とか、可愛い子のほうがいいじゃん……」
主に咲菜のことだ。だが咲菜でなくとも、見目麗しく華々しい女子であることに越したことはない。
七尾が嘆息する。
「星子も、五百鈴(いおり)が出てきたほうが良かったか」
「なんで笹森くん……? ああ、かっこいいもんね」
彼は腕を組む。刃のような形の目に、星子は怯んだ。しかしまた嘆息し、首を振った。
「俺のところの夢は開けっ放しだからいつでも来いよ。生霊でもなんでも飛ばせ。源氏物語でもいたろ。ンでも、鼾(いびき)と歯軋りはご愛嬌な」
「七尾くんって鼾と歯軋りするの?」
「言葉の綾な」
「言葉の綾か」
「そ」
「じゃあ七尾くんに、夢の出演料払わなきゃいけないな」
「じゃあ、マジで今度こそ、絶対……デートしろ、俺と」
七尾の眉根に皺が寄っている。だが弱気になっているように見えた。宛(さながら)ら騙し絵だ。
「うん。今度はちゃんと……」
七尾の疲弊した微笑を思い出すと、身震いした。
「責めたかったわけじゃねぇから。今度はちゃんと日程決める。お前に相談する。だからお前もちゃんと、俺に相談しろ」
「うん」
「星子」
七尾の語気が改まる。
「うん……?」
「今度こそ、本気で……楽しみにしてるから。今日は星子の夢、見ちまうかもな」
七尾の夢に出てくる自分というものを星子は想像した。同時にそれは七尾に対する想像でもあった。共に小学時代の姿をしていた。
「出演料は、どうすりゃいい?」
「いいよ。いっぱいもらってるんだ、もう」
◇
下駄箱にリップクリームと茶封筒が入っていた。
"バニラ&ココナッツの香り"のリップクリームを手に取った。包装から出されていない。新品だ。次に茶封筒を手に取る。中には紙幣が1枚入っていた。
下駄箱を見ると、このリップクリームと茶封筒を入れた主はすでに登校しているようだった。だが教室にはいなかった。
朝のホームルームが始まるまで、笹森は姿を現さなかった。
登場とともに彼は周りからつべこべ言われていたが、得意の笑みと軽口で躱していた。相変わらず長袖で、頬は痩け、目に隈が浮かんでいたものの、以前に比べると回復の兆しが見えた。
『はー? お土産ねーのかよ』
『ないよ。チョコレート、全部溶けちゃったんだもん。ハワイより暑いよ、この国』
『ってかテストどーすんだよ、ヤバくね?』
『ヤバいよな。はっはっは』
星子は笹森を目で追っていた。だが笹森を見ているのではなかった。紙幣1枚ではもらい過ぎている。釣銭が要る。だが細かいのがなかった。帰りに近くの店で買い物をして、返すのは明日になる。
軈(やが)てホームルームが始まった。テストが終わり、週が明けてから顔を出した笹森に、担任の先生は何も言わなかった。
ホームルームが終わる。テストの返却が済めば、あとは夏休みまでの消化試合のような授業を受けるだけだった。
星子は笹森に近付きたかった。釣銭の返却は明日になることを告げたかった。だが人気者の彼は常に誰かが周りを囲っている。
『さすがに旅行でテストすっぽかすのはドン引きだわ』
『日頃の成績が良いから、ぼくは』
『でさー、打ち上げでさー、』
咲菜や他の男子を引き連れた鷲羽さんと笹森が談笑している。
『全員(みんな)行ったの? 打ち上げ』
笹森が訊ねた。
『ああ、うん。まぁ、"一軍二軍(みんな)"で? あ、でも七尾は行ってない』
『そうなんだ。いーねー。青春じゃん? 七尾ー』
笹森の大声が、離れたところにいる七尾を呼ぶ。七尾は机に頬杖をついて校庭を眺めていた。
『あ?』
頬杖から頭を浮かせ、七尾は笹森を向いた。
『なんで打ち上げ行かなかったんだよー?』
『あー、まぁ、急用?』
『急用って?』
『囲碁・将棋チェス部。お前が幽霊部員やってるところ! あそこで麻雀やってた』
『なんで』
『人が足らねーって言うから』
『はー? そんな部活マジであったんだ』
『えー? あるよ、ヤダな。大会行ったってこの前言ったジャーン』
話題は囲碁・将棋・チェス部へと逸れていく。
『ってか五百鈴みたいなのが囲碁・将棋って、なんか囲碁・将棋に失礼っぽくねー?』
『あは、何それ。ギャップ萌えってこと?』
笹森は捕まらない。四六時中、周りに人がいる。化学の赤点を嘆くはずが、すぐに切り替わってしまった。笹森が捕まらない。
どこに行くにも、彼は友人といる。目が合うこともない。そしてそれが元の日常であることに気付く。もともと七尾を介さなければ、星子は笹森と関わることはなかった。小さな1クラスの中でも地下と天上が存在していた。忘れていた。そのことに気付くと、テキストメッセージを送るのも躊躇われた。
昼飯時にやっと、彼は一人で教室を出る。8組と共有の水道に向かい、シンクに両手をついて、前のめりになる。肩甲骨が迫(せ)り上がった。口元に手が添わる。
「大丈夫?」
声をかける。
笹森が振り向いた。青褪めた顔が眉を顰める。
