my天の川に流るる
19
インターホンを鳴らす。玄関扉の奥は静かだった。
星子(しょうこ)は玄関前に立ち尽くす。テキストメッセージの最後のやり取りにはまだ既読の印がつかない。
遊び慣れた男子の戯言を本気にしてしまっただけだったようだ。誰にでも言って回っていたのだ。そして打ち上げに行かない、誘われてすらいない星子だけが真に受け、本当に来てしまった。
気色悪い話だ。笹森は本当に来るとは思っていなかったのだろう。そのためにインターホンを鳴らしても姿を見せない。
恥ずかしい話がまたひとつ増えていく。増えたところで笑って話せる自信がない。聞いている相手も笑ってはくれない。おそらく七尾が笑うことはない。
星子は踵を返す。後ろでドアの開く音があったが、彼女は自身の靴音で聞こえなかった。
「星子……?」
星子は瀟洒(しょうしゃ)な造りの表札へ吸われていく。
「星子、待って!」
コピー&ペーストしたような近所に響き渡る。星子は振り向いた。玄関扉から断頭台よろしく笹森が首を突き出している。
「笹森くん」
彼は本当に斬首されたかのように頭が下降していく。
星子は駆け寄った。玄関扉に挟まれ、蹲(うずくま)る彼は寝間着姿だった。足元は裸足にスリッパで三和土(たたき)を踏んでいる。
「笹森くん、大丈夫……?」
玄関扉を背中で押さえ、星子は屈む。顔を覗き込んだ。彼は以前にも増して隈が濃く、顔は陶器と化していた。明る色の髪の毛が額に張り付くほど汗ばんでいる。
明らかに尋常ではない。熱中症か。手の甲で肌に触れた。頬も首も湿っている。
「中、入ろう。危ないよ……」
彼は立ち上がらない。星子は見下ろした。丸まった淡いブルーの背中の色が変わっている。
「星子……」
笹森は抱えるようにして握っていたものを星子へと突き出した。リップクリームだった。厚紙とプラスチックで包装されたままだった。星子の使っているものと同じメーカーの同じ商品で、匂いも同じくココナッツミルクだ。正式には"バニラ&ココナッツの香り"というらしい。
「これ……」
「オレが使っちゃったから、返す……」
声が掠れている。だが鼻声ではない。
「でも、」
「いいから、もらっとけよ」
笹森は声を荒げた。星子の胸に、新品のリップクリームを押し付けると、目を閉じた。眩しがるように眉に皺を寄せ、鼻梁が歪む。
「あ、ありがとう……」
「それだけだから……用は、それだけ」
額に掌を当て、話すのも一苦労という有様だった。
星子は立ち上がる。
「笹森くん……おうちの人は」
詰めれば4台は納まる車庫に、車は1台も停まっていない。
「いないよ」
星子は帰るか、留まるか、帰路と玄関を右顧左眄(うこさべん)し、そして笹森を見下ろす。
「中、入ろう」
日差しが、蝋でできた肌を溶かしてしまいそうだった。
「星子のこと、見送る」
「いいよ、そんなの」
星子は蹲る肩を揺する。
「危ないよ」
「……」
「笹森くん」
彼は動かない。背中に亀裂が入り、今から羽化するつもりなのかもしれない。
「動けない」
笹森の手は、戸当たりを掴んでいた。星子はまた膝を折る。
「腕、借りるね。一緒に立とう」
中学時代のJRC委員会の活動で学んだことがある。だが見様見真似だった。横に立つ。玄関扉に挟まれながら、汗ばんだ腕を肩に掛け、星子は笹森の腋の下に腕を回す。けれども届かなかった。
「立つよ……? せーのっ、」
星子は立ち上がる。笹森の背中を支える。彼もまた戸当たりを使って立とうとしたが、星子の力では男子の中でも背の高い笹森を持ち上げることはできなかった。男子というのは頬や指から骨を浮かしていても重いようなのだ。
講習会の人形は180cm前後はなかった。体重も精々30kgほどで、実践者は中肉中背の男性だった。
「もう、いいよ……少し休めば、動けるから……」
だが星子は空を見上げた。額に手を掲げる。日差しが強い。陽光が彼を溶かしてしまう。
「もう一回、頑張ろ……?」
星子は笹森の掴んでいる戸当たりを一瞥する。彼の目の前に立つ。戸当たりに触れていないほうの腕を星子は肩に回させた。抱擁の形をとる。汗の熱気と湿気が前面を覆う。
