my天の川に流るる

22

 鞄に付けた柔らかい毛並みのキーホルダーを揉み拉(しだ)く。雨風に曝されていくらか硬くなっているが、それでも撫でずにいられなかった。咲菜と揃いのキーホルダーで、失くさないように金具にカバーと補強を施してある。
 窓の外の耳鳴りが止む。
 共有スペースに足音が近付いた。
「やーっぱ、ここにいた」
 星子(しょうこ)は顔を上げた。七尾が立っている。
「七尾くん……」
「叔父さんから連絡きたよ」
「え……」
 彼女の目は徐々に七尾から逸れていく。
「雨が心配だって。どうした?」
 七尾は星子の隣に座った。角張った身体が近付く。星子は膝頭を打たれたように立ち上がってしまった。
「……どうした?」
「あ、あ、ううん……へへへ……ワンピースにしようか、スカートにしようか、考えてただけ……」
「は?」
「七尾くんとのお出掛け……」
「ああ、デートな。ワンピースがいいな。ズボンもいいけど。スカートは制服で見慣れてるし」
「パンツスタイルっていうんだよ」
「ズボンは、ズボンだろ」
 星子は七尾の顔が見られなかった。
「叔父さん……怒ってる?」
「いや、全然。どうしたんだよ」
「へへへ……ちょっと浮かれちゃったかも。ちょっと浮かれちゃったら、疲れちゃった」
「なんだそりゃ。でも叔父さん、迎えに来るってよ。星子いたって返信していいか」
「うん……ごめんね。部活中だったよね……」
 星子は顔を覆った。叔父を操り、七尾に探してもらうよう嗾(けしか)けたつもりはなかった。だが叔父の返信に嘘を吐いたことで、結果的にそうなってしまった。
「どうした?」
「ううん……何でもない。本当に、ごめん。家のことなのに。叔父さんと繋がってるの、知らなかった」
「謝んなよ。そんな気にすんなって。支障があれば気付かないフリして無視することもできたぜ」
「でも気にしちゃうのがさ、七尾くんじゃん……」
「それは星子もだろ」
 七尾は端末を開く。待受画面が見えた。
「え」
「何」
 現在の時刻と日付、曜日の背景にぼやけた花火が映り、その下に星子と七尾が映っている。
「その写真……」
「たなばた祭りの。よく撮れてるだろ。星子にも送ったよな?」
「もらったけれど……」
 たなばた祭りの帰りに、笹森の自宅に呼ばれた。流しそうめんの最中に打ち上げ花火が上がり、七尾と2人で写真を撮った。だが待受画面にされるとは思っていなかった。
「か、か、変えたほうがいいよ……」
「なんで?」
「だって、わたし、写り良くないし……」
「姉貴に加工してもらったけど? 明るさも色合いも綺麗じゃね」
「え゛、お姉さんに見せたの……」
 星子は七尾の姉を見たことがないが、話を聞くに、怕(こわ)い人らしい。
「ん、見せた。星子の加工優先したから俺まで色白になっちまってる」
 七尾は待受画面を見せる。七尾の肌が実際よりも白く代わり、目元も強調されている。浴衣の色も渋かった青色が鮮やかだ。
「で、でもさ、もし七尾くんのこと好きな子とかいたらさ、へ、変に思わないかな……? 大丈夫かな、わたしと七尾くんなら、変に、思わない……かな?」
「変に思っても俺のこと好きなら告白してこいよ。下手にビビるならその程度ってことだ」
「そ、そう……かな? 相手に悪いと思って告白できないだけかもしれないよ」
「……いいんだよ、俺の待受はこれで。そういう星子は何なんだ? 俺よりイカした待受なんだろーな? 俺とツーショットの待受じゃ困んの?」
「わたしは、困らない……けれど……」
「待受、何」
 星子は端末を取り出す。待受画面が現れる。窓辺に置かれたうさぎのぬいぐるみと赤い花の一輪挿さった花瓶の写真だった。
「かわいい」
「……面白くないでしょ」
 七尾は片手で返信を打ちながら、へらへら笑っていた。
「ちゃんと叔父さんに迎えに来てもらえよ。この前みたいに風邪ひくぜ」
「……うん」