「ああ、白川さんか。何か用?」
「あ……えっと……茶封筒のことなんだけれど……」
「は? 何、茶封筒って」
笹森は張った肩を落とした。
「1000円は貰いすぎだから、お釣り、明日……」
「……いいよ。要らない」
笹森は手を洗うでも水を飲むでもなく、蛇口の把手に触れることなく水場を去る。
「あ、笹森くん……」
「何?」
「リップクリーム、ごめんなさい。置いて行っちゃって……」
「別に。ぼくがそんなこと気にしてると思ったの? そんなワケないじゃん」
教室の廊下側の窓が開く。鷲羽さんが顔を覗かせた。
「五百鈴も来てよ! 愛莉紗のママがメロンだって! ……ああ、星子チャンも……?」
「あー、ぼくはいいや。ありがとうね。愛莉紗ちゃんにもよろしく言っておいて」
笹森は手を振って行ってしまった。鷲羽さんは星子を一瞥したが、すぐに目を逸らし、窓を閉めた。
星子は笹森を追うかたちになった。だが彼を追ったわけではなかった。しかし彼はそうは思わなかったようだ。渡り廊下の前で立ち止まる。星子も思わず立ち止まる。
「何? ストーカー?」
「え……?」
「追ってこないでよ。白川さんがぼくに用があるワケないよね」
「あ、わ、わたし、下駄箱に用があるから……」
笹森は渡り廊下に曲がっていった。
星子は玄関ホールの共有スペースの自販機に茶封筒の1000円札を入れた。500mlのジュースを1本買うと、850円の釣銭が吐き出された。
笹森宅に届けたスポーツドリンクや飲料ゼリー代はクーポン券やアプリ割引を使って750円だった。100円玉を2枚と50円玉1枚を抜き取ると茶封筒に入れる。そのまま、下駄箱に行き、笹森の下駄箱に入れた。
星子は教室に戻る。「川辺の石」と題された古びた図録を眺めている七尾に話しかけた。
「なんだ」
「細かいお金作りたくてさ、自動販売機でジュース買ったんだけれど、飲み切れないと思うから、あげる」
黄色の炭酸飲料を机に置く。
「は? いいのかよ」
「うん」
「両替くらい言ってくれたらやったぞ。こちとら臨時の駄菓子屋店員なんだからな」
「この前のお詫びも兼ねて……ってことで。ダメ?」
星子は首を傾げた。座っている三白眼を見下ろす。夏の昼の明るさが、虹彩の襞を透かす。
七尾は眉間に皺を寄せた。そして顔を背け、目を側める。口元を拭い、俯いた。
「いいよ。赦す。フツーに……ってか赦してるから、あんま気にすんな……」
「ありがとう」
「ありがたく、飲ましてもらうわ……」
「玄関の自動販売機のだから、そんな珍しくないけれど……」
「いいんだよ、細かいことは」
星子は机に置かれた図録を見る。
「本読んでるの珍しいね」
「お、俺がバカだって言いたいのかな、星子ちゃんは」
「え! まさか! 化学とかやっぱ……平均点、超えてるよね……?」
「とーぜん。なんで? まさか……」
星子は項垂れながら頷いた。
「ま、難しかったからな」
「平均点以下どころじゃないの………赤点なの……」
「そういうこともある」
星子は唇を尖らせ、図録の表紙を眺めた。
「お前も入るだろ、科学部」
「え」
「だからお前なら何ができるかなーって。絵とか描くの好きだろ」
「う、うん……まぁ……」
七尾の前では長いこと絵など描いていない。
「石の中身の模様とかを描き分けるのはどうよ。この図録で名前を調べりゃいい」
「科学部って……そんなんでいいの……?」
「名前が堅物(あれ)なだけで、実質、遊びクラブだからな」
星子は黙った。
「どうだ? 入る気になったか? 星子が入ってくれたらよー、科学部がやっと同好会からガチの部活になるんだよなぁ~。そうしたら後輩の月也クンも、今後やりたいことの幅が増えるんだけどなー?」
部活には入らないつもりでいた。家事がある。費用がかかる。大会前の緊張感は苦手だ。達成感というものに浸れる性質でもなかった。
「……考えておくよ。叔父さんにも訊いてみないと」
一人では決められない。この高校生活は叔父の養育と献身のもとに成り立っているのだ。
「無理なく、な。来たい時に来てくれればいいってよ。備品も貸し出ししてる。叔父さんには俺が説明してもいい」
七尾の口元は柔らかい。
「七尾くんは科学部が大好きなんだね」
彼が楽しそうならば、星子は化学のテストで赤点を取ったことなど、どうでも良くなってしまった。
「科学部も好きだけどよ……星子と青春したい。それだけ」
七尾は優しい。咲菜は鷲羽さんと"青春"をするのだ。他に"青春"というものを味わえる人間がいないことを見越して、自らをその相手に立候補したのだろう。小中高と学舎を共にした情愛は深い。
「誘ってくれたのも嬉しかったけれど……絵を描いてること、憶えていてくれてたのも嬉しかったよ。ありがとう、七尾くん」
「憶えてるだろ、それくらい……」
「へへへ」