「もういいって……」
「気持ちだけじゃ助けられないって、前に笹森くん、言ったよね。本当にそう。わたしの力じゃ笹森くんのこと、立たせられないから……笹森くんが立って。立てなかったらわたしが支えるからさ」
普段は高いところにあるアーモンド色の瞳が星子を上目で捉えた。
「……オレは重いよ」
「うん。でもわたしも女の子の中じゃ重いほうだから、平気!」
女子たちは皆、40kg台らしい。38kgだという女子もいた。だが星子は彼女たちとそう背丈は変わらないというのに52kgある。
「……嘘吐け」
「本当だよ。アイス食べ過ぎてちょっと太ったし」
明るい双眸は訝(いぶか)しんでいる。身体は炎天下に放り出された氷片同然であっても、そのアーモンド色はむしろ炎帝の座を簒奪(さんだつ)している。
「ゆっくり立つからね。笹森くんのペースで、大丈夫だから」
星子もまた片手で扉の外枠を握った。太陽に炙られたサッシと外壁の鑢(やすり)じみた微細な凹凸が掌を焼く。
「いくよ……せーの………っ、!」
笹森の立つ力を受け止める。彼の身体を戸当たりの半ばで縫い留めた。外壁の凹凸が掌に食い込み、サッシが皮膚を焼く。触れ合った身体は蒸れ、重みが加わる。笹森もまた戸当たりを掴み、スリッパを踏み締め、徐々に腰を上げていく。
「ぅ………ぐぐぐ………」
星子は笹森の体重を口から逃がしていく。
「ぅううう……」
「星子」
「大丈夫。ゆっくり……ゆっくりね……」
星子が腕を通した彼の腋の下は、腕だけサウナに突き入れたようだった。
笹森の手が、戸当たりを辿る。軈(やが)て彼の膝裏が伸びた。足取りは重いようだが、彼は上がり框(かまち)のほうへ倒れていく。星子は急激な転倒こそ防いだものの、結局は床に転がるほかなかった。
玄関扉が閉まり、赫々とした光を失った三和土は薄暗くなった。
玄関ホールに半ば倒れ込んでいる体調不良者を星子は見下ろした。
「どっか打った?」
「打ってない……」
「お邪魔していい? 飲み物は?」
「もう帰っていいって……」
「笹森くんが何か飲んだら帰るよ」
笹森は腹を大きく浮沈させている。
「ごめん、お邪魔するね」
星子は不法侵入した。そしてリビングに踏み入り、勝手に冷蔵庫を開けた。牛乳と麦茶が入っている。
星子は水切りにあった誰のものかも分からないコップに、麦茶を注いだ。そして笹森に持っていく。
「飲んで」
「……飲んだら、帰る?」
彼は腕の力で上体を起こし、人魚よろしく床を這い、壁に凭れる。その手にコップを渡した。
「うん。飲んだら帰る」
彼は麦茶を見詰めていた。まるで星子が毒なり異物なりを混入させたかのような躊躇いようだった。
「何か食べたんだよね?」
激しく汗をかいたようだった。麦茶では塩が足らない。
「……うん」
「何食べたの」
果たして塩気のあるものか。
「ゼリー」
笹森は麦茶を一口飲んだ。
「帰って」
「足らないよ」
「飲んだから。飲んだから、帰って」
「もっと飲まないと」
「飲みたくない」
「飲まないと倒れちゃうよ」
「熱中症じゃないから」
「熱中症じゃなくても、汗かいてる」
笹森は壁に頭を委ね、目を閉じる。
「水は飲んでるから……」
「水だけじゃダメなの、笹森くんだって知ってるよね」
熱中症の処置にかけては星子よりも手慣れていた。笹森自身、中学時代の部活動で経験があるようだった。
「何も飲みたくないし……」
「冷蔵庫見せてもらったのだけれど……それはごめんね。スポーツドリンクとか買ってくるよ。ポカエリとアクリスどっちがいい?」
「別に……要らないから……」
「でも……」
「今日打ち上げだったんだろ。何のこのこ会いに来てんだよ。断れよ。なんで来たんだよ。来るなよ。無視すればよかったじゃん。さっさと合流してきたら」
笹森は叫ぶと、塩を振り撒かれた蛞蝓同然に萎びてしまった。
星子は俯く。
「打ち上げには行けないんだ」
