高嶺の西園寺くんは、地味な影山さんに興味を持たれたい!
高嶺の王子と世界の背景
西園寺遥(さいおんじ はるか)の朝は、いつも同じ音から始まる。
「キャー! 西園寺くん、おはよう!」
「遥先輩! 今日の髪型も最高にカッコいいです!」
「西園寺くん、これ、もしよかったらお弁当の足しに……!」
私立鳳凰学園高校の校門をくぐった瞬間から、耳を突き刺すような黄色い歓声が四方八方から飛び交う。
遥はそれらの声を一言も聞き漏らさぬよう、しかし決して一人だけに偏らぬよう、完璧な角度の笑みを浮かべて全方位に視線を配った。
「おはよう。みんな、朝から元気だね。でも校門の前で立ち止まると先生に怒られちゃうから、中に入ろうか。お弁当の差し入れもありがとう、気持ちだけいただくね」
爽やかで、ほんの少し低音の効いた心地よい声。
その言葉一つで、周囲の女子生徒たちは「ハゥア!」と奇声を上げて悶絶し、道がモーセの十戒のように割れていく。
遥はその中を、モデルのような歩調で悠々と歩いた。
容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能。家柄も良く、誰に対しても分け隔てなく優しい。
それが「学校のアイドル」であり「学園の王子様」と呼ばれる西園寺遥のパブリックイメージだった。
そして遥自身、その期待に応えることに何の苦も感じていなかった。
むしろ、周囲を自分の魅力でコントロールすることは、彼にとって息をするよりも簡単な、退屈しのぎのゲームのようなものだった。
(……うん、今日もいつも通りだな)
教室に入り、自分の席である窓際の後ろから二番目に座る。
すぐにクラスの女子たちが机を取り囲み、男子たちも「よお、遥。恋愛に興味持ったか?」と親しげに話しかけてくる。
遥はそのすべてに完璧な回答を返し、周囲を笑顔にさせていく。
誰もが自分を見ている。
誰もが自分に好意を抱いている。
それは、遥にとって生まれてからずっと当たり前の景色だった。
「恋愛? ああ、興味がないわけじゃないんだけどね。今はみんなと仲良くするのが楽しいからさ」
何度も繰り返してきた定型句を口にする。
実際、遥は「恋」という感情が分からなかった。
告白されることは星の数ほどあっても、誰か一人のために胸が苦しくなったり、その人のことばかり考えて夜も眠れなくなったりするような、物語の中の「特別な感情」を抱いたことは一度もない。
自分に好意を向けてくる人間は、みんな同じに見えた。
遥にとって世界は、「自分を好きな人間」と「自分をまだ知らない人間」の二種類だけで構成されていたのだ。
――その転校生が、この教室にやってくるまでは。
「えー、急な話だが、家庭の事情で今日からこのクラスに編入することになった生徒を紹介する。影山、入ってこい」
担任の太い声に、騒がしかった教室が少しだけ静まり返る。
ガラガラと音を立てて開いたドアから入ってきた人物を見て、教室に一瞬、微妙な空気が流れた。
(……地味、だな)
それが、遥を含むクラス全員の共通した第一印象だった。
やってきた女子生徒は、サイズの合っていない大きめの制服に身を包み、肩をすぼめるようにして縮こまっていた。
何より目を引いたのは、その顔立ちだ。
顔の半分を覆うほど大きな、昭和の牛乳瓶の底のような分厚い銀縁眼鏡。
そして、お辞儀をするたびに顔を完全に隠してしまうほど長く、重く切り揃えられた黒髪の前髪。
お世辞にも「可愛い」とか「華がある」とは言えない、いわゆる典型的な「地味子」だった。
「影山海月(かげやま みつき)です。……よろしくお願いします」
蚊の鳴くような、細く掠れた声。
彼女は教壇に立つと、床の一点を見つめたまま、一瞬だけペコリと頭を下げた。
前髪が揺れて、分厚い眼鏡の奥の瞳は一切見えない。
「よし、影山の席は……。西園寺、お前の後ろが空いてるな。あそこを使ってくれ」
「はい、先生」
遥はすっと手を挙げ、極上の微笑みを転校生へと向けた。
普通なら、学校一のイケメンである遥の隣や後ろの席に指定された女子は、顔を真っ赤にして喜ぶか、緊張でガチガチになるかのどちらかだ。
周りの女子たちからも「えー、ずるい!」という羨望のブーイングが上がる。
遥は、転校生がどんな反応をするか、少しだけ楽しみに待っていた。
緊張して縮こまる彼女を、優しくフォローしてあげるのが「王子様」の役目だ。
しかし。
「……あ、はい」
影山海月は、遥の顔を1ミリも見ることなく、ただ指定された席に向かってトボトボと歩き出した。
遥の横を通り過ぎるときも、視線は完全に床。
それどころか、彼女は遥の存在そのものが最初からそこには無いかのように、ごく自然に、そして完全に無視して、自分の席に座ってカバンを机にかけたのだ。
「……え?」
遥の完璧な笑みが、一瞬だけピキリと固まった。
今、目が合わなかった。
それどころか、気配すら感知されていないような気がした。
(まあ、転校初日で緊張してるだけか。無理もないよね)
遥はすぐに気を取り直し、椅子をくるりと後ろへ回転させた。
前のめりになり、机に肘をついて、クラスの女子全員を落としてきた必殺の「至近距離スマイル」を炸裂させる。
「よろしくね、影山さん。俺は西園寺遥。後ろの席で分からないことがあったら、何でも聞いて。教科書とか見づらかったら、いつでも見せてあげるからさ」
距離感の詰め方、声のトーン、表情。すべてが計算し尽くされた完璧なアプローチ。
周囲の女子ならこれだけで卒倒するレベルだ。
だが、影山海月は、カバンからノートを取り出す手をピタリと止めると。
「……いえ。大丈夫です。ありがとうございます」
そう短く呟き、やはり遥の顔を一切見ないまま、ペコリと頭を下げた。
その動作はあまりにも事務的で、まるでコンビニの店員に「レシートはいりますか?」と聞かれて「あ、いいです」と答える通行人のようだった。
そして彼女はそのまま教科書を開き、予習を始めてしまった。
遥の存在は、すでに彼女の意識の遥か外へと弾き出されていた。
「…………」
遥は、差し出しかけた手をゆっくりと引っ込めた。
胸の奥で、今まで感じたことのない、奇妙なザラつきが生まれていた。
(……何、今のは?)