笹森から渡されたリップクリームも下駄箱に入れた。まだ250円を入れた茶封筒は回収されていないようだった。朝以降、下駄箱を見ていないのだろう。だが体育で校庭に出るなどしなければ、放課後でもないというのに下駄箱を見ないのは無理もない。
笹森は、自分が使ってしまったからと代替品を買ってよこした。ところが星子は、叔父から新たなリップクリームを買い与えられたのだ。それで事足りる。返せば、彼がまた使うだろう。星子のもとで持ち腐れるよりも、このリップクリームはリップクリーム生命を果たすべきだ。
不要な出費をさせてしまった。不調な身体に要らない買い物をさせてしまった。
星子はリップクリームから目を逸らした。
「星子チャン、五百鈴に何か用なん?」
星子は肩を弾ませた。真横に鷲羽さんが佇んでいる。周りに咲菜や仲の良い男子たちはいなかった。
「あ、えっと……鷲羽さん……」
「最近、五百鈴と一緒にいるよねー? あ、七尾がいるからか」
「そんなには一緒にいないと思うけれど……」
鷲羽さんは作り笑いを浮かべ、口元を隠している。
「まぁ、そうだよね。でもさー、五百鈴って女子から人気?だからさー、あんまり一緒にいると、拙(まず)くない? 星子チャンが悪く言われるってゆうかさー」
サークルコンタクトレンズで強調された黒目が頻りに左右に転がった。
笹森は男女問わず人気者だ。それは間違いない。星子もよくよく知っている。咲菜も彼に想いを寄せている。
「……確かに……」
「五百鈴も五百鈴でさー、おとなしい女子には優しいし? 多分忙しくても相手しちゃうと思うんだよね。だからさー、その、あんまり、期待とかしないほうが、星子チャンも傷付かなくて済むかなーって、ンハハハ。ね? ンハハハ」
鷲羽さんは努めて笑みを浮かべ、蝉よろしく笑い声を鳴らしている。
「期待なんてしてないよ。わたし別に……」
笹森のことは好きではない。だが皆が皆、皆が笹森のことを好いていると思っている。ところが実際、咲菜は笹森を好いていると言う。
「いいって、いいって。アタシそういうの分かるからさー。ンハ、ンハハハ。五百鈴、黙ってればまぁまぁイケメンっしょ? それに星子チャンみたいな陰気(カンジ)の子にはフツーに優しいしー?」
「本当に、わたしは……」
「あとさー、七尾? 七尾と長いんだっけ? でも七尾もなんか好きな人いるみたいだし、3年生の美人な先輩も七尾のこといいと思ってるんだって。3年に目ェ付けられんのヤバくない? アタシは星子チャンの味方だから言わしてもらうんだけど、七尾もそろそろカノジョとか欲しいと思うんだよね。それでなんか、星子チャンにその気ないのは分かってるんだけどさー、他の子がどう思うか分からないじゃん? だから星子チャンがあんまり周りうろちょろしちゃうとさ、七尾のこと狙ってる子たちも遠慮しちゃうっていうか……あ、星子チャンにそのつもりないのは全然分かってるよ、アタシは? ただ、アタシ以外が……ほら………ね? ンハハハ、ンハハハ」
鷲羽さんは口元を隠し、片手は身振り手振りが大きく、喉だけで笑っている。
鷲羽さんは言葉を選んでいるが、それは警告だった。
星子は七尾とのやり取りを思い起こした。デートをしようという話は、おそらくは彼なりの冗談だ。ただ昔馴染みと気分転換がしたいという話なのだ。七尾の気分転換であれば、2人である必要はない。咲菜を誘うのはどうだろう。そして七尾は笹森を誘えばよい。しかし笹森の態度を見るに、星子がいれば来ないだろう。
相談すると約束をした。
だが優しい七尾が、"はい、気を遣っています"と答えるはずはない。
「あ、ねぇ……星子チャン、怒った? アタシ本当に、星子チャンのこと想って言ってるだけなんだけどさ……アタシ、ほら、誤解されやすいじゃん? アタシ結構、友達とか大事にしたいと思ってるんだけど……」
「ううん。ありがとう、鷲羽さん。これからは改めるよ」
七尾に甘え過ぎていた。七尾は昔馴染みのために受け容れてくれていたが、それを周りで見ている人たちはどう思うだろう。
鷲羽さんは、星子の目の前にある笹森の下駄箱を見上げた。
「何、渡したの?」
「ああ、ちょっと前にジュース立て替えたことあったから、そのお釣り」
「ふーん。じゃあこれは?」
鷲羽さんはリップクリームを手に取った。
「それも、笹森くんが……その、壊しちゃったから弁償してもらったのだけれど……その、悪いかなって思って……返そうと思って……」
壊されてはいない。星子が自らの意思を以って捨てた。弁償も、予想だにしていなかった。
「何それ? どうゆうこと? なんで?」
「わたしが落としたの、踏んじゃっただけだよ」
嘘である。だがそれが最も、笹森にとっても纏まりがいいはずだ。
「ふーん。あ、アタシが返しとくよ。そのほうが良くない?」
「ああ、うん……そのほうがいいかも」
鷲羽さんはリップクリームだけ持っていった。