星子は誘われていない。咲菜も七尾も誘われていた。つまりその打ち上げはクラス全体として催されるものではなく招待制なのだ。招かれていない場に勝手に行くわけにはいかない。
「……なんで」
「誘われてないから。アハハ」
だが誘われたとしても、打ち上げを断らなければならない予定が元からあった。
「………ふーん」
「咲菜ちゃんは行ったみたいだよ。七尾くんは……断ってたけれど」
星子の喉が硬くなる。声が曇る。元からあった予定を削除したというのに、何故七尾は打ち上げに行かないのだろう。鷲羽(わしゅう)さんやその他の男子たちも彼に来てほしがっていた。何故求められながら、彼は応じなかったのだろう。その後の関わりに繋がる、大切な行事なのだ。星子も理解していることだ。七尾が理解していないはずはない。女子と男子では、集団の構造が違うのだろうか。
「別に、興味ない」
「え?」
「他の奴等がどうしようが、興味ないよ」
笹森の状態を見てみるがいい。とても他人を構っていられる状況ではない。
星子は気恥ずかしくなった。またもや利己的な本性が姿を顕していた。
「ああ、そっか、そっか。ごめんね。スポーツドリンク買ってくるね」
「だからいいって……誘われなかったから仕方なく来たんだろ。悪かったよ。久々の早帰りだろ。とっとと帰りな」
笹森は膝を立て、そこに乗せた手で、追い払う仕草をする。
「ううん。本当はね、七尾くんとお出掛けする予定だったの。でも……ああ、ごめん。興味ないよね。とりあえずスポーツドリンクだけ買ってくるから、ちゃんと飲んでおいてね」
星子は玄関を飛び出した。
ポカエリはスポーツドリンクを謳っているが、塩分と糖分が多いようだ。アクリスは水分補給に適しているとラベルには書いてある。水分は水を飲んでいると笹森は言っていたし、麦茶を飲ませたばかりだ。かごにポカエリを入れる。だが棚から離れると、アクリスのほうが優れている気にもなった。棚の前で成分表示を見比べているうちに、星子の脳裏には蜂と蠅が飛び回り、蚊が羽音を鳴らし、蝉が鳴き喚く。2本をかごに入れた途端、それらは一掃された。
そして飲料ゼリーを2つ足し、会計する。
高校の横の店の密集した区画を通り抜けると、ファストフード店が目に入った。もし七尾との約束を果たしていたならば、今頃は彼と油の染みたポテトを食べていたのだろう。
星子は目を伏せた。何故、彼は打ち上げに行かなかったのか。断る理由は消したはずだ。打ち上げに行く理由はたくさんある。
ただ分かるのは、七尾に悪いことをしてしまったということだけだ。振り回してしまった。
マキシバーガーの赤い外壁を視界から外す。
理想のデートを語った自身が厭になった。恥ずかしくなった。情けなくなった。デートの理想を語る資格もなかった。人の心を解する能力のない者がデートを語れば、それは搾取であり消費だった。人を人とも思えないのならば、人形遊びとどう違うのか。
星子は焼けたアスファルトの上を歩く。干乾びたミミズが黒くなっていた。緑色の小さな虫が蟻に葬列をしてもらっている。茶色の翅のセミは空に手を伸ばし、息絶えるのを待っていた。
星子が汗水を垂らしても、誰も喜びはしない。黒いしみは即座に消えていく。
笹森宅に着き、インターホンを押してから玄関扉を開けた。だが、開かなかった。がこ、と音がした。開かない。2度、3度、試す。鍵が掛かっているようだった。
「笹森くん……」
彼は帰れと言っていた。帰したかったのだ。スポーツドリンクも要らないと言っていた。助け起こす膂力(りょりょく)も技術も知識もない人間が傍にいたところで、余計に力を消耗するだけである。
「ハハハ………」
乾いた笑いをすぐさま熱気が奪い取っていく。
買い物袋をドアノブに掛け、星子は笹森にメッセージを打った。
[暑い中ごめんね。買ったものはドアノブに掛けておくから。ちゃんと飲んでね]
送信する。
鍵を掛けたということは、自力で立てたということだ。そして歩けたということだ。
鍵を掛けられるだけの体力は戻ったようだ。
