my天の川に流るる
6
鐘の音が長いこと商店街に鳴り響く。どこかの屋台で特等を当てた者がいるようだ。
暫くすると3人が戻ってきた。笹森の手に箱が抱えられている。
「星子(しょうこ)ちゃん、星子ちゃん、マンゴー当たったよ!」
笹森の後ろから七尾がやって来る七尾は何度か振り返り、咲菜(さきな)を気にしていた。
「そうなんだ。おめでとう」
笹森の浴衣と同じ臙脂色の箱を開けて見せる。中に、燃え盛る炎色の果物が収まっていた。甘い香りが仄かに漂う。
「みんな、この後、暇?」
笹森が3人を見渡した。咲菜が静かに頷いている。星子は七尾と目が合った。睨まれている。
「星子ちゃんは?」
七尾の目は、遠慮しろと言っている。咲菜との時間を奪うなと言っている。だが断り方が分からない。
「あ、えっと……」
七尾の眼力から逃げる。彼は聞こえよがしに嘆息する。
「なんでそんなこと訊くんだよ」
「ぼくの家近いから、寄ってかない? マンゴーも食べよ。花火も観よう。ね、白川(しらかわ)さん」
顔を覗き込まれ、星子は咄嗟に頷いていしまった。
「じゃあ決まり」
「俺はまだ返事してないんだケド?」
「どうせ暇だよ、お前は」
笹森は七尾に絡みついてふざけている。
「笹森くん。わたしが箱持ってるから、3人でちゃんとお祭り回って来たら」
笹森は口元の「W」字を深める。
「屋台の食べ物は、ふっふっふ。可愛い女の子が食べるものじゃないよ」。
「急にお邪魔しちゃって大丈夫? おうちの人……」
「うん。別のお祭りの練習か何かで呼ばれてるから今日留守。ってか今、関係者席にいるんじゃないかな」
星子は思わず咲菜と顔を見合わせた。笹森の親がこの場にいる。
「え、挨拶行ったほうがいいんじゃ……」
「あー、いいの、いいの。その辺りは放任だから」
星子には親がいない。叔父と暮らしている。そのために親との距離感というものが分からなかった。咲菜も七尾も何も言わない。おかしなことだったようだ。星子は後退りたい心地になる。
「踏み込んだこと言っちゃって、ごめんなさい……」
「じゃ、行こうぜ。今ならまだ電車も混んでないだろ」
七尾が言った。
「おー、そうだな、行こう、行こう」
笹森は星子をちらと見た。
「お前が先に行かなきゃ分かんないだろ」
七尾は笹森の背中を突き飛ばす。
「ほぇ」
笹森は前のめりになりながら星子を振り向く。
「大丈夫?」
明るい色の瞳が星子の下駄を一瞥する。
「このノロマは俺が連れて行くから、お前は琴峯(ことみね)さん気にしろ」
七尾は星子の手を掴み取る。
「あ、ぅ」
硬い掌に指先を覆われ、その熱さに身を強張らせる。
「痛かったのか」
「う、ううん……ごめんね、気を遣わせて……」
「うるせーよ」
笹森が先頭を歩き、間を歩く咲菜が何度も振り向く。美少女ぶりが彼女の華奢さを際立たせる。孅(かよわ)い親友が通行人たちに揉み合い圧(へ)し合い、潰れて消えてしまいそうだ。
「七尾くん。わたしは平気だから、咲菜ちゃんといてあげて」
七尾が立ち止まる。星子は止まれず、渋い青色の浴衣に突っ込んだ。しかしむしろ七尾の袖に囲い込まれ、抜け出せない。
「五百鈴(いおり)!」
七尾が叫ぶ。笹森が振り返る。手招きによって戻ってくる。アーモンド色の瞳は星子を捉え、普段の「W」字の口元が半開きになった。
「琴峯さんのこと気にしろって言っただろ」
「ああ、ごめん、ごめん。考えごとしてた……」
七尾に叱られながらも、溶けかけた飴のような眼差しは星子を射す。
「行こうか、琴峯さん。ごめん、ごめん」
咲菜は顔を真っ赤にして頷く。
「何を考えごとすることがあんだよ」
「ほぇ。世界平和だね」
笹森は咲菜の肩に腕を回して行ってしまった。
「あ、ありがとう、七尾くん」
咲菜のことは心配だった。しかし七尾につらい選択をさせた。恋敵に想人を任す判断が、快いはずはない。
「ごめんね。こんなはずじゃなかったんだ……」
邪魔をしようとしたわけではない。邪魔をすることになるけれども、できることならば七尾の恋を応援したかったのだ。だが結果に、故意か不本意かは関係ない。
七尾は手を引いた。
「前見て歩け」
「うん……」
「痛かったら言え」
「うん……」