星子はぼんやりと広い三和土を眺めた。少し疲れ、共有スペースのベンチに座る。
七尾との約束について、また撤回するべきか。だが彼は楽しみにしていると言っていた。それは2人で行くべきものなのだろうか。彼が想いを寄せている咲菜を誘え、という婉曲的な要求なのであろうか。しかしそうでないなら星子を誘う必要はない。彼は仲の良い男子と遊びに行くべきなのだ。笹森は体調が悪そうだが、他クラスにも七尾と仲の良い男子は多い。女子も多い。
相談しろと彼は言った。咲菜を誘うか訊いてみるべきか……
星子は頭を抱えた。微かな頭痛さえ感じはじめる。
鷲羽さんは友人想いだ。本人の言うとおり、友情を重んじているのだ。
星子は確かに七尾の新たな恋の機会を奪ってしまっている! 彼の恋路が断崖絶壁になることを知っていながら黙認している。彼が恋い焦がれて止まない相手、咲菜は笹森が好きなのだ。七尾は別の女子に舵切りするべきなのだ。そうすれば彼の失恋を、星子は目の当たりにせずに済む。彼の疲れた笑みを思い出すと胸が苦しくなった。あのような笑みを浮かべさせてはならない。咲菜を諦め、"3年の美人な先輩"に行けば、七尾は安泰なのだ。
分かりきった恋路の行方を黙認し、彼を谷底に突き落とそうとしている。
星子は項垂れた。
相談しろと彼は言った。だが相談できる内容ではなかった。
考え事をしていた。台所の窓の奥が光り、中指の先に雷が落ちる。
「痛っ」
近所の人からもらったナスを縦に切っていたが、ナスが転がったようだ。油断していた。中指を見ると、忽(たちま)ち赤くなっていく。
ビーズカーテンが軋み、後ろから気配が迫った。
「だ、大丈夫かい?」
叔父が強張った顔をして、傍にやって来る。
「すみません……考え事をしていて」
「ほら、早く手を洗って……」
骨張った薄い掌に背中を押され、星子は指を洗った。
「絆創膏を持ってくるから待っていなさい」
ビーズカーテンがまた軋る。
星子は窓の外の稲穂を望んだ。斑模様の曇天が時折透けて、唸り声を上げている。
すぐさま救急箱を持った叔父が戻ってきた。消毒液を垂らし、ティッシュで拭き取ると、絆創膏を巻いていく。
「ボクが代わろうか?」
「大丈夫です。ごめんなさい」
「謝らないでおくれ。気を付けるんだよ。包丁の研ぎが甘かったかい? 今度研いでおくよ」
「すみません……ぼーっとしてしまっただけですから」
「何か、悩み事かな」
「……七尾くんとデート……行ってもいいですか」
家中のガラスが割れるような音がした。だが窓ガラスは無事だ。空が唸っている。
「もちろんだよ。そんなことを悩んでいたの」
「いいえ……他の女の子も、誘うべきなのかな……って。七尾くんの、好きな子なんですけれど……」
叔父は神経質げな眉を歪め、首を傾げた。
「どうして? 七尾くんは、君を誘ったのだろう?」
叔父は背景を知らないのだ。七尾が咲菜を好いていることは知らない。星子が七尾から新たな恋の機会を根刮ぎ毟り取っていることを知らない。
「そうなんですけれど……そうしたほうがいいのかなって、ちょっと、思っちゃっただけです」
渡り廊下から中庭を見下ろしていた。咲菜は教室で鷲羽(わしゅう)さんと昨日の打ち上げを振り返っているに違いない。楽しかった出来事とは、その後もまた色付くものなのだ。そして色褪せないうちに重ね塗りするものなのだ。
共有するもののない星子(しょうこ)は、七尾のことを考えていた。彼は誘われていながら断っていた。元の予定で共にいるはずだった星子の手前、断るしかなかったのだろうか。彼に気を遣わせていた。急用ができたと言った後、すぐさま退散していればよかったのだ。何故、そうしなかったのだろう。
『星子ー、おはよー』
何故、気を回せなかったのだろう。今までにもこういった野暮な立ち居振る舞いに気付くこともなく、相手に損益ばかり与えていたことが何度もあったのだろう。
七尾に悪いことをしてしまった。詫びるべきではなかった。詫びれば、優しい七尾は赦すほかないというのに、赦すことを強いた。七尾に赦されると分かっていながら詫びたのかもしれない。七尾に甘えた。彼は損をしてばかりだ。だが損をさせたのは誰か……
『星子ー。おはよう、おい、星子』
視界が塞がる。濃く刻まれた手相が見えた。
我に返り、人の気配に気付く。隣をみると、七尾が立っていた。
「あ、あ、な、七尾くん、ごめ……あっ、お、おはようございます……」
「なんだよ、改まって。よく寝れたか?」
「あ、う、うん………夢に七尾くん、出てきたよ」
七尾の眉頭に電撃が走るようだった。
「は」
星子はまた、我に返った。朝から早々に気味の悪い話をしている。彼は咲菜が好きなのだ。そうでない女子の夢に出たところで迷惑な話だろう。出演料を払うべきだ。
「あ、その……鷲羽さんも出てきたよ」