高校から帰るよりも大回りになったが、星子は駅へ向かった。電車を待つ頃には笹森に宛てたメッセージには「既読」がついている。彼は部屋に戻れたようだ。
電車がやって来る。ドアが開き、冷気に誘われる。窓の近くに立ち、田園風景や住宅地を眺めるのが好きだった。
ドアが閉まる。発車する。星子は新しいリップクリームを笹森宅に置いてきてしまったことを思い出す。
自宅の玄関扉を開く。
「ただいま、叔父さん」
叔父はすでに帰ってきていたようだ。靴がある。
「おかえりなさい。随分と早かったね」
叔父がリビングから姿を現す。帰宅時間が分かったら連絡をすると送っておきながら、星子はすでに帰宅していた。
「ごめんなさい、帰宅時間、送るって言ったのに」
「気にしなくていいよ、そんなこと。楽しめたのかい」
「え……?」
「七尾くんと寄り道してきたんだろう?」
星子は温容から顔を背ける。
「結局、行けなかったんです」
「何かあったのかい」
叔父の音吐(おんと)がわずかに下がる。
「七尾くんは、クラスの打ち上げに誘われていて……」
星子は何から説明していいか分からなくなった。
「行ってきたらよかったじゃないか。今からでも送ろうか」
「あ、その……」
叔父には言えなかった。誘われていたのは七尾で、星子は誘われていない。叔父に言えるはずはない。クラスに溶け込めているか、常に気を揉んでいる。
「クラスメイトの子が、ちょっと体調が悪かったみたいで……」
「じゃあ、七尾くんは打ち上げのほうに行ったのかい?」
彼女は焦った。七尾がクラスの打ち上げのために急遽予定を変更したかのように叔父に伝わってはいないか。
「あ、えっと、七尾くんは結局、打ち上げには行かなかったみたいです……」
叔父は黙った。星子は反芻した。嘘は吐いていないが、敢えて伏せた事実はある。叔父は頭が良い。もしかすると、平仄(ひょうそく)の合わない点があったのかもしれない。
「ちゃんと叔父さんに連絡するべきでした。ごめんなさい……」
「それは良いけれど……その体調の悪いお友達はもう平気なのかい」
自力で歩けるまでには回復したようだった。意識はあり、話せてもいた。テキストメッセージを開く余力もあるようだった。
「はい」
「……そう」
叔父は眉を落としている。星子はまたもや、自身の発言を噛み直す。おかしな点はないはずだ。嘘は言っていない。クラスの打ち上げに誘われなかった点について隠しただけだ。
「アイスを買っておいたよ。お食べなさい」
星子は頷いた。だがすぐに食べる気にはなれなかった。
手を洗い、制服から部屋着に着替え、クーラーの効いたリビングに移動する。
ローテーブルの上にはドラッグストアの青いビニール袋が乗っていた。シェービングジェルやメントール入りのシャンプーなどが見えた。袋の脇にアイスリングとリップクリームが置かれている。
星子はリップクリームを見下ろした。セラミド配合と謳ったスティックタイプで、ハイブランドではない市販のものだが、他のものと比べると値が張る。ひとつかふたつジュースが買えてしまうほどの差額がある。
「それは君に買ってきたんだ。クーラーと扇風機ばかりで唇が荒れてしまうだろう。日差しも浴びるだろうし……」
「あ、ありがとう……ございます……」
星子は唇を舐めた。笹森にリップクリームを使ってからは、ワセリンで済ませていたが、ワセリンは指で塗らなければならなかった。
「早速、使ってみますね」
笹森に使ったリップクリームは、咲菜に対して後ろめたかった。今頃は焼却炉で灰にされ、山に埋め立てられている。
「アイスリングも、新しいのを使うといい。2つあったほうが便利かと思って」
「何から何まで、すみません……」
「いいや、良いんだよ。もう少し我儘や贅沢を言ってくれても」
「今でも大分、言っていますから」
叔父の顔を見られなかった。叔父がどれだけ尽くそうとも、人心の種という種がなければ、芽吹きはしない。芽吹きはしないのなら育たない。無いものは無い。片輪だった。ゆえにクラスの打ち上げには誘われなかった。
「夕飯は何がいい? テストも終わったのだし、焼肉とかは」
