好きが止まらない

第1話 隣に越してきた人

誰かを好きになるのは、少し怖い。

二十七歳になった今でも、その気持ちは変わらなかった。

好きになればなるほど、言葉が出なくなる。

近づきたいのに距離を取ってしまう。

そんな自分が嫌で、だから私は恋愛から目を逸らして生きてきた。

──図書館の仕事は好きだ。

本に囲まれていると落ち着くし、登場人物たちの恋愛を読むだけで十分だと思っていた。

少なくとも、今日までは。

「すみません!」

休日の昼下がり。

アパートの廊下に響いた声に、私は部屋のドアを開けた。

隣の空き部屋の前で、大きな段ボールを抱えた男性が困った顔をしている。

背は高めで、黒髪は少し無造作。

Tシャツ姿なのに妙に爽やかだった。

「もしよかったら、ドア押さえてもらえませんか?」

「あ、はい!」

反射的に返事をしていた。

私は慌てて駆け寄り、ドアを押さえる。

男性は「助かります」と笑いながら荷物を運び込んだ。

その笑顔に、少しだけ心臓が跳ねる。

いや、違う。

急に話しかけられたから驚いただけだ。

そう自分に言い聞かせる。

「本当にありがとうございました」

荷物を置いた彼が頭を下げた。

「いえ、大したことじゃ……」

「俺、今日ここに引っ越してきた桐生悠真(きりゅうゆうま)です」

そう言って差し出された手に、一瞬だけ戸惑う。

握手なんて久しぶりだ。

雨宮陽菜(あまみやひな)です」

恐る恐る手を伸ばす。

ほんの一瞬触れただけなのに、なぜか妙に意識してしまった。

「これからよろしくお願いします」

「こちらこそ……」

会話はそこで終わった。

終わったはずだった。

その日の夕方までは。



コンコン。

夜七時過ぎ。

部屋で本を読んでいた私のもとへ来客があった。

ドアを開けると、そこには悠真さんが立っていた。

「あの、お礼です」

差し出されたのは小さな紙袋だった。

中には焼き菓子が入っている。

「え?」

「手伝ってもらったお礼です」

「そんな、気を遣わなくて……」

「でも助かりましたから」

柔らかく笑う。

断れない。

私は戸惑いながら受け取った。

「ありがとうございます」

「こちらこそ」

そう言って去っていく背中を見送りながら、私は妙に落ち着かない気持ちになった。

焼き菓子の甘い香りが部屋に広がる。

こんな風に誰かから親切にされるだけで、少し嬉しくなってしまう自分が単純だと思った。

けれど。

それで終わりにできなかったのは私の方だった。



翌日。

仕事から帰った私は、スーパーの袋を提げたまま立ち尽くしていた。

昨日のお礼をもらったままだ。

何もしないのは気になる。

かといって高価な物を返すのも違う。

悩んだ末に、私は小さな肉じゃがを作った。

得意料理というほどではない。

ただ、母から教わった家庭料理だ。

タッパーに詰めて隣の部屋へ向かう。

インターホンを押した瞬間、猛烈に後悔した。

やっぱり迷惑だったかもしれない。

引っ越してきたばかりなのに。

帰ろうか。

そう思った瞬間、ドアが開いた。

「雨宮さん?」

「あっ」

心臓が跳ねる。

「これ……昨日のお礼です」

勢いでタッパーを差し出した。

悠真さんは目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。

「手料理?」

「たいしたものじゃありません」

「めちゃくちゃ嬉しいです」

その言葉に、今度は私が目を丸くする。

こんなに素直に喜ばれると思わなかった。

「本当に?」

「本当に」

悠真さんは大げさなくらい頷いた。

「一人暮らし始めたばっかりだから助かります」

その表情があまりにも自然で。

私は少しだけ肩の力が抜けた。

「よかったです」

「お礼に今度コーヒー淹れます」

「え?」

「実はカフェやってるんです」

「カフェ?」

「駅前の『カフェ・ルーチェ』って店です」

初めて聞く名前だった。

「もしよかったら来てください」

「はい……」

そう答えながらも、胸の奥が少しだけ温かくなる。

引っ越してきたばかりの隣人。

それだけのはずなのに。

なぜだろう。

また話したいと思ってしまった。

そしてその時の私は、まだ知らなかった。

この出会いが、止めようとしても止まらない気持ちの始まりになることを。

好きになるのが怖かった私の世界を、大きく変えてしまうことを。
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