高嶺の西園寺くんは、地味な影山さんに興味を持たれたい!
眩しすぎる王子と逃げられないクラゲ
人間、あまりにも想定外の事態に直面すると、脳の思考回路が完全にシャットダウンするらしい。
影山海月の脳内は、まさにその状態だった。
激しい雨が窓を叩く放課後の教室。
クラスの男子に眼鏡を奪われ、一番隠しておきたかった「素顔」を晒されてしまった絶望の瞬間。
それを救ってくれたのは、学園の誰もが憧れる完璧なアイドル、西園寺遥だった。
そこまでは、少女漫画のヒーローのような完璧な展開だった。
問題は、そのあとだ。
『これから毎日、放課後、俺と二人だけで過ごして。俺の話を聞いて、俺の目を見て、俺のことだけを考えて』
『俺に、興味を持ってよ。影山さん』
夕暮れの赤い光が差し込む教室で、至近距離から見つめてきた西園寺くんの瞳は、いつもテレビや噂で聞く「優しい王子様」のそれとは全く違っていた。
まるで、獲物を絶対に逃さないと決めた肉食動物のような、鋭くて、必死で、圧倒的な熱量。
(……なんで、あんなことになったんだろう……)
自宅の自室。
海月はベッドの上で、お気に入りのクラゲのぬいぐるみをギューッと抱きしめながら、ゴロゴロと転がった。
あれからどうやって家に帰ったのか、記憶が半分くらい飛んでいる。
ただ、西園寺くんのあの真剣すぎる顔と、耳元で囁かれた低くて心地よい声だけが、頭の中で何度も何度もリフレッシュされ、そのたびに心臓が壊れた時計のように激しく脈打つ。
海月が変装をしてまで「地味子」として生きると決めたのは、前の学校での苦い経験があるからだ。
自分の容姿のせいで周囲の環境がギスギスし、男子からはからかい半分の告白、女子からは陰湿な無視や嫌がらせを受けた。
「可愛い」と言われることが、海月にとっては恐怖のトリガーでしかなかった。
だから、この私立鳳凰学園高校に転校してくるときは、徹底的に「世界の背景」になろうと決意したのだ。
分厚い度なしの眼鏡をかけ、前髪を伸ばし、制服はあえて二サイズ上のダボダボなものを着る。
その作戦は完璧なはずだった。
なのに――。
(西園寺くんだけは、最初からずっと話しかけてきて……。おまけに、あんな突拍子もない約束までさせられて……)
『明日から、放課後は毎日図書室の奥の席ね。バックレたら、クラス全員に今の可愛い顔、写真付きでバラしちゃうから』
別れ際に不敵な笑みを浮かべて放たれた、あの脅し文句。
学校一の爽やかイケメンのくせに、やっていることはほとんど悪質な取り立て屋である。
「……最悪だ。絶対、明日学校行きたくない……」
海月は枕に顔を埋めて、小さな悲鳴を上げた。
だが、行かないわけにはいかない。もし本当にあの素顔の写真(いつの間にかスマホで撮られていたらしい)をクラスのグループラインにでも流されたら、海月の「平穏な背景ライフ」は完全に終了してしまう。
そして、海月にはもう一つ、誰にも言えない――それこそ、西園寺遥本人には絶対に知られてはいけない「本当の理由」があった。
海月が頑なに西園寺くんを見ようとしなかった理由。
それは、彼が嫌いだからでも、存在を無視していたからでもない。
その真逆だ。
(……だって、西園寺くん、信じられないくらいキラキラしてるんだもん……!)
初めて教室で彼を見たとき、海月は文字通り「目が潰れる」かと思った。
少女漫画のエフェクトのように、彼の周囲だけ背景に薔薇が咲き、背後から後光が差しているように見えた。
容姿だけでなく、声も、仕草も、全人類を魅了するために作られたかのような完璧なイケメン。
変装しているとはいえ、中身はただの気の弱い女子高生である海月にとって、西園寺遥という存在は「刺激が強すぎる毒物」のようなものだった。
近くにいるだけで緊張で心臓が破裂しそうになる。
目なんて合わせたら、その瞬間に顔が真っ赤になって、変装がボロクソに剥がれ落ちてしまう。
だから海月は、自分の身を守るために、必死で彼を「見ないように、意識しないように」脳内からシャットアウトしていたのだ。
それなのに、まさか「俺のことだけを考えて」なんて言われる日が来るなんて。
「無理だよ……。あんな眩しい人、一秒も直視できないのに……」
海月はクラゲのぬいぐるみに顔を埋めたまま、一睡もできない夜を過ごすのだった。
翌日。学校のチャイムが放課後の訪れを告げた瞬間、海月の胃はキリキリと痛み出した。
クラスの女子たちが「西園寺くん、今日これからカラオケ行かない?」と彼の席に群がっている。
いつもなら遥は「ごめんね、今日はちょっと用事があって」と、100点満点の笑顔で断るのだろう。
海月はそれを横目に、コソコソとカバンをまとめて教室を抜け出した。
(図書室の、奥の席……だよね)
鳳凰学園の図書室は、無駄に豪華で広い。
放課後は自習する生徒が数人いる程度で、奥の資料スペースは本棚に囲まれて完全に死角になっている。
海月がトボトボと歩いてその場所にたどり着くと、そこにはすでに、お目当ての――いや、一番恐れていた人物が座っていた。
「あ、来た。偉いね、影山さん。ちゃんと約束守ってくれて嬉しいよ」
窓際の一番奥の席で、西園寺遥が頬杖をつきながら、ひらひらと手を振っていた。
制服の第一ボタンを少し外し、ローファーを軽く遊ばせているその姿すら、どこかのファッション雑誌の1ページのようだ。
逆光を浴びた彼の金茶色の髪が、きらきらと輝いて見える。
(ほら、もう眩しい……!)
海月はギュッと視線を床に落とし、一番離れた席の椅子を恐る恐る引いた。
「……約束、ですから。困りますし」
「人聞きが悪いな。あれは君と仲良くなるための、ちょっとしたスパイスだよ」
遥はクスッと笑うと、自分の隣の席をポンポンと叩いた。
「ほら、そんな遠くに座らないで、こっち来て。俺の声、そんなに大きくないからさ」
「……ここで、聞こえます」
「拒否権、ないって言わなかったっけ?」
遥の声音が、少しだけ低くなる。優しいけれど、絶対に逃がさないというプレッシャー。
海月は完全に蛇に睨まれた蛙状態になり、泣く泣く荷物を持って、彼の隣の席へと移動した。
二人の距離は、わずか五十センチ。
西園寺くんから、微かに洗いたてのシャツのような、シトラス系の爽やかな香りが漂ってくる。
それだけで海月の心拍数は一気に跳ね上がった。
「よし。じゃあ、さっそく『取引』を始めようか」
遥は満足そうに微笑むと、机の上に一冊のノートを開いた。
「まずは、これ。今日の授業の数学のノート。君、途中で先生の板書についていけなくなってただろ? ほら、ここ」
「え……?」
海月は驚いてノートを見た。
そこには、驚くほど綺麗な字で、今日の授業の補足や分かりやすい公式の解説がびっしりと書き込まれていた。
「これ、私のために……?」
「そうだよ。君、いつも授業中、前髪でノートが隠れてて見づらそうにしてるから。俺が代わりに分かりやすくまとめといてあげた。どう? 役に立ちそう?」
遥は少し得意げに、海月の顔を覗き込んできた。
いつもなら周囲の女子を落とすための計算された親切だが、今の彼の目は、まるで「褒めて!」と言わんばかりの、どこか子供っぽい純粋さに満ちていた。
海月は胸の奥がキュンと跳ねるのを感じ、慌てて視線をノートに戻した。
「……すごいです。分かりやすくて、助かります。……ありがとうございます、西園寺くん」
「どういたしまして。……あ、今、俺のこと『西園寺くん』って呼んだね」
「え? あ、はい……。名前ですから」
「いや、いつもは『西園寺くん……(フェードアウト)』って感じで、消え入りそうな声だったからさ。ちゃんと呼んでもらえると、なんか嬉しいな」
遥はそう言って、本当に嬉しそうに目を細めて笑った。
その無防備な笑顔の破壊力は凄まじかった。海月は、自分の顔が急速に熱くなっていくのを自覚した。
(ダメ、見ちゃダメ……! 心臓がもたない……!)
