高嶺の西園寺くんは、地味な影山さんに興味を持たれたい!

世界で一番大切な君へ

鳳凰学園に、いつもの穏やかな朝が戻ってきた。
……いや、厳密にいえば、少しだけ景色が変わっていた。
「キャー! 西園寺くん、おはよう!」
「遥先輩! 今日の髪型も最高にカッコいいです!」
校門をくぐった西園寺遥に向けられる黄色い歓声は、相変わらず学園の風物詩だった。
しかし、ここ数日間の遥の対応は、以前の「全方位に完璧な王子様」のそれとは明らかに違っていた。
「うん、おはよう。みんなも朝から元気だね」
微笑みは絶やさない。声のトーンも心地よい。
だが、その視線は周囲の女子たちを一切捉えておらず、まるで自動応答のロボットのように滑らかに言葉を流しているだけだった。
彼の琥珀色の瞳は、少し前方、サイズの合っていない大きめの制服に身を包み、前髪を揺らしながらトボトボと歩いている一人の少女の背中だけを、レーザーポインターのように真っ直ぐに射抜いていた。
(……今日も制服がダボダボだ。可愛いな。後ろから抱きついたら、どんな声を出すだろう)
そんな恐ろしい(そして甘すぎる)妄想を脳内で繰り広げながら、遥は周囲の女子たちの包囲網をさらりとすり抜け、影山海月の隣へと歩調を合わせた。
「おはよう、海月。今日もいい天気だね」
「ひゃっ……!? に、西園寺くん、おはようございます……っ」
海月はビクッと肩を跳ね上げ、周囲の女子たちからの「また西園寺くんがあの地味子に……!」という視線に怯えるように首をすぼめた。
学園祭での『シンデレラ騒動』以来、海月が隠れ美少女であることは誰もが知る事実となったが、それでもこうして学校一のイケメンに日常的にロックオンされることには、彼女の心臓が全く追いついていなかった。
「もう、校門の前で話しかけないでくださいって言ったのに……。ただでさえ、最近の西園寺くん、ファンサービスが雑だって噂されてるんですよ?」
海月が前髪の隙間から不満げに上目遣いで抗議する。
遥はクスッと笑うと、誰も見ていない一瞬の隙を突いて、彼女の大きめの袖口から覗く細い指先に、自分の指を絡ませた。
「いいんだよ、雑で。俺、学校のアイドルなんて、もう休業することにしたから」
「え……?」
「これからは君専属の、君だけの王子様。……ねえ、教室に入るまで、このまま手繋いで歩いちゃダメ?」
「ダメに決まってます!! 早く手を離してください――!!」
顔を真っ赤にして必死に手を振りほどこうとする海月。遥はその焦る反応すら愛おしくてたまらず、結局、教室の入り口にたどり着くまで、彼女の指を絶対に離さなかった。
恋愛に一切興味のなかった完璧なアイドルは、地味子の皮を被ったクラゲの少女に、プライドも理性も、その心のすべてを完全に奪われていた。


学園祭の一件以来、一ノ瀬莉央が自主退学したことで、海月を苦しめていた悪質なデマは完全に消滅した。
クラスメイトたちも、海月を「悪女」としてではなく、少し内気だけど心優しい「隠れ女神」として受け入れるようになっていた。
海月にとって、それは望んでいた「静かな背景ライフ」とは少し違うけれど、前の学校のような恐怖のない、とても温かい日常だった。
だが、変わったのは周囲の環境だけではない。
二人の関係性のパワーバランスもまた、静かに、確実に変化しつつあった。

