君はアイリス
 ベルツ大佐に手首を引っ張られ、エーファは息を呑んだ。はっきりと抵抗することが怖いようで、怯えと諦めがない交ぜになった複雑な表情をしている。けれども、どんなに恐怖を覚えようともベルツ大佐に従うという意思はないようで、引っ張るベルツ大佐の力を中和しようと、ぐっと両足に力を入れて動こうとはしなかった。

「お待ちください、大佐」

 標準事務室の入り口に背を向け、ベルツ大佐の進路をふさぐ形でフレイザーは仁王立ちした。

「ベルツ少尉の異動に関して、正式な辞令は出ておりますか」
「必要なかろう。そもそも、第九宇宙団から第八宇宙団への異動がおかしいのだ」
「出ていないのですね。我々も上官から聞いてはおりませんし、何よりベルツ少尉本人も通告されていないようです。それにお言葉ですが、先日の彼女の異動はおかしくなどありません。正式な手続きを経た、ごく普通の人事異動です」
「手続きの話ではない。曲がりなりにもベルツ家の人間を、第八宇宙団に置くこと自体が愚蒙な決定なのだ」
「ここは守護星軍という組織です。その組織に所属していながら、組織が正式に定めた手順を踏まずに人を動かすほうが浅慮です」

 強大な威圧感を放つベルツ大佐に、フレイザーは感情を抑えた声音でめげずに意見する。その肝の据わり具合に、第八宇宙団の面々は胸中で拍手を送った。エーファも同じように、フレイザーの泰然たる態度に無言で感嘆した。
 自分がこれまで一度たりとも反論することのできなかった絶対的な支配者に、フレイザーは堂々と相対している。ベルツ大佐の横暴を理路整然と咎め、エーファを第九宇宙団に戻すことを良しとしない。守ってもらっていることに、エーファの胸は熱くなる。それでいて、エーファはほっと安心するような気持ちにもなった。

「それと、婚姻とは本人同士の合意があって行われるものです。たとえ肉親であれ、誰かに強制されて行われるものではありません。ベルツ少尉」

 フレイザーはベルツ大佐から視線を外し、いつもより二割ほど小さく見えるエーファを見つめた。

「ベルツ大佐の言うお前の婚姻は、お前が望むものなのか」

 エーファからの返事はない。父親に手首を掴まれたまま、肉食獣への恐怖で全身の動きを停止してしまった小型の草食動物のように固まっている。

「第九宇宙団に戻ることを、お前は望むのか」

 フレイザーは言葉を変える。
 すると、エーファは声を出せないままだったが、どうにか首を横に振って意思表示をした。

「第九宇宙団に戻ることは望まない。つまり、ご尊父の決めた相手との婚姻も望まないな?」
「はい……」

 エーファはとても小さいながらもようやく声で返事をし、再度首を横に振った。
 エーファのその意思が確認できたフレイザーは、ベルツ大佐に視線を戻す。その眼光は先ほどよりも鋭く、ベルツ大佐を睨んでいると言ってもよかった。

「ベルツ大佐、どうぞ第九宇宙団へお戻りください。ベルツ少尉は第八宇宙団から異動させませんし、勝手に決められた婚姻も行いません」
「詭弁だな。ベルツ少尉は生まれながらにわたしの部下だ。上官の命令に従うのが軍人だろう。婚姻も然りだ。ベルツ少尉の意思など関係がない。これは上官命令だ」
「上官の命令とは、守護星軍内で完結する内容だけに及ぶものです。個人の婚姻は、軍の管轄ではない。つまり、ベルツ少尉に結婚を命じる権利は誰にもありません。それに、軍人として上官として、と組織の立場を持ち出すわりには、組織の秩序を守るおつもりはないようですね。とんだダブルスタンダードだと思いませんか」

 フレイザーがそう正論を言うと、ベルツ大佐の瞳がカッと開いた。

「貴様! ただの大尉のくせにわたしを愚弄する気か!」
「ええ、そうです。部下にとって反面教師にしか見えない大佐など、その実態は愚かと言うしかないでしょう。これ以上こうして大勢の前で矛盾点を指摘されて悪例の見本にされたくなければ、どうぞお引き取りを」
「貴様……っ!」

 フレイザーに煽られて、ベルツ大佐はエーファの手首を離す。そしてその手を振り上げて、フレイザーに殴りかかろうとした。

「ベルツ大佐、そこまでです。また一つ、ゴシップの材料を自ら作るおつもりですか」

 しかし新たな声によって、ベルツ大佐の手は空中で止まった。

「筋を通さず実力行使ばかり続けていたからこそ政敵を有利にさせたのだと、貴殿もわかっておられるでしょう。もう少し、自制心というものをお持ちになったほうがよろしいのでは?」
「ケビン・コスティッチ……!」

 標準実務室内に入ってきた男――この第八宇宙団飛行隊の隊長であるケビン・コスティッチ三等星准将の姿を見るやいなや、ベルツ大佐のこめかみの青筋はさらに際立った。

「ベリンガム大尉の言うとおりです。どうぞお引き取りを。人事異動の打診は、正式ラインでならお聞きします。貴殿の意に沿う形になるかどうかは確約いたしませんが」

 ケビンの物言いに、ベルツ大佐は悔しそうに歯ぎしりをする。反駁するための言葉をいくつか探していたようだが、これ以上ここで何を言っても有利にはならないと判断すると、ベルツ大佐は部下二名に目配せをしてから大股で事務室を出ていった。

「フェザー中尉、お三方が迷わずこの基地を出られるよう、見送って差し上げなさい」
「了解です」
「ベリンガム大尉、スペンス大尉、ベルツ少尉はわたしと共に隊長室へ行きましょう。そのほかの者は通常業務に戻りなさい」

 ケビンの落ち着いた、しかし有無を言わせぬ圧力を伴った声に、隊員たちは散り散りになっていく。そして指名された三名とケビンは、一言も発さぬまま隊長室に向かった。


   ◆◇◆◇◆


「スペンス大尉、録音データは情報収集班に提出するように」
「げっ……よくわかりましたね、隊長」

 隊長室に入って応接用ソファに腰を下ろすなり、ケビンは意地悪な笑顔でリースに命じた。リースは録音モードをオンにしておいた、制服の胸ポケットの中の小型タブレットを取り出す。標準事務室に近付いた瞬間から今の今まで、周囲の会話を録音していたのだ。

「何か事が起きた際に、君が証拠を残さないはずがないからね」
「ベルツ大佐の横暴を示す録音データとして、あとで出しておきますよ」
「それで、ベルツ少尉」

 ケビンに呼ばれて、エーファは恐る恐るケビンを見つめた。
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