海月はとっさに、顔を両手で覆って、机に突っ伏してしまった。
「えっ!? ちょっと、影山さん!? どうしたの、急に体調悪くなった?」
遥が慌てて椅子を近づけ、海月の背中に手を添えようとする。
「触らないでください……っ!」
海月は思わず鋭い声を上げてしまった。
「……あ」
遥の手が、空中でピタリと止まる。
彼の表情が、一瞬で傷ついたような、悲しげなものに変わった。
「ごめん……。やっぱり、俺に触られるの、嫌だよね。無理やりこんなところに連れてきて、嫌がらせされてるって思うよね……」
いつもの自信満々なアイドルはどこへやら、絵に描いたようにシュンと肩を落とす遥。
それを見て、海月は激しい罪悪感に襲われた。
彼は、自分を男子たちから助けてくれた恩人なのだ。おまけに、勉強まで教えてくれようとしている。
それなのに、自分の情けない理由のせいで彼を傷つけてしまうなんて。
海月は、机に突っ伏したまま、消え入りそうな声で白状した。
「……違います。嫌いじゃ、ないです……」
「え?」
「嫌いだから、見ないんじゃなくて……。その……西園寺くんが、眩しすぎるから、です……」
「……眩しい?」
遥が不思議そうに復唱する。
海月は、前髪の隙間から、真っ赤になった顔を少しだけ覗かせた。
「西園寺くん、信じられないくらいイケメンだから……。私みたいな地味な人間が、近くで目を見たりしたら、緊張で、心臓が止まりそうになるんです……! だから、直視できなくて……。嫌いだから避けてたわけじゃ、ないんです……!」
一気にまくし立て、海月は再び顔を隠した。
恥ずかしさで死にそうだった。こんな少女漫画みたいなセリフ、一生口にすることはないと思っていたのに。
一方、それを聞いた西園寺遥は――。
「…………」
完全に、フリーズしていた。
彼の脳内では、海月の言葉が何度もリフレインしていた。
『嫌いだから避けてたわけじゃない』
『眩しすぎるから』
『緊張で、心臓が止まりそうになる』
(……それって、つまり)
遥の耳の端が、じわじわと真っ赤に染まっていく。
今まで、何千、何万という女子から「カッコいい」「好きです」と言われてきた。
それらの言葉はすべて、彼の心の表面を滑り落ちていくだけだった。
なのに、この地味子に変装した少女の、恥ずかしそうな、必死な告白(のようなもの)は、遥の心の最深部にド直球で突き刺さった。
ドクン、と遥の胸が大きく鳴る。
(なんだこれ……。心臓が、めちゃくちゃ熱い……)
「……影山さん」
「は、はい……」
「それ、本気で言ってる?」
「本気じゃなきゃ、こんな恥ずかしいこと言いません……」
遥は、自分の口元を手で覆った。ニヤけそうになるのを必死で堪えるためだ。
胸の奥から、今まで感じたことのないような、爆発的な全能感と喜びが湧き上がってくる。
(あいつ、俺を嫌ってなんかなかった。それどころか……俺を意識しすぎて、見られなかっただけなんだ)
その事実を知った瞬間、遥の心の中の「独占欲」は、さらに凶悪な形へと進化を遂げた。
「そっか。眩しいんだ」
遥の声が、どこか弾んだものに変わる。彼は椅子をさらに近づけ、机に突っ伏している海月の頭に、そっと手を置いた。
「じゃあ、慣れてもらわないとね」
「え……?」
海月が顔を上げると、そこには、これまでに見たこともないような、妖艶で、最高にサディスティックな笑みを浮かべた王子の顔があった。
「これから毎日、ここで俺のことを見る練習をしよう。影山さんの目が俺に慣れるまで、毎日、ずっとね」
「な、なんでそうなるんですか――!?」
図書室の奥、クラゲの悲鳴が小さく響いた。
完璧なアイドルの無自覚な初恋は、完全に「歪んだ方向」へとブーストがかかってしまったようだった。
「なあ、最近、遥の様子おかしくないか?」
数日後の昼休み。クラスの男子たちが、弁当を食べながらヒソヒソと噂話をしていた。
視線の先には、窓際の席で、スマホを眺めながらフッと怪しい笑みを浮かべている西園寺遥の姿がある。
「あいつ、いつも昼休みって女子たちに囲まれてただろ? なのに最近、誘われても『ちょっとやることがあって』って言って、すぐにどこか行っちゃうんだよな」
「しかも、なんか最近、やたらとあの転校生の影山のこと気にしてねえ?」
「あー、この前タクヤたちが影山に絡んだときも、遥、マジギレしてたもんな。普段あんな怒ることないのに」
男子たちの噂話は、あながち間違いではなかった。
今の遥の頭の中は、99。9パーセントが「影山海月」で占められていた。
(今日の放課後は、英語の予習を教えてあげよう。あいつ、発音のときちょっと照れるのが可愛いんだよな……)
遥はスマホの画面に表示されている、海月とのメッセージのやり取りを見て、無意識に口元を緩めていた。
やり取りといっても、遥が「今日の日誌、俺が代わりに出しといたよ」とか「お勧めのクラゲの図鑑、図書室で予約しといた」というメッセージを送り、海月が「ありがとうございます」「すみません」と短いスタンプを返すだけの、ひどく一方通行なものだ。
だが、遥にとっては、それだけで毎日の生活が何倍も鮮やかに感じられた。
そんな遥の様子を、苦々しい表情で見つめている存在がいた。
クラスの女子のリーダー格であり、密かに遥の彼女の座を狙っている美少女、一ノ瀬莉央だった。
莉央は、髪をかき上げながら遥の席へと歩み寄った。
「ねえ、西園寺くん。今日の放課後なんだけど、生徒会の資料集め、手伝ってくれない? 人手が足りなくて困ってるの」
おねだりするような、完璧な上目遣い。
普通なら、親切な遥は「いいよ、手伝うね」と快諾するはずだった。
しかし、遥はスマホから目を離さずに、即答した。
「あ、ごめん一ノ瀬さん。放課後は先約があるんだ」
「え……? 先約って、誰と?」
莉央の眉がピクリと動く。
遥はそこで初めて顔を上げ、いつも通りの「当たり障りのない笑顔」を向けた。
「ちょっとね。個人的な用事だから、また今度ね」
そう言って、遥は席を立って教室を出て行ってしまった。
残された莉央は、不満げに唇を噛んだ。
(個人的な用事……? 最近の西園寺くん、絶対に何か隠してる。……まさか、あの地味な転校生と……?)
莉央の鋭い視線が、教室の隅でひっそりと教科書を読んでいる海月へと向けられた。
海月はただの背景として静かに過ごしているつもりだったが、遥が彼女に執着すればするほど、周囲の「ノイズ」もまた、彼女の周りに集まり始めていたのだ。
当の遥は、そんな周囲の不穏な空気に全く気づいていなかった。
いや、気づいていたとしても、今の彼にはどうでもいいことだった。
(早く放課後にならないかな……)
渡り廊下を歩きながら、遥は自分の胸に手を当てた。
心臓が、トクトクと心地よいリズムを刻んでいる。
今まで、誰に何を言われても動かなかった心が、彼女のことを考えるだけでこんなにも簡単に騒ぎ出す。
これが何という感情なのか、遥はまだ明確な名前を付けていなかった。
ただ、彼女を自分の手の中に閉じ込めておきたいという、強烈な「独占欲」だけが、彼の行動原理のすべてになっていた。
その日の放課後。海月は約束通り、図書室の奥の席で遥を待っていた。
二人の「見る練習」は、少しずつだが進んでいた。
今では、遥が話しかけたときに、海月は三秒くらいなら彼の目を見て話せるようになっていた(そのあとすぐに顔を真っ赤にして俯いてしまうのだが、それが遥にとっては最高の癒やしだった)。
「……遅いな、西園寺くん」
時計を見ると、約束の時間を十分ほど過ぎている。いつもならチャイムと同時にやってくる遥が、今日はまだ姿を見せない。
「生徒会の人に捕まったのかな……」
海月は少しだけホッとしつつ、同時に、ほんの少しだけ寂しさを感じている自分に驚いた。
(ダメダメ、何を考えてるの、私! あの眩しい人がいない方が、心臓のためには良いに決まってるじゃない!)
頭を振って雑念を追い払おうとした、その時だった。
「――ねえ、影山さんだっけ?」
突然、本棚の影から鋭い声がした。
びくりとして顔を上げると、そこにはクラスの巻き髪美少女、一ノ瀬莉央と、そのグループの女子二人が立っていた。
莉央は腕を組み、見下すような冷たい視線を海月に浴びせている。
「……あ、一ノ瀬さん。何か……御用ですか?」
海月は本能的な恐怖を感じ、肩をすぼめた。前の学校でのトラウマが、一気に蘇ってくる。
「単刀直入に聞くけど。あなた、最近西園寺くんと何してるわけ?」
莉央が一歩、足を踏み出してきた。
「西園寺くん、最近放課後いつもすぐにいなくなるの。クラスの男子が、あなたと一緒にいるのを見たって言ってたわよ。……あなたみたいな地味な子が、西園寺くんに何の用があるの?」
「それは……その……」
海月は言葉に詰まった。
「勉強を、教えてもらっているだけで……」
「勉強? 冗談言わないで。西園寺くんが、わざわざあなた一人のためにそんなことするわけないじゃない。どうせ、何か卑怯な手を使って、西園寺くんを脅して無理やり付き合わせているんでしょう?」
莉央の取り巻きの女子たちも、「そうよ、身の程をわきまえなさいよ」「西園寺くんに迷惑かけてるの、気づかないわけ?」と、口々に海月を責め立てる。
言葉の刃が、海月の胸にグサグサと突き刺さる。
彼女たちの言う通りだ。西園寺くんが自分に関わる理由なんて、本来はないはずなのだ。
自分の隠し事のせいで、彼は大切な放課後の時間を無駄にしている。
(やっぱり、私がここにいちゃいけないんだ……。西園寺くんの特別になんて、なっちゃいけなかったんだ……)
海月の瞳に、じわじわと涙が溜まっていく。
「……すみません。私……」
「謝るなら、もう二度と西園寺くんに近づかないで。これ以上付きまとったら、私、黙ってないから――」
莉央が海月の腕を掴もうと、手を伸ばした瞬間。
「――俺の連れに、何か用?」
氷点下よりも冷たい声が、図書室の静寂を切り裂いた。
莉央たちがハッとして振り返る。
そこには、息を切らせた西園寺遥が立っていた。
どうやらここまで走ってきたらしく、いつもの完璧な髪型が少し乱れている。
だが、その表情は――修羅そのものだった。
いつも輝いている彼の瞳は、今は深い闇のように沈んでおり、莉央たちを完全に「敵」として認識して射すくめていた。
「さ、西園寺くん……! これは、違くて、私たちはただ……」
莉央が慌てて言い訳をしようと顔を真っ赤にする。
しかし、遥は彼女たちの言葉を完全に無視して、海月の元へと大股で歩み寄った。
そして、怯えて震えている海月の肩を、抱きしめるようにして強く引き寄せた。
「影山さん、大丈夫!? どこか痛む!?」
「……に、西園寺くん……」
海月の目から、こらえきれずにポロリと涙がこぼれ落ちた。
それを見た瞬間、遥の中で、何かが完全にキレた。
彼は莉央たちに向き直ると、静かだが、これまでに聞いたこともないような地を這うような声で言い放った。
「一ノ瀬さん。君たちが何を勘違いしてるか知らないけど、影山さんに付きまとってるのは、俺の方だから」
「……え?」
莉央たちが目を見開く。
「俺が、影山さんに一緒にいてほしくて、無理やりお願いして時間を取ってもらってるんだ。迷惑なんて1ミリも思ってないし、むしろ俺にとっては、一日のうちで一番大切な時間なんだよ」
遥は海月の肩をさらに強く抱き寄せ、莉央たちを一瞥した。
「これ以上、俺の邪魔をしないでくれる? 次に彼女を泣かせたら、俺、君たちのこと、絶対に許さないから」
それは、学園の王子様としての仮面を完全に脱ぎ捨てた、一人の執着に狂った男の宣言だった。
莉央たちは、遥の放つ凄まじい怒りと拒絶のオーラに完全に圧倒され、「ひっ……」と短い悲鳴を上げると、蜘蛛の子を散らすように図書室から逃げ去っていった。
静まり返った図書室の奥。
外では、いつの間にか雨が上がり、雲の間から柔らかな夕日が差し込み始めていた。
「……影山さん、本当にごめん。俺が遅くなったせいで、怖い思いをさせて……」
遥は海月の肩から手を離すと、その場にしゃがみ込み、海月の顔を覗き込んだ。
彼の顔には、先ほどまでの凶暴な怒りはなく、ただただ海月を心配する、痛々しいほどの表情が浮かんでいた。
海月は、眼鏡のレンズに溜まった涙を指で拭うと、小さく首を振った。
「……ううん。西園寺くんのせいじゃ、ないです。……でも、西園寺くんの言う通りになっちゃいました」
「え……?」
「私が、西園寺くんと一緒にいるから……。また、前の学校みたいに、目立っちゃって……。女子の人たちに、あんな風に言われて……」