夢の中で、星子は七尾と廊下にいた。しかし教室にいる鷲羽さんたちに誘われ、教室に入った七尾に、目の前で扉を閉められてしまう。開けようとしても開かず、小窓には振り返った七尾の疲れた微笑が見え、そのうち後姿に変わるのだった。
「夢に出てくるのは、そいつのこと好きだからとかなんとかって、星子、前に言ってなかったか。小野小町の時代だったかな。お前、俺のこと好きなんじゃねーの」
「んな感じの夢じゃなかったよ、へへへ」
開けて、開けてよ、と嘆いていた幼少期を星子は思い出した。だが季節が違った。親に開扉を求めて喚いたのは冬の夜だった。記憶が正しければ、夕食の味噌汁をこぼしたためだ。
「じゃあ、どんな感じの夢」
七尾が興味を示すとは思わなかった。彼ならば、夢などという曖昧模糊とした支離滅裂で荒唐無稽な現象を冷笑していそうなものだった。
「クラスのみんなが教室に入っていくのに、わたしの目の前で扉が閉まっちゃって、開かなくなる夢」
七尾の詳細は言わなかった。
「お前……そんな切ない夢みてたの」
三白眼がまろくなる。星子は真正面からその表情を受け止めると、爪先が教室か裏校舎か、どちらを向きかけた。
「切なくはないよ……」
「なぁんだ。俺と2人きりの話かと思った」
「ご、ごめんね。こんな話して。夢の話なんて、オチもないし、生産性(イミ)もないよね」
「いや、俺が聞きたいって言ったんだし、そこまで言ってねーよ」
三白眼が星子から逃げ、少し泳ぐとまた戻ってくる。
「………。……寝落ち電話してやろうか?」
「そうしたら、本当に七尾くんが出てきちゃうよ」
「2人じゃ嫌だって?」
「嫌じゃ、ないけれど……悪いじゃん……」
「どのように」
「……夢に出てくるなら、好きな子とか、可愛い子のほうがいいじゃん……」
主に咲菜のことだ。だが咲菜でなくとも、見目麗しく華々しい女子であることに越したことはない。
七尾が嘆息する。
「星子も、五百鈴(いおり)が出てきたほうが良かったか」
「なんで笹森くん……? ああ、かっこいいもんね」
彼は腕を組む。刃のような形の目に、星子は怯んだ。しかしまた嘆息し、首を振った。
「俺のところの夢は開けっ放しだからいつでも来いよ。生霊でもなんでも飛ばせ。源氏物語でもいたろ。ンでも、鼾(いびき)と歯軋りはご愛嬌な」
「七尾くんって鼾と歯軋りするの?」
「言葉の綾な」
「言葉の綾か」
「そ」
「じゃあ七尾くんに、夢の出演料払わなきゃいけないな」
「じゃあ、マジで今度こそ、絶対……デートしろ、俺と」
七尾の眉根に皺が寄っている。だが弱気になっているように見えた。宛(さながら)ら騙し絵だ。
「うん。今度はちゃんと……」
七尾の疲弊した微笑を思い出すと、身震いした。
「責めたかったわけじゃねぇから。今度はちゃんと日程決める。お前に相談する。だからお前もちゃんと、俺に相談しろ」
「うん」
「星子」
七尾の語気が改まる。
「うん……?」
「今度こそ、本気で……楽しみにしてるから。今日は星子の夢、見ちまうかもな」
七尾の夢に出てくる自分というものを星子は想像した。同時にそれは七尾に対する想像でもあった。共に小学時代の姿をしていた。
「出演料は、どうすりゃいい?」
「いいよ。いっぱいもらってるんだ、もう」
◇
下駄箱にリップクリームと茶封筒が入っていた。
"バニラ&ココナッツの香り"のリップクリームを手に取った。包装から出されていない。新品だ。次に茶封筒を手に取る。中には紙幣が1枚入っていた。
下駄箱を見ると、このリップクリームと茶封筒を入れた主はすでに登校しているようだった。だが教室にはいなかった。
朝のホームルームが始まるまで、笹森は姿を現さなかった。
登場とともに彼は周りからつべこべ言われていたが、得意の笑みと軽口で躱していた。相変わらず長袖で、頬は痩け、目に隈が浮かんでいたものの、以前に比べると回復の兆しが見えた。
『はー? お土産ねーのかよ』
『ないよ。チョコレート、全部溶けちゃったんだもん。ハワイより暑いよ、この国』
『ってかテストどーすんだよ、ヤバくね?』
『ヤバいよな。はっはっは』
星子は笹森を目で追っていた。だが笹森を見ているのではなかった。紙幣1枚ではもらい過ぎている。釣銭が要る。だが細かいのがなかった。帰りに近くの店で買い物をして、返すのは明日になる。
軈(やが)てホームルームが始まった。テストが終わり、週が明けてから顔を出した笹森に、担任の先生は何も言わなかった。
ホームルームが終わる。テストの返却が済めば、あとは夏休みまでの消化試合のような授業を受けるだけだった。
星子は笹森に近付きたかった。釣銭の返却は明日になることを告げたかった。だが人気者の彼は常に誰かが周りを囲っている。
『さすがに旅行でテストすっぽかすのはドン引きだわ』
『日頃の成績が良いから、ぼくは』
『でさー、打ち上げでさー、』
