my天の川に流るる
23
髪は結い上げて、ワンピースと揃いの向日葵の飾りが付いた髪留めをつけたい。黄色のマニキュアを塗って、トンボ玉の耳飾りを嵌める……
星子の背中は壁を滑り落ちていく。膝が折れ、軈(やが)て座り込んだ。
一昨年叔父に買ってもらった貝殻のペンダントは向日葵柄に揃えた服装に合わないだろう。だが首元が寂しい気もしている。
星子は息を急いた。口の中の蛞蝓が呼吸を先に奪い取ってしまうのだが。まだ暴れ回っている気がした。
「ナンデアマイノ」
笹森の名前が書かれた上足サンダルを凝らした。寄せ書きよろしく女子の字らしき丸文字で「チャラ男」だの「イケメン」だの書いてある。
「ナンデ星子ダケサ、甘イノ……」
星子の視界に笹森が割り入った。急激に下降し、彼女の顎を掴む。
「糖尿病なんじゃないの」
笹森は星子の鼻先に鼻先を寄せ、音を鳴らして嗅ぎ回る。無遠慮に引っ張り、鼻を鳴らし、嗅覚を働かせている。
星子はまた、七尾との外出時の服装について考えはじめた。首元にはスカーフを巻く。これも黄色の模様が入ったスカーフを持っている。ワンピースの柄と競わないはずだ。
「星子はオレのこと好きって言ったよね」
掴まれている顎に、やっと感覚が戻り、星子は陸に置き去りにされた魚のように口を動かした。
「星子はオレのことが好きなんだよ」
笹森は星子の頤(おとがい)を掬ったまま、片手をポケットに突っ込んだ。ベージュの筒状のものを取り出し、ベージュのものは上下に分かれた。ココナッツミルクの香りがする。
星子の唇にバター質が塗られていく。
そして彼女に、夕立雲よりどす黒い暗雲が立ち込めた。
開け放した唇から、蛞蝓の行列が出ていくようだった。膝は折り畳まれたまま力が入らない。
ブレスレットは自作してもいい。最近できた近場の100円均一ショップには、自作用アクセサリーの素材が潤沢に並んでいた。ワンピースに合わせた向日葵のモチーフもあった気がした。
七尾の隣を歩いても、彼が恥ずかしくない服装をしなければならない。咲菜にはなれなくとも、予行演習としての相手にはならなくてはならない。
星子は彼の恋の行く末を知っているのだ。彼の想う咲菜には他に好きな人がいる。
星子は口を閉じた。そして水場に急いだ。ここがどこかだか忘れたが、水場の場所は憶えていた。
口を濯ぐ。ここが玄関ホールから最も近い1組2組の水場だと思い出す。
水を吐き出し、喉から洗う。水を飲もうと思ったが、口を経由して水を飲みたくなかった。
「ぉ、え、え、え………」
蛞蝓が口の中に住んでしまった。想像すると、胃が引き攣った。だが幸い、昼飯はすべて消化されていた。出すものがなかった。爆発的な腹具合は空振りに終わる。虚無が排水口で渦巻いた。
「は……は………は…………ぅう………」
口元をハンカチで押さえる。叔父からもらった柔らかな素材が皮膚を撫でる。星子のイニシャルが金糸で刺繍されている。何度か洗濯に揉まれ、すでに家庭の匂いが染みているというのに、叔父のプレゼントを汚してしまった気になった。
腹が雷鳴を起こす。
星子は玄関ホールに戻った。ちょうど裏校舎からやって来る咲菜が見えた。
「お待たせ、星子ちゃん!」
夏休み前最後の料理部はミーティングで終わったという。
「さっき図書室から帰ってきたところだから」
図書室に行ったのは本当だった。昼休みに月也に勧められた本を眺め、玄関ホールに移動した辺りから、記憶を消した。
「そうなんだ。待たせちゃってたら悪いなって思っていたのよ」
「ううん、待ってないよ」
記憶から消したのだ。嘘ではなかった。
「図書室、いい本あったの?」
「小石の本なの。科学部に入らないかって、この前お話した中学時代の後輩の子に誘われてるんだ。でもわたし、プログラミングも実験も得意じゃないから。小石の模様調べるのならできるんじゃないかって。絵を描くだけなんだけれどね」
「楽しそうね。あたしも料理部で、作った料理の絵を描いたりしてるのよ。あ、絵っていえば、"薔薇サイユの鐘(ベル)"、読んだ?」
咲菜の好きな、昔の少女漫画だ。最近、特装版が出たために咲菜から借りている。あと1巻読めば完結する。
「うん、読んだよ」
「あたしはやっぱり、カルアス様が好き」
「わたしは、デロージェル。好きな人のためなら身を引けるところがかっこいいと思ったの」