「具合悪いのか」
「うん……」
「はぁ?」
七尾が吠える。星子はたまげる。
「具合悪いなら早く言えって!」
「え、わ、悪くないっ、悪くないよ。ごめんなさい」
眉間に深い皺が寄る。
「本当だな」
「うん、本当に。ごめん、ごめん、考えごとしちゃった。アハハ……」
七尾は肩が落ちるほど大きな溜息を吐く。
「五百鈴が良かったかよ」
「何が……?」
七尾は手を放した。彼の体温の残った指先が爛(ただ)れて疼く。
「五百鈴に代わってもらうか?」
「なんで……?」
「恍(とぼ)けやがって」
恍けているのは七尾だ。咲菜が良かったと白状すればいい。
浴衣にしなければよかった。浴衣にしなければ、こうはならなかった。足を擦り剥くこともなかった。七尾と咲菜を引き裂かずに済んだ。彼は根に持っている。笹森もまた皮膚を痛めずに済んだはずだ。
「咲菜ちゃんの浴衣、可愛いね」
だが浴衣できたのは本当に間違いだったのだろうか。
「浴衣にレースは要らないだろ」
星子は七尾の顔を確かめてしまった。
「七尾くんは浴衣フェチなんだね……」
「行くぞ」
七尾の後をついていく。駅から来る人々の波に逆らい、肩をぶつけ、足を踏まれ、軈(やが)て七尾の背中が見えなくなる。
絆創膏を貼っても、減り込む鼻緒が足に痛い。七尾だけでなく、笹森も咲菜も見失った。人混みに揉まれ、流されていく。改札の前で列から逸れ、巾着袋から黒光りする板ぺらを取り出した。
数度着信音の形跡がある。2度は笹森で、残りは七尾だった。
まずは笹森に折り返す。しかし電波が届かなかった。
七尾にもかける。コール音を聞き終える前に繋がった。
『何してんだ』
「あ、七尾くん……?」
『他に誰がいんだよ。どこにいる! まだ外か?』
「うん、外。あのね、七尾くん」
『何』
水に沈んだような音響は、電波が不安定なのだろう。
「笹森くんとは合流できた?」
『今お前探してんだよ、俺は』
「あのさ……」
『今どこなんだよ。さっさと言え』
怒声は電子音に変換されないようだった。
「足痛いし、みんなのこと探すの大変だからさ、今日はここで帰ろうと思って」
笹森も足の擦り剥けを押して探しているかもしれない。咲菜もまた孅い身体で人集(ひとだか)りに揉まれているだろう。
『はあ? ここまで来て、お前……』
「無駄足踏ませちゃってごめん……笹森くんにはメッセージ打っておくから、七尾くんからもよろしく伝えておいてくれるかな」
七尾も早々に咲菜と合流したいに決まっている。そうするべきだ。
『そんな帰りたいのか』
「うん……足痛いしさ。お茶代、後で返すね」
駅舎の壁に背を預け、下駄の上に足を置く。赤みの滲む絆創膏を見下ろした。反対側に新たに赤みが浮かんでいる。
『俺が無理矢理歩かせた』
「それは違うよ」
『お前の足を甘く見てた。その点については謝る』
星子は目を瞠った。そして開いた口を閉じるのを忘れた。絆創膏の滲みが消えた。足に浮かぶ朱色の孤も見えなくなった。本当に歩けないほど痛いのか、分からなくなってしまった。まだ歩けるのではないか。痛いのは気のせいだ。本当はまだ歩ける。膝に力は入り、股関節は交互に前に出るのだから、歩けないというのは嘘だ。
「わたしが我儘なだけ。おうちが急に恋しくなっちゃっただけだから……」
『五百鈴の家は俺が知ってるから、ゆっくり行こう』
何故、七尾は引き留めるのだろう。帰れとばかりの睥睨(へいげい)ぶりではなかったか。引き留める理由があるとすれば、それは咲菜だろう。男子に慣れた子ではなかった。もし途中で帰ると言えば、咲菜も帰りたがる。七尾はそれを恐れている。
「う、うん……ごめんね」
『五百鈴には俺から連絡するから。今どこだよ』
「改札の前……」
『絶対そこから動くなよ』
「うん」
通話が切れる。
星子は絆創膏を取り出し、足の甲に浮かぶ朱色の孤に貼る。
人影が近付く。前に屈んでいた星子が頭を上げると、カメラを抱えた"みんテレ"の取材班が声を掛けてきた。先程笹森に取材を持ち掛けてきた者たちだが、星子のことは忘れてしまっているようだった。
地元のテレビ局の取材なんですが、たなばた祭りの感想を訊いて回っておりまして、取材お受けしていただけますかね?