咲菜や他の男子を引き連れた鷲羽さんと笹森が談笑している。
『全員(みんな)行ったの? 打ち上げ』
笹森が訊ねた。
『ああ、うん。まぁ、"一軍二軍(みんな)"で? あ、でも七尾は行ってない』
『そうなんだ。いーねー。青春じゃん? 七尾ー』
笹森の大声が、離れたところにいる七尾を呼ぶ。七尾は机に頬杖をついて校庭を眺めていた。
『あ?』
頬杖から頭を浮かせ、七尾は笹森を向いた。
『なんで打ち上げ行かなかったんだよー?』
『あー、まぁ、急用?』
『急用って?』
『囲碁・将棋チェス部。お前が幽霊部員やってるところ! あそこで麻雀やってた』
『なんで』
『人が足らねーって言うから』
『はー? そんな部活マジであったんだ』
『えー? あるよ、ヤダな。大会行ったってこの前言ったジャーン』
話題は囲碁・将棋・チェス部へと逸れていく。
『ってか五百鈴みたいなのが囲碁・将棋って、なんか囲碁・将棋に失礼っぽくねー?』
『あは、何それ。ギャップ萌えってこと?』
笹森は捕まらない。四六時中、周りに人がいる。化学の赤点を嘆くはずが、すぐに切り替わってしまった。笹森が捕まらない。
どこに行くにも、彼は友人といる。目が合うこともない。そしてそれが元の日常であることに気付く。もともと七尾を介さなければ、星子は笹森と関わることはなかった。小さな1クラスの中でも地下と天上が存在していた。忘れていた。そのことに気付くと、テキストメッセージを送るのも躊躇われた。
昼飯時にやっと、彼は一人で教室を出る。8組と共有の水道に向かい、シンクに両手をついて、前のめりになる。肩甲骨が迫(せ)り上がった。口元に手が添わる。
「大丈夫?」
声をかける。
笹森が振り向いた。青褪めた顔が眉を顰める。
「ああ、白川さんか。何か用?」
「あ……えっと……茶封筒のことなんだけれど……」
「は? 何、茶封筒って」
笹森は張った肩を落とした。
「1000円は貰いすぎだから、お釣り、明日……」
「……いいよ。要らない」
笹森は手を洗うでも水を飲むでもなく、蛇口の把手に触れることなく水場を去る。
「あ、笹森くん……」
「何?」
「リップクリーム、ごめんなさい。置いて行っちゃって……」
「別に。ぼくがそんなこと気にしてると思ったの? そんなワケないじゃん」
教室の廊下側の窓が開く。鷲羽さんが顔を覗かせた。
「五百鈴も来てよ! 愛莉紗のママがメロンだって! ……ああ、星子チャンも……?」
「あー、ぼくはいいや。ありがとうね。愛莉紗ちゃんにもよろしく言っておいて」
笹森は手を振って行ってしまった。鷲羽さんは星子を一瞥したが、すぐに目を逸らし、窓を閉めた。
星子は笹森を追うかたちになった。だが彼を追ったわけではなかった。しかし彼はそうは思わなかったようだ。渡り廊下の前で立ち止まる。星子も思わず立ち止まる。
「何? ストーカー?」
「え……?」
「追ってこないでよ。白川さんがぼくに用があるワケないよね」
「あ、わ、わたし、下駄箱に用があるから……」
笹森は渡り廊下に曲がっていった。
星子は玄関ホールの共有スペースの自販機に茶封筒の1000円札を入れた。500mlのジュースを1本買うと、850円の釣銭が吐き出された。
笹森宅に届けたスポーツドリンクや飲料ゼリー代はクーポン券やアプリ割引を使って750円だった。100円玉を2枚と50円玉1枚を抜き取ると茶封筒に入れる。そのまま、下駄箱に行き、笹森の下駄箱に入れた。
星子は教室に戻る。「川辺の石」と題された古びた図録を眺めている七尾に話しかけた。
「なんだ」
「細かいお金作りたくてさ、自動販売機でジュース買ったんだけれど、飲み切れないと思うから、あげる」
黄色の炭酸飲料を机に置く。
「は? いいのかよ」
「うん」
「両替くらい言ってくれたらやったぞ。こちとら臨時の駄菓子屋店員なんだからな」
「この前のお詫びも兼ねて……ってことで。ダメ?」
星子は首を傾げた。座っている三白眼を見下ろす。夏の昼の明るさが、虹彩の襞を透かす。
七尾は眉間に皺を寄せた。そして顔を背け、目を側める。口元を拭い、俯いた。
「いいよ。赦す。フツーに……ってか赦してるから、あんま気にすんな……」
「ありがとう」
「ありがたく、飲ましてもらうわ……」
「玄関の自動販売機のだから、そんな珍しくないけれど……」
「いいんだよ、細かいことは」
星子は机に置かれた図録を見る。
「本読んでるの珍しいね」
「お、俺がバカだって言いたいのかな、星子ちゃんは」
「え! まさか! 化学とかやっぱ……平均点、超えてるよね……?」
「とーぜん。なんで? まさか……」
星子は項垂れながら頷いた。
「ま、難しかったからな」
「平均点以下どころじゃないの………赤点なの……」
「そういうこともある」
星子は唇を尖らせ、図録の表紙を眺めた。
「お前も入るだろ、科学部」
「え」