 七尾の言葉を聞かずに、以前は風邪をひいたのだ。
 七尾の端末の画面に吹き出しが増える。叔父の返信のようだ。七尾はまた返信する。吹き出しが増える。
「じゃ、俺は科学部戻るわ」
「本当に、ごめんなさい。」
「いいって。やることは月也のお守(も)りだ。でも頭良すぎて世話も焼けねーし。ダルすぎて寝てたところ」
 星子は俯いた。
「なんかあったら、相談しろよ」
「う、うん……ワンピースにするね……!」
 七尾が笑う。

 本屋を練り歩いているうちにメッセージが来た。外に出ると、叔父の車が停まっていた。
「お手数をおかけしました」
 車に乗り込む。いつでも新車の匂いがした。
「とんでもない」
 星子は後部座席に乗る。叔父は助手席に乗せたがらない。
「お友達と一緒だったのに、済まなかったね」
「いいえ……そんな……」
「今度からはお友達も誘いなさいな。2台くらいなら自転車も乗せられるから」
 しかし叔父の言っている"お友達"は存在しない。
「いいえ……さすがに、それは……」
「君のお友達なのだから、送り届けるのもボクの務めだよ。2時間も3時間もかかるところというわけではないのだろうし」
 星子はぼんやりと雨粒の増え、結合していく窓を見ていた。他の車のヘッドライトがビジューとなって睫毛に纏わりつくようだ。
 車内のクーラーが唇を乾かし、またもや薄皮が左右に引っ張られる感じがあった。セラミド配合のリップクリームを塗りたくる。縦皺にバター質が染み渡っていく。
「……何から何までありがとうございます」
「ボクは君の保護者だよ。当たり前だ」
 星子は上唇と下唇を擦り合わせた。今度は口の中が痺れた。笹森の影が残っている。
「……七尾くんとはきちんと話したのかい」
「え………、あ、ああ、はい……」
「それで、他のお友達も誘うのかい。七尾くんの………好きな人を?」
「誘わなくていいそうです。わたしと……2人だけ……ワンピース柄を着てきてほしいって……」
「そうかい。今度、新しいワンピースを買いに行こうか。髪飾りも要るね。美容室も……」
「あ、だ、大丈夫ですよ。そんな……」
「ボクだって特別な日の君が見たいよ。買ってあげる。七尾くんに、ウチの星子は可愛いんだぞ、って自慢しないと」
 三十路に入った叔父は落ち着いているが、彼もまた高校時代は艶福家だったような気配がある。言い慣れているのだろう。星子は乾いた笑いを返した。
「七尾くんは可愛い子、見慣れていますから……きっと」
 まず、7組の女子が"レベルが高い"らしい。おそらく7組の女子のほとんどが可愛い。実際、咲菜や渚音海(なおみ)ちゃん、愛莉紗ちゃん、希空良(のあら)ちゃんなど、星子から見ても可愛い子がいる。彼女たちも七尾とよく話している。彼女たちは選択数学でも選択物理でも接点がある。休み時間に勉強を教えていたこともあった。
「そうだろうね」
「だから、そんな着飾らなくても……」
 服装や髪では凌駕することのできない素質というものがある。才色兼備な彼女たちに、にわか仕込みで優(まさ)るものはない。
「君とよく一緒にいるなら、それは目が肥えるよ」
「え……いや、そんな……」
「うふふ。でもそれは、ボクや彼が知っていればいいことだから」
 叔父はラジオを点けた。




 巨大な蛞蝓(なめくじ)に轢かれる。重量感と湿った感触と温度がある。車よりも大きい蛞蝓は星子を轢いたあとも、去っていかなかった。圧(の)しかかり、星子を踏み潰そうと跳んで、彼女を踏み躙(にじ)る。だが締まりのないフレアースカートのような足では骨を圧(へ)し折ることも、内臓を圧潰(あっかい)することもできず、ただただ星子から呼吸を奪うのだった。息ができず、酸素を奪われ、しかし意識を手放すこともできず、長い苦しみが続くことを分からされる。
 そして這いずり出ようとあがいたところで、滲み溢れる蛞蝓の粘液が、星子の呼吸器官を塞いでいくのだ。
 苦しい!