「分かる! 分かるわ、星子ちゃん! ドレオンより、ゼルフェンより、デロージェルよねぇ?」
咲菜の冷たい手に握られる。
「うん。かっこいい!」
「あとね、あとね、あたし、カルアス様の部下のアレンっているんじゃない? アレンがドレオンの前でカルアス様の唇を奪っちゃいそうになるシーンも好きなの。やんっ、言っちゃった」
咲菜は頬を染め、両手を当てる。
「……そ、そうだね。憧れるよね、ああいうの」
それが美男美女の日常なのだとしても、咲菜は清純だ。美少女だが例外なのだ。だからこそ七尾の恋心を射止めて放さないのだろう。星子も自身が男子であれば、この親友に狂わされていたことを確信していた。
「星子ちゃんも憧れる?」
「ちょっとだけ……ね?」
「あたしが好きな人と、あたしを好きな人で取り合いになって……うふふ。なんて、ちょっとイタいかしら」
咲菜は細く長い腕で自分を抱き締め、身悶えながら照れ笑いを浮かべる。
それは決して現実から程遠い妄想ではなかった。実現性の高いことなのだった。だが清純な彼女は気付かないのだろう、笹森を想いながら、七尾に身を焦がすように想われていることについて、気付く由(よし)もない。
「咲菜ちゃんなら、イタくないよ。むしろ、なんかそういうこと、起こりそう……」
「えっ? 嫌だわ、星子ちゃん。少女漫画だから良いのに……」
「あ、あはは。そうだね。現実ならちょっと嫌だね」
◇
胸元に、ラップで包まれたらしき塊を押し付けられ、星子は微苦笑を滲ませる。固い水飴に巻き込まれたようにもみえるが、光の反射やきゅるついた音はラップだろう。内容物が透けて見える。
「何、これ……?」
焼き菓子らしき色味が垣間見える。
「クッキー」
誕生日でもなければ記念日でもない。あまりに唐突な贈物だった。一瞬、星子はぼんやりとしたが合点がいった。
咲菜に渡したいが、昔馴染みがいる手前、遠慮しているのだ。
「ありがとう。じゃあ、みんなでいただくね」
七尾の安堵した表情がそこにあるはずだった。けれども彼は眉間に皺を寄せている。
「違う。お前に。お前の昼飯な。みんなに食ってもらうほどたいそうなものじゃない」
「え、わたしに……? なんで?」
「最近、ちゃんと食ってないだろ」
七尾は横面を晒す。周りの女子のひそひそとした声に耐えているようだった。
「そんなことないよ」
「いいから、食えよ。絶対、食えよ」
星子は床を見詰める横面を凝らす。食べていないことを知られている。だが正確には食べている。昨晩はゼリー飲料と梨を食べた。
「食べては、いるのだけれど……」
しかし結局のところ、昨晩食べたコンニャク質のゼリー飲料は舌触りが合わず、共に容れた梨ごと吐いてしまった。
「ダイエットしてるならやめろよ。星子には必要ないと思う……」
「ダイエットはしてないよ」
「ちゃんと食え」
星子はラップの塊を抱き留める。
「これ、七尾くんが作ったんだよね……?」
「月也ほど上手くねーけど、一応、食えるはず……」
丸められたラップを開く。焦げてはいないが焼けすぎたチョコチップクッキーが入っている。端のほうは茶褐色が濃いものもある。
「わざわざ、作ってくれたんだ……ありがとうね」
「俺がデートしたいとか言ったから?」
ここは教室だった。昼休みで、女子がグループを作り固まっている。男子たちでさえ黙りはじめた。七尾な気にする素振りもない。
「俺がデートしたいとか言ったから、痩せるつもりなのかよ」
「えっ! ち、違うよ! まさか! ダイエットなんてしてないよ!」
星子は目を剥いた。
「本当か……?」
「ほんと、ほんと! それにデートなんて、大袈裟、大袈裟! ね? ちょっと一緒にお出掛けするだけなんだから、さ!」
星子は辺りを見回した。鷲羽(わしゅう)さんの凍てついた目を認めた途端に、粘こい汗が滲み、即座に冷えて、暑寒(しょかん)の感覚も分からなくなってしまった。
「いや、フツーにデートだし……なんだよ、俺とデートするからダイエットしてるんじゃねーのかよ」
「してない! してないよ。ただの夏バテ……大袈裟だよ、アハハ……アイスしか食べられなくて……」
七尾は星子のフードコンテナを一瞥した。
「ちゃんと、食えよ……」
「う、うん……」
「そうよ、星子ちゃん。なんか、最近、痩せちゃってるわ……」
咲菜も七尾に同調する。