無視された?
この俺が?
あり得ない。
これが、西園寺遥と影山海月の、最悪で決定的な出会いだった。
「おいおい、遥。お前でも落とせない難攻不落の城が現れたってマジかよ?」
昼休み。食堂のいつもの席で、友人の男子・健太がニヤニヤしながら唐揚げを口に放り込んできた。
遥はストローでパックのミルクティーをすすりながら、端正な眉を不機嫌そうにひそめた。
「落とすとか落とさないとか、そういう話じゃないよ。ただ……ちょっと不思議な子だなと思って」
「あの転校生の影山だろ? クラスの連中も言ってたぜ。西園寺遥のウインクをスルーした伝説の女って」
「ウインクなんかしてないよ!」
遥は思わず声を荒らげ、すぐに周囲の視線に気づいて「コホン」と咳払いをし、いつもの王子様スマイルに戻した。
だが、内心は穏やかではなかった。
あの朝のホームルーム以来、遥はことあるごとに海月に話しかけてみた。
授業中、プリントを後ろに回すとき。
「はい、影山さん」と、わざわざ振り返って目を見て渡した。
だが彼女は「……あ、どうも」と、プリントの端だけを見て受け取った。
移動教室のとき。
「影山さん、次の化学室、場所分かる? 一緒に行こうか」と声をかけた。
だが彼女は「……いえ、案内図があるので大丈夫です」と、ロボットのように正確な辞退をして、一人でトボトボと歩いて行ってしまった。
掃除の時間。
「それ、重いよね? 俺が持つよ」と、彼女が持っていたバケツに手を添えた。
普通ならここで「キャッ」となるはずだ。
しかし彼女は「……いえ、軽いので。ありがとうございます」と、すっとバケツを引いて遥の手をかわし、さっさと雑巾を絞りに行ってしまった。
全戦全敗。
打てば響くはずの遥の魅力が、影山海月という巨大な泥の壁に、すべて吸収されて消えていくような感覚だった。
(なぜだ……? なぜ俺を見ない?)
遥は食堂の窓から、中庭のベンチに座っている海月の姿を見つけた。
彼女は一人で、購買で買ったらしい地味なジャムパンを食べながら、文庫本を読んでいる。
その姿には、寂しさも、孤高のプライドも見当たらない。
ただただ、「そこにいるだけ」という圧倒的な無関心。
周囲で女子たちが遥の噂話をしてキャーキャー言っている声も、彼女の耳にはまったく届いていないようだった。
(意味が分からない。俺を嫌いなのか? いや、嫌っているなら、もっと嫌悪の表情とか、避けるような仕草があるはずだ。あいつのは、そういうのじゃない。本当に……ただ、興味がないんだ)
「興味がない」。
その事実が、遥の心をどうしようもなく激しく掻き乱した。
今まで、誰もが遥に関心を持った。
好きか、憧れか、あるいは嫉妬か。
どんな形であれ、遥を中心に世界は回っていた。
なのに、彼女の世界に、西園寺遥は存在すらしていないのだ。
(認めない。……絶対に、俺を意識させてやる)
メラメラと、遥の心に奇妙な炎が灯った。
それが「恋」という感情の裏返しであることに、恋愛戦闘力100のくせに恋愛経験値ゼロの遥は、全く気づいていなかった。
ただの「プライドの揺らぎ」だと、自分に言い聞かせていた。
「よし、決めた」
「ん? 何がだ、遥?」
健太が不思議そうに首を傾げる。
遥はミルクティーのパックを小さく潰すと、不敵な笑みを浮かべた。
「影山さんに、俺のことを好きになってもらう。……いや、まずは『認識』させてみせるよ」
「うわ、王子の目がマジだ。あの地味子、お前の何に火をつけちまったんだよ……」
健太の呆れた声を背に、遥は席を立った。
そこからの遥の行動は、傍から見ればお茶目で、同時に少し常軌を逸していた。
次の日の放課後。
海月が一人で教室に残り、日誌を書いているのを見計らって、遥は教室に戻った。
「影山さん、まだ残ってたんだ」
「……あ、はい。日直なので」
海月は相変わらずノートから目を離さない。
遥は、彼女の机の前に回り込み、ドサリと両手を突いた。
少女漫画で言うところの「机ドン」だ。
顔と顔の距離は、わずか二十センチ。
「ねえ、影山さん。俺のこと、どう思う?」
直球すぎる質問。これなら嫌でも顔を上げるはずだ。
海月は、ゆっくりと顔を上げた。
分厚い眼鏡のレンズが、蛍光灯の光を反射して白く光る。
「……西園寺くんは、とても親切な人だと思います」
「えっ」
「クラスの、誰にでも、同じように優しくて。……すごいな、と思います」
淡々と、まるで教科書を朗読するように海月は言った。
褒められているはずなのに、遥の胸には少しも嬉しさが湧かなかった。
なぜなら、彼女の言葉は「クラスの誰にでも同じ」という部分に集約されていたからだ。
彼女にとって遥は、「親切なクラスメイトA」以上の存在ではなかった。
「……そうじゃなくて。影山さんにとって、俺は?」
「私にとって、ですか?」
海月は少しだけ首を傾げた。その動作で、長い前髪がわずかに揺れる。
「私にとっては……ただの、クラスメイトの、西園寺くんです。……あの、日誌を書かなければいけないので、どいていただけると助かります」
「あ、……ごめん」
遥は反射的に体を離してしまった。
海月は再び、黙々とペンを動かし始める。
教室を後にする遥の足取りは重かった。
(なんなんだよ、一体……!)