「だからお前なら何ができるかなーって。絵とか描くの好きだろ」
「う、うん……まぁ……」
七尾の前では長いこと絵など描いていない。
「石の中身の模様とかを描き分けるのはどうよ。この図録で名前を調べりゃいい」
「科学部って……そんなんでいいの……?」
「名前が堅物(あれ)なだけで、実質、遊びクラブだからな」
星子は黙った。
「どうだ? 入る気になったか? 星子が入ってくれたらよー、科学部がやっと同好会からガチの部活になるんだよなぁ~。そうしたら後輩の月也クンも、今後やりたいことの幅が増えるんだけどなー?」
部活には入らないつもりでいた。家事がある。費用がかかる。大会前の緊張感は苦手だ。達成感というものに浸れる性質でもなかった。
「……考えておくよ。叔父さんにも訊いてみないと」
一人では決められない。この高校生活は叔父の養育と献身のもとに成り立っているのだ。
「無理なく、な。来たい時に来てくれればいいってよ。備品も貸し出ししてる。叔父さんには俺が説明してもいい」
七尾の口元は柔らかい。
「七尾くんは科学部が大好きなんだね」
彼が楽しそうならば、星子は化学のテストで赤点を取ったことなど、どうでも良くなってしまった。
「科学部も好きだけどよ……星子と青春したい。それだけ」
七尾は優しい。咲菜は鷲羽さんと"青春"をするのだ。他に"青春"というものを味わえる人間がいないことを見越して、自らをその相手に立候補したのだろう。小中高と学舎を共にした情愛は深い。
「誘ってくれたのも嬉しかったけれど……絵を描いてること、憶えていてくれてたのも嬉しかったよ。ありがとう、七尾くん」
「憶えてるだろ、それくらい……」
「へへへ」
笹森から渡されたリップクリームも下駄箱に入れた。まだ250円を入れた茶封筒は回収されていないようだった。朝以降、下駄箱を見ていないのだろう。だが体育で校庭に出るなどしなければ、放課後でもないというのに下駄箱を見ないのは無理もない。
笹森は、自分が使ってしまったからと代替品を買ってよこした。ところが星子は、叔父から新たなリップクリームを買い与えられたのだ。それで事足りる。返せば、彼がまた使うだろう。星子のもとで持ち腐れるよりも、このリップクリームはリップクリーム生命を果たすべきだ。
不要な出費をさせてしまった。不調な身体に要らない買い物をさせてしまった。
星子はリップクリームから目を逸らした。
「星子チャン、五百鈴に何か用なん?」
星子は肩を弾ませた。真横に鷲羽さんが佇んでいる。周りに咲菜や仲の良い男子たちはいなかった。
「あ、えっと……鷲羽さん……」
「最近、五百鈴と一緒にいるよねー? あ、七尾がいるからか」
「そんなには一緒にいないと思うけれど……」
鷲羽さんは作り笑いを浮かべ、口元を隠している。
「まぁ、そうだよね。でもさー、五百鈴って女子から人気?だからさー、あんまり一緒にいると、拙(まず)くない? 星子チャンが悪く言われるってゆうかさー」
サークルコンタクトレンズで強調された黒目が頻りに左右に転がった。
笹森は男女問わず人気者だ。それは間違いない。星子もよくよく知っている。咲菜も彼に想いを寄せている。
「……確かに……」
「五百鈴も五百鈴でさー、おとなしい女子には優しいし? 多分忙しくても相手しちゃうと思うんだよね。だからさー、その、あんまり、期待とかしないほうが、星子チャンも傷付かなくて済むかなーって、ンハハハ。ね? ンハハハ」
鷲羽さんは努めて笑みを浮かべ、蝉よろしく笑い声を鳴らしている。
「期待なんてしてないよ。わたし別に……」
笹森のことは好きではない。だが皆が皆、皆が笹森のことを好いていると思っている。ところが実際、咲菜は笹森を好いていると言う。
「いいって、いいって。アタシそういうの分かるからさー。ンハ、ンハハハ。五百鈴、黙ってればまぁまぁイケメンっしょ? それに星子チャンみたいな陰気(カンジ)の子にはフツーに優しいしー?」
「本当に、わたしは……」
「あとさー、七尾? 七尾と長いんだっけ? でも七尾もなんか好きな人いるみたいだし、3年生の美人な先輩も七尾のこといいと思ってるんだって。3年に目ェ付けられんのヤバくない? アタシは星子チャンの味方だから言わしてもらうんだけど、七尾もそろそろカノジョとか欲しいと思うんだよね。それでなんか、星子チャンにその気ないのは分かってるんだけどさー、他の子がどう思うか分からないじゃん? だから星子チャンがあんまり周りうろちょろしちゃうとさ、七尾のこと狙ってる子たちも遠慮しちゃうっていうか……あ、星子チャンにそのつもりないのは全然分かってるよ、アタシは? ただ、アタシ以外が……ほら………ね? ンハハハ、ンハハハ」
鷲羽さんは口元を隠し、片手は身振り手振りが大きく、喉だけで笑っている。
鷲羽さんは言葉を選んでいるが、それは警告だった。