 星子の目蓋が爆ぜる。クーラーの電源ランプが月光よろしく室内を照らしていた。巨大な蛞蝓はどこにもいない。それどころか、背中を濡らし、シーツを皺まみれにしている有様はまさに、彼女自身がベッドにとって巨大蛞蝓であった。
 パジャマとシーツに籠もる汗は、溜息と
ともに一気に冷えていく。身体が弛緩していく。少しの間、汗溜まりに沈んでいたが、軈(やが)て身を起こして端末を開く。時間を見ると深夜帯だ。草木も眠っている時間だ。クーラーばかりが働かされている。
 時刻の下に通知が来ていた。七尾から4時間前にメッセージが来ていた。
[これ姉貴に加工してもらったから待受画面にしたら]
 添付画像は、七尾の待受画面よりアップになったツーショットだった。打ち上げ花火が写っていない。代わりに被写体2人の顔がよく見えた。肌や髪や目元に強調や美白の加工が入り、全体的にフィルターで色味が均(なら)されている。
 返信の機会を逸してしまった。
 他の人たちに見られたならば、噂になってしまう。火のないところに煙は立たない。わざわざ放火する必要はない。七尾に延焼し、火だるまになってしまう。七尾は頭は良いが、短期的な頭の良さなのだ。目の前の現実を上手く処理できる頭の良さなのだ。火打石で火を点ける賢さなのだ。その火先(ほさき)が火炎旋風に化けることまでは考えない頭の良さなのだ。
 通知のいかない小さなスタンプを押して、星子は端末を裏返す。




◇
『え? あのさー、絶対言えないんだけどさー、7組の男子なんだけどね、ンハハハ、あのさー、えっとさー、ンハハハ、やっぱ言えなーい』
 鷲羽(わしゅう)さんが口元を隠し、喉と鼻で笑っている。掌を覆う長袖が校則違反に掠りそうなピンクベージュの爪を強調する。
 体育のバスケットボールの授業は、ほぼ夏休みまでの消化試合だった。6組と合同で、男子は第一体育館にいるために第二体育館には女子しかいなかった。バスケットボールの経験者たちが形ばかりのゲームをやり、女子たちはボールを追うでもなく、固まって談笑している。
 昨日の雨と今日の曇天が気温を下げ、蒸してはいるものの、大した暑さはなかった。
『えー、何、瑞希、教えてよ』
『えー、ンハハハ、マジで言えないんだけど、ンハハハ』
 鷲羽さんの周りに華やかな女子たちが集(つど)う。
 星子はボールを追っていた。追いはしたが、パスが回ってくることはない。
 鷲羽さんたちも歩きながらボールを追う。ボール次第で漣(さざなみ)よろしく北に流れ、南に流れる。彼女たちはボールを視覚ではなく気配で捕捉していた。
『教えて、教えて。何?』
『あたしも、あたしも知りたい』
『えー、あのさー、7組の男子ね? 7組の男子にさ、――されたんだけど、ンハハハ』
 鷲羽さんは体育着の袖で口元を隠した。そして身をくねらせた。
 星子は気を取られた。即席のチームメイトがパスを回したことにも気付かず、ボールが頭に直撃する。
「あ、星子ちゃん!」
 咲菜が叫んだ。
 体育の教科担任が笛を吹き、星子のもとへやって来ると、頭を撫で摩る。血相を変えた、パスを回した女子が何度も謝る。
「わたしがぼーっとしちゃっただけです。わたしがぼーっとしちゃっただけなんです。大丈夫ですよ、石頭だし。本当にごめんなさい」
 教科担任と、パスを回した女子を交互に見遣る。悪いことをしてしまった。保健室や見学を勧められたが断った。大した威力はなかった。
 ホイッスルによって静まり返った談笑がまた咲いていく。
「だ、大丈夫? 星子ちゃん……」
「うん。ありがとう、咲菜ちゃん。ちょっとぼーっとしちゃった」
 鷲羽さんたちが話している。盛り上がっている。
『瑞希のことだからどうせ笹森くんじゃない?』
『ンハハハ、ナイショー』
『7組まで言ったなら言いなさいよー』
 咲菜が後方の会話を気にしているようだった。
 ゲームが終わり、チームが入れ替わる。鷲羽さんがコートに入る。
 話を聞いていた女子たちが壁際にやって来た。
『ってか瑞希の言ってるあれ、本当なの?』
『どうなんだろうね。盛ったのかな』
『笹森くんにせがんだとか?』
『あー、軽いもんね、』
『ってかさ、百合彩(ゆりあ)も笹森くんに――されたって言ってたんだけど』
 星子は体育館の隅に座り、脇から聞こえてくる会話を聞いてしまった。反対側を見ると、咲菜がゲームを眺めている。
 星子は膝頭を見詰めた。
 昨日の出来事はよくあることなのだ。笹森にとっては日常なのだ。挨拶と変わらないことなのだ。それが華やかな男女の生活の一部なのだ。