星子はこの祭りにいながら、感想を述べるだけのことをしていなかった。
断ろうとしていたところで、視界の脇に渋い青色が割り込む。
「受けます、取材」
星子の肩に体温と質量が乗る。七尾だった。彼は取材班を見ている。
カレシさんですか、かっこいいですね。お二人とも、顔出ししますか。
「はい」
「七尾くん、学校の人たちも観てるかもしれないんだよ」
咲菜も観ているかもしれない。時折、地元グルメの話をしている。
「記念に、いいだろ」
取材班がマイクの支度をしていた。
何か、感想やご意見があれば!
七尾は星子を寄せる。肩に乗る熱で浴衣の生地が焦げそうだった。
「俺の織姫と来れてシアワセでーす」
日に焼けた手が二本指を掲げる。
「ほら、お前も」
七尾に促され、星子は引き攣った笑みを浮かべた。
はい、ありがとうございます。カノジョさん、緊張しちゃった?
「シャイなんで」
七尾は星子の肩を叩く。
取材班が去っていく。
七尾の溜息が聞こえた。彼の醸し出しす空気が一瞬にして淀んだ。
「探したぞ」
「ごめんなさい……」
星子は足元ばかり見ていた。
「足、痛むのか」
「ちょっと休んだら、平気になった……」
「背負(おぶ)ってやろうか」
「え! ううん。歩けるから、平気……」
七尾は手錠よろしく星子の手首を掴む。「笹森くんとは連絡ついたの……? 電波が悪くて、笹森くんと繋がらなくて……」
「マンゴー冷やして待ってるとよ」
「あ、そうなんだ。ありがとう。迷惑かけちゃってごめんね」
「五百鈴に電話したのかよ」
「笹森くんのほうから電話来てたから」
「ふーん」
七尾は隣から星子を引っ張る。
「さっきのテレビ、本当によかったの……?」
「ただのローカルテレビで、何か困るのか」
「だって、誤解されちゃったらさ……」
「誰にどんな誤解をされると困んの?」
星子は横から注がれる視線を受け止められなかった。
「五百鈴?」
「なんで笹森くん?」
「誰と誰の"恋が叶いますように"って?」
短冊に書いた願い事が七尾の口から放たれる。
逃げたはずの眼差しに咄嗟に向き合ってしまった。 笹森が短冊を括りつけるときに、読まれてしまったのかもしれない。
「答えろよ」
「それは……」
咲菜と笹森の恋のことなのだ。だがそれを言えば、咲菜を想う七尾はどうなる。
「答えろ」
手首を掴む力が強まる。骨が軋む。
「痛いよ……七尾くん……」
熱い手錠が外される。手首が灼けてしまった。
「悪い」
七尾の小指が星子の指を漁り、彼女の小指に巻き付いた。
小指1本繋ぎながら改札を抜ける。
あれ、七尾じゃね。
七尾が立ち止まった。そして星子を背中に隠してしまった。
「うぉっす。和真、久し振り」
七尾は知り合いに会ったようだ。
何、デート? カノジョ?
「ん、まぁな」
七尾の背中が右に揺れ、左に揺れる。星子もまたドリブルよろしく右に寄らされ、左に寄らされる。
なんだよ、見せてくれてもいいだろ、カノジョ。
「恥ずかしがりなんだよ」
咲菜ではないからだ。咲菜だったならば見せびらかし、自慢したに違いない。
はぇー、お前みたいなガサツ男にシャイカノジョね。
まさに咲菜のことだ。
星子は自分が咲菜でないことを悔いた。何故自分は咲菜ではないのだろう。何故、誰もが羨む美少女ではないのだろう。
「可愛いべ」
まぁ、なんとなく、浴衣美人っぽさは感じる。
「へへ」
七尾はいい気になっているようだった。星子は顔を伏せ、咲菜になりすました。七尾文貴の交際相手として、美少女を装わなければならなかった。
隙ありっ!