星子は七尾とのやり取りを思い起こした。デートをしようという話は、おそらくは彼なりの冗談だ。ただ昔馴染みと気分転換がしたいという話なのだ。七尾の気分転換であれば、2人である必要はない。咲菜を誘うのはどうだろう。そして七尾は笹森を誘えばよい。しかし笹森の態度を見るに、星子がいれば来ないだろう。
相談すると約束をした。
だが優しい七尾が、"はい、気を遣っています"と答えるはずはない。
「あ、ねぇ……星子チャン、怒った? アタシ本当に、星子チャンのこと想って言ってるだけなんだけどさ……アタシ、ほら、誤解されやすいじゃん? アタシ結構、友達とか大事にしたいと思ってるんだけど……」
「ううん。ありがとう、鷲羽さん。これからは改めるよ」
七尾に甘え過ぎていた。七尾は昔馴染みのために受け容れてくれていたが、それを周りで見ている人たちはどう思うだろう。
鷲羽さんは、星子の目の前にある笹森の下駄箱を見上げた。
「何、渡したの?」
「ああ、ちょっと前にジュース立て替えたことあったから、そのお釣り」
「ふーん。じゃあこれは?」
鷲羽さんはリップクリームを手に取った。
「それも、笹森くんが……その、壊しちゃったから弁償してもらったのだけれど……その、悪いかなって思って……返そうと思って……」
壊されてはいない。星子が自らの意思を以って捨てた。弁償も、予想だにしていなかった。
「何それ? どうゆうこと? なんで?」
「わたしが落としたの、踏んじゃっただけだよ」
嘘である。だがそれが最も、笹森にとっても纏まりがいいはずだ。
「ふーん。あ、アタシが返しとくよ。そのほうが良くない?」
「ああ、うん……そのほうがいいかも」
鷲羽さんはリップクリームだけ持っていった。
星子はぼんやりと広い三和土を眺めた。少し疲れ、共有スペースのベンチに座る。
七尾との約束について、また撤回するべきか。だが彼は楽しみにしていると言っていた。それは2人で行くべきものなのだろうか。彼が想いを寄せている咲菜を誘え、という婉曲的な要求なのであろうか。しかしそうでないなら星子を誘う必要はない。彼は仲の良い男子と遊びに行くべきなのだ。笹森は体調が悪そうだが、他クラスにも七尾と仲の良い男子は多い。女子も多い。
相談しろと彼は言った。咲菜を誘うか訊いてみるべきか……
星子は頭を抱えた。微かな頭痛さえ感じはじめる。
鷲羽さんは友人想いだ。本人の言うとおり、友情を重んじているのだ。
星子は確かに七尾の新たな恋の機会を奪ってしまっている! 彼の恋路が断崖絶壁になることを知っていながら黙認している。彼が恋い焦がれて止まない相手、咲菜は笹森が好きなのだ。七尾は別の女子に舵切りするべきなのだ。そうすれば彼の失恋を、星子は目の当たりにせずに済む。彼の疲れた笑みを思い出すと胸が苦しくなった。あのような笑みを浮かべさせてはならない。咲菜を諦め、"3年の美人な先輩"に行けば、七尾は安泰なのだ。
分かりきった恋路の行方を黙認し、彼を谷底に突き落とそうとしている。
星子は項垂れた。
相談しろと彼は言った。だが相談できる内容ではなかった。
考え事をしていた。台所の窓の奥が光り、中指の先に雷が落ちる。
「痛っ」
近所の人からもらったナスを縦に切っていたが、ナスが転がったようだ。油断していた。中指を見ると、忽(たちま)ち赤くなっていく。
ビーズカーテンが軋み、後ろから気配が迫った。
「だ、大丈夫かい?」
叔父が強張った顔をして、傍にやって来る。
「すみません……考え事をしていて」
「ほら、早く手を洗って……」
骨張った薄い掌に背中を押され、星子は指を洗った。
「絆創膏を持ってくるから待っていなさい」
ビーズカーテンがまた軋る。
星子は窓の外の稲穂を望んだ。斑模様の曇天が時折透けて、唸り声を上げている。
すぐさま救急箱を持った叔父が戻ってきた。消毒液を垂らし、ティッシュで拭き取ると、絆創膏を巻いていく。
「ボクが代わろうか?」
「大丈夫です。ごめんなさい」
「謝らないでおくれ。気を付けるんだよ。包丁の研ぎが甘かったかい? 今度研いでおくよ」
「すみません……ぼーっとしてしまっただけですから」
「何か、悩み事かな」
「……七尾くんとデート……行ってもいいですか」
家中のガラスが割れるような音がした。だが窓ガラスは無事だ。空が唸っている。
「もちろんだよ。そんなことを悩んでいたの」
「いいえ……他の女の子も、誘うべきなのかな……って。七尾くんの、好きな子なんですけれど……」
叔父は神経質げな眉を歪め、首を傾げた。
「どうして? 七尾くんは、君を誘ったのだろう?」
叔父は背景を知らないのだ。七尾が咲菜を好いていることは知らない。星子が七尾から新たな恋の機会を根刮ぎ毟り取っていることを知らない。
「そうなんですけれど……そうしたほうがいいのかなって、ちょっと、思っちゃっただけです」