海月の声が、再び震え出す。
「私、やっぱり……西園寺くんと一緒にいる資格なんて、ないです。西園寺くんは、みんなの王子様だから……私みたいな背景と一緒にいたら、西園寺くんのイメージも悪くなっちゃう……」
「そんなこと――!」
遥は思わず、海月の両手を強く掴んだ。
「関係ない!!」
遥の叫び声が、図書室の壁に反響する。
海月は驚いて目を見開いた。
遥は、海月の手を自分の胸のあたりへと持っていった。
彼の制服のシャツ越しに、海月の手のひらに、ドクドクと信じられないほどの速さで打つ「心臓の音」がダイレクトに伝わってくる。
「西園寺、くん……?」
「聞いてよ、影山さん。この音……」
遥は、苦しそうな、だけどどこか愛おしそうな目で、海月を見つめた。
「俺、今まで誰に告白されても、誰に可愛いって言われても、心臓なんて一度も動かなかったんだ。みんな同じに見えて、恋愛なんて、退屈なゲームだとしか思ってなかった」
遥の指が、海月の長い前髪を、そっと耳にかけた。
隠されていた彼女の美しい素顔が、夕暮れのオレンジ色の光の中に晒される。
「でも、君に無視されたとき、俺の心はめちゃくちゃにかき乱された。君が他の男に眼鏡を取られたとき、胸が引き裂かれるくらい怒りが湧いた。そして今……君が泣いているのを見て、俺、自分がどうにかなりそうなくらい、胸が痛いんだ」
遥の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
もう、海月は目を逸らすことができなかった。
彼の瞳の奥にある、自分に向けられた、あまりにも純粋で、あまりにも巨大な「熱」に、完全に囚われていた。
「みんなの王子様なんて、どうでもいい。俺は、君だけの特別になりたいんだ。君が背景なら、俺もその背景の一部になる。君を傷つけるものすべてから、俺が君を守るから……」
遥の額が、海月の額に、コツンと軽く触れた。
距離は、ゼロ。
西園寺くんの熱い吐息が、海月の唇に触れる。
「だから……お願いだから、俺の側から離れないで。俺に、興味を持って。……俺を、好きになってよ、海月」
初めて、名字ではなく、名前で呼ばれた。
その瞬間、海月の中で、何かが完全に決壊した。
眩しすぎて直視できなかったはずの彼の顔が、今は愛おしくて、切なくて、目が離せない。
海月の心臓もまた、遥の心臓と同じ、狂ったようなテンポで激しく鳴り響いていた。
「……西園寺、くん……」
「遥、って呼んで」
「はる、か……くん……」
海月の小さな、だけど確かな拒絶のない声を聞いて、遥の顔に、今日一番の、そしてこれまでの人生で最も美しい、本物の「恋する男の笑顔」が咲いた。
恋を知らなかった学校のアイドルと、世界の背景になろうとした地味子。
二人のいびつで、だけど誰よりも純粋な放課後の時間は、ここから、さらに深く、甘く、加速していくのだった。
「……おは、よう。海月さん」
翌朝。教室の後ろから二番目の席で、西園寺遥は、自分の席に座ったばかりの影山海月の背中に向かって、これまでにないほど緊張した声で話しかけた。
いつもなら全校生徒を骨抜きにする「完璧な王子の声」が、今朝に限っては、どこか初々しい男子中学生のように上ずっている。
声をかけられた海月は、ビクッと肩を跳ね上がらせると、ロボットのようなギチギチとした動きでゆっくりと振り返った。
その顔は、分厚い銀縁眼鏡をかけているにもかかわらず、耳の付け根まで真っ赤に染まっている。
「あ、……は、はい。おはようございます、西園寺、くん……」
「……昨日、名前で呼んでくれるって約束したのに」
遥が少しだけ唇を尖らせて、拗ねたような視線を送る。
その姿は、クラスの女子が見たら「あのクールな西園寺くんが甘えてる!?」と黄色い悲鳴を上げて卒倒しかねないほどの破壊力があった。
「む、無理です! 教室では……周りの目もありますし、心臓が持ちません……!」
海月は消え入りそうな声で抗議すると、再び前髪で顔を隠すようにして、机にペタッと伏せてしまった。
そんな彼女の反応を見て、遥は口元を手で覆い、一人で悶絶していた。
(……可愛い。どうしよう、めちゃくちゃ可愛い……)
昨日の放課後、図書室の奥で、遥は自分の胸の音を彼女に聴かせ、半ば強引に「好きになってよ」と迫った。
彼女から「遥くん」と名前を呼ばれた瞬間のあの熱い感覚は、今も遥の胸の奥で、消えない火種のようにパチパチと音を立てて燃え続けている。
今まで、世界は自分を中心に回っていると思っていた。退屈で、予定調和なゲームのようだった。
だけど今は違う。影山海月という少女の一挙手一投足に、自分の世界が天国にも地獄にもひっくり返る。その新感覚の「恋」という病に、遥は完全に溺れていた。
だが、甘い余韻に浸っていられたのは、そこまでだった。
「おーい、遥。ちょっといいか?」
クラスの男子生徒数人が、遥の席へとやってきた。その中には、先日海月の眼鏡を奪って遥にこっぴどく怒られた拓也の姿もあった。
拓也は少し気まずそうに頭を掻きながら、遥に声を潜めて言った。
「いや、そのさ……昨日の放課後、一ノ瀬たちが図書室から泣きながら走って出てくるのを見た奴がいてさ。お前、一ノ瀬に何か言ったんだって?」
遥の瞳から、一瞬にして甘い光が消え失せた。
彼は椅子の背もたれに深く寄りかかり、タクヤたちを冷ややかに見上げた。
「別に、大したことじゃないよ。ちょっと、俺の邪魔をしないでほしいって、警告しただけ」
「警告って、お前……。一ノ瀬、今日学校休んでるんだぞ? 家でずっと泣いてるらしくて、女子のグループラインが今、大荒れなんだ拓也の言葉に、遥の隣の席で伏せていた海月の背中が、あからさまにビクンと強張った。
彼女が一番恐れていた「目立つこと」によるトラブル。それが、自分のせいで再び始まろうとしている。
遥は立ち上がると、タクヤの肩にぽんと手を置いた。その手には、みしりと音がしそうなほどの力がこもっていた。
「拓也。俺、前に言ったよね。影山さんにこれ以上構うなって」
「あ、あおぅ……分かってる、分かってるよ。俺らは何もしてねえよ! ただ、女子たちのネットワークは俺らじゃ止められねえから、一応お耳に入れとこうと思って……」
拓也は遥の静かな怒気に怯え、両手を挙げて退散していった。
遥は再び席に座ると、小さく丸まっている海月の背中を見つめた。
胸の奥から、どす黒い感情が這い出してくる。
(一ノ瀬さんが学校を休んだ? 女子たちが荒れてる? ……どうでもいい。そんなことより、あいつらのせいで海月さんがまた怯えてる。俺から離れようとしたら、どうしよう……)
遥の長い指が、机の上をコツコツと叩く。
彼の無自覚な独占欲は、周囲の雑音によって、さらにその排他性を強めていくのだった。
その日の放課後。
いつもなら図書室の奥で待ち合わせをするはずだったが、遥は海月を連れて、校門を出て駅へと向かう電車に乗っていた。
「あの……西園寺くん。本当に、私、お邪魔していいんでしょうか……?」
電車の中で、海月は吊り革をギュッと握りしめながら、不安そうに遥を見上げた。
「いいんだよ。っていうか、俺が来てほしかったんだから。一ノ瀬さんたちの件で、今学校の図書室にいたら、また変な奴らに絡まれるかもしれないだろ? だから、一番安全な場所に避難するの」
遥が言う「一番安全な場所」。
それは――西園寺遥の、自宅の自室だった。
「でも、お家の方に迷惑じゃ……」
「大丈夫。うち、両親とも海外出張が多くて、普段は家政婦さんしかいないから。今日はその家政婦さんにも『友達と勉強するから夜まで部屋に入らないで』って言ってある」
(それ、余計に危ない気がするんですけど――!?)
海月は心の中で絶叫した。
学校一のイケメンの部屋に、放課後、二人きり。
昨日、あんな熱烈な告白をされたばかりなのに、自分の警戒心のなさが呪わしかった。
だが、今日の昼休みの教室の空気は、確かに針のむしろだった。女子たちの視線が海月に突き刺さり、いつトゲのある言葉が飛んできてもおかしくない状況だったのだ。
それを察した遥が、「今日の放課後はうちに来て。拒否権なし」と、半ば強引に海月を連れ出したのだった。
駅から徒歩十分。たどり着いた西園寺の邸宅は、高級住宅街の中でも一際目を引く、モダンで巨大な一軒家だった。
「お邪魔します……」
緊張で声が裏返る海月を、遥は「どうぞ」と優しく迎え入れた。
遥の部屋は、二階の突き当たりにあった。
広々とした室内は、モノトーンで統一され、無駄なものが一切ないホテルのような空間だった。大きなデスクの上には最新のパソコンが置かれ、壁の本棚には難しい専門書や、なぜか「深海生物図鑑」が数冊並んでいる。
「適当に座って。ベッドの上でもいいよ」
「い、椅子でいいです! 床でもいいです!」
海月は慌ててデスクチェアの端っこに腰掛けた。
遥はクスッと笑うと、キッチンから持ってきた冷たい麦茶と、クッキーのお皿を机に置いた。
「そんなに緊張しなくても、何もしないよ。……『今は』、ね」
「なっ……っ!」
海月の顔がまたしても沸騰する。
遥はそんな彼女の反応を楽しみながら、自分のカバンから教科書を取り出した。
「ほら、勉強しよ。次の定期テスト、赤点取ったら補習で放課後の時間が潰されちゃうだろ? 俺、君との時間を1分も無駄にしたくないんだ」
真顔でさらりと恐ろしいセリフを言う王子。
海月は「はい……」と小さく返事をし、ノートを開いた。
勉強が始まると、遥は驚くほど優秀な家庭教師になった。
海月が苦手な英語の長文読解を、単語の語源から丁寧に、噛み砕いて教えてくれる。遥の教え方は分かりやすく、彼の低くて心地よい声が、耳に心地よく響く。
海月も次第に緊張を忘れ、勉強に没頭していった。
「――あ、そうか。この文脈の『that』は、関係代名詞じゃなくて同格の……」
「そう、正解。やっぱり海月さんは飲み込みが早いね」
不意に、遥の手が海月の頭にぽんと置かれ、優しく 撫でられた。
「……っ!」
海月の動きがピタリと止まる。
見上げると、すぐ近くに遥の顔があった。夕暮れの光が窓から差し込み、遥の瞳を琥珀色に染めている。その瞳が、あまりにも優しく、愛おしそうに海月を見つめていた。
「……西園寺、くん」
「だから、遥って呼んでって言ったのに。二人きりの時くらい、いいでしょ?」
遥はデスクに肘をつき、海月の顔をじっと見つめた。
「それとも、まだ俺のこと、直視すると目が潰れる?」
「う……それは……」
海月は眼鏡の奥の目を泳がせた。
確かに、最初の頃に比べれば、数秒なら目を見られるようになった。だけど、こうして至近距離で見つめられると、やっぱり心臓がうるさくて破裂しそうになる。
「……ちょっとだけ、慣れました。だけど、やっぱり……西園寺くんは、かっこよすぎます。私なんかとは、住む世界が違うみたいで」
海月がふと漏らした、本音の呟き。
それを聞いた瞬間、遥の表情から笑みが消えた。
「住む世界が違う?」
遥の声が、低く沈んだ。
海月はしまった、と思い俯いたが、遥の手が彼女の顎をそっと持ち上げた。
「何それ。じゃあ、君はまた俺の前からいなくなるつもり?」
「え……? あ、違くて……」
「違わない。君はいつもそうやって、自分を『背景』だと言って、俺との間に線を引こうとする」
遥の瞳に、激しい焦燥感と、狂気を孕んだ独占欲がメラメラと燃え上がるのが見えた。
「一ノ瀬さんたちのことなら、俺が全部片付ける。君に指一本触れさせないし、変な噂も全部もみ消してあげる。だから……そんな理由で、俺から逃げようとしないで」
遥の力が少しだけ強くなる。海月の小さな体が、遥の大きな影にすっぽりと覆われていく。
「君の世界に、俺を入れさせてって言ったよね。……それじゃ足りないなら、俺が君の世界のすべてになってあげようか? 学校も、友達も、全部捨てて、俺の側だけにいてくれる?」
「西園寺、くん……っ、痛い、です……」
海月の小さな呟きに、遥はハッと我に返った。
自分の指先が、彼女の顎を強く掴みすぎていたことに気づき、慌てて手を離す。
「あ……ごめん、海月さん。俺……」
遥は自分の両手を見つめ、絶望したように顔を覆った。
(何をやっているんだ、俺は……。彼女を傷つける奴らから守るって言ったのに、俺自身が彼女を恐怖で縛り付けようとしてる……)
完璧だったはずのアイドル・西園寺遥は、彼女の前では、ただの嫉妬に狂った醜い男に成り下がってしまう。その事実が、彼自身を激しく苛んでいた。
静まり返った部屋に、突然、大きな音が響いた。
バリバリバリ――!!!
