君はアイリス
そんな人物を補佐することは光栄なことだと、エーファは思う。パイロットとして宇宙戦闘機に乗っている時間も好きだが、フレイザーの役に立てるようにと地上で事務仕事をこなす時間も悪くないと、いつの頃からかそう思うようになっていた。
ただ、不可解なこともある。それは、先日の休暇前にリースが何気なく言った一言を、不意に思い出すことだ。
――女を連れ込むなら隊舎じゃ融通が利かねぇしな。
リースの口はよく回るので、彼が言った些末な内容はいちいち憶えてなどいない。けれど、なぜかその言葉だけはエーファの頭から離れず、それどころか時折顔を出しては、エーファの胸を重くするのだった。
(女性を自宅に連れ込むことは、ベリンガム大尉にとってはよくあることなの?)
独身なら家賃がかからない隊舎に住む者が多い中で、フレイザーはわざわざ民間の賃貸の部屋に住んでいる。その部屋に、リースの言うように女性を連れ込んでいるのだろうか。それはつまり、その女性と親しい間柄にあるということなのだろうか。
(胸が……痛い)
そう考えると、エーファの冷えた心は硬くなる。それから、じんわりと押し潰されるような痛みに包まれる。それはライネヴェジン軍事アカデミーに通っていた学生時代に、帰省した実家でその期の成績について父親から評価を受ける際の怖さに似ていた。自分のすべてを否定されて、真っ暗な穴の中に落ちていくような心細さを伴う痛みだ。
(ベルツ大佐は、今頃どうしているかしら)
エーファの実家ベルツ家では、たとえ血のつながった家族であろうと親戚であろうと、階級で呼び合うことが徹底されていた。父親は当然のことながら、入隊前だった六歳上の兄のことも、「ベルツ少尉候補」と呼んでいた。入隊時には必ず「三等星少尉」からスタートできるように成績優秀であるべし、という父親の教育方針に従って、「やがて少尉になる者」という期待を込めてそう呼ぶように教え込まれたのだ。
そして自分もまた、父であるベルツ大佐や先に軍人になった兄からは、「ベルツ少尉候補」と呼ばれていた。アカデミーを卒業すると同時に無事に三等星少尉の階級に就けたあの日の心底安堵した気持ちを、エーファは昨日のことのように思い出せる。
その父親――ベルツ大佐は、先の作戦の正当性について非難され、しばらく動向を聞かなかった。彼にとって「娘」ではなく一人の「部下」にすぎないエーファは、ただ上官に言われるがまま謹慎処分を受け入れ、そして言われるがまま、ここ第八宇宙団に異動した。
(第九宇宙団はいま、どうなっているの……?)
これまでの自分なら、こんなふうに深く気にすることなどなかっただろう。命令以外に気にかけるべきものなどないと、そう思い続けていたはずだ。
しかし、今は妙に気になる。例の世論は鎮まったのだろうか。ベルツ大佐への非難はやんだのだろうか。もしそうならば、自分は第九宇宙団に戻ることになるのだろうか。
「困ります。きちんと上官を通していただきたい」
「その必要はない。わたしに逆らうのか、一等星中尉ごときが」
その時、標準事務室の入り口のほうからランドルフと誰かの口論のようなものが聞こえてきて、エーファははっとした。一抹の恐怖を感じながら席を立ち、恐る恐る入り口に近付く。
「いるではないか。エーファ・ベルツ三等星少尉、今からわたしと共に第九宇宙団に戻るぞ。明日、婚姻の手続きをしてもらう」
ランドルフの向こうに見えた、大柄な体躯。氷よりも冷たい黒の瞳。エーファの身を縮こまらせ、一切の自由意志を奪う威圧的な声。肩の階級章が示す位は、二等星大佐。
それは間違いなく、第九宇宙団機動隊所属のロバート・ベルツ大佐――エーファの父親だった。
◆◇◆◇◆
「なんか騒々しくね?」
「なんだ?」
飛行訓練を終え、パイロットスーツから通常の制服に着替えて標準事務室に向かっていたフレイザーは、一歩先を歩くリースの声を聞いてふと足を止めた。
「見慣れない奴がいるな」
「うえぇ~。な~んかヤな予感」
リースが制服の胸ポケットに手を入れて、珍しく眉間に皺を寄せる。