頭を掻きむしりたくなるような衝動に駆られる。
どうしてこんなに彼女のことが気になるのか。どうして、彼女に「特別」だと思われたいのか。
その理由を、遥は一晩中ベッドの中で考え続けたが、答えはついに満足のいく形では出なかった。
ただ分かっているのは、影山海月の存在が、すでに西園寺遥の日常のすべてを支配し始めているということだけだった。
運命の日。
それは、転校してきてから二週間が経った、ある雨の日の放課後に訪れた。
その日の鳳凰学園は、どんよりとした雲に覆われ、外は激しい雨が激しく窓を叩いていた。
遥は部活動(テニス部)のミーティングが早く終わったため、忘れ物を取りに自分の教室へと向かっていた。
廊下を歩いていると、自分の教室の中から、騒がしい笑い声が聞こえてきた。
男子生徒たちの、少し下品で、悪ノリした声だ。
「おいおい、影山ァ! その眼鏡、マジで中身どうなってんの?」
「ちょっと、見せてみろよ! どんなガリ勉な目してんのかさ!」
(……! 影山さん?)
遥の心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。
足を速め、教室の入り口のドアから中を覗き込む。
そこでは、クラスの主犯格である男子生徒・拓也とその仲間たちが、海月の机を取り囲んでいた。
海月は席に座ったまま、教科書を胸に抱きしめるようにして、小さく震えていた。
「……やめて、ください。返して……」
「いいじゃん、ちょっと見るだけだって! ほら、よこせよ!」
タクヤが面白半分に手を伸ばし、海月の顔から、あの分厚い銀縁眼鏡を無理やり奪い取った。
「あ――」
海月が小さな悲鳴を上げる。
眼鏡を奪った拓也たちは、それを掲げてゲラゲラと笑った。
「うわ、マジでレンズ厚っ! 渦巻いてんじゃん! これじゃ何も見えねえだろ!」
「返して……お願い、それがないと、何も……」
海月は、視界を奪われた不安からか、机に両手を突いて立ち上がった。
いつもなら床ばかり見ている彼女が、眼鏡を取り返そうと、必死に顔を上げた。
長い前髪が、彼女の激しい動きによって、左右に大きく割れる。
その瞬間。
教室の時が、完全に止まった。
「……え?」
拓也の手から、奪った眼鏡がポロリと床に落ちた。
周囲ではやし立てていた男子たちも、言葉を失ったように口を開けたまま硬直している。
教室の入り口でそれを見ていた遥もまた、雷に打たれたような衝撃を受け、一歩も動けなくなっていた。
前髪が割れ、分厚い眼鏡を外された、影山海月の「素顔」。
それは――言葉を失うほど、圧倒的な「美少女」の姿だった。
大きく、切れ上がった、宝石のように澄んだ黒い瞳。
長い睫毛が、濡れたように微かに震えている。
通った鼻筋に、血色の良い、小さく結ばれた形の良い唇。
いつもサイズの合わない制服に隠されていたが、驚きで強張るその顔立ちは、まるで行き届いた美術館の奥深くに飾られている、最高級の絵画のようだった。
学園のアイドルである遥をして、「綺麗だ」と本能的に恐怖を感じるほどの、完璧な、美の暴力。
「……あっ」
海月は、周囲の視線が自分に集中していることに気づき、ハッと表情を変えた。
視界がぼやけているせいか、彼女の瞳は不安げに泳いでいる。
しかし、その怯えた表情すらも、保護欲を激しく刺激する、形容しがたい美しさを放っていた。
「か、影山……お前……」
拓也が、顔を真っ赤にして信じられないものを見るように呟く。
「めちゃくちゃ……可愛い、じゃん……」
その言葉に、海月は絶望したような表情を浮かべた。
「……ちがう、見ないで……!」
彼女は両手で顔を覆い、しゃがみ込もうとした。
その時だった。
「――そこまでにしろよ」
低く、しかし驚くほど冷徹な声が教室に響いた。
誰もが振り返る。
そこに立っていたのは、いつも優しい笑顔を崩さないはずの、西園寺遥だった。
だが、今の遥の顔には、笑みの欠片もなかった。
その瞳には、周囲を凍りつかせるほどの、激しい怒りと――そして、得体の知れない「独占欲」がギラギラと渦巻いていた。
「西、園寺……?」
拓也が怯んだように一歩後退る。
遥は迷いのない足取りで海月に近づくと、床に落ちていた眼鏡を拾い上げた。
そして、しゃがみ込んでいる海月の前に膝をつき、彼女の両手を優しく、しかし拒絶を許さない強さで包み込んだ。
「影山さん」
「……西園寺、くん……? 私、何も、見えなくて……」
不安に震える海月の声。
遥は、拾い上げた眼鏡を彼女の顔にそっと戻してあげた。
レンズの向こうに、再びあの圧倒的な瞳が隠される。
しかし、遥の胸の動悸は、収まるどころか激しくなる一方だった。
知ってしまった。見てしまった。
彼女が、誰にも見せないように隠していた、あの美しすぎる秘密を。
(これを……他の男たちが見たのか?)