「ひゃっ……!?」
海月が短い悲鳴を上げて、その場にすくみ上がる。
窓の外を見ると、いつの間にか空は真っ黒な雨雲に覆われ、バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨が、窓ガラスを激しく叩きつけていた。同時に、遠くでカミナリの音が轟く。
「雷……すごいね。大丈夫?」
遥は自分の醜い感情を隠すように、いつもの優しい声を作って窓の外を見た。
時計の針は、すでに夜の7時を回っている。
「これ、完全に電車止まるレベルの雨だな……」
遥がスマホの運行情報を確認すると、案の定、最寄り駅を通る路線は、大雨の影響で運転見合わせになっていた。
「えっ……!? じゃあ、私、お家に帰れない……?」
海月が青ざめる。
遥はスマホをポケットにしまうと、少し困ったような、だけど胸の奥で小さな邪念が疼くのを感じながら、海月を振り返った。
「……どうやら、そうみたいだね。お家の人に、連絡した方がいい。……今日はもう、うちに泊まっていきなよ」
「ええええええええ――!?」
海月の今日一番の絶叫が、雷の音にかき消されていった。
結局、海月が母親に電話したところ、「あら、西園寺くんのご自宅? ちょうど良かったわ、こんな大雨じゃ危ないし、お世話になりなさい」と、まさかの大賛成(というより、西園寺という名前に信頼を置きすぎている)で、あっさりと「お泊まり」が決定してしまった。
「……というわけで、これ、俺の中学の時のジャージ。サイズ、ちょっと大きいかもしれないけど、使って」
遥が差し出してきたのは、紺色のシンプルなジャージだった。
「あ、ありがとうございます……」
海月はそれを受け取り、遥の部屋にある姿見の後ろで着替えた。
戻ってきた海月の姿を見て、遥は再び、心臓を思い切り鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
サイズが大きすぎるジャージの袖から、小さな手がちょこんと覗いている。ズボンの裾も少し余っていて、全体的に「彼氏の服を借りた彼女」そのもののシチュエーションになっていた。
何より、お風呂上がりのため、あの分厚い眼鏡を外している。
長い前髪も、濡れたままで少し左右に分かれており、彼女のあの美しすぎる素顔が、完全に無防備な状態で晒されていた。
「……あの、西園寺くん? 変、ですか?」
海月は眼鏡がないせいで視界がぼやけているのか、目を細めながら、おずおずと遥に近づいてきた。
「……変じゃない。っていうか、刺激が強すぎる」
遥は片手で顔を覆い、大きなため息をついた。
「お願いだから、早くその眼鏡かけて。じゃないと、俺、自分の理性を保てる自信がない」
「え? あ、はい……」
海月は慌てて机の上の眼鏡をかけ、いつもの地味子の姿に戻った。それを見て、遥はようやく深く息を吐き出すことができた。
夜の10時。
二人は遥の部屋のベッドの背もたれに並んで座り、一冊の深海生物図鑑を眺めていた。
部屋の明かりは落とされ、間接照明の柔らかな光だけが、二人を照らしている。
「……海月さんは、本当にクラゲが好きなんだね」
遥が図鑑のページをめくりながら言う。そこには、暗い海の中で青白く光る「ミズクラゲ」の写真が載っていた。
「はい。クラゲって、脳もないし、心臓もないんです。ただ、波に流されて、漂っているだけ。……私、そんな風に、何も考えずに、ただ世界の背景として漂っていられたら、どんなに楽だろうなって、ずっと思ってて」
海月は膝を抱え込みながら、ぽつりと言った。
「でも、今の私は……流されるだけじゃ、いられなくなっちゃいました。西園寺くんが、私を強く引っ張るから……」
海月は眼鏡の奥の瞳で、じっと遥を見つめた。
「西園寺くんの側にいると、心臓が痛いんです。脳が、おかしくなりそうなんです。……クラゲのままで、いられなくなっちゃうんです」
それは、海月なりの、精一杯の「恋の告白」だった。
西園寺遥という巨大な引力に抗えず、自分の平穏が崩れていくことへの戸惑い。だけど、それを嫌だとは思っていないという、不器用な心の叫び。
遥は図鑑を閉じると、ベッドの上に置き、海月の体をそっと抱き寄せた。
今度は、昼間のような強引な力ではない。ガラス細工を扱うような、どこまでも優しくて、切ない抱擁。
「……ごめんね、海月さん」
遥は海月の髪に、そっと顎を乗せた。
「君をクラゲじゃなくしちゃったのは、俺だ。君の平穏を壊したのも、俺だ。……だけど、もう離してあげられない」
遥の胸の音が、静かな部屋にトクトクと響く。
「俺も同じなんだ。君に出会うまで、俺の心臓は止まってるのも同然だった。誰を見ても何も感じなかった。……君が、俺に心臓をくれたんだよ」
遥は海月の体を少し離すと、彼女の眼鏡を、そっと外した。
再び現れた、世界で一番美しい彼女の素顔。
夕日の光よりも、間接照明の光の中に浮かび上がる彼女は、妖艶で、儚くて、息を飲むほど綺麗だった。
「海月。……大好きだよ」
遥は、彼女の名前をもう一度呼び、ゆっくりと顔を近づけた。
海月は今度は、目を閉じなかった。
眩しすぎる彼の顔が、近づいてくる。彼の綺麗な瞳の中に、真っ赤になって震えている自分の姿が映っているのを見て――海月は、そっと目を閉じた。
窓の外では、激しい雨の音が、二人だけの世界を包み込むように鳴り響いていた。
翌朝。雨はすっかり上がり、雲一つない青空が広がっていた。
「……ん」
海月が目を覚ますと、そこは自分の部屋ではない、見慣れない天井だった。
隣を見ると、シーツに包まれた西園寺遥が、無防備な寝顔で眠っていた。
(あ……私、本当に西園寺くんの家に泊まっちゃったんだ……)
幸い(?)、昨夜はキス以上のことは何もされず、遥は海月をベッドの真ん中に寝かせ、自分はベッドの端っこで丸くなって寝ていた。彼のそんな紳士的な優しさに、海月はまたしても胸がキュンとなる。
「……ありがとう、遥くん」
海月は、眠っている彼にだけ聞こえるような小さな声で、初めて自発的に彼の名前を呼んだ。
二人はいつもより少し早い時間の電車に乗り、並んで学校へと向かった。
「今日から、学校でも隠さないから」
遥は駅のホームで、海月の手をぎゅっと握りしめた。
「一ノ瀬さんたちのことも、クラスの噂も、俺が全部正面から受け止める。だから、海月は俺の後ろにいて」
「……はい」
海月は、もう迷わなかった。彼の背中についていくと、心に決めたのだ。
しかし。鳳凰学園の校門をくぐった瞬間、二人は異様な雰囲気に包まれた。
いつもなら遥に群がるはずの女子生徒たちが、遠巻きに彼らを見つめ、スマホを片手にヒソヒソと悪質な笑みを浮かべている。
男子生徒たちも、どこか哀れむような視線を遥に向けていた。
「……何、これ」
遥が眉をひそめる。
その時、遥のスマホが、小刻みに震え出した。
クラスのグループラインの通知だ。
遥が画面を開くと、そこには、信じられない画像が何枚も投稿されていた。
『速報:学校のアイドル・西園寺遥、地味子の転校生・影山海月と、昨日一緒に西園寺の自宅に入っていくところを目撃される。お泊まり確定か?』
そこにあったのは、昨日の夕方、激しい雨が降る直前に、遥が海月の腕を引いて自宅の玄関に入っていく瞬間の隠し撮り写真だった。
さらに、その下には、休んでいるはずの一ノ瀬莉央のアカウントから、ドス黒いメッセージが添えられていた。
『西園寺くん、騙されないで。その影山海月って子、前の学校で、男子全員をたぶらかして退学寸前まで追い込まれた、最悪のビッチ(悪女)だよ。変装して地味子のフリしてるのも、みんなを騙すための罠だから』
「――――っ!!!」
遥のスマホを持つ手が、怒りでミシミシと震え出した。
隣でその画面を覗き込んだ海月は、顔から完全に血の気が引き、その場にへたり込みそうになった。
前の学校でのトラウマ。隠しておきたかった、捏造された最悪の過去。
それが、一ノ瀬莉央の手によって、学園全体に拡散されてしまったのだ。
「海月……!」