「そ、そうかな。やっと念願の40kg台突入、かも……?」
周りの女子たちは40kg台だと言っていた。だが痩せたのダイエットしただのとは言われていない。華奢で可憐な容姿が似合っているのだろう。そういう骨格と顔立ちを生まれ持っているのだろう。だが七尾や咲菜の悪意のないがゆえの純真な良心は、星子はそれを持ち合わせていないのだと真実を告げている。
「白川さんって糖尿病じゃなかったの」
離れたところで男子たちと飯を食らっていた笹森が口を挟んだ。
「え……」
「本当か、星子?」
七尾の表情が険しい。
「そうなの、星子ちゃん……」
「ち、違うと思うけれど……」
ところが否定できる根拠もまたないのだった。健康診断では何も言われていない。家族にも糖尿病罹患者はいないはずだが、肝心の父母とは音信不通で、祖父母とも疎遠だ。唯一の保護者といえる叔父とは血が繋がっていない。
「だって白川さん、"甘い"から」
「何が?」
七尾が問うた。
「匂いとか?」
笹森が鼻で嗤う。
「女子の匂いなんて大概甘いだろ。汗臭いのもたまにはいるけどよ」
「ははは、七尾、デリカシー無(な)ッ。ノンデリ七尾くん、思っててもそんなこと言っちゃダメだろ。少なくとも7組の女の子たちじゃぁないよねぇ?」
「知らん」
七尾は席に戻ってしまった。そして星子を観察していた。クッキーを食らうまで目を離さないようだった。
「じゃ、じゃあ、いただきます、七尾くん……」
「ああ、そうだ。あとこれも試しに作った」
七尾は普段弁当は持ってこなかったが、今日は保冷バッグを横に掛けていた。持ち手の青い保冷バッグを星子に向けて差し出した。取りに行く。彼は頬杖をついて、星子を見上げた。
「プロテインと野菜ジュース入れた。傷んでる感じなら捨てろ」
「何作ったの……?」
「ホットケーキミックスでスコーン? 母親が協力してくれたから、まぁ、そんな変な味はしないと思うけどな」
「え、七尾くんのお母さん、七尾くんが食べると思って作ってくれたんじゃないの? 悪くない?」
「いや、星子に食わすって伝えてある。だからすげぇ気ぃ使ったぞ、水分量とか」
「んっ、………ああ、そうなんだ。ありがとう……」
七尾の母親は何度か見たことがある。七尾の父親を見たことはないが、おそらく七尾は母親似だ。
「親公認ってこと?」
笹森が嗤った。
「そ」
七尾が答えた。笹森は鼻を鳴らす。
「じゃあすごいじゃん、白川さん。今から嫁修行しなきゃ……大変そー」
「あ、え、え、七尾くん、"拙(まず)い"って……!」
「"不味(まず)い"ってまだ食ってねーだろ」
「そ、そうじゃなくて……」
「じゃあ、何」
「だ、だからさぁ……!」
星子はこちらを見ている鷲羽さんを一瞥、二瞥した。
「なんだよ」
七尾は片眉を上げる。鷲羽さんは口元だけで笑い、サークルコンタクトレンズの嵌った目は鈍く光っている。
「だっ、だから、そんな感じだと、七尾くん、カノジョできなくなっちゃうよっ!」
七尾は片側の口角を吊り上げた。笑ってみせたようだが投げやりだった。まるで星子の意見は些末なことであるとでも言いたげだった。
「七尾はノンデリでもモテるから引く手 数多(あまた)だもんねー? 白川さんの心配することじゃないんじゃないかな」
きゃぴ、と笹森は鳴いた。
「あ……」
星子は七尾を見下ろした。外方を向いている。陰気で地味、艶福に縁遠いどころか絶えてすらいる者に口を出される筋合いはないとばかりだった。
「あっ、そ、そうだよね。余計なお世話だった。ごめんなさい」
「俺にカノジョができなかったら困るの?」
七尾は外方を向いたままでいる。
「わたしの所為だったら……困る……」
「じゃあ星子がカノジョになれば万事解決じゃないの、それ」
「解決じゃないよ……」
七尾のような艶福に富み、周りが放っておかない人間は、妥協することなく、倦(う)むことなく、同等の環境下にいる人間と交際するべきだ。
「そうだよ、七尾。モテるんだからさ、巨乳美女と付き合いたくねーのかよ?」
「俺はスレンダーなのが好き」
だとしたら星子は真逆にいる。星子は他の女子より重い。他の女子たちは40kg台らしいが、星子は52kgある。服を着ると何故か消えたように見えるが、約90cmの胸囲はスレンダーとは言い難い。スレンダーといえば咲菜だ。やはり七尾は咲菜が好きなのだ!