(こいつらが、彼女のあの姿を……?)
ふつふつと、胸の奥からドス黒い感情が湧き上がってくる。
それは、これまで誰も遥に抱かせることができなかった、強烈な「嫉妬」であり「独占欲」だった。
遥は立ち上がると、海月を自分の背中に隠すようにして立ちはだかった。
そして、タクヤたちを冷酷な眼差しで見下ろした。
「人の物を勝手に取るなんて、最低だと思わない? ……今すぐ影山さんに謝って。そうじゃないと、俺、生徒会にも今の話を通さなきゃいけなくなるんだけど」
いつも穏やかな王子の、見たこともない冷徹な脅し。
拓也たちは完全に恐怖に呑まれ、「す、すまん!」「悪かった!」と言い残し、脱兎の如く教室から逃げ去っていった。
教室には、激しい雨の音と、二人の呼吸の音だけが残された。
「……大丈夫?」
遥は振り返り、いつもの優しい声を作って海月に問いかけた。
だが、彼の心臓は、まだドラムのように激しく波打っていた。
海月は眼鏡の位置を直すと、深く、深く頭を下げた。長い前髪が再び彼女の顔を隠す。
「……ありがとうございました、西園寺くん。助かりました」
いつもの、他人行儀な声。
だが、今の遥には、その声の裏にある彼女の「震え」が手に取るように分かった。
「影山さん」
「……はい」
「どうして……あんな眼鏡をしてるの? 髪も、わざと顔が隠れるようにしてるよね」
遥の問いに、海月はビクリと肩を揺らした。
彼女はしばらく沈黙していたが、やがて諦めたように、小さな声でぽつりぽつりと話し始めた。
「……前の学校で、すごく、大変だったんです」
「大変?」
「私の……顔のことで。男子たちが、毎日騒いだり、告白の賭けをされたり……女子たちからは、ひどい嫌がらせを受けたりして。学校に、行けなくなって……」
海月は、制服のスカートをぎゅっと握りしめた。
「だから、この学校に転校するとき、決めたんです。誰の目にも留まらない、ただの『背景』になろうって。地味で、目立たなくて、誰からも興味を持たれない……そんな人間になれば、静かに、普通に学校生活を送れるからって」
「…………」
遥は、言葉を失った。
彼女が自分を見ようとしなかった理由。自分に興味を示さなかった理由。
それは、遥が嫌いだからでも、気づいていないからでもなかった。
彼女にとって「目立つ人間」や「イケメン」は、自分を傷つける平穏の敵であり、恐怖の対象でしかなかったのだ。
そして、鳳凰学園で最も目立つ存在こそが――西園寺遥だった。
「だから……西園寺くん」
海月は、眼鏡の奥から、まっすぐに遥を見つめた。
「私のこと、誰にも言わないでください。私、またあんな風になるのは、嫌なんです。……お願いします」
すがるような、切実な瞳。
普通なら、ここで「分かったよ、秘密にするね」と優しく微笑むのが、王子の模範解答だろう。
だが、遥の口から出たのは、全く違う言葉だった。
「……嫌だね」
「え……?」
海月が目を見開く。
遥は、一歩、彼女との距離を詰めた。
彼の顔から、いつもの「作られた王子様の笑顔」が完全に消えていた。
そこにあるのは、一人の男としての、剥き出しの感情だった。
「誰にも言わない代わりに、条件がある」
「じょ、条件……?」
「俺と、取引をしてよ、影山さん」
遥は、海月の机に両手を突き、再び彼女を覗き込んだ。
今度は、からかいでも、プライドのためでもない。彼の瞳は、本気だった。
「これから毎日、放課後、俺と二人だけで過ごして。俺の話を聞いて、俺の目を見て、俺のことだけを考えて」
「な、何を言っているんですか……?」
海月は混乱したように身を引こうとするが、遥の放つ圧倒的なプレッシャーに動けない。
「君が『背景』のままでいたいなら、俺が君の『壁』になってあげる。他の男が君に近づかないように、俺が全部追い払ってあげるよ。……その代わり、君の世界に、俺を入れさせて」
遥自身、自分が何を言っているのか分からなかった。
こんな強引なやり方、彼の美学に最も反するものだ。
だけど、止まらなかった。
他の誰にも、あの美しい彼女を見せたくない。
彼女の視線を、他の男に奪われたくない。
彼女が誰にも興味を持たないというのなら、その最初の「特別」に、俺がなる。
「俺に、興味を持ってよ。影山さん」
遥の声は、かすかに震えていた。
それは、生まれて初めて「誰かを激しく欲してしまった」男の、無自覚な求愛のメッセージだった。
海月は、分厚い眼鏡の奥の瞳を大きく見開いたまま、カチコチに固まっていた。
彼女の頬が、夕暮れの教室の赤シグナルに染まるように、じわじわと赤くなっていく。
「……に、西園寺くん、顔が……近いです……」
「答えてくれるまで、どかない」
完璧だったはずの学園のアイドル・西園寺遥の、あまりにも必死で、あまりにも不器用な初恋が。
激しい雨の放課後、ついにその幕を開けたのだった。
「キャー! 西園寺くん、おはよう!」
「遥先輩! 今日の髪型も最高にカッコいいです!」
「西園寺くん、これ、もしよかったらお弁当の足しに……!」
私立鳳凰学園高校の校門をくぐった瞬間から、耳を突き刺すような黄色い歓声が四方八方から飛び交う。
遥はそれらの声を一言も聞き漏らさぬよう、しかし決して一人だけに偏らぬよう、完璧な角度の笑みを浮かべて全方位に視線を配った。
「おはよう。みんな、朝から元気だね。でも校門の前で立ち止まると先生に怒られちゃうから、中に入ろうか。お弁当の差し入れもありがとう、気持ちだけいただくね」