遥が慌てて彼女を支えようとしたが、周囲の生徒たちの容赦ない視線とヒソヒソ声が、津波のように二人を襲う。
「マジかよ、あの地味子、中身ヤバい奴じゃん」
「西園寺くん、完全にハメられたんじゃん?」
「可哀想、あんな女に引っかかるなんて……」
世界の背景になろうとしたクラゲと、彼女を独占しようとした王子。
二人の小さな幸せは、学園全体を巻き込む、最悪で最大の嵐の中に、再び引きずり込まれようとしていた。
影山海月の脳内は、まさにその状態だった。
激しい雨が窓を叩く放課後の教室。
クラスの男子に眼鏡を奪われ、一番隠しておきたかった「素顔」を晒されてしまった絶望の瞬間。
それを救ってくれたのは、学園の誰もが憧れる完璧なアイドル、西園寺遥だった。
そこまでは、少女漫画のヒーローのような完璧な展開だった。
問題は、そのあとだ。
『これから毎日、放課後、俺と二人だけで過ごして。俺の話を聞いて、俺の目を見て、俺のことだけを考えて』
『俺に、興味を持ってよ。影山さん』
夕暮れの赤い光が差し込む教室で、至近距離から見つめてきた西園寺くんの瞳は、いつもテレビや噂で聞く「優しい王子様」のそれとは全く違っていた。
まるで、獲物を絶対に逃さないと決めた肉食動物のような、鋭くて、必死で、圧倒的な熱量。
(……なんで、あんなことになったんだろう……)
自宅の自室。
海月はベッドの上で、お気に入りのクラゲのぬいぐるみをギューッと抱きしめながら、ゴロゴロと転がった。
あれからどうやって家に帰ったのか、記憶が半分くらい飛んでいる。
ただ、西園寺くんのあの真剣すぎる顔と、耳元で囁かれた低くて心地よい声だけが、頭の中で何度も何度もリフレッシュされ、そのたびに心臓が壊れた時計のように激しく脈打つ。
海月が変装をしてまで「地味子」として生きると決めたのは、前の学校での苦い経験があるからだ。
自分の容姿のせいで周囲の環境がギスギスし、男子からはからかい半分の告白、女子からは陰湿な無視や嫌がらせを受けた。
「可愛い」と言われることが、海月にとっては恐怖のトリガーでしかなかった。
だから、この私立鳳凰学園高校に転校してくるときは、徹底的に「世界の背景」になろうと決意したのだ。
分厚い度なしの眼鏡をかけ、前髪を伸ばし、制服はあえて二サイズ上のダボダボなものを着る。
その作戦は完璧なはずだった。
なのに――。
(西園寺くんだけは、最初からずっと話しかけてきて……。おまけに、あんな突拍子もない約束までさせられて……)
『明日から、放課後は毎日図書室の奥の席ね。バックレたら、クラス全員に今の可愛い顔、写真付きでバラしちゃうから』
別れ際に不敵な笑みを浮かべて放たれた、あの脅し文句。
学校一の爽やかイケメンのくせに、やっていることはほとんど悪質な取り立て屋である。
「……最悪だ。絶対、明日学校行きたくない……」
海月は枕に顔を埋めて、小さな悲鳴を上げた。
だが、行かないわけにはいかない。もし本当にあの素顔の写真(いつの間にかスマホで撮られていたらしい)をクラスのグループラインにでも流されたら、海月の「平穏な背景ライフ」は完全に終了してしまう。
そして、海月にはもう一つ、誰にも言えない――それこそ、西園寺遥本人には絶対に知られてはいけない「本当の理由」があった。
海月が頑なに西園寺くんを見ようとしなかった理由。
それは、彼が嫌いだからでも、存在を無視していたからでもない。
その真逆だ。
(……だって、西園寺くん、信じられないくらいキラキラしてるんだもん……!)
初めて教室で彼を見たとき、海月は文字通り「目が潰れる」かと思った。
少女漫画のエフェクトのように、彼の周囲だけ背景に薔薇が咲き、背後から後光が差しているように見えた。
容姿だけでなく、声も、仕草も、全人類を魅了するために作られたかのような完璧なイケメン。
変装しているとはいえ、中身はただの気の弱い女子高生である海月にとって、西園寺遥という存在は「刺激が強すぎる毒物」のようなものだった。
近くにいるだけで緊張で心臓が破裂しそうになる。
目なんて合わせたら、その瞬間に顔が真っ赤になって、変装がボロクソに剥がれ落ちてしまう。
だから海月は、自分の身を守るために、必死で彼を「見ないように、意識しないように」脳内からシャットアウトしていたのだ。
それなのに、まさか「俺のことだけを考えて」なんて言われる日が来るなんて。
「無理だよ……。あんな眩しい人、一秒も直視できないのに……」
海月はクラゲのぬいぐるみに顔を埋めたまま、一睡もできない夜を過ごすのだった。
翌日。学校のチャイムが放課後の訪れを告げた瞬間、海月の胃はキリキリと痛み出した。
クラスの女子たちが「西園寺くん、今日これからカラオケ行かない?」と彼の席に群がっている。
いつもなら遥は「ごめんね、今日はちょっと用事があって」と、100点満点の笑顔で断るのだろう。
海月はそれを横目に、コソコソとカバンをまとめて教室を抜け出した。
(図書室の、奥の席……だよね)
鳳凰学園の図書室は、無駄に豪華で広い。
放課後は自習する生徒が数人いる程度で、奥の資料スペースは本棚に囲まれて完全に死角になっている。
海月がトボトボと歩いてその場所にたどり着くと、そこにはすでに、お目当ての――いや、一番恐れていた人物が座っていた。
「あ、来た。偉いね、影山さん。ちゃんと約束守ってくれて嬉しいよ」
窓際の一番奥の席で、西園寺遥が頬杖をつきながら、ひらひらと手を振っていた。
制服の第一ボタンを少し外し、ローファーを軽く遊ばせているその姿すら、どこかのファッション雑誌の1ページのようだ。
逆光を浴びた彼の金茶色の髪が、きらきらと輝いて見える。
(ほら、もう眩しい……!)
海月はギュッと視線を床に落とし、一番離れた席の椅子を恐る恐る引いた。
「……約束、ですから。困りますし」
「人聞きが悪いな。あれは君と仲良くなるための、ちょっとしたスパイスだよ」
遥はクスッと笑うと、自分の隣の席をポンポンと叩いた。
「ほら、そんな遠くに座らないで、こっち来て。俺の声、そんなに大きくないからさ」
「……ここで、聞こえます」
「拒否権、ないって言わなかったっけ?」
遥の声音が、少しだけ低くなる。優しいけれど、絶対に逃がさないというプレッシャー。
海月は完全に蛇に睨まれた蛙状態になり、泣く泣く荷物を持って、彼の隣の席へと移動した。
二人の距離は、わずか五十センチ。
西園寺くんから、微かに洗いたてのシャツのような、シトラス系の爽やかな香りが漂ってくる。
それだけで海月の心拍数は一気に跳ね上がった。
「よし。じゃあ、さっそく『取引』を始めようか」
遥は満足そうに微笑むと、机の上に一冊のノートを開いた。
「まずは、これ。今日の授業の数学のノート。君、途中で先生の板書についていけなくなってただろ? ほら、ここ」
「え……?」
海月は驚いてノートを見た。
そこには、驚くほど綺麗な字で、今日の授業の補足や分かりやすい公式の解説がびっしりと書き込まれていた。
「これ、私のために……?」
「そうだよ。君、いつも授業中、前髪でノートが隠れてて見づらそうにしてるから。俺が代わりに分かりやすくまとめといてあげた。どう? 役に立ちそう?」
遥は少し得意げに、海月の顔を覗き込んできた。
いつもなら周囲の女子を落とすための計算された親切だが、今の彼の目は、まるで「褒めて!」と言わんばかりの、どこか子供っぽい純粋さに満ちていた。
海月は胸の奥がキュンと跳ねるのを感じ、慌てて視線をノートに戻した。
「……すごいです。分かりやすくて、助かります。……ありがとうございます、西園寺くん」
「どういたしまして。……あ、今、俺のこと『西園寺くん』って呼んだね」
「え? あ、はい……。名前ですから」
「いや、いつもは『西園寺くん……(フェードアウト)』って感じで、消え入りそうな声だったからさ。ちゃんと呼んでもらえると、なんか嬉しいな」
遥はそう言って、本当に嬉しそうに目を細めて笑った。
その無防備な笑顔の破壊力は凄まじかった。海月は、自分の顔が急速に熱くなっていくのを自覚した。
(ダメ、見ちゃダメ……! 心臓がもたない……!)