星子はさらに頭を上げることができなくなった。
「今回のテストも、七尾くんや月也くんに見てもらったんですけど、あんまり、芳しくなくて……」
「とりあえず、ひとつイベントが終わった。それでいいんじゃないかな。落ち込むためには、たくさん食べないと。それともお寿司がいいかな。ラーメンでも、イタリアンでも、何でもいいよ」
星子はローテーブルのガラスの摩耗を凝らしていた。
「星子」
「すみません……ぼーっとしちゃって。夕飯は作ります」
夏休み前で叔父の仕事は立て込んでいるようだった。昨日も帰りが遅く、夕食は外で済ませてきたらしかった。趣味の晩酌もここのところ、やった形跡がない。
「たまには、ゆっくりしたら」
「せっかく早く帰ってきたんですから。ちょっと買い物に行ってきます」
「いいよ。連れて行くよ。たまには頼って……ああ、お刺身にしよう。大きいやつを……いいかな、それで……」
叔父は眉を下げる。困っている。困らせてばかりいる。
「それなら、ごはんを炊いてからにします。ごめんなさい、段取りが悪くて……」
「何を言っているんだ、君は……」
星子はビーズカーテンを潜り、冷蔵庫を覗いた。必要なものを書き足してから、米を研ぐ。
[急用大丈夫だったか?いきなり過ぎた。ごめんな]
風呂から上がると、メッセージが来ていた。七尾からだった。名前を見た途端に、湯で温まったはずの身体が冷えていった。クーラーが心地良く感じられるはずだったが、今は寒い。濡れた髪は霜がつきそうだ。
テレビを観ながら枝豆を食らっている叔父が、星子を一瞥する。
「どうしたんだい」
「ああ、いいえ……別に。もう寝ようかと思って」
まだ寝るには早い時間帯だった。叔父も時計を確かめていた。
「クーラーを点けて寝るんだよ。25℃で、お布団を掛けて……」
「はい……」
「髪、面倒ならボクが乾かそうか」
「大丈夫です。自分で乾かせます」
叔父は晩酌を愉しんでいる。
「そう。おやすみなさい」
星子は脱衣所で髪を乾かしながら、七尾への返信を考えていた。普段は厄介だったドライヤー作業がいつの間にか終わっていた。そして返信の内容はまったく纏まっていなかった。
[今日は本当にごめんなさい。七尾くんが謝ることじゃないです。わたしが理想のデートなんて語っちゃったせいで、七尾くんに気を遣わせちゃって、打ち上げと重なっちゃったのは本当に申し訳なかったです]
しかし詫びたところで、打ち上げに出られなかった現実は変えられない。どちらの予定も断るはめになった七尾には、悪いことをした。
悶々としながら部屋に戻る。
ベッドに腰掛けると端末が震える。
[星子のせいじゃないよ]
七尾からだ。だが優しい彼はそう答えるほかないだろう。お前のせいだ、と思ったとて、送りはしない。接待を求めてしまった。乞うていた。
[デートの話、覚えててくれて嬉しかったです。ありがとうね]
本心のつもりだった。何気なく言ったことを七尾は憶えていてくれていた。そのことについて嬉しかったのは事実のはずなのだ。だが人の心に事実などあるだろうか。今、そう錯覚しただけではなかろうか。
送信してしまった。画面に表示された自身の言葉が嘘寒く見えた。
すぐに既読の印が付く。七尾もこの同じ星空の下、今この瞬間に同じように端末を睨んでいるのだろう。
[俺を鳥頭と一緒にするな]
七尾は頭が良いのだ。そのために、以前話した事柄を逐一憶えていられるのだろう。以前話したことだというのに忘られてしまう経験を相手に味わわせることはないのだろう。
[もう寝るね。おやすみなさい]
"アンラッキーアルパカ"のスタンプが返ってくる。眠気な顔のアルパカのキャラクターがナイトキャップを被り、枕を抱えている。
[疲れてるところにごめんな。おやすみ。また明日]
星子は何度もテキストを読み返した。怒ってはいないようだ。
しかし七尾の悄(しおら)しい微笑が脳裏に爆ぜる。怒ってはいない。怒ってはいないかもしれないが、あの笑みの正体が何だったのかと、星子は布団に潜りながら考えた。