好きが止まらない
第1話 隣に越してきた人
誰かを好きになるのは、少し怖い。
二十七歳になった今でも、その気持ちは変わらなかった。
好きになればなるほど、言葉が出なくなる。
近づきたいのに距離を取ってしまう。
そんな自分が嫌で、だから私は恋愛から目を逸らして生きてきた。
──図書館の仕事は好きだ。
本に囲まれていると落ち着くし、登場人物たちの恋愛を読むだけで十分だと思っていた。
少なくとも、今日までは。
「すみません!」
休日の昼下がり。
アパートの廊下に響いた声に、私は部屋のドアを開けた。
隣の空き部屋の前で、大きな段ボールを抱えた男性が困った顔をしている。
背は高めで、黒髪は少し無造作。
Tシャツ姿なのに妙に爽やかだった。
「もしよかったら、ドア押さえてもらえませんか?」
「あ、はい!」
反射的に返事をしていた。
私は慌てて駆け寄り、ドアを押さえる。
男性は「助かります」と笑いながら荷物を運び込んだ。
その笑顔に、少しだけ心臓が跳ねる。
いや、違う。
急に話しかけられたから驚いただけだ。
そう自分に言い聞かせる。
「本当にありがとうございました」
荷物を置いた彼が頭を下げた。
「いえ、大したことじゃ……」
「俺、今日ここに引っ越してきた桐生悠真です」
そう言って差し出された手に、一瞬だけ戸惑う。
握手なんて久しぶりだ。
「雨宮陽菜です」
恐る恐る手を伸ばす。
ほんの一瞬触れただけなのに、なぜか妙に意識してしまった。
「これからよろしくお願いします」
「こちらこそ……」
会話はそこで終わった。
終わったはずだった。
その日の夕方までは。
◆
コンコン。
夜七時過ぎ。
部屋で本を読んでいた私のもとへ来客があった。
ドアを開けると、そこには悠真さんが立っていた。
「あの、お礼です」
差し出されたのは小さな紙袋だった。
中には焼き菓子が入っている。
「え?」
「手伝ってもらったお礼です」
「そんな、気を遣わなくて……」
「でも助かりましたから」
柔らかく笑う。
断れない。
私は戸惑いながら受け取った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
そう言って去っていく背中を見送りながら、私は妙に落ち着かない気持ちになった。
焼き菓子の甘い香りが部屋に広がる。
こんな風に誰かから親切にされるだけで、少し嬉しくなってしまう自分が単純だと思った。
けれど。
それで終わりにできなかったのは私の方だった。
◆
翌日。
仕事から帰った私は、スーパーの袋を提げたまま立ち尽くしていた。
昨日のお礼をもらったままだ。
何もしないのは気になる。
かといって高価な物を返すのも違う。
悩んだ末に、私は小さな肉じゃがを作った。
得意料理というほどではない。
ただ、母から教わった家庭料理だ。
タッパーに詰めて隣の部屋へ向かう。
インターホンを押した瞬間、猛烈に後悔した。
やっぱり迷惑だったかもしれない。
引っ越してきたばかりなのに。
帰ろうか。
そう思った瞬間、ドアが開いた。
「雨宮さん?」
「あっ」
心臓が跳ねる。
「これ……昨日のお礼です」
勢いでタッパーを差し出した。
悠真さんは目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「手料理?」
「たいしたものじゃありません」
「めちゃくちゃ嬉しいです」
その言葉に、今度は私が目を丸くする。
こんなに素直に喜ばれると思わなかった。
「本当に?」
「本当に」
悠真さんは大げさなくらい頷いた。
「一人暮らし始めたばっかりだから助かります」
その表情があまりにも自然で。
私は少しだけ肩の力が抜けた。
「よかったです」
「お礼に今度コーヒー淹れます」
「え?」
「実はカフェやってるんです」
「カフェ?」
「駅前の『カフェ・ルーチェ』って店です」
初めて聞く名前だった。
「もしよかったら来てください」
「はい……」
そう答えながらも、胸の奥が少しだけ温かくなる。
引っ越してきたばかりの隣人。
それだけのはずなのに。
なぜだろう。
また話したいと思ってしまった。
そしてその時の私は、まだ知らなかった。
この出会いが、止めようとしても止まらない気持ちの始まりになることを。