海月はとっさに、顔を両手で覆って、机に突っ伏してしまった。
「えっ!? ちょっと、影山さん!? どうしたの、急に体調悪くなった?」
遥が慌てて椅子を近づけ、海月の背中に手を添えようとする。
「触らないでください……っ!」
海月は思わず鋭い声を上げてしまった。
「……あ」
遥の手が、空中でピタリと止まる。
彼の表情が、一瞬で傷ついたような、悲しげなものに変わった。
「ごめん……。やっぱり、俺に触られるの、嫌だよね。無理やりこんなところに連れてきて、嫌がらせされてるって思うよね……」
いつもの自信満々なアイドルはどこへやら、絵に描いたようにシュンと肩を落とす遥。
それを見て、海月は激しい罪悪感に襲われた。
彼は、自分を男子たちから助けてくれた恩人なのだ。おまけに、勉強まで教えてくれようとしている。
それなのに、自分の情けない理由のせいで彼を傷つけてしまうなんて。
海月は、机に突っ伏したまま、消え入りそうな声で白状した。
「……違います。嫌いじゃ、ないです……」
「え?」
「嫌いだから、見ないんじゃなくて……。その……西園寺くんが、眩しすぎるから、です……」
「……眩しい?」
遥が不思議そうに復唱する。
海月は、前髪の隙間から、真っ赤になった顔を少しだけ覗かせた。
「西園寺くん、信じられないくらいイケメンだから……。私みたいな地味な人間が、近くで目を見たりしたら、緊張で、心臓が止まりそうになるんです……! だから、直視できなくて……。嫌いだから避けてたわけじゃ、ないんです……!」
一気にまくし立て、海月は再び顔を隠した。
恥ずかしさで死にそうだった。こんな少女漫画みたいなセリフ、一生口にすることはないと思っていたのに。
一方、それを聞いた西園寺遥は――。
「…………」
完全に、フリーズしていた。
彼の脳内では、海月の言葉が何度もリフレインしていた。
『嫌いだから避けてたわけじゃない』
『眩しすぎるから』
『緊張で、心臓が止まりそうになる』
(……それって、つまり)
遥の耳の端が、じわじわと真っ赤に染まっていく。
今まで、何千、何万という女子から「カッコいい」「好きです」と言われてきた。
それらの言葉はすべて、彼の心の表面を滑り落ちていくだけだった。
なのに、この地味子に変装した少女の、恥ずかしそうな、必死な告白(のようなもの)は、遥の心の最深部にド直球で突き刺さった。
ドクン、と遥の胸が大きく鳴る。
(なんだこれ……。心臓が、めちゃくちゃ熱い……)
「……影山さん」
「は、はい……」
「それ、本気で言ってる?」
「本気じゃなきゃ、こんな恥ずかしいこと言いません……」
遥は、自分の口元を手で覆った。ニヤけそうになるのを必死で堪えるためだ。
胸の奥から、今まで感じたことのないような、爆発的な全能感と喜びが湧き上がってくる。
(あいつ、俺を嫌ってなんかなかった。それどころか……俺を意識しすぎて、見られなかっただけなんだ)
その事実を知った瞬間、遥の心の中の「独占欲」は、さらに凶悪な形へと進化を遂げた。
「そっか。眩しいんだ」
遥の声が、どこか弾んだものに変わる。彼は椅子をさらに近づけ、机に突っ伏している海月の頭に、そっと手を置いた。
「じゃあ、慣れてもらわないとね」
「え……?」
海月が顔を上げると、そこには、これまでに見たこともないような、妖艶で、最高にサディスティックな笑みを浮かべた王子の顔があった。
「これから毎日、ここで俺のことを見る練習をしよう。影山さんの目が俺に慣れるまで、毎日、ずっとね」
「な、なんでそうなるんですか――!?」
図書室の奥、クラゲの悲鳴が小さく響いた。
完璧なアイドルの無自覚な初恋は、完全に「歪んだ方向」へとブーストがかかってしまったようだった。
「なあ、最近、遥の様子おかしくないか?」
数日後の昼休み。クラスの男子たちが、弁当を食べながらヒソヒソと噂話をしていた。
視線の先には、窓際の席で、スマホを眺めながらフッと怪しい笑みを浮かべている西園寺遥の姿がある。
「あいつ、いつも昼休みって女子たちに囲まれてただろ? なのに最近、誘われても『ちょっとやることがあって』って言って、すぐにどこか行っちゃうんだよな」
「しかも、なんか最近、やたらとあの転校生の影山のこと気にしてねえ?」
「あー、この前タクヤたちが影山に絡んだときも、遥、マジギレしてたもんな。普段あんな怒ることないのに」
男子たちの噂話は、あながち間違いではなかった。
今の遥の頭の中は、99。9パーセントが「影山海月」で占められていた。
(今日の放課後は、英語の予習を教えてあげよう。あいつ、発音のときちょっと照れるのが可愛いんだよな……)
遥はスマホの画面に表示されている、海月とのメッセージのやり取りを見て、無意識に口元を緩めていた。
やり取りといっても、遥が「今日の日誌、俺が代わりに出しといたよ」とか「お勧めのクラゲの図鑑、図書室で予約しといた」というメッセージを送り、海月が「ありがとうございます」「すみません」と短いスタンプを返すだけの、ひどく一方通行なものだ。
だが、遥にとっては、それだけで毎日の生活が何倍も鮮やかに感じられた。
そんな遥の様子を、苦々しい表情で見つめている存在がいた。
クラスの女子のリーダー格であり、密かに遥の彼女の座を狙っている美少女、一ノ瀬莉央だった。
莉央は、髪をかき上げながら遥の席へと歩み寄った。
「ねえ、西園寺くん。今日の放課後なんだけど、生徒会の資料集め、手伝ってくれない? 人手が足りなくて困ってるの」
おねだりするような、完璧な上目遣い。
普通なら、親切な遥は「いいよ、手伝うね」と快諾するはずだった。
しかし、遥はスマホから目を離さずに、即答した。
「あ、ごめん一ノ瀬さん。放課後は先約があるんだ」
「え……? 先約って、誰と?」
莉央の眉がピクリと動く。
遥はそこで初めて顔を上げ、いつも通りの「当たり障りのない笑顔」を向けた。
「ちょっとね。個人的な用事だから、また今度ね」
そう言って、遥は席を立って教室を出て行ってしまった。
残された莉央は、不満げに唇を噛んだ。
(個人的な用事……? 最近の西園寺くん、絶対に何か隠してる。……まさか、あの地味な転校生と……?)
莉央の鋭い視線が、教室の隅でひっそりと教科書を読んでいる海月へと向けられた。
海月はただの背景として静かに過ごしているつもりだったが、遥が彼女に執着すればするほど、周囲の「ノイズ」もまた、彼女の周りに集まり始めていたのだ。
当の遥は、そんな周囲の不穏な空気に全く気づいていなかった。
いや、気づいていたとしても、今の彼にはどうでもいいことだった。
(早く放課後にならないかな……)
渡り廊下を歩きながら、遥は自分の胸に手を当てた。
心臓が、トクトクと心地よいリズムを刻んでいる。
今まで、誰に何を言われても動かなかった心が、彼女のことを考えるだけでこんなにも簡単に騒ぎ出す。
これが何という感情なのか、遥はまだ明確な名前を付けていなかった。
ただ、彼女を自分の手の中に閉じ込めておきたいという、強烈な「独占欲」だけが、彼の行動原理のすべてになっていた。
その日の放課後。海月は約束通り、図書室の奥の席で遥を待っていた。
二人の「見る練習」は、少しずつだが進んでいた。
今では、遥が話しかけたときに、海月は三秒くらいなら彼の目を見て話せるようになっていた(そのあとすぐに顔を真っ赤にして俯いてしまうのだが、それが遥にとっては最高の癒やしだった)。
「……遅いな、西園寺くん」
時計を見ると、約束の時間を十分ほど過ぎている。いつもならチャイムと同時にやってくる遥が、今日はまだ姿を見せない。
「生徒会の人に捕まったのかな……」
海月は少しだけホッとしつつ、同時に、ほんの少しだけ寂しさを感じている自分に驚いた。
(ダメダメ、何を考えてるの、私! あの眩しい人がいない方が、心臓のためには良いに決まってるじゃない!)
頭を振って雑念を追い払おうとした、その時だった。
「――ねえ、影山さんだっけ?」
突然、本棚の影から鋭い声がした。
びくりとして顔を上げると、そこにはクラスの巻き髪美少女、一ノ瀬莉央と、そのグループの女子二人が立っていた。
莉央は腕を組み、見下すような冷たい視線を海月に浴びせている。
「……あ、一ノ瀬さん。何か……御用ですか?」
海月は本能的な恐怖を感じ、肩をすぼめた。前の学校でのトラウマが、一気に蘇ってくる。
「単刀直入に聞くけど。あなた、最近西園寺くんと何してるわけ?」
莉央が一歩、足を踏み出してきた。
「西園寺くん、最近放課後いつもすぐにいなくなるの。クラスの男子が、あなたと一緒にいるのを見たって言ってたわよ。……あなたみたいな地味な子が、西園寺くんに何の用があるの?」
「それは……その……」
海月は言葉に詰まった。
「勉強を、教えてもらっているだけで……」
「勉強? 冗談言わないで。西園寺くんが、わざわざあなた一人のためにそんなことするわけないじゃない。どうせ、何か卑怯な手を使って、西園寺くんを脅して無理やり付き合わせているんでしょう?」
莉央の取り巻きの女子たちも、「そうよ、身の程をわきまえなさいよ」「西園寺くんに迷惑かけてるの、気づかないわけ?」と、口々に海月を責め立てる。
言葉の刃が、海月の胸にグサグサと突き刺さる。
彼女たちの言う通りだ。西園寺くんが自分に関わる理由なんて、本来はないはずなのだ。
自分の隠し事のせいで、彼は大切な放課後の時間を無駄にしている。
(やっぱり、私がここにいちゃいけないんだ……。西園寺くんの特別になんて、なっちゃいけなかったんだ……)
海月の瞳に、じわじわと涙が溜まっていく。
「……すみません。私……」
「謝るなら、もう二度と西園寺くんに近づかないで。これ以上付きまとったら、私、黙ってないから――」
莉央が海月の腕を掴もうと、手を伸ばした瞬間。
「――俺の連れに、何か用?」
氷点下よりも冷たい声が、図書室の静寂を切り裂いた。
莉央たちがハッとして振り返る。
そこには、息を切らせた西園寺遥が立っていた。
どうやらここまで走ってきたらしく、いつもの完璧な髪型が少し乱れている。
だが、その表情は――修羅そのものだった。
いつも輝いている彼の瞳は、今は深い闇のように沈んでおり、莉央たちを完全に「敵」として認識して射すくめていた。
「さ、西園寺くん……! これは、違くて、私たちはただ……」
莉央が慌てて言い訳をしようと顔を真っ赤にする。
しかし、遥は彼女たちの言葉を完全に無視して、海月の元へと大股で歩み寄った。
そして、怯えて震えている海月の肩を、抱きしめるようにして強く引き寄せた。
「影山さん、大丈夫!? どこか痛む!?」
「……に、西園寺くん……」
海月の目から、こらえきれずにポロリと涙がこぼれ落ちた。
それを見た瞬間、遥の中で、何かが完全にキレた。
彼は莉央たちに向き直ると、静かだが、これまでに聞いたこともないような地を這うような声で言い放った。
「一ノ瀬さん。君たちが何を勘違いしてるか知らないけど、影山さんに付きまとってるのは、俺の方だから」
「……え?」
莉央たちが目を見開く。
「俺が、影山さんに一緒にいてほしくて、無理やりお願いして時間を取ってもらってるんだ。迷惑なんて1ミリも思ってないし、むしろ俺にとっては、一日のうちで一番大切な時間なんだよ」
遥は海月の肩をさらに強く抱き寄せ、莉央たちを一瞥した。
「これ以上、俺の邪魔をしないでくれる? 次に彼女を泣かせたら、俺、君たちのこと、絶対に許さないから」
それは、学園の王子様としての仮面を完全に脱ぎ捨てた、一人の執着に狂った男の宣言だった。
莉央たちは、遥の放つ凄まじい怒りと拒絶のオーラに完全に圧倒され、「ひっ……」と短い悲鳴を上げると、蜘蛛の子を散らすように図書室から逃げ去っていった。
静まり返った図書室の奥。
外では、いつの間にか雨が上がり、雲の間から柔らかな夕日が差し込み始めていた。
「……影山さん、本当にごめん。俺が遅くなったせいで、怖い思いをさせて……」
遥は海月の肩から手を離すと、その場にしゃがみ込み、海月の顔を覗き込んだ。
彼の顔には、先ほどまでの凶暴な怒りはなく、ただただ海月を心配する、痛々しいほどの表情が浮かんでいた。
海月は、眼鏡のレンズに溜まった涙を指で拭うと、小さく首を振った。
「……ううん。西園寺くんのせいじゃ、ないです。……でも、西園寺くんの言う通りになっちゃいました」
「え……?」
「私が、西園寺くんと一緒にいるから……。また、前の学校みたいに、目立っちゃって……。女子の人たちに、あんな風に言われて……」