 唇が痺れる。噛んだ。口の中に蛞蝓がいる。
「ちょっと、お水飲んでくる」
 星子は立ち上がった。そして出入り口にある水道で口を濯ぐ。カルキが甘い。
 昨日から、上手く食事を摂れていない。口の中の痺れが食欲さえも麻痺させる。
「星子ちゃん、大丈夫……?」
 口を数度洗い流していると、咲菜がやって来た。オーバーサイズに見える長袖のジャージがさらに彼女を華奢に見せる。
「うん」
「さっきので口の中、切っちゃったの?」
「ううん。それは全然関係ないよ。ちょっと口の中、変なの。虫歯かな。なんちゃって」
 星子は咲菜の小振りな唇を見た。食べ頃のさくらんぼのような張りと色味をしている。
 何故、咲菜ではないのだろう。だが、咲菜でなくて良かった。けれども咲菜が相手ならば、違っていたのだろう。肩に痣は残さないはずだ。
「笹森くんって……怕(こわ)い人なのかな……」
 咲菜が俯いた。先程の会話を聞いてしまったに違いない。星子もまた、咲菜の滑らかな白い脚と、健やかな肌を包むソックスを所在なく凝らしていた。
「……優しい人だと、思うけれど」
 リップクリームとスポーツドリンク代を返してくれた。その気遣いを無下にしたのは星子のほうだった。
「七尾くんは、ああいう噂、なさそうよね」
 星子は苦笑する。七尾の堅実な生き方が今、彼の与(あずか)り知らないところで報われている。だからこそ、今の彼の待受画面は、半紙に落ちた一滴の墨汁なのだ。
「七尾くんは、真面目だからね。あれで結構、苦労人なところあるし……お兄ちゃん気質っていうか……わたしお兄ちゃんいたことないから、分からないけれど……」
「面倒見良いものね、七尾くん」
「年の離れた妹がいるからかな」
 2人は体育館に戻る。


 昼休みになり、仲の良い女子たちが席を対面の形にしはじめる。
 咲菜の繋がりで鷲羽さんたちに混ぜてもらっていた星子は、一番端の席で飲料ゼリーを噛む。
 咲菜が星子を向いた。
「星子ちゃん、お弁当、それだけ?」
「ううん、お弁当持ってきたよ」
 小さなフードコンテナを保冷バッグから取り出した。元々、体育館が昼休みの直前にある日はそうたくさんは食べられなかった。咲菜もそれは知っている。
「えー、星子チャン、ダイエット?」
 違う話をしていた鷲羽さんが星子を向いた。
「夏休み、水着着たいもんねー」
 渚音海ちゃんがスパゲッティをフォークに巻いている。
「ああ、いいよね、海とか」
 愛莉紗ちゃんがキャップ付き紙パックのスムージーにストローを挿す。
「でも食べて痩せなきゃダメだよ。倒れちゃうでしょ」
 希空良(のあら)ちゃんが草まみれの弁当にフォークを刺す。
「だからバスケ頑張ってたんだ? ンハハハ」
 鷲羽さんは彼女たちのいる黒板側を向いて、それぞれの顔を見回した。
「そんな……頑張ってたわけではないけれど……」
 星子は照れ笑いを浮かべた。鷲羽さんの手で隠された口元が引き結ばれる。喉笑いが消えた。
「顔にボールぶつかるほど頑張ってたクセに?」
 教室が静かになった。他の昼食のグループも、一斉に雑談をやめた。
「それはさ、ちょっと……言い過ぎじゃない?」
 渚音海ちゃんが言った。
「柚衣にも悪いよ」
 希空良ちゃんが言った。"柚衣"は星子にボールを当ててしまった6組生だ。
「ンハハハ、あー、やっぱ? ンハハハ、ごめんねー? 星子チャンが活躍してたって言いたかったんだよ。アタシって誤解されやすー」
「う、ううん。わたしはぼーっとしちゃってただけで、活躍はしてないんだけれどね……」
 飲料ゼリーを啜る。
「活躍っていえばさー、五百鈴(いおり)! 今日男子もバスケだったんでしょー?」
 鷲羽さんは上体を捻り、笹森を向いた。
「んー。5点決めた」
「えっ、5点だけ?」
「七尾が強すぎる」
 笹森はパンを食っている。固形物が摂れるようになったらしい。だが体育時も男子には珍しく長袖だったようで、制服もまだ長袖である。
「へー! 七尾は何点取ったの?」
「知らん」
 七尾もパンを食らっている。
「なんで」
「いちいち憶えてない」
「3点だよ、3点」
 笹森が代わりに答えた。
「えー? でも五百鈴、元バスケ部なんだからさー」
「点取る以外にもバスケには仕事があんだよ」
 七尾が言った。
「サッカーもでしょ」
 笹森が言った。
「そ」
「えー、勝たなきゃイミなーい」
 鷲羽さんはいくらか声量を落とした。引き攣った笑みが張り付いている。
「星子」