七尾の身体が横に傾く。星子は顔を上げてしまった。彼の友人と目が合う。見覚えのある顔立ちだったが名前がすぐに思い出せなかった。
なんだ、お前……嘘吐きやがって。白川さんじゃん。
徐々に記憶が掘り進んでいく。中学時代の光景にこの顔立ちがある。小中と同じだった田中だ。サッカー部で、七尾とはジュニアユースからの仲のはずだ。
「なんだよ、俺が白川と付き合ってたら変かよ」
おもしれー冗談じゃん。白川さん困らせんなよ。じゃあな!
田中は星子にも手を振って去っていった。
「おもしれー冗談だってよ」
「ごめんね、七尾くん。惨めな思いさせちゃって……もっとわたしが可愛かったら良かったのだけれど……」
浴衣も古めかしいものを選んできた。だがそれが結果として七尾に恥をかかせることになるとまでは考えが及ばなかった。
「……可愛いんじゃね、フツーに」
三白眼は星子を一瞥する。けれど瞳孔と瞳孔を合わせる前に三白眼は転がり落ちていく。
「アハハ、ありがと」
唇を引き結んだ七尾は怯えたように星子を向く。調子に乗られては困ると言いたいのだろう。
「分かってる、お世辞だって。でも嬉しいよ。本当だよ。勘違いしないから、平気」
七尾は手を出した。オレンジと黒のミサンガがぶら下がっている。生活の摩擦と水気で草臥れて見えた。
「ん」
差し出された手が宙で跳ねる。
「え?」
「また迷子になるだろ」
「うん……」
星子はミサンガの上から七尾の手首を掴んだ。
階段を登り、ホームへ出る。電車を待っている間、彼女は左見右見(とみこうみ)していていた。
「誰か探してんの?」
「探してないよ」
「じゃあ、きょろきょろしてんなよ」
「でも学校の人とかいたらさ、気拙いじゃん」
電車がやって来る。年に何回か、祭りの時期と、入試の時期ぶりの満員電車に揉まれる。七尾は星子を壁際に引き入れた。
扉が二度、三度、開閉を繰り返し、そのうち動き出した。人気(ひとけ)に溢れ、生臭さすら感じられるというのに、星子の視界には七尾しか入っていなかった。眉根に皺の寄ったことでさらに鋭くなった目付きに見下ろされ、彼女は七尾が設けた空間以上に窮屈になった。
「足は?」
「平気」
電車が揺れる。七尾が近付く。壁に背が当たるはずだった。しかし薄い麻の生地越しに重みと体温がある。身が竦んだ。顔を覗き上げると、額の前に七尾の唇がある。肝を潰すと同時に反動が起き、七尾が戻っていく。
「七尾くん、大丈夫? 場所、変わる?」
すると彼は人差し指を突き出した。
「誰が言ってんだ」
額を小突かれる。
「うゅ、」
「おとなしくしとけ」
笹森の家は一駅先だった。七尾が乗客を掻き分け、手を星子は引かれるまま降りた。
「あんなに混んでて、咲菜ちゃん、大丈夫だったかな」
ホームに降りてから、駅看板の傍で立ち止まる。息が吸えた。外は冷房の効いていたはずの電車よりも涼しく感じられた。
「五百鈴が上手くやってるさ」
星子は七尾を見た。彼は腕を組み、所在なく駅向こうの田園風景を見ていた。幹線道路の開発が進んでいる。田舎道と高校までの道が繋がり、自転車通学の七尾には喜ばしい工事のはずだ。だが完成は2年後。卒業した後のことだった。
「ごめんね」
「は?」
「迷子になっちゃったこと……」
「ははっ、俺と2人きりになりてぇのかと思った。そろそろ行くぞ」
ミサンガのぶら下がる手が伸ばされ、星子はまたミサンガの上から手首を掴む。
「色気ねぇな」
「このミサンガ、まだ付けててくれたんだ」
昨年の球技大会のために編んで渡した。
「まだ千切れてないってことは、あのスリーポイントシュートは俺の実力ってこと」
彼は幼少期から中学までやっていたサッカーではなく、バスケットボールにエントリーしていた。サッカー部に入らなかったのは故障だと噂されていたが、ひとつ球技に長けると、他の球技にも長けるらしい。否、元々運動神経が良いのだろう。球技も徒競走も水泳も苦手な星子には分からない感覚だ。
「そうだね」
七尾が振り向く。
「すごいって言え」
「すごいよ。嘘じゃなくて本当にそう思う。七尾くんはちゃんと成長してて、わたしはなんだかずっとそのまま。なんでだろ」
二親がいないのはまともな教育を受けていない。遊ぶことを禁じた友人の親の言い分は正しいようだった。叔父がどれほど時間と金を費やし、気を遣おうとも、所詮は血の繋がらない他人だった。星子の成長に干渉することはないようなのだった。この叔父の顔に泥を塗らないよう振る舞っても、恥ばかり曝し、失敗のみを繰り返している。
「俺はそうは思わないケドね」
改札を出て、笹森の家へ向かう。20分かかるという。
七尾は星子の下駄を見ていた。
「やめておくか」
「大丈夫。歩ける」
「背負ってやってもいい。無理するなよ」
「うん、平気」
七尾の手が星子の手を握る。小学校、中学校でもフォークダンスで手を重ねたことはある。しかし熱さが違った。大きさも硬さも違っていた。高さも違う。
「お前くらいなら持ち歩ける。ナメんな」
「咲菜ちゃんなら50kg(キロ)ないと思うけれど、わたしはフツーに50kgあるからさ……」
「お前ほんと、琴峯さん好きな」
咲菜が好きなのは七尾のほうだ。しかし星子も咲菜が好きだった。
「うん……もし生まれ変わったらさ、ああなりたいな。可愛くて、お淑やかで、優しくて、頭も良くて、料理も上手くて。完璧な女の子なんだよね。七尾くんに言わなくても知ってることだと思うけれど、同じ女子から見ても……憧れ」
曇りだったはずの空に夕日が見えた。七尾の姿を暗く染めている。光芒が渋い青みを消し、幅広い肩の輪郭を遮った。
「七尾くん」
「何」
「野菜入れちゃったこと、ごめんね」
「マジで何。いつの話」
逆光によって、彼の顔色は見えなかった。
「玉子焼き切らして、お野菜の焼き浸し入れちゃったこと。七尾くん、野菜嫌いだったもんね。咲菜ちゃんの前で恥ずかしい思いさせちゃったんじゃないかって……」
「あのなぁ。俺もガキじゃないんだケド。野菜くらいフツーに食える」
当人が忘れているほど遠い昔のことだ。野菜が食べられず泣いていた日のことは、もはやこの世に存在していない。無かったことだ。
「……へへへ、そっか」
ならば星子も消すことにした。忘れることにした。夢だったことにした。誰にもひとつやふたつ、ごまかしごまかし潰した過去があるはずだ。
「ってかそれ、五百鈴に言った?」
「あー、うん。話しちゃったかも。なんで七尾くん怒ってるんだろ、って思って」
「だからかよ。めちゃくちゃ誂(からか)われた。ふざけんなよ。別に怒ってねーし!」
「ごめんね。それがずっと心残りだったから。好きじゃなかったのかも、みたいな。ほら、男の子ってお肉とかのほうが好きじゃん」
「女が野菜食いすぎなだけ。もっと肉食え」
七尾は星子の袖を引いた。踏切を越え、雑木林の横を通る。
「田中くん、大人っぽくなってたね」
17時の時報が聞こえた。
「そうか?」
「いいな、男の子は。女の子も楽しいけれど……」
「男だったら、大好きな琴峯さんと一緒にいられないぞ」
「それは困りどころだ」
白線から飛び出しそうな小石を蹴り戻し、雑木林に転がす。鼻緒が肌に食い込む。
「痛っ」
「乗るか、背中」
星子は首を振る。
「時間かかっちゃうね。ごめん。急ご」
星子は七尾を追い抜いた。数歩先まで出て、顧みる。
緋色の光を浴び、顔を顰めている七尾に急ぐ素振りはない。渋い青色の浴衣が不思議な色味に染まっている。
「お前の足が怪我していて良かった、なんて言ったら、俺はサイテーか?」
「サイテーじゃないけど、なんで。七尾くんも疲れちゃった……?」
星子は進んだ分、戻った。立ち止まっている七尾の顔色を窺う。
「別に」
「疲れちゃったよね。わたしが振り回したもの……」
突然、目の前が翳った。緋色の反射も見えなくなっていた。
前髪に柔らかいものが当たる。マシュマロを押し当てられたようだ。だが七尾はマシュマロを持っていただろうか。
「何?」
「蚊が止まってた」
「え。やだ。痒み止め持ってきてない」
星子は前髪を叩(はた)く。
「嘘。こんなの準備運動より楽勝だ」
蚊を潰すはずの手が下ろされる。