海月の声が、再び震え出す。
「私、やっぱり……西園寺くんと一緒にいる資格なんて、ないです。西園寺くんは、みんなの王子様だから……私みたいな背景と一緒にいたら、西園寺くんのイメージも悪くなっちゃう……」
「そんなこと――!」
遥は思わず、海月の両手を強く掴んだ。
「関係ない!!」
遥の叫び声が、図書室の壁に反響する。
海月は驚いて目を見開いた。
遥は、海月の手を自分の胸のあたりへと持っていった。
彼の制服のシャツ越しに、海月の手のひらに、ドクドクと信じられないほどの速さで打つ「心臓の音」がダイレクトに伝わってくる。
「西園寺、くん……?」
「聞いてよ、影山さん。この音……」
遥は、苦しそうな、だけどどこか愛おしそうな目で、海月を見つめた。
「俺、今まで誰に告白されても、誰に可愛いって言われても、心臓なんて一度も動かなかったんだ。みんな同じに見えて、恋愛なんて、退屈なゲームだとしか思ってなかった」
遥の指が、海月の長い前髪を、そっと耳にかけた。
隠されていた彼女の美しい素顔が、夕暮れのオレンジ色の光の中に晒される。
「でも、君に無視されたとき、俺の心はめちゃくちゃにかき乱された。君が他の男に眼鏡を取られたとき、胸が引き裂かれるくらい怒りが湧いた。そして今……君が泣いているのを見て、俺、自分がどうにかなりそうなくらい、胸が痛いんだ」
遥の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
もう、海月は目を逸らすことができなかった。
彼の瞳の奥にある、自分に向けられた、あまりにも純粋で、あまりにも巨大な「熱」に、完全に囚われていた。
「みんなの王子様なんて、どうでもいい。俺は、君だけの特別になりたいんだ。君が背景なら、俺もその背景の一部になる。君を傷つけるものすべてから、俺が君を守るから……」
遥の額が、海月の額に、コツンと軽く触れた。
距離は、ゼロ。
西園寺くんの熱い吐息が、海月の唇に触れる。
「だから……お願いだから、俺の側から離れないで。俺に、興味を持って。……俺を、好きになってよ、海月」
初めて、名字ではなく、名前で呼ばれた。
その瞬間、海月の中で、何かが完全に決壊した。
眩しすぎて直視できなかったはずの彼の顔が、今は愛おしくて、切なくて、目が離せない。
海月の心臓もまた、遥の心臓と同じ、狂ったようなテンポで激しく鳴り響いていた。
「……西園寺、くん……」
「遥、って呼んで」
「はる、か……くん……」
海月の小さな、だけど確かな拒絶のない声を聞いて、遥の顔に、今日一番の、そしてこれまでの人生で最も美しい、本物の「恋する男の笑顔」が咲いた。
恋を知らなかった学校のアイドルと、世界の背景になろうとした地味子。
二人のいびつで、だけど誰よりも純粋な放課後の時間は、ここから、さらに深く、甘く、加速していくのだった。
「……おは、よう。海月さん」
翌朝。教室の後ろから二番目の席で、西園寺遥は、自分の席に座ったばかりの影山海月の背中に向かって、これまでにないほど緊張した声で話しかけた。
いつもなら全校生徒を骨抜きにする「完璧な王子の声」が、今朝に限っては、どこか初々しい男子中学生のように上ずっている。
声をかけられた海月は、ビクッと肩を跳ね上がらせると、ロボットのようなギチギチとした動きでゆっくりと振り返った。
その顔は、分厚い銀縁眼鏡をかけているにもかかわらず、耳の付け根まで真っ赤に染まっている。
「あ、……は、はい。おはようございます、西園寺、くん……」
「……昨日、名前で呼んでくれるって約束したのに」
遥が少しだけ唇を尖らせて、拗ねたような視線を送る。
その姿は、クラスの女子が見たら「あのクールな西園寺くんが甘えてる!?」と黄色い悲鳴を上げて卒倒しかねないほどの破壊力があった。
「む、無理です! 教室では……周りの目もありますし、心臓が持ちません……!」
海月は消え入りそうな声で抗議すると、再び前髪で顔を隠すようにして、机にペタッと伏せてしまった。
そんな彼女の反応を見て、遥は口元を手で覆い、一人で悶絶していた。
(……可愛い。どうしよう、めちゃくちゃ可愛い……)
昨日の放課後、図書室の奥で、遥は自分の胸の音を彼女に聴かせ、半ば強引に「好きになってよ」と迫った。
彼女から「遥くん」と名前を呼ばれた瞬間のあの熱い感覚は、今も遥の胸の奥で、消えない火種のようにパチパチと音を立てて燃え続けている。
今まで、世界は自分を中心に回っていると思っていた。退屈で、予定調和なゲームのようだった。
だけど今は違う。影山海月という少女の一挙手一投足に、自分の世界が天国にも地獄にもひっくり返る。その新感覚の「恋」という病に、遥は完全に溺れていた。
だが、甘い余韻に浸っていられたのは、そこまでだった。
「おーい、遥。ちょっといいか?」
クラスの男子生徒数人が、遥の席へとやってきた。その中には、先日海月の眼鏡を奪って遥にこっぴどく怒られた拓也の姿もあった。
拓也は少し気まずそうに頭を掻きながら、遥に声を潜めて言った。
「いや、そのさ……昨日の放課後、一ノ瀬たちが図書室から泣きながら走って出てくるのを見た奴がいてさ。お前、一ノ瀬に何か言ったんだって?」
遥の瞳から、一瞬にして甘い光が消え失せた。
彼は椅子の背もたれに深く寄りかかり、タクヤたちを冷ややかに見上げた。
「別に、大したことじゃないよ。ちょっと、俺の邪魔をしないでほしいって、警告しただけ」
「警告って、お前……。一ノ瀬、今日学校休んでるんだぞ? 家でずっと泣いてるらしくて、女子のグループラインが今、大荒れなんだ拓也の言葉に、遥の隣の席で伏せていた海月の背中が、あからさまにビクンと強張った。
彼女が一番恐れていた「目立つこと」によるトラブル。それが、自分のせいで再び始まろうとしている。
遥は立ち上がると、タクヤの肩にぽんと手を置いた。その手には、みしりと音がしそうなほどの力がこもっていた。
「拓也。俺、前に言ったよね。影山さんにこれ以上構うなって」
「あ、あおぅ……分かってる、分かってるよ。俺らは何もしてねえよ! ただ、女子たちのネットワークは俺らじゃ止められねえから、一応お耳に入れとこうと思って……」
拓也は遥の静かな怒気に怯え、両手を挙げて退散していった。
遥は再び席に座ると、小さく丸まっている海月の背中を見つめた。
胸の奥から、どす黒い感情が這い出してくる。
(一ノ瀬さんが学校を休んだ? 女子たちが荒れてる? ……どうでもいい。そんなことより、あいつらのせいで海月さんがまた怯えてる。俺から離れようとしたら、どうしよう……)
遥の長い指が、机の上をコツコツと叩く。
彼の無自覚な独占欲は、周囲の雑音によって、さらにその排他性を強めていくのだった。
その日の放課後。
いつもなら図書室の奥で待ち合わせをするはずだったが、遥は海月を連れて、校門を出て駅へと向かう電車に乗っていた。
「あの……西園寺くん。本当に、私、お邪魔していいんでしょうか……?」
電車の中で、海月は吊り革をギュッと握りしめながら、不安そうに遥を見上げた。
「いいんだよ。っていうか、俺が来てほしかったんだから。一ノ瀬さんたちの件で、今学校の図書室にいたら、また変な奴らに絡まれるかもしれないだろ? だから、一番安全な場所に避難するの」
遥が言う「一番安全な場所」。
それは――西園寺遥の、自宅の自室だった。
「でも、お家の方に迷惑じゃ……」
「大丈夫。うち、両親とも海外出張が多くて、普段は家政婦さんしかいないから。今日はその家政婦さんにも『友達と勉強するから夜まで部屋に入らないで』って言ってある」
(それ、余計に危ない気がするんですけど――!?)
海月は心の中で絶叫した。
学校一のイケメンの部屋に、放課後、二人きり。
昨日、あんな熱烈な告白をされたばかりなのに、自分の警戒心のなさが呪わしかった。
だが、今日の昼休みの教室の空気は、確かに針のむしろだった。女子たちの視線が海月に突き刺さり、いつトゲのある言葉が飛んできてもおかしくない状況だったのだ。
それを察した遥が、「今日の放課後はうちに来て。拒否権なし」と、半ば強引に海月を連れ出したのだった。
駅から徒歩十分。たどり着いた西園寺の邸宅は、高級住宅街の中でも一際目を引く、モダンで巨大な一軒家だった。
「お邪魔します……」
緊張で声が裏返る海月を、遥は「どうぞ」と優しく迎え入れた。
遥の部屋は、二階の突き当たりにあった。
広々とした室内は、モノトーンで統一され、無駄なものが一切ないホテルのような空間だった。大きなデスクの上には最新のパソコンが置かれ、壁の本棚には難しい専門書や、なぜか「深海生物図鑑」が数冊並んでいる。
「適当に座って。ベッドの上でもいいよ」
「い、椅子でいいです! 床でもいいです!」
海月は慌ててデスクチェアの端っこに腰掛けた。
遥はクスッと笑うと、キッチンから持ってきた冷たい麦茶と、クッキーのお皿を机に置いた。
「そんなに緊張しなくても、何もしないよ。……『今は』、ね」
「なっ……っ!」
海月の顔がまたしても沸騰する。
遥はそんな彼女の反応を楽しみながら、自分のカバンから教科書を取り出した。
「ほら、勉強しよ。次の定期テスト、赤点取ったら補習で放課後の時間が潰されちゃうだろ? 俺、君との時間を1分も無駄にしたくないんだ」
真顔でさらりと恐ろしいセリフを言う王子。
海月は「はい……」と小さく返事をし、ノートを開いた。
勉強が始まると、遥は驚くほど優秀な家庭教師になった。
海月が苦手な英語の長文読解を、単語の語源から丁寧に、噛み砕いて教えてくれる。遥の教え方は分かりやすく、彼の低くて心地よい声が、耳に心地よく響く。
海月も次第に緊張を忘れ、勉強に没頭していった。
「――あ、そうか。この文脈の『that』は、関係代名詞じゃなくて同格の……」
「そう、正解。やっぱり海月さんは飲み込みが早いね」
不意に、遥の手が海月の頭にぽんと置かれ、優しく 撫でられた。
「……っ!」
海月の動きがピタリと止まる。
見上げると、すぐ近くに遥の顔があった。夕暮れの光が窓から差し込み、遥の瞳を琥珀色に染めている。その瞳が、あまりにも優しく、愛おしそうに海月を見つめていた。
「……西園寺、くん」
「だから、遥って呼んでって言ったのに。二人きりの時くらい、いいでしょ?」
遥はデスクに肘をつき、海月の顔をじっと見つめた。
「それとも、まだ俺のこと、直視すると目が潰れる?」
「う……それは……」
海月は眼鏡の奥の目を泳がせた。
確かに、最初の頃に比べれば、数秒なら目を見られるようになった。だけど、こうして至近距離で見つめられると、やっぱり心臓がうるさくて破裂しそうになる。
「……ちょっとだけ、慣れました。だけど、やっぱり……西園寺くんは、かっこよすぎます。私なんかとは、住む世界が違うみたいで」
海月がふと漏らした、本音の呟き。
それを聞いた瞬間、遥の表情から笑みが消えた。
「住む世界が違う?」
遥の声が、低く沈んだ。
海月はしまった、と思い俯いたが、遥の手が彼女の顎をそっと持ち上げた。
「何それ。じゃあ、君はまた俺の前からいなくなるつもり?」
「え……? あ、違くて……」
「違わない。君はいつもそうやって、自分を『背景』だと言って、俺との間に線を引こうとする」
遥の瞳に、激しい焦燥感と、狂気を孕んだ独占欲がメラメラと燃え上がるのが見えた。
「一ノ瀬さんたちのことなら、俺が全部片付ける。君に指一本触れさせないし、変な噂も全部もみ消してあげる。だから……そんな理由で、俺から逃げようとしないで」
遥の力が少しだけ強くなる。海月の小さな体が、遥の大きな影にすっぽりと覆われていく。
「君の世界に、俺を入れさせてって言ったよね。……それじゃ足りないなら、俺が君の世界のすべてになってあげようか? 学校も、友達も、全部捨てて、俺の側だけにいてくれる?」
「西園寺、くん……っ、痛い、です……」
海月の小さな呟きに、遥はハッと我に返った。
自分の指先が、彼女の顎を強く掴みすぎていたことに気づき、慌てて手を離す。
「あ……ごめん、海月さん。俺……」
遥は自分の両手を見つめ、絶望したように顔を覆った。
(何をやっているんだ、俺は……。彼女を傷つける奴らから守るって言ったのに、俺自身が彼女を恐怖で縛り付けようとしてる……)
完璧だったはずのアイドル・西園寺遥は、彼女の前では、ただの嫉妬に狂った醜い男に成り下がってしまう。その事実が、彼自身を激しく苛んでいた。
静まり返った部屋に、突然、大きな音が響いた。
バリバリバリ――!!!