「スレンダー……」
咲菜が呟いた。星子は息を呑む。咲菜は七尾が恋慕を寄せている相手が誰なのか思い至ってしまったのかもしれない。それが自分だと分かってしまったのかもしれない。
「でもガリガリはやべぇだろ」
七尾が星子を向いた。同意を求められているようだ。彼は四面楚歌のようだった。
「健康的に痩せるのが良いよね」
「………分かってんじゃねぇかよ」
「とか言って七尾くんはムッツリだからなー!」
「男はみんなムッツリだろ」
「うんうん、分かるよ。口ではスレンダーが好きとか言っておいて、実際付き合っちゃうのは巨乳ちゃんなんだよなぁ」
笹森は腕を組み、頻りに頷いて見せた。相変わらず長袖だが、痩せこけて隈を浮かべていたのが嘘のように、肉付きも血色も戻っている。
「ま、体型(カラダ)より、好きな女の顔がくっついてればどっちでもいい」
「またまた~」
「別に巨乳が嫌いなワケじゃねーし。どっちもイケる。それならあとは顔だろ、顔。顔っつーか、中身」
三白眼が星子を捉えた。
「な?」
ふたたび同意を求められる。
「う、うん……」
「面食い七尾くんのクセに」
笹森が鼻で嗤う。
「面食いも嘘じゃねーけど」
「なんだ、じゃあ白川さんは除外だ。なぁんだ、なんだ。さっきから白川さんに言い寄ってるのかと思ってびっくりしちゃった」
七尾の眉根に深い皺が寄る。煮え滾(たぎ)らされて泡立つコーラ飴が笹森を睨んでいるように見えた。だが当の笹森は七尾の視線を朗らかに受け入れ、口元には「W」字が描かれている。
「そんなわけないじゃん。ねぇ、星子チャン?」
鷲羽さんのサークルコンタクトレンズが輝く。
「えっ………ああ、うん……」
「ただの幼馴染だよね? それも小学校からの」
「う、うん……そうだよ」
鷲羽さんは「ンハハハ」と喉で嗤う。
◇
「本当にこれだけでいいのかい」
叔父の眉尻が下がる。星子はどうしたら良いのか分からなくなった。
七尾と出掛けるときの服を買いに叔父と大型商業施設に来たはいいが、結局買ったものといえば、白地に赤いチェック模様の髪飾りだけだった。
「ワンピースくらい、買ってあげられるよ……? 靴だって、バッグだって……」
星子は俯いた。フードコートでジュースを啜っていた。
「本当に大丈夫です。すでに買ってもらったもので事足りますから」
叔父は枯れかけの白百合のようになってしまった。
「そうかい……ああ、そうだ。水着は見なくていいのかい。そのうち行くんじゃないかな、プールとか。必要なら送るよ。海にでも……」
「そういう予定はありません」
海に行くには3時間以上かかる。往復で6時間以上だ。叔父は多忙だ。巻き込めない。
「そうかい……星子。高校生活っていうのは本当に貴重な時間なんだよ。ボクに我儘を言っても、謳歌しなきゃ。後悔してしまうよ。ボクはそれが一番つらい。君がやりたいことをやれなかったと、後から知ったときがね、きっと」
「七尾くんがいて、琴峯さんがいて、わたしとっても楽しいです」
「……そうかい…………痩せちゃったね、星子」
叔父はジュースを啜る星子を眺めていた。
「これは、夏バテで……」
ここしばらく、叔父は忙しく、夜が遅かった。共に夕食を摂れないことも多々あったために、ごまかせていた。
「冷麺はどうかな」
独特な食感が、口腔に住まう蛞蝓を呼び出してしまいそうだった。
「冷麺は……ごめんなさい」
「うふふ、いいよ」
断られたというのに叔父に落胆の色はない。
「帰り道の回転寿司にしようか。ケーキとかポテトとか、色々食べられるし」
「はい」
フードコートの席から立ち上がり、テーブルを片付ける。
ハンガーに掛けた淡いピンク色のワンピースを見詰めた。腰回りがカスタード色の紐で編み上げられ、胸元に大きなリボンがある。
咲菜らしい服を星子も一着だけ持っていた。
七尾も向日葵柄のワンピースより、咲菜らしい甘やかな色味と形の服装を好むはずだ。予行演習にもなる。
桃の皮を彷彿とさせるマーブル模様のネイルシールを眺めていると、スマートフォンの画面が光った。七尾からだ。
[今日、叔父さんと出掛けた?]