標準事務室の入り口に近付くと、出入口となっている自動ドアは誰かがすぐ傍に立っているためか、開放状態のままだ。怪訝な面持ちで二人が中に入ると、大柄な男がエーファの右手首を掴んでおり、一瞬にしてフレイザーとリースの警戒心は高まった。
「おい、誰だ」
フレイザーはその状況に臆することなく、近くにいた同僚に尋ねる。すると、答えたのはエーファの背後にいたランドルフだった。
「こちらは第九宇宙団のベルツ大佐です、ベリンガム大尉」
「なっ……ベルツ大佐?」
ランドルフの答えを聞いて、フレイザーの表情はこわばった。一方のベルツ大佐は、エーファの手首を掴んで固定したまま、フレイザーのほうに冷血な視線を向ける。
「この中で最上位は貴様か、ベリンガム大尉」
「はい。自分は第八宇宙団飛行隊所属、フレイザー・ベリンガム一等星大尉であります。エーファ・ベルツ少尉のご尊父とお見受けいたしますが、ベルツ少尉に何かご用でしょうか、大佐」
標準事務室内にはエーファ、ランドルフのほかに数名の軍人がいたが、ベルツ大佐の言うとおり、いまこの場で最も階級が高いのはフレイザーだった。そのため、第八宇宙団所属の軍人たちは、ベルツ大佐への対応をフレイザーに委ねる。その代わり、ベルツ大佐に付き従ってきた二名の軍人が妙な動きをしないように、彼らの一挙手一投足を見張るように視線を向けた。
「ベルツ少尉は第九宇宙団に戻ってもらう。婚姻が決まったのでな」
「婚姻……?」
厄介な相手を前にして気を抜いてはいけないと思ったが、フレイザーは瞬きを繰り返して少しの間呆けてしまった。それくらいに、ベルツ大佐の口から飛び出た単語はこの場の空気に似つかわしくなかった。
「あの……失礼ながら、ベルツ少尉にそのようなお相手がいたとは存じません」
「当然だな。先日わたしが決めた相手だ。先方も承知している。あとはベルツ少尉を第九宇宙団に戻して、本人の手続きを済ませるだけだ。これ以上煩わせないでもらいたい。行くぞ、ベルツ少尉」
「っ……」
ただ、不可解なこともある。それは、先日の休暇前にリースが何気なく言った一言を、不意に思い出すことだ。
――女を連れ込むなら隊舎じゃ融通が利かねぇしな。
リースの口はよく回るので、彼が言った些末な内容はいちいち憶えてなどいない。けれど、なぜかその言葉だけはエーファの頭から離れず、それどころか時折顔を出しては、エーファの胸を重くするのだった。
(女性を自宅に連れ込むことは、ベリンガム大尉にとってはよくあることなの?)
独身なら家賃がかからない隊舎に住む者が多い中で、フレイザーはわざわざ民間の賃貸の部屋に住んでいる。その部屋に、リースの言うように女性を連れ込んでいるのだろうか。それはつまり、その女性と親しい間柄にあるということなのだろうか。
(胸が……痛い)
そう考えると、エーファの冷えた心は硬くなる。それから、じんわりと押し潰されるような痛みに包まれる。それはライネヴェジン軍事アカデミーに通っていた学生時代に、帰省した実家でその期の成績について父親から評価を受ける際の怖さに似ていた。自分のすべてを否定されて、真っ暗な穴の中に落ちていくような心細さを伴う痛みだ。
(ベルツ大佐は、今頃どうしているかしら)
エーファの実家ベルツ家では、たとえ血のつながった家族であろうと親戚であろうと、階級で呼び合うことが徹底されていた。父親は当然のことながら、入隊前だった六歳上の兄のことも、「ベルツ少尉候補」と呼んでいた。入隊時には必ず「三等星少尉」からスタートできるように成績優秀であるべし、という父親の教育方針に従って、「やがて少尉になる者」という期待を込めてそう呼ぶように教え込まれたのだ。
そして自分もまた、父であるベルツ大佐や先に軍人になった兄からは、「ベルツ少尉候補」と呼ばれていた。アカデミーを卒業すると同時に無事に三等星少尉の階級に就けたあの日の心底安堵した気持ちを、エーファは昨日のことのように思い出せる。
その父親――ベルツ大佐は、先の作戦の正当性について非難され、しばらく動向を聞かなかった。彼にとって「娘」ではなく一人の「部下」にすぎないエーファは、ただ上官に言われるがまま謹慎処分を受け入れ、そして言われるがまま、ここ第八宇宙団に異動した。
(第九宇宙団はいま、どうなっているの……?)