爽やかで、ほんの少し低音の効いた心地よい声。
その言葉一つで、周囲の女子生徒たちは「ハゥア!」と奇声を上げて悶絶し、道がモーセの十戒のように割れていく。
遥はその中を、モデルのような歩調で悠々と歩いた。
容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能。家柄も良く、誰に対しても分け隔てなく優しい。
それが「学校のアイドル」であり「学園の王子様」と呼ばれる西園寺遥のパブリックイメージだった。
そして遥自身、その期待に応えることに何の苦も感じていなかった。
むしろ、周囲を自分の魅力でコントロールすることは、彼にとって息をするよりも簡単な、退屈しのぎのゲームのようなものだった。
(……うん、今日もいつも通りだな)
教室に入り、自分の席である窓際の後ろから二番目に座る。
すぐにクラスの女子たちが机を取り囲み、男子たちも「よお、遥。恋愛に興味持ったか?」と親しげに話しかけてくる。
遥はそのすべてに完璧な回答を返し、周囲を笑顔にさせていく。
誰もが自分を見ている。
誰もが自分に好意を抱いている。
それは、遥にとって生まれてからずっと当たり前の景色だった。
「恋愛? ああ、興味がないわけじゃないんだけどね。今はみんなと仲良くするのが楽しいからさ」
何度も繰り返してきた定型句を口にする。
実際、遥は「恋」という感情が分からなかった。
告白されることは星の数ほどあっても、誰か一人のために胸が苦しくなったり、その人のことばかり考えて夜も眠れなくなったりするような、物語の中の「特別な感情」を抱いたことは一度もない。
自分に好意を向けてくる人間は、みんな同じに見えた。
遥にとって世界は、「自分を好きな人間」と「自分をまだ知らない人間」の二種類だけで構成されていたのだ。
――その転校生が、この教室にやってくるまでは。
「えー、急な話だが、家庭の事情で今日からこのクラスに編入することになった生徒を紹介する。影山、入ってこい」
担任の太い声に、騒がしかった教室が少しだけ静まり返る。
ガラガラと音を立てて開いたドアから入ってきた人物を見て、教室に一瞬、微妙な空気が流れた。
(……地味、だな)
それが、遥を含むクラス全員の共通した第一印象だった。
やってきた女子生徒は、サイズの合っていない大きめの制服に身を包み、肩をすぼめるようにして縮こまっていた。
何より目を引いたのは、その顔立ちだ。
顔の半分を覆うほど大きな、昭和の牛乳瓶の底のような分厚い銀縁眼鏡。
そして、お辞儀をするたびに顔を完全に隠してしまうほど長く、重く切り揃えられた黒髪の前髪。
お世辞にも「可愛い」とか「華がある」とは言えない、いわゆる典型的な「地味子」だった。
「影山海月(かげやま みつき)です。……よろしくお願いします」
蚊の鳴くような、細く掠れた声。
彼女は教壇に立つと、床の一点を見つめたまま、一瞬だけペコリと頭を下げた。
前髪が揺れて、分厚い眼鏡の奥の瞳は一切見えない。
「よし、影山の席は……。西園寺、お前の後ろが空いてるな。あそこを使ってくれ」
「はい、先生」
遥はすっと手を挙げ、極上の微笑みを転校生へと向けた。
普通なら、学校一のイケメンである遥の隣や後ろの席に指定された女子は、顔を真っ赤にして喜ぶか、緊張でガチガチになるかのどちらかだ。
周りの女子たちからも「えー、ずるい!」という羨望のブーイングが上がる。
遥は、転校生がどんな反応をするか、少しだけ楽しみに待っていた。
緊張して縮こまる彼女を、優しくフォローしてあげるのが「王子様」の役目だ。
しかし。
「……あ、はい」
影山海月は、遥の顔を1ミリも見ることなく、ただ指定された席に向かってトボトボと歩き出した。
遥の横を通り過ぎるときも、視線は完全に床。
それどころか、彼女は遥の存在そのものが最初からそこには無いかのように、ごく自然に、そして完全に無視して、自分の席に座ってカバンを机にかけたのだ。
「……え?」
遥の完璧な笑みが、一瞬だけピキリと固まった。
今、目が合わなかった。
それどころか、気配すら感知されていないような気がした。
(まあ、転校初日で緊張してるだけか。無理もないよね)
遥はすぐに気を取り直し、椅子をくるりと後ろへ回転させた。
前のめりになり、机に肘をついて、クラスの女子全員を落としてきた必殺の「至近距離スマイル」を炸裂させる。
「よろしくね、影山さん。俺は西園寺遥。後ろの席で分からないことがあったら、何でも聞いて。教科書とか見づらかったら、いつでも見せてあげるからさ」
距離感の詰め方、声のトーン、表情。すべてが計算し尽くされた完璧なアプローチ。
周囲の女子ならこれだけで卒倒するレベルだ。
だが、影山海月は、カバンからノートを取り出す手をピタリと止めると。
「……いえ。大丈夫です。ありがとうございます」
そう短く呟き、やはり遥の顔を一切見ないまま、ペコリと頭を下げた。
その動作はあまりにも事務的で、まるでコンビニの店員に「レシートはいりますか?」と聞かれて「あ、いいです」と答える通行人のようだった。
そして彼女はそのまま教科書を開き、予習を始めてしまった。
遥の存在は、すでに彼女の意識の遥か外へと弾き出されていた。
「…………」
遥は、差し出しかけた手をゆっくりと引っ込めた。
胸の奥で、今まで感じたことのない、奇妙なザラつきが生まれていた。
(……何、今のは?)