「ひゃっ……!?」
海月が短い悲鳴を上げて、その場にすくみ上がる。
窓の外を見ると、いつの間にか空は真っ黒な雨雲に覆われ、バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨が、窓ガラスを激しく叩きつけていた。同時に、遠くでカミナリの音が轟く。
「雷……すごいね。大丈夫?」
遥は自分の醜い感情を隠すように、いつもの優しい声を作って窓の外を見た。
時計の針は、すでに夜の7時を回っている。
「これ、完全に電車止まるレベルの雨だな……」
遥がスマホの運行情報を確認すると、案の定、最寄り駅を通る路線は、大雨の影響で運転見合わせになっていた。
「えっ……!? じゃあ、私、お家に帰れない……?」
海月が青ざめる。
遥はスマホをポケットにしまうと、少し困ったような、だけど胸の奥で小さな邪念が疼くのを感じながら、海月を振り返った。
「……どうやら、そうみたいだね。お家の人に、連絡した方がいい。……今日はもう、うちに泊まっていきなよ」
「ええええええええ――!?」
海月の今日一番の絶叫が、雷の音にかき消されていった。
結局、海月が母親に電話したところ、「あら、西園寺くんのご自宅? ちょうど良かったわ、こんな大雨じゃ危ないし、お世話になりなさい」と、まさかの大賛成(というより、西園寺という名前に信頼を置きすぎている)で、あっさりと「お泊まり」が決定してしまった。
「……というわけで、これ、俺の中学の時のジャージ。サイズ、ちょっと大きいかもしれないけど、使って」
遥が差し出してきたのは、紺色のシンプルなジャージだった。
「あ、ありがとうございます……」
海月はそれを受け取り、遥の部屋にある姿見の後ろで着替えた。
戻ってきた海月の姿を見て、遥は再び、心臓を思い切り鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
サイズが大きすぎるジャージの袖から、小さな手がちょこんと覗いている。ズボンの裾も少し余っていて、全体的に「彼氏の服を借りた彼女」そのもののシチュエーションになっていた。
何より、お風呂上がりのため、あの分厚い眼鏡を外している。
長い前髪も、濡れたままで少し左右に分かれており、彼女のあの美しすぎる素顔が、完全に無防備な状態で晒されていた。
「……あの、西園寺くん? 変、ですか?」
海月は眼鏡がないせいで視界がぼやけているのか、目を細めながら、おずおずと遥に近づいてきた。
「……変じゃない。っていうか、刺激が強すぎる」
遥は片手で顔を覆い、大きなため息をついた。
「お願いだから、早くその眼鏡かけて。じゃないと、俺、自分の理性を保てる自信がない」
「え? あ、はい……」
海月は慌てて机の上の眼鏡をかけ、いつもの地味子の姿に戻った。それを見て、遥はようやく深く息を吐き出すことができた。
夜の10時。
二人は遥の部屋のベッドの背もたれに並んで座り、一冊の深海生物図鑑を眺めていた。
部屋の明かりは落とされ、間接照明の柔らかな光だけが、二人を照らしている。
「……海月さんは、本当にクラゲが好きなんだね」
遥が図鑑のページをめくりながら言う。そこには、暗い海の中で青白く光る「ミズクラゲ」の写真が載っていた。
「はい。クラゲって、脳もないし、心臓もないんです。ただ、波に流されて、漂っているだけ。……私、そんな風に、何も考えずに、ただ世界の背景として漂っていられたら、どんなに楽だろうなって、ずっと思ってて」
海月は膝を抱え込みながら、ぽつりと言った。
「でも、今の私は……流されるだけじゃ、いられなくなっちゃいました。西園寺くんが、私を強く引っ張るから……」
海月は眼鏡の奥の瞳で、じっと遥を見つめた。
「西園寺くんの側にいると、心臓が痛いんです。脳が、おかしくなりそうなんです。……クラゲのままで、いられなくなっちゃうんです」
それは、海月なりの、精一杯の「恋の告白」だった。
西園寺遥という巨大な引力に抗えず、自分の平穏が崩れていくことへの戸惑い。だけど、それを嫌だとは思っていないという、不器用な心の叫び。
遥は図鑑を閉じると、ベッドの上に置き、海月の体をそっと抱き寄せた。
今度は、昼間のような強引な力ではない。ガラス細工を扱うような、どこまでも優しくて、切ない抱擁。
「……ごめんね、海月さん」
遥は海月の髪に、そっと顎を乗せた。
「君をクラゲじゃなくしちゃったのは、俺だ。君の平穏を壊したのも、俺だ。……だけど、もう離してあげられない」
遥の胸の音が、静かな部屋にトクトクと響く。
「俺も同じなんだ。君に出会うまで、俺の心臓は止まってるのも同然だった。誰を見ても何も感じなかった。……君が、俺に心臓をくれたんだよ」
遥は海月の体を少し離すと、彼女の眼鏡を、そっと外した。
再び現れた、世界で一番美しい彼女の素顔。
夕日の光よりも、間接照明の光の中に浮かび上がる彼女は、妖艶で、儚くて、息を飲むほど綺麗だった。
「海月。……大好きだよ」
遥は、彼女の名前をもう一度呼び、ゆっくりと顔を近づけた。
海月は今度は、目を閉じなかった。
眩しすぎる彼の顔が、近づいてくる。彼の綺麗な瞳の中に、真っ赤になって震えている自分の姿が映っているのを見て――海月は、そっと目を閉じた。
窓の外では、激しい雨の音が、二人だけの世界を包み込むように鳴り響いていた。
翌朝。雨はすっかり上がり、雲一つない青空が広がっていた。
「……ん」
海月が目を覚ますと、そこは自分の部屋ではない、見慣れない天井だった。
隣を見ると、シーツに包まれた西園寺遥が、無防備な寝顔で眠っていた。
(あ……私、本当に西園寺くんの家に泊まっちゃったんだ……)
幸い(?)、昨夜はキス以上のことは何もされず、遥は海月をベッドの真ん中に寝かせ、自分はベッドの端っこで丸くなって寝ていた。彼のそんな紳士的な優しさに、海月はまたしても胸がキュンとなる。
「……ありがとう、遥くん」
海月は、眠っている彼にだけ聞こえるような小さな声で、初めて自発的に彼の名前を呼んだ。
二人はいつもより少し早い時間の電車に乗り、並んで学校へと向かった。
「今日から、学校でも隠さないから」
遥は駅のホームで、海月の手をぎゅっと握りしめた。
「一ノ瀬さんたちのことも、クラスの噂も、俺が全部正面から受け止める。だから、海月は俺の後ろにいて」
「……はい」
海月は、もう迷わなかった。彼の背中についていくと、心に決めたのだ。
しかし。鳳凰学園の校門をくぐった瞬間、二人は異様な雰囲気に包まれた。
いつもなら遥に群がるはずの女子生徒たちが、遠巻きに彼らを見つめ、スマホを片手にヒソヒソと悪質な笑みを浮かべている。
男子生徒たちも、どこか哀れむような視線を遥に向けていた。
「……何、これ」
遥が眉をひそめる。
その時、遥のスマホが、小刻みに震え出した。
クラスのグループラインの通知だ。
遥が画面を開くと、そこには、信じられない画像が何枚も投稿されていた。
『速報:学校のアイドル・西園寺遥、地味子の転校生・影山海月と、昨日一緒に西園寺の自宅に入っていくところを目撃される。お泊まり確定か?』
そこにあったのは、昨日の夕方、激しい雨が降る直前に、遥が海月の腕を引いて自宅の玄関に入っていく瞬間の隠し撮り写真だった。
さらに、その下には、休んでいるはずの一ノ瀬莉央のアカウントから、ドス黒いメッセージが添えられていた。
『西園寺くん、騙されないで。その影山海月って子、前の学校で、男子全員をたぶらかして退学寸前まで追い込まれた、最悪のビッチ(悪女)だよ。変装して地味子のフリしてるのも、みんなを騙すための罠だから』
「――――っ!!!」
遥のスマホを持つ手が、怒りでミシミシと震え出した。
隣でその画面を覗き込んだ海月は、顔から完全に血の気が引き、その場にへたり込みそうになった。
前の学校でのトラウマ。隠しておきたかった、捏造された最悪の過去。
それが、一ノ瀬莉央の手によって、学園全体に拡散されてしまったのだ。
「海月……!」
遥が慌てて彼女を支えようとしたが、周囲の生徒たちの容赦ない視線とヒソヒソ声が、津波のように二人を襲う。
「マジかよ、あの地味子、中身ヤバい奴じゃん」
「西園寺くん、完全にハメられたんじゃん?」
「可哀想、あんな女に引っかかるなんて……」
世界の背景になろうとしたクラゲと、彼女を独占しようとした王子。
二人の小さな幸せは、学園全体を巻き込む、最悪で最大の嵐の中に、再び引きずり込まれようとしていた。