これまでの自分なら、こんなふうに深く気にすることなどなかっただろう。命令以外に気にかけるべきものなどないと、そう思い続けていたはずだ。
しかし、今は妙に気になる。例の世論は鎮まったのだろうか。ベルツ大佐への非難はやんだのだろうか。もしそうならば、自分は第九宇宙団に戻ることになるのだろうか。
「困ります。きちんと上官を通していただきたい」
「その必要はない。わたしに逆らうのか、一等星中尉ごときが」
その時、標準事務室の入り口のほうからランドルフと誰かの口論のようなものが聞こえてきて、エーファははっとした。一抹の恐怖を感じながら席を立ち、恐る恐る入り口に近付く。
「いるではないか。エーファ・ベルツ三等星少尉、今からわたしと共に第九宇宙団に戻るぞ。明日、婚姻の手続きをしてもらう」
ランドルフの向こうに見えた、大柄な体躯。氷よりも冷たい黒の瞳。エーファの身を縮こまらせ、一切の自由意志を奪う威圧的な声。肩の階級章が示す位は、二等星大佐。
それは間違いなく、第九宇宙団機動隊所属のロバート・ベルツ大佐――エーファの父親だった。
◆◇◆◇◆
「なんか騒々しくね?」
「なんだ?」
飛行訓練を終え、パイロットスーツから通常の制服に着替えて標準事務室に向かっていたフレイザーは、一歩先を歩くリースの声を聞いてふと足を止めた。
「見慣れない奴がいるな」
「うえぇ~。な~んかヤな予感」
リースが制服の胸ポケットに手を入れて、珍しく眉間に皺を寄せる。
標準事務室の入り口に近付くと、出入口となっている自動ドアは誰かがすぐ傍に立っているためか、開放状態のままだ。怪訝な面持ちで二人が中に入ると、大柄な男がエーファの右手首を掴んでおり、一瞬にしてフレイザーとリースの警戒心は高まった。
「おい、誰だ」
フレイザーはその状況に臆することなく、近くにいた同僚に尋ねる。すると、答えたのはエーファの背後にいたランドルフだった。
「こちらは第九宇宙団のベルツ大佐です、ベリンガム大尉」
「なっ……ベルツ大佐?」
ランドルフの答えを聞いて、フレイザーの表情はこわばった。一方のベルツ大佐は、エーファの手首を掴んで固定したまま、フレイザーのほうに冷血な視線を向ける。
「この中で最上位は貴様か、ベリンガム大尉」
「はい。自分は第八宇宙団飛行隊所属、フレイザー・ベリンガム一等星大尉であります。エーファ・ベルツ少尉のご尊父とお見受けいたしますが、ベルツ少尉に何かご用でしょうか、大佐」
標準事務室内にはエーファ、ランドルフのほかに数名の軍人がいたが、ベルツ大佐の言うとおり、いまこの場で最も階級が高いのはフレイザーだった。そのため、第八宇宙団所属の軍人たちは、ベルツ大佐への対応をフレイザーに委ねる。その代わり、ベルツ大佐に付き従ってきた二名の軍人が妙な動きをしないように、彼らの一挙手一投足を見張るように視線を向けた。
「ベルツ少尉は第九宇宙団に戻ってもらう。婚姻が決まったのでな」
「婚姻……?」
厄介な相手を前にして気を抜いてはいけないと思ったが、フレイザーは瞬きを繰り返して少しの間呆けてしまった。それくらいに、ベルツ大佐の口から飛び出た単語はこの場の空気に似つかわしくなかった。
「あの……失礼ながら、ベルツ少尉にそのようなお相手がいたとは存じません」
「当然だな。先日わたしが決めた相手だ。先方も承知している。あとはベルツ少尉を第九宇宙団に戻して、本人の手続きを済ませるだけだ。これ以上煩わせないでもらいたい。行くぞ、ベルツ少尉」
「っ……」