無視された?
この俺が?
あり得ない。
これが、西園寺遥と影山海月の、最悪で決定的な出会いだった。
「おいおい、遥。お前でも落とせない難攻不落の城が現れたってマジかよ?」
昼休み。食堂のいつもの席で、友人の男子・健太がニヤニヤしながら唐揚げを口に放り込んできた。
遥はストローでパックのミルクティーをすすりながら、端正な眉を不機嫌そうにひそめた。
「落とすとか落とさないとか、そういう話じゃないよ。ただ……ちょっと不思議な子だなと思って」
「あの転校生の影山だろ? クラスの連中も言ってたぜ。西園寺遥のウインクをスルーした伝説の女って」
「ウインクなんかしてないよ!」
遥は思わず声を荒らげ、すぐに周囲の視線に気づいて「コホン」と咳払いをし、いつもの王子様スマイルに戻した。
だが、内心は穏やかではなかった。
あの朝のホームルーム以来、遥はことあるごとに海月に話しかけてみた。
授業中、プリントを後ろに回すとき。
「はい、影山さん」と、わざわざ振り返って目を見て渡した。
だが彼女は「……あ、どうも」と、プリントの端だけを見て受け取った。
移動教室のとき。
「影山さん、次の化学室、場所分かる? 一緒に行こうか」と声をかけた。
だが彼女は「……いえ、案内図があるので大丈夫です」と、ロボットのように正確な辞退をして、一人でトボトボと歩いて行ってしまった。
掃除の時間。
「それ、重いよね? 俺が持つよ」と、彼女が持っていたバケツに手を添えた。
普通ならここで「キャッ」となるはずだ。
しかし彼女は「……いえ、軽いので。ありがとうございます」と、すっとバケツを引いて遥の手をかわし、さっさと雑巾を絞りに行ってしまった。
全戦全敗。
打てば響くはずの遥の魅力が、影山海月という巨大な泥の壁に、すべて吸収されて消えていくような感覚だった。
(なぜだ……? なぜ俺を見ない?)
遥は食堂の窓から、中庭のベンチに座っている海月の姿を見つけた。
彼女は一人で、購買で買ったらしい地味なジャムパンを食べながら、文庫本を読んでいる。
その姿には、寂しさも、孤高のプライドも見当たらない。
ただただ、「そこにいるだけ」という圧倒的な無関心。
周囲で女子たちが遥の噂話をしてキャーキャー言っている声も、彼女の耳にはまったく届いていないようだった。
(意味が分からない。俺を嫌いなのか? いや、嫌っているなら、もっと嫌悪の表情とか、避けるような仕草があるはずだ。あいつのは、そういうのじゃない。本当に……ただ、興味がないんだ)
「興味がない」。
その事実が、遥の心をどうしようもなく激しく掻き乱した。
今まで、誰もが遥に関心を持った。
好きか、憧れか、あるいは嫉妬か。
どんな形であれ、遥を中心に世界は回っていた。
なのに、彼女の世界に、西園寺遥は存在すらしていないのだ。
(認めない。……絶対に、俺を意識させてやる)
メラメラと、遥の心に奇妙な炎が灯った。
それが「恋」という感情の裏返しであることに、恋愛戦闘力100のくせに恋愛経験値ゼロの遥は、全く気づいていなかった。
ただの「プライドの揺らぎ」だと、自分に言い聞かせていた。
「よし、決めた」
「ん? 何がだ、遥?」
健太が不思議そうに首を傾げる。
遥はミルクティーのパックを小さく潰すと、不敵な笑みを浮かべた。
「影山さんに、俺のことを好きになってもらう。……いや、まずは『認識』させてみせるよ」
「うわ、王子の目がマジだ。あの地味子、お前の何に火をつけちまったんだよ……」
健太の呆れた声を背に、遥は席を立った。
そこからの遥の行動は、傍から見ればお茶目で、同時に少し常軌を逸していた。
次の日の放課後。
海月が一人で教室に残り、日誌を書いているのを見計らって、遥は教室に戻った。
「影山さん、まだ残ってたんだ」
「……あ、はい。日直なので」
海月は相変わらずノートから目を離さない。
遥は、彼女の机の前に回り込み、ドサリと両手を突いた。
少女漫画で言うところの「机ドン」だ。
顔と顔の距離は、わずか二十センチ。
「ねえ、影山さん。俺のこと、どう思う?」
直球すぎる質問。これなら嫌でも顔を上げるはずだ。
海月は、ゆっくりと顔を上げた。
分厚い眼鏡のレンズが、蛍光灯の光を反射して白く光る。
「……西園寺くんは、とても親切な人だと思います」
「えっ」
「クラスの、誰にでも、同じように優しくて。……すごいな、と思います」
淡々と、まるで教科書を朗読するように海月は言った。
褒められているはずなのに、遥の胸には少しも嬉しさが湧かなかった。
なぜなら、彼女の言葉は「クラスの誰にでも同じ」という部分に集約されていたからだ。
彼女にとって遥は、「親切なクラスメイトA」以上の存在ではなかった。
「……そうじゃなくて。影山さんにとって、俺は?」
「私にとって、ですか?」
海月は少しだけ首を傾げた。その動作で、長い前髪がわずかに揺れる。
「私にとっては……ただの、クラスメイトの、西園寺くんです。……あの、日誌を書かなければいけないので、どいていただけると助かります」
「あ、……ごめん」
遥は反射的に体を離してしまった。
海月は再び、黙々とペンを動かし始める。
教室を後にする遥の足取りは重かった。
(なんなんだよ、一体……!)