[うん。なんで?]
七尾と知らず知らずのうちにすれ違っていたのだろうか。
返信して間を置かず、画像が投下される。叔父の宵岬(よいざき)慧霞(けいか)の横に星子が並んで写っている。だが被写体の星子には覚えがない写真だった。背景に写っている店の前を通ったとき、撮影についての相談を受けた記憶はなかった。叔父の視線は前方を捉え、星子の視線は叔父を捉えている。
[全体チャットとは別のグルチャに来てた]
星子が画像の隅々を見回しているうちに七尾からまたメッセージが届いていた。
彼が言っているのは7組の中でも特に仲の良いメンバーで構成されたグループチャットのことだろう。鷲羽さんや笹森たちがたびたび口にしている。
[叔父さんと出掛けたよ。七尾くんと会うときのお洋服見てたの。髪飾りしか買わなかったけどね]
そのうち端末が震えた。音声通話を求められている。受話器のボタンを押した。
「七尾くん、どうしたの」
『声、聞きたかっただけ……』
星子は茫乎として天井を仰ぐ。
「喉、変かな」
首を撫でた。夥(おびただ)しい数の蛞蝓が蠢いているような気がした。
『そういうことじゃねーよ……今、叔父さんはどうしてる?』
「リビングにいるよ。代わる?」
『いや、いい。不用意なことしちまったな、悪かった』
電子音に変換された濁りを帯びた声質は普段よりも沈んで聞こえる。
「何が?」
『あんな写真、見せられても困るだけだろ』
「7組の子があそこにいたんだねぇ。ちょっと恥ずかしいな」
7組の多くは隣の市に住んでいる。隣の市にも大型商業施設がある。けれども通い尽くせば、別の店にも足を伸ばすことはあるだろう。
『……盗撮だぞ。怒ったっていいんだ』
「叔父さんには悪いよね。消してほしい気持ちは、あるよ……」
叔父は三十路に入っても美男子だった。長身痩躯がさらにそれを際立たせ、共に外に出るとすれ違う人々の視線を集めている。星子も叔父が妖艶な男性であることは知っていた。この角度も目線も無作為で、色彩調整もされていないというのに叔父の写りはファッション広告の切り抜きのようだった。
『言っておく』
「いいよ。七尾くんが変な目で見られちゃうよ。わたしのことは気にしないで」
叔父には悪い。だが叔父は何も知らない。七尾を消耗させることのほどではないはずだ。
『叔父さんに悪いだろ。この人は叔父さんだって、説明しておく』
「……何から何までごめんね、七尾くん」
『謝んなよ。嫌だったらいちいち連絡なんかしない』
「……もし必要だったら、おうちのこと、言っていいから」
小学時代の友人の母親から、片親家庭はろくな躾が為されないと言われたのは遠い昔のことだ。七尾や月也を見てみるがいい。立派な男子だ。しかし片方にしろ親がいる。けれども星子には生きていながら両親がいない。日々の腑抜けた生態に、説得力を持たせるだけだ。
『……分かった』
「ありがとうね、七尾くん。わたし、いつも助けられてばっかりだな。この前はクッキーだってさ、もらっちゃって……」
七尾の作った形も焼き上げも不揃いなクッキーと、冴えないスコーンは星子の腹の中に無抵抗で落ちていった。
『俺が実はお前に支えられてるだけかも知れねーけどな』
「支えてないよ」
『支えられてんだよ、実は』
「そうかな」
『そうなんだよ』
おそらく咲菜のことについて言っているのだ。人見知りで緊張しやすい気質の咲菜と自然に接するには、仲介役が必要だ。咲菜と長い付き合いで、かつ七尾とも長い付き合いの星子は適任だった。
「……そっか。じゃあ、頑張るね、これからも」
『あんまり頑張らなくていい。頑張りすぎだ。……とりあえず、もう遅いから。星子……その…………なんつーか、………おやすみ』
通話が切れた。画面が七尾とのチャットルームに戻る。すると別の通知が入っていた。そしてそれが誰から送られてきたものかを知ると、星子の心臓が早鐘を打つ。笹森だった。
画像が添付されている。先程見たものと同じだった。相変わらず、叔父の写りが良い。
3分前に送られている。だがテキストメッセージはなかった。画像の経緯は七尾から聞いている。星子はアプリを閉じ、端末も閉じてしまった。