好きになるのが怖かった私の世界を、大きく変えてしまうことを。
二十七歳になった今でも、その気持ちは変わらなかった。
好きになればなるほど、言葉が出なくなる。
近づきたいのに距離を取ってしまう。
そんな自分が嫌で、だから私は恋愛から目を逸らして生きてきた。
──図書館の仕事は好きだ。
本に囲まれていると落ち着くし、登場人物たちの恋愛を読むだけで十分だと思っていた。
少なくとも、今日までは。
「すみません!」
休日の昼下がり。
アパートの廊下に響いた声に、私は部屋のドアを開けた。
隣の空き部屋の前で、大きな段ボールを抱えた男性が困った顔をしている。
背は高めで、黒髪は少し無造作。
Tシャツ姿なのに妙に爽やかだった。
「もしよかったら、ドア押さえてもらえませんか?」
「あ、はい!」
反射的に返事をしていた。
私は慌てて駆け寄り、ドアを押さえる。
男性は「助かります」と笑いながら荷物を運び込んだ。
その笑顔に、少しだけ心臓が跳ねる。
いや、違う。
急に話しかけられたから驚いただけだ。
そう自分に言い聞かせる。
「本当にありがとうございました」
荷物を置いた彼が頭を下げた。
「いえ、大したことじゃ……」
「俺、今日ここに引っ越してきた桐生悠真です」
そう言って差し出された手に、一瞬だけ戸惑う。
握手なんて久しぶりだ。
「雨宮陽菜です」
恐る恐る手を伸ばす。
ほんの一瞬触れただけなのに、なぜか妙に意識してしまった。
「これからよろしくお願いします」
「こちらこそ……」
会話はそこで終わった。
終わったはずだった。
その日の夕方までは。
◆
コンコン。
夜七時過ぎ。
部屋で本を読んでいた私のもとへ来客があった。
ドアを開けると、そこには悠真さんが立っていた。
「あの、お礼です」
差し出されたのは小さな紙袋だった。
中には焼き菓子が入っている。
「え?」
「手伝ってもらったお礼です」
「そんな、気を遣わなくて……」
「でも助かりましたから」
柔らかく笑う。
断れない。
私は戸惑いながら受け取った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
そう言って去っていく背中を見送りながら、私は妙に落ち着かない気持ちになった。
焼き菓子の甘い香りが部屋に広がる。
こんな風に誰かから親切にされるだけで、少し嬉しくなってしまう自分が単純だと思った。
けれど。
それで終わりにできなかったのは私の方だった。
◆
翌日。
仕事から帰った私は、スーパーの袋を提げたまま立ち尽くしていた。
昨日のお礼をもらったままだ。
何もしないのは気になる。
かといって高価な物を返すのも違う。
悩んだ末に、私は小さな肉じゃがを作った。
得意料理というほどではない。
ただ、母から教わった家庭料理だ。
タッパーに詰めて隣の部屋へ向かう。
インターホンを押した瞬間、猛烈に後悔した。
やっぱり迷惑だったかもしれない。
引っ越してきたばかりなのに。
帰ろうか。
そう思った瞬間、ドアが開いた。
「雨宮さん?」
「あっ」
心臓が跳ねる。
「これ……昨日のお礼です」
勢いでタッパーを差し出した。
悠真さんは目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「手料理?」
「たいしたものじゃありません」
「めちゃくちゃ嬉しいです」
その言葉に、今度は私が目を丸くする。
こんなに素直に喜ばれると思わなかった。
「本当に?」
「本当に」
悠真さんは大げさなくらい頷いた。
「一人暮らし始めたばっかりだから助かります」
その表情があまりにも自然で。
私は少しだけ肩の力が抜けた。
「よかったです」
「お礼に今度コーヒー淹れます」
「え?」
「実はカフェやってるんです」
「カフェ?」
「駅前の『カフェ・ルーチェ』って店です」
初めて聞く名前だった。
「もしよかったら来てください」
「はい……」
そう答えながらも、胸の奥が少しだけ温かくなる。
引っ越してきたばかりの隣人。
それだけのはずなのに。
なぜだろう。
また話したいと思ってしまった。
そしてその時の私は、まだ知らなかった。
この出会いが、止めようとしても止まらない気持ちの始まりになることを。
好きになるのが怖かった私の世界を、大きく変えてしまうことを。