頭を掻きむしりたくなるような衝動に駆られる。
どうしてこんなに彼女のことが気になるのか。どうして、彼女に「特別」だと思われたいのか。
その理由を、遥は一晩中ベッドの中で考え続けたが、答えはついに満足のいく形では出なかった。
ただ分かっているのは、影山海月の存在が、すでに西園寺遥の日常のすべてを支配し始めているということだけだった。
運命の日。
それは、転校してきてから二週間が経った、ある雨の日の放課後に訪れた。
その日の鳳凰学園は、どんよりとした雲に覆われ、外は激しい雨が激しく窓を叩いていた。
遥は部活動(テニス部)のミーティングが早く終わったため、忘れ物を取りに自分の教室へと向かっていた。
廊下を歩いていると、自分の教室の中から、騒がしい笑い声が聞こえてきた。
男子生徒たちの、少し下品で、悪ノリした声だ。
「おいおい、影山ァ! その眼鏡、マジで中身どうなってんの?」
「ちょっと、見せてみろよ! どんなガリ勉な目してんのかさ!」
(……! 影山さん?)
遥の心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。
足を速め、教室の入り口のドアから中を覗き込む。
そこでは、クラスの主犯格である男子生徒・拓也とその仲間たちが、海月の机を取り囲んでいた。
海月は席に座ったまま、教科書を胸に抱きしめるようにして、小さく震えていた。
「……やめて、ください。返して……」
「いいじゃん、ちょっと見るだけだって! ほら、よこせよ!」
タクヤが面白半分に手を伸ばし、海月の顔から、あの分厚い銀縁眼鏡を無理やり奪い取った。
「あ――」
海月が小さな悲鳴を上げる。
眼鏡を奪った拓也たちは、それを掲げてゲラゲラと笑った。
「うわ、マジでレンズ厚っ! 渦巻いてんじゃん! これじゃ何も見えねえだろ!」
「返して……お願い、それがないと、何も……」
海月は、視界を奪われた不安からか、机に両手を突いて立ち上がった。
いつもなら床ばかり見ている彼女が、眼鏡を取り返そうと、必死に顔を上げた。
長い前髪が、彼女の激しい動きによって、左右に大きく割れる。
その瞬間。
教室の時が、完全に止まった。
「……え?」
拓也の手から、奪った眼鏡がポロリと床に落ちた。
周囲ではやし立てていた男子たちも、言葉を失ったように口を開けたまま硬直している。
教室の入り口でそれを見ていた遥もまた、雷に打たれたような衝撃を受け、一歩も動けなくなっていた。
前髪が割れ、分厚い眼鏡を外された、影山海月の「素顔」。
それは――言葉を失うほど、圧倒的な「美少女」の姿だった。
大きく、切れ上がった、宝石のように澄んだ黒い瞳。
長い睫毛が、濡れたように微かに震えている。
通った鼻筋に、血色の良い、小さく結ばれた形の良い唇。
いつもサイズの合わない制服に隠されていたが、驚きで強張るその顔立ちは、まるで行き届いた美術館の奥深くに飾られている、最高級の絵画のようだった。
学園のアイドルである遥をして、「綺麗だ」と本能的に恐怖を感じるほどの、完璧な、美の暴力。
「……あっ」
海月は、周囲の視線が自分に集中していることに気づき、ハッと表情を変えた。
視界がぼやけているせいか、彼女の瞳は不安げに泳いでいる。
しかし、その怯えた表情すらも、保護欲を激しく刺激する、形容しがたい美しさを放っていた。
「か、影山……お前……」
拓也が、顔を真っ赤にして信じられないものを見るように呟く。
「めちゃくちゃ……可愛い、じゃん……」
その言葉に、海月は絶望したような表情を浮かべた。
「……ちがう、見ないで……!」
彼女は両手で顔を覆い、しゃがみ込もうとした。
その時だった。
「――そこまでにしろよ」
低く、しかし驚くほど冷徹な声が教室に響いた。
誰もが振り返る。
そこに立っていたのは、いつも優しい笑顔を崩さないはずの、西園寺遥だった。
だが、今の遥の顔には、笑みの欠片もなかった。
その瞳には、周囲を凍りつかせるほどの、激しい怒りと――そして、得体の知れない「独占欲」がギラギラと渦巻いていた。
「西、園寺……?」
拓也が怯んだように一歩後退る。
遥は迷いのない足取りで海月に近づくと、床に落ちていた眼鏡を拾い上げた。
そして、しゃがみ込んでいる海月の前に膝をつき、彼女の両手を優しく、しかし拒絶を許さない強さで包み込んだ。
「影山さん」
「……西園寺、くん……? 私、何も、見えなくて……」
不安に震える海月の声。
遥は、拾い上げた眼鏡を彼女の顔にそっと戻してあげた。
レンズの向こうに、再びあの圧倒的な瞳が隠される。
しかし、遥の胸の動悸は、収まるどころか激しくなる一方だった。
知ってしまった。見てしまった。
彼女が、誰にも見せないように隠していた、あの美しすぎる秘密を。
(これを……他の男たちが見たのか?)