 七尾から呼ばれ、星子は飲料ゼリーのパウチを握り潰した。すべて啜り終わる。
「頭ぶつけたのか?」
「パスもらったの気付かないで、考えごとしちゃってたから……」
 パスをくれた即席のチームメイトは何ひとつ悪くない。じゃんけんで決めたクラス混合のチームとはいえ、味方だからとパスを回したのだ。まさかボールを見ながら上の空でいるとは思わないだろう。
「ほぉ。マジか。気を付けろよ」
「ああ、うん……ごめんね」
「俺のこと考えてたの?」
 七尾はクラスメイトに聞かれていることも厭わない様子だった。むしろ聞かせているふうだった。
「えっ」
 星子は肝を潰した。
「七尾、自惚れすぎ~」
 鷲羽さんが答えた。
「はっはっはっ。いや、だとしたら悪いなーって思ってよ。俺が星子にとって、魅力的な男すぎたってワケ。ははは」
 星子も微苦笑を浮かべた。そしてフードコンテナに詰めたミニトマトの切ったものを齧る。
「七尾くんは、モテるからね……」
 星子の声はクラスの談笑に消え入っていく。
『ってかさー、ってかさー、五百鈴ー、昨日のアレさー、マジ、何だったんー?』
 鷲羽さんがまたもや教室の賑わいを切り裂いていく。渚音海ちゃんや愛莉紗ちゃんたちが気拙げな顔をして互いに顔を見合わせる。
『昨日のアレって?』
 笹森が答えた。
『えー? もうさぁ、言わせないでよ。帰りのアレ!』
 星子はフードコンテナの蓋を閉めた。梨を食べる余裕はなかった。
『あー、なんだっけ』
 笹森は本当に憶えていないのか。
 星子はフードコンテナを保冷バッグに戻す。
「星子ちゃん……?」
 咲菜の不思議そうな目に、星子はたじろいだ。
「ちょっと、お腹いっぱいになっちゃった。図書室に用があるから、行ってくるね」
 星子は教室を出た。渡り廊下で立ち止まり、深く息を吐く。教室は、酸素を奪い合う競争の場だ。
 中庭を見下ろしながら、依然として腫れの引かない感じのする唇を摘んだ。だが鏡で見る分には腫れていない。
 星子は渡り廊下を歩き、暗い裏校舎へ入った。
 図書室へ入ると、人の垢を介さない冷気が彼女を出迎える。
 カウンターの奥の部屋にいる司書教諭に会釈をし、本棚を見詰めた。用はなかった。紙に音を吸収されるこの空間が嫌いではなかった。
 夏祭りのようだ。テスト期間前は座る場所もないほどだというのに、テストが終わるやいなや、座っている者はいない。星子の気に入っている散歩道の神社もそうだ。夏祭りのときこそ境内(けいだい)に人が溢れかえっているというのに、平時は人っ子ひとりいない。
 所在なく背表紙を目で追う。
「白川先輩?」
 低めの女声とも紛う音吐が星子にかかる。深山幽谷(しんざんゆうこく)に染み渡る天然の水琴窟(すいきんくつ)を思わせる声質を知っている。
 部屋の隅を振り返ると、月也が本を選んでいるところだった。すでに片腕に何冊か本を抱えている。
「ああ、月也くん……こんにちは」
「こんにちは、先輩。何の本を探しているんですか?」
「特に何も……ちょっと暇潰しに。面白そうな本はあるかなって思って。月也くんは?」
「科学部で使うプログラミングの本です。Anaconda++っていう言語を使っていて――」
 月也は小難しい説明をはじめた。だが衒学(げんがく)的でないのは、その緩んだ頬のせいだろう。彼は知らしめたいのではなく、それを話すのが楽しいようだった。
「――なんです。科学部、楽しいです。白川先輩は絵を描くのが得意でしたよね。七尾先輩もそうおっしゃっていました。科学部では、見取り図や展開図が得意な方は多いようですが、入部案内のチラシは掛けないそうで。描いてくださる方を探しているそうですよ。白川先輩、いかがですか」
 月也のふっさりとした睫毛に囲われた目が眇められる。
「荷が重いな……なんて」
「そうですか? 僕は白川先輩の色鉛筆のタッチ、柔らかくて温かくて好きですけどね」
 この中学時代の後輩は、委員会なときに描いた絵を憶えているようだった。
「え……? もう、上手いんだから」
「もし、何か都合がつかないとかでないのなら、白川先輩と科学部で高校生活、過ごしたいです」
 七尾も、石の図録を読んでいた。星子が科学部でやれることを探していた。
 叔父も部活について勧めていた。反対はしないだろう。むしろ背中を押すだろう。
「前向きに……考えてみるよ」
< 22 / 26 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop