my天の川に流るる
7
笹森の家は高校から近かった。高校の南側10分足らずの新興住宅地にある。
似たような家々が並んでいたが、七尾(ななお)は迷うことなく笹森宅を見つける。母親が日本舞踊の師匠だと聞いていたが、日本家屋というわけではないようだった。むしろ赤みのある砂色の外構と外装は今風の造りをしている。
狭いに庭に竹が組まれている。流しそうめんだ。
「お待たせ」
七尾は、竹と竹を組んでいる笹森に声をかけた。
「おっす。大丈夫だった? 星子(しょうこ)ちゃん」
「大丈夫だった」
七尾が代わりに答えた。
「笹森くんっておうちここなんだ。じゃあ、お祭り前に何か用事があったの?」
そうでなければ、笹森を見かけた駅と家の方角の平仄(ひょうそく)が合わない。
「え……?」
澄んだアーモンド色の瞳が星子を射す。七尾も星子を見ていた。
「駅、反対側から来てたから……」
「ああ、それか。かっこつけなきゃいけないからね。美容室行ってただけ」
笹森は頤(おとがい)を撫で摩する。
「琴峯(ことみね)さんは」
「そうめん茹でてる。七尾も手伝え~。白川(しらかわ)さんはお部屋で休んでてねー」
「咲菜(さきな)ちゃんを手伝ってくるね。お邪魔します、笹森くん」
竹に針金を巻く笹森は莞爾(かんじ)としていた。
笹森家の玄関扉を開ける。他人の家の匂いが充満していた。入って右手がリビングで、左手が襖のところを見ると和室のようだ。
巾着袋からウェットティッシュを取り出し、裸足を拭ってから框(かまち)を跨ぐ。
「咲菜ちゃん」
呼ぶと、咲菜が飛んできた。
「星子ちゃん、星子ちゃん……!」
華奢な躯体に飛びつかれ、星子は思わず抱き止めた。
「どうしたの、咲菜ちゃん」
只事ではなさそうだった。
「そうめんの茹で方、分からなくて……」
「そうめん? ああ難しいもんね」
星子は浴衣の袖を捲り、咲菜と共にキッチンに向かう。
すでにそうめんがいくつか茹で上がっているようだが、絡まりあった糸屑溜まりのようだった。てらつき、水切りもろくにできていない。
1本取ってみる。しかし何本か固まっていた。そのまま口にする。
「お水から入れちゃった?」
咲菜は目を潤ませ、何度も頷いた。
「そうめんは、茹でてから入れるの茹で卵とは逆だね」
「どうしよう、これ……」
「ちゃんと処理すればまだ使えるよ。大丈夫、大丈夫」
星子は今すでに鍋のなかで踊っているそうめんを掬い上げた。調理器具は一式用意されている。笊(ざる)にあけ、糸屑溜まりを揉んでいく。
茹で汁を捨て、鍋を冷やす。
星子はフライパンを借りた。そして冷蔵庫を開けさせてもらうと、中に卵が入っている。
リビングの掃き出し窓を開け、竹を組む笹森を呼んだ。卵の使用を許してもらうと、失敗したそうめんの処理に取りかかる。
「咲菜ちゃんは、お鍋にまたお水入れてくれる?」
「ごめんね、星子ちゃん」
「気にしないで。わたしもよくやったもの」
金と時間、情を惜しみなく分け与える叔父に、高校生の星子が返せる恩というものは限られている。
彼女は要領が悪かった。効率も悪かった。失敗に学べず、何度も繰り返した。自ずと覚えてしまうほど繰り返していた。今は好い時代だった。簡単に失敗を覆すアイデアに手が届く。
咲菜に一通り手順を教え、星子はその横で玉子焼きを作っていた。出汁(だし)と一緒に失敗したそうめんが巻かれている。チーズと絡めたガレットも作れた。
「ごめんね、星子ちゃん」
「そうめんだけだと飽きちゃうから」
「そうめんも、まともに作れなくて……」
「簡単そうに見えるけれど、案外難しいもの。仕方ないよ。それも何人分も茹でるんだから」
「違うの。そうじゃないのよ……星子ちゃん」
咲菜のか細い声が鬼気迫っている。
「どうしたの、咲菜ちゃん」
星子の声も、喉に石が詰まったかのように低くなる。
「絶対、赦してくれる……?」
「うん。赦すよ」
「いつもお弁当作ってくれてるの、ママなの。あたしじゃないわ。ママなの……ずっと嘘吐いてたの。ごめんね、ごめんなさい。嫌いにならないで」
星子は両手を組み、祈り、拝む咲菜を見た。
まだクラスに馴染めなかった頃、女子たちに机を囲まれ、盗難犯として疑われ、根掘り葉掘り問い糾されていた星子を救ったのは咲菜だ。その日から咲菜は星子の憧れなのだ。淑やかで、頭が良く、優しく、可愛い、完璧な女の子なのだ。
彼女の慄える声が耳に沁み入る。
「謝らないでよ、咲菜ちゃん。そんなことで嫌いになるわけないよ」
そうめんが作れなかったからといって、今までの料理が母親作だからといって、一体何が琴峯咲菜という少女を毀損するのか。
包丁が野菜を切るのだ。フライパンとガスが卵を固め、チーズを溶かすのだ。醤油や砂糖が味を付けるのだ。調理とはそれだけのことなのだ。たったそれだけのことが、何故、琴峯咲菜という人格を台無しにするのか。
「ずっと、嘘吐いてたのよ……?」
「嘘くらい、誰だって吐くよ。誰かを傷付ける嘘でもないのだし、気にしないで。わたしは咲菜ちゃんも、咲菜ちゃんのお母さんが作るお弁当も大好きだよ」
咲菜の母親は、娘の友人のためにも料理を作っていてくれたのだ。何を嫌いになれというのか。冷凍食品でさえ、温め、詰めるのに時間を食う。
「星子ちゃん……」
咲菜は涙を溜め、星子に抱きつく。
庭の竹組みが完成したと、笹森が呼びに来る。彼はテーブルに並べた玉子焼きとチーズガレットを認めた。
「えっ、そうめんの他にも作ってくれたの?」
「うん。チーズも使っちゃった。大丈夫だった……?」
「大丈夫、大丈夫。ごめんねー、予定にないことさせちゃって」
七尾も溜息を吐いてやって来た。
「そうめん茹でんの、暑いんだぜ。夏に……」
「あ~、そっか。茹でるのか、そうめん。ごめんね~!」
「でもクーラー点けてもらってたから」
そうめんの笊を外へ運び、七尾と笹森が交代しながら竹組みに流していく。
「そうめん、美味(うま)っ」
笹森がそうめんを啜る。清涼感のある音がたつ。
「美味しいよ、琴峯さん」
咲菜は苦笑を浮かべている。笹森と話すときの緊張は時間が解決したようだ。
「玉子焼きとチーズのも美味しいよ」
笹森は星子を真っ直ぐに見詰める。
「よかった」
「七尾いつも、こんな美味しいのもらってたのかよ」
「そうめん入りは俺も初めてだ」
そうめんを流していた七尾は皿から玉子焼きを一切れ摘む。
「星子ちゃんはいいお嫁さんになるなぁ……」
「今は古いぜ、その考え」
七尾はチーズガレットも口に運んだ。それから竹組みに向き合う。
「琴峯さんは、ちゃんと食えてるか」
竹の前で縮こまっている咲菜は頷いた。
「う、うん。食べられてますっ、!」
「"星子"は」
「わたしもいただいてるよ。七尾くんこそ、あんまり食べられてないんじゃない?」
「俺は直でいってるから」
彼は脇に置かれた台で、笊から直接そうめんを食らっていたようだ。
軈(やが)て完全に日が沈むと、空に破裂音が響き渡った。周辺の住宅と共有の道路を出ると、大輪の花の散り際が見えた。その横で一筋の光が上空に昇り、四方八方へ火花を散らす。開花の音が届くころには朽ちている。煙だけが幽(かす)かに漂い、また次の花が咲く。
「撮らなくていいのか」
隣に立つ七尾が訊ねる。
「うん。目に焼き付けておく」
しかし隣からシャッターを切る音がした。見れば七尾がカメラ機能付きの板ぺらを構えている。
「え」
「じゃあ、俺が撮っとく。花火を目に焼き付ける星子」
「あ、撮ってほしかった? 撮ってあげるよ」
咲菜との写真がほしいに違いない。
「咲菜ちゃん、笹森くん、写真、撮るよ」
2人は七尾の後ろにいた。星子はカメラを構えた。スリーショットではあるが、咲菜と七尾は隣になっている。
シャッターを切った。何枚か連写する。
「あとでみんなに送るねー」
仕上がりを確認する。七尾はどれも仏頂面だった。しかしその奥の咲菜は平面になっても可憐で、笹森は撮られ慣れていた。
「こういうのって、フツー、自分も写るんじゃねーの」
「あ、そっか。でもわたし自撮り苦手だし」
写真写りもよくなかった。それは写り方ではなく被写体として、咲菜のような縹緻(きりょう)もなく、笹森のような気軽さもないからか。
七尾が隣に寄った。そして星子の視界を塞いだ。目の前に掲げられた遮蔽物には、自身と七尾が反転して映っている。
軽快な音が花火の音を掻き消した。
「何?」
「俺が撮ったから、他撮り」
「七尾くん、そういうの詳しいんだね。なんか意外」
「よく女子が話してた。五百鈴(いおり)も」
クラスで七尾と笹森を囲んで話している女子たちを思い浮かべる。写真映えしそうな子たちだった。
「嫌だったか」
「ううん。嫌じゃないよ。でもどこか載せるならちゃんと加工してよね」
「載せねぇよ」
星子は気恥ずかしくなった。七尾がもし、載せる場所があったとしても、皆々に見せるのは写真映えする子たちに決まっている。
「へへ、そうだね」
「な、なな、七尾くんとあたしも、一緒にと、撮りたい……」
星子は咲菜を見た。これが七尾の狙いだったのかもしれない。察しの悪い自身に、星子はまたもや気恥ずかしさを募らせる。
「わたし、マンゴー切ってくるよ。笹森くん、いいかな」
「ああ、ぼくもいくよ」
星子は笹森のほうへ寄る。だが袖が引っ張られた。何かに引っ掛けたのかと思ったが、振り向くと七尾が袖を摘んでいた。
「どうしたの、七尾くん」
彼の後ろ遠くで花火が打ち上がる。外灯の明かりでもその表情は見えない。
「なんでもない」
「行こ、星子ちゃん」
笹森は星子の背中に手を添える。咄嗟に咲菜を見遣るが、彼女は七尾とのツーショットに夢中のようだった。
「笹森くんは、もう花火、いいの?」
「火薬が燃えてるだけだからね」
「なのに、なんか、切ないよね。花の形になってると……」
「侘び寂びだね」
笹森宅に戻り、よく冷えたマンゴーを切る。果肉に切れ込みを入れる様を眺めながら、笹森は感嘆の声を漏らした。
「なんでもできるね、白川さんは」
「マンゴーは何度か切ったことあるだけだよ」
ダイニングテーブルセットに移動し、切りたてのマンゴーに爪楊枝を刺す。
「ここで2人で待ってる? あっちはあっちで楽しそうだし」
笹森は頬杖をついて笑っている。浴衣がその所作を優雅に見せた。
七尾は楽しそうだった。彼の幸せな時間を邪魔するわけにもいかない。
「じゃあ、使ったもの、洗っちゃうね」
「いいよ、そんなの」
「おうちの人に悪いから」
星子は外に置いたままの食器を取りに出る。笹森もついてきた。
「白川さんってしっかりしてるね」
空いた器を回収し、水場に運ぶ。笹森は隣に立つ。何か用かと身体を向けても、彼は何も言わない。
「さっきの話なんだけど……ぼくがお祭りの前にどこに行ってたのかって話……」
「美容室だっけ」
予洗いをしながら明かるい瞳を受け止める。シンク上のライトが彼の目の中で揺れ惑う。
星子を見ているくせ、彼女が真正面から見上げることは赦さない。
「……うん。そう。星子ちゃんに見られてたの、恥ずかしいなって、それだけ。ぼく、かっこよかったよね?」
「かっこよかったよ」
笹森は星子に体当たりする。近所で飼われているシベリアンハスキーと出会(でくわ)したときのようだ。
「うわ」
笹森は星子を見下ろす。真顔だった。眼光を滾らせ、もう一度体当たりする。
「星子ちゃん……」
「マンゴー、楽しみなの?」
「うん……」
「食べちゃったら」
笹森は首を振った。
星子はスポンジを揉み、泡立ててから食器を洗っていく。
「星子ちゃん。ぼくの家、どう」
「新しくて、オシャレで、綺麗だと思う」
「ねぇ、星子ちゃん。今日、楽しかった?」
「楽しかったよ」
「星子ちゃん、今日は何時に起きたの 」
星子ちゃん。
星子ちゃん。
星子ちゃん……
玄関が開いた。鈴の音が気取っている。
「ベストショットは撮れたかよ」
笹森の口元に「W」の字に戻る。彼はリビングに入ってきた七尾に訊ねる。咲菜も遠慮がちになりながら入ってくる。
「主人公が居ないんじゃイマイチだな」
「そら残念。ぼくは安くないんでね」
七尾は星子と笹森を順に見た。
「随分、仲が良くなった」
「それは七尾きゅ~んと琴峯さんもだろ」
星子は笹森を睨んでしまった。咲菜に想われておきながら、あまりに他人事だ。けれどもすぐに皿洗いに戻る。咲菜と仲が深まれば、七尾は嬉しかろう。
「嫉妬すんなって」
「そら琴峯さんみたいな美少女独り占めしてたら嫉妬するだろ」
「おいおい、それじゃ星子が可哀想だろ」
「星子ちゃんはだって、もう笹森ガールズだもんね?」
「えっ」
肩に腕を回され、星子は青褪めながら咲菜を見た。咲菜はマンゴーの写真を撮っている。
「さっきかっこいいって言ってくれたもん」
「言わせたんだろ」
笹森の腕を外す。咲菜の顔が持ち上がる。
「まぁまぁ……マンゴー、温くなる前に食べちゃわないと……」
七尾は笹森を一瞥した。星子はその所作に気付き、笹森を隣の振り返る。彼は半歩後ろに下がっている。
「笹森くんは……?」
「アレルギーだってよ」
七尾がマンゴーの一欠片を口に放った。
「そうなの?」
「へへへ……」
しかし笹森は爪楊枝を手にした。そして切られたマンゴーの一欠片を星子の口元に寄せた。
「えっ」
星子は仰け反った。
「星子ちゃんに食べてほしくて、張り切ったんだよ?」
咲菜を横目で確かめると、彼女は七尾に話しかけていた。
マンゴーの下には手が添わっている。アレルギーとは、肌についても症状が出るのではなかったか。星子は髪を耳に掛け、果汁の滴る前に口に迎える。
高い糖度に隠された微かな蘞(えぐ)みが耳の裏側を抓(つね)る。
「琴峯さんは、帰りは迎え?」
七尾が訊ねた。
「うん……そうよ」
「じゃあそろそろ呼んだほうが良いんじゃないか。星子、お前は、叔父さんは」
七尾は咲菜から星子を見た。そして言ってしまった後に、三白眼を見開いた。家庭事情を暴露しかけていることに気付いたようだった。
「自分で帰る」
迎えに行くとは言われたが、叔父は晩酌を何よりの愉しみにしている。友人に送ってもらうと嘘を吐いて出て来た。駅から家まで、徒歩で30分はかからない。
「琴峯さんの迎えが来たら、帰るわ」
「すぐそこの本屋さんで待ち合わせなの」
咲菜は方角を指す。笹森宅の北にある高校の真東に本屋がある。彼女がよく入り浸っている。スーパーマーケットと薬局、100円均一ショップが集合し、駐車場が広い。
だがそこまでの道は、大通りはあるけれども暗い。美少女の咲菜を一人歩かせるのは懸念がある。
「じゃあ、そこまで一緒に行こう」
言った途端、七尾の視線に刺される。七尾が送るつもりだったのか。だとすれば邪魔をしたことになる。
「あ、えっと……」
「その足で?」
「あ、あ、そうだよね~。逆に咲菜ちゃんのお父さん待たせちゃうところだった……」
「俺が琴峯さんを送ってくるから、それまで星子、ここにいろ。いいか、五百鈴?」
「かっこつけんなって。ぼくちんにも足はあります。琴峯さんはぼくが送るよ。駅、反対側じゃんね」
帰り支度が始まる。
調理器具だの食器だのを洗いながら、星子は庭の竹組みを思い出す。
「竹、どうするの」
「まだ夜は長いからね~。ぼくが片付けるよ。心配してくれてありがとうね」
笹森は何をするでもなく、星子の隣立っている。手伝わせることもない。ただ、彼は所在なく立っている。彼はダイニングテーブルセットで繰り広げられている会話に混ざるべきなのだ。
「星子ちゃんってカレシいるの」
「いないよ。えへへ……この歳になっても、まだ誰とも付き合ったことないんだ……」
経験豊富であろう笹森に掘り下げられ、嗤われる前に、打ち明ける。
「別にフツーじゃない?」
「でもみんな、周りの子たち、カレシとかカノジョとかいるみたいだから……」
「琴峯さんもいんの?」
笹森は声を潜めた。そして七尾と談笑している咲菜へ半分鼻先を向けていた。
「え゛、いないよ。咲菜ちゃんは、いない」
その誤解は大いに困る。星子の喉は抑揚を失った。
「どうしたの。なんでそんな必死なの」
「いや……なんでだろ。あはは。でもカレシいたら、今日来ないんじゃないかな……あ、でも笹森くんは? 前は好きな人いないって言ってたけれど……」
「W」の字が消える。煮詰めた砂糖のような目が眇められる。
「そんなこと、言ったっけ」
星子は恥ずかしくなった。クラスメイトと事務的な会話を何度か、教師と挨拶を数度、咲菜と叔父と話す程度の日常に比べれば、笹森は1日に何人もと会話をしている。誰が何を言ったのか、誰に何を話したのか、逐一覚えているはずはない。
「違った……っけ……?」
「いや、そう。いないよ。いないはずだった。でも、ちょっと気になる子はいる」
「え! どんな子……?」
笹森はほくそ笑む。
「優しくて、可愛い子だよ。気が利いて、癒し系」
咲菜だ。
「そうなんだ……!」
星子の声が上擦る。煮詰めた飴が熱(いき)りたっている。
「星子ちゃんのタイプは?」
「ほぇ」
笹森が肩を抱く。耳を寄せた。皿の泡を落とす手が止まる。
「年上で包容力があって、面白い俺様系だってよ」
七尾が真後ろに立っていた。
「ぼくじゃん。同い年だけど」
「ばっか。俺だろ、どう見ても」
「そうなんだ、星子ちゃん」
咲菜は真に受けている。こういう話はしたことがなかった。
「な、なんていうか、ドラマでね。いいなって……」
洗い物が終わる。
咲菜も帰り支度が済んだようだ。
高校のフェンスが見えたところで、咲菜と笹森と分かれる。夜の校舎は異様な雰囲気を帯びている。フェンス奥で茂る木々のせいもあるのだろう。
秋の体育で走るコースでもある。だが夜歩くのは初めてだった。
マラソンの授業では追い抜いていく背中が、今は斜め前を離れず揺れている。
「悪かったな。叔父さんのこと、勝手に話しちまって……」
「そんなこと、全然気にしてなかった。別に隠してもないし」
憐憫を向けられることを知っているだけだ。叔父に対する済まなさに慣れないことを除いては、これという感慨はない。
「心配してくれたんだよね。ありがとう」
七尾の前方から2人組の男女が腕を組んで歩いてきた。すれ違う。ショートパンツから伸びた長い脚が艶冶(えんや)だった。人工的な甘い香りが遅れて星子の顔面にそよぐ。
「大学生かな」
「蚊に刺されそうだった」
「何それ」
「それくらい、良さそうな脚だったってこと」
「見惚れてたの?」
「見るだろ、それは」
「ムッツリさんなんだ」
「男はみんなそんなもんだ」
七尾の向こうに田園風景が広がっている。建設途中の幹線道路になる盛り土と重機が寂しげだった。完成する頃には、この地に用はない。
七尾にはあるかもしれない。大学が近くに点々としている。
「七尾くんは進路、決めた?」
「まぁ、なんとなく。白川は」
「わたしは、就職」
叔父に学費を頼る勇気がなかった。学力に自信がなかった。奨学金を借りたとて、すべては賄えない。義務教育は終えているというのに、血の繋がらない叔父は高校進学を強く推し、惜しみなく金を投じた。これ以上、叔父に負担はかけられない。早々に就職し、叔父の負担を軽くするべきだ。恩を返すべきなのだ。
「就職……」
「受験勉強、大変だもの。今年が最後だったんだなぁ、みんなと遊べるの。なのにわたし、帰りたいだなんてバカだなぁ。七尾くん、誘ってくれてありがとうね。引き留めてくれて、探してくれて、ありがとう」
「無理させた」
「してないよ」
「俺が一緒にいたかった。付き合ってくれて、ありがと、な!」
七尾は怒鳴った。
「うん……? うん……」
「行くぞ」
七尾は星子の手を掴んだ。
「大学生ってさぁ」
「なんだよ」
「可愛くておしゃれだよね」
「人によるだろ、そんなもん」
「でも男の子はみんな、ムッツリなの?」
「そう。それだけは、そう」
星子は引っ張られながら笑った。学校の外周に従ってカーブする。
「咲菜ちゃんと、楽しそうだったね」
「嫉妬か?」
「まさか。楽しそうで、良かったなって。咲菜ちゃん、男の子とは特に上手く話せないみたいだから」
「相手が五百鈴だからじゃね――」
星子は心臓鳴らした。
「――アイツのマシンガントークにああいう女子はついていけないだろ」
笹森宅のキッチンで行われた些細な尋問と矢継ぎ早の質疑応答が甦る。
「ああ、そうかも」
七尾の指が星子の手を潰そうとしていた。
「……好きになるなよ」
「なっ、ならないよ! なんでさ!」
「アイツは俺の次にモテるから。お前が失恋したら、可哀想だろ。慰めてやらねーからな」
「はいはい」
花火の枯れ果てた空には星空が戻ってきていた。
「七尾くん」
「あ?」
「七夕の日は、曇りなんだって」
「お気の毒」
「会ってないのに1年も想ってられるの、すごいなぁ」
「ロマンチックな絵空事に、何を今更」
「わたしだったら1年も想ってられないよ。しかも顔合わせてないんだよ?」
「逆、逆。だから燃え上がんだよ。彦星も今頃、あっちこっちも熱くしてるぜ。色々妄想してな」
「あっちこっちもって? 妄想って何の?」
「男はみんなムッツリだからな」
七尾が笑っている。