(こいつらが、彼女のあの姿を……?)
ふつふつと、胸の奥からドス黒い感情が湧き上がってくる。
それは、これまで誰も遥に抱かせることができなかった、強烈な「嫉妬」であり「独占欲」だった。
遥は立ち上がると、海月を自分の背中に隠すようにして立ちはだかった。
そして、タクヤたちを冷酷な眼差しで見下ろした。
「人の物を勝手に取るなんて、最低だと思わない? ……今すぐ影山さんに謝って。そうじゃないと、俺、生徒会にも今の話を通さなきゃいけなくなるんだけど」
いつも穏やかな王子の、見たこともない冷徹な脅し。
拓也たちは完全に恐怖に呑まれ、「す、すまん!」「悪かった!」と言い残し、脱兎の如く教室から逃げ去っていった。
教室には、激しい雨の音と、二人の呼吸の音だけが残された。
「……大丈夫?」
遥は振り返り、いつもの優しい声を作って海月に問いかけた。
だが、彼の心臓は、まだドラムのように激しく波打っていた。
海月は眼鏡の位置を直すと、深く、深く頭を下げた。長い前髪が再び彼女の顔を隠す。
「……ありがとうございました、西園寺くん。助かりました」
いつもの、他人行儀な声。
だが、今の遥には、その声の裏にある彼女の「震え」が手に取るように分かった。
「影山さん」
「……はい」
「どうして……あんな眼鏡をしてるの? 髪も、わざと顔が隠れるようにしてるよね」
遥の問いに、海月はビクリと肩を揺らした。
彼女はしばらく沈黙していたが、やがて諦めたように、小さな声でぽつりぽつりと話し始めた。
「……前の学校で、すごく、大変だったんです」
「大変?」
「私の……顔のことで。男子たちが、毎日騒いだり、告白の賭けをされたり……女子たちからは、ひどい嫌がらせを受けたりして。学校に、行けなくなって……」
海月は、制服のスカートをぎゅっと握りしめた。
「だから、この学校に転校するとき、決めたんです。誰の目にも留まらない、ただの『背景』になろうって。地味で、目立たなくて、誰からも興味を持たれない……そんな人間になれば、静かに、普通に学校生活を送れるからって」
「…………」
遥は、言葉を失った。
彼女が自分を見ようとしなかった理由。自分に興味を示さなかった理由。
それは、遥が嫌いだからでも、気づいていないからでもなかった。
彼女にとって「目立つ人間」や「イケメン」は、自分を傷つける平穏の敵であり、恐怖の対象でしかなかったのだ。
そして、鳳凰学園で最も目立つ存在こそが――西園寺遥だった。
「だから……西園寺くん」
海月は、眼鏡の奥から、まっすぐに遥を見つめた。
「私のこと、誰にも言わないでください。私、またあんな風になるのは、嫌なんです。……お願いします」
すがるような、切実な瞳。
普通なら、ここで「分かったよ、秘密にするね」と優しく微笑むのが、王子の模範解答だろう。
だが、遥の口から出たのは、全く違う言葉だった。
「……嫌だね」
「え……?」
海月が目を見開く。
遥は、一歩、彼女との距離を詰めた。
彼の顔から、いつもの「作られた王子様の笑顔」が完全に消えていた。
そこにあるのは、一人の男としての、剥き出しの感情だった。
「誰にも言わない代わりに、条件がある」
「じょ、条件……?」
「俺と、取引をしてよ、影山さん」
遥は、海月の机に両手を突き、再び彼女を覗き込んだ。
今度は、からかいでも、プライドのためでもない。彼の瞳は、本気だった。
「これから毎日、放課後、俺と二人だけで過ごして。俺の話を聞いて、俺の目を見て、俺のことだけを考えて」
「な、何を言っているんですか……?」
海月は混乱したように身を引こうとするが、遥の放つ圧倒的なプレッシャーに動けない。
「君が『背景』のままでいたいなら、俺が君の『壁』になってあげる。他の男が君に近づかないように、俺が全部追い払ってあげるよ。……その代わり、君の世界に、俺を入れさせて」
遥自身、自分が何を言っているのか分からなかった。
こんな強引なやり方、彼の美学に最も反するものだ。
だけど、止まらなかった。
他の誰にも、あの美しい彼女を見せたくない。
彼女の視線を、他の男に奪われたくない。
彼女が誰にも興味を持たないというのなら、その最初の「特別」に、俺がなる。
「俺に、興味を持ってよ。影山さん」
遥の声は、かすかに震えていた。
それは、生まれて初めて「誰かを激しく欲してしまった」男の、無自覚な求愛のメッセージだった。
海月は、分厚い眼鏡の奥の瞳を大きく見開いたまま、カチコチに固まっていた。
彼女の頬が、夕暮れの教室の赤シグナルに染まるように、じわじわと赤くなっていく。
「……に、西園寺くん、顔が……近いです……」
「答えてくれるまで、どかない」
完璧だったはずの学園のアイドル・西園寺遥の、あまりにも必死で、あまりにも不器用な初恋が。
激しい雨の放課後、ついにその幕を開けたのだった。