放課後。いつものように図書室の奥の席で、二人は並んで座っていた。
「……ねえ、海月。ここの英語の構文なんだけどさ」
遥が教科書を指差しながら話しかける。しかし、海月はノートにペンを走らせたまま、生返事を返すだけだった。
「……あ、はい。そこは関係代名詞の非限定用法ですよね。昨日予習したので分かります」
「あ、そう……。じゃあ、こっちの数学の微分積分は――」
「それも、遥くんのノートのおかげでバッチリです。もう赤点の心配はありません」
海月はそう言って、分厚い眼鏡の奥から、まっすぐに遥の目を見つめて、ふふっと柔らかく微笑んだ。
以前なら、三秒も目を見合えば顔を真っ赤にして突っ伏していたはずの彼女が、今ではごく自然に、そして少し悪戯っぽく遥の視線を受け止めている。
「…………」
遥は手にしていたシャープペンシルを机に置くと、深くため息をついて、海月の机に突っ伏した。今度は、遥の方が「机ドン」ならぬ「机シュン」の状態だった。
「どうしたんですか、遥くん。お腹でも痛いんですか?」
海月が不思議そうに、遥の形の良い茶髪を恐る恐るツンツンとつつく。
「……海月さんが、俺の顔を見て照れてくれない」
「えっ……?」
「前はもっと、ちょっと目が合っただけで耳まで真っ赤にして、眩しいって言ってくれたのに。最近の海月さん、俺の顔に慣れてきちゃったでしょ。なんか……寂しい」
完璧な王子様だったはずの男が、ベッドの中の仔犬のように拗ねている。
そのあまりのギャップに、海月は一瞬呆気にとられたが、すぐに胸の奥から愛おしさがこみ上げてくるのを抑えきれなかった。
(……慣れるわけ、ないのに。本当は今だって、心臓が爆発しそうなくらいドキドキしてるのに)
海月は、遥に気付かれないように、スカートの裾をぎゅっと握りしめていた。
だけど、いつも引っ張ってもらうばかりじゃいられない。自分を暗闇から救い出してくれた彼に、自分からも、ちゃんと気持ちを伝えたかった。
海月は、自分の顔が再び熱くなっていくのを感じながら、少しだけ身を乗り出した。そして、突っ伏している遥の耳元で、消え入りそうな声で囁いた。
「……慣れてなんか、いませんよ。遥くんがカッコよすぎるのは、今も、世界で一番……眩しいです」
「――っ」
遥の体が、電流が走ったように跳ね上がった。
顔を上げた彼の耳の端は、これまでにないほど真っ赤に染まっていた。彼は信じられないものを見るように海月を見つめ、それから片手で顔を覆って、深いため息をついた。
「……ずるい。そういうこと、不意打ちで言うの、本当に反則だから」
「ふふ、そっくりそのままお返しします」
海月が少し得意げに笑う。
恋を知らなかったアイドルを、言葉一つで翻弄する。
いつの間にか、世界の背景だった少女は、王子の世界を支配する「唯一の女王」へと成長していた。


季節は巡り、鳳凰学園には心地よい秋の風が吹き抜けていた。
定期テストも無事に終わり、補習の危機を脱した二人は、週末の休日に「デート」の約束をしていた。
海月が指定した場所は、街の大きな水族館だった。
「わあ……すごい。綺麗……」
薄暗い水族館の館内。青く巨大な水槽の前に、海月は立っていた。
今日の海月は、いつものダボダボの制服ではなく、白いサマーニットにチェックのスカートという、女の子らしい私服姿だった。
髪も綺麗に整えられ、眼鏡はかけているものの、その隙間から覗く素顔の美しさは隠しきれていなかった。
「本当に、クラゲが好きなんだね」
隣に立つ遥が、水槽の中でゆらゆらと青白く光るミズクラゲを見つめながら言った。
彼もまた、シンプルな黒のジャケット姿で、周囲の一般客の女子たちが思わず振り返るほどの圧倒的なオーラを放っていた。
「はい。やっぱり、落ち着くんです。……でも、今の私は、この子たちみたいに『ただ流されるだけ』じゃ、なくなりました」
海月は水槽から視線を外し、隣の遥を見上げた。
「遥くんが、私の手を引っ張って、光の当たる場所に連れ出してくれたから。……私、遥くんの側にいるようになってから、自分のことが、少しだけ好きになれた気がするんです。変装しなくても、背景にならなくても、ここにいていいんだって、思えるようになりました」
海月の言葉は、水族館の静かな水の音に溶けるように、優しく遥の胸へと届いた。
遥は、自分の胸の奥が、温かい何かで満たされていくのを感じていた。
今まで、誰かに好意を向けられても、それは「西園寺遥という完璧な偶像」に向けられたものだった。
だけど、海月が向けてくれる言葉は、彼の飾らない、不器用で、嫉妬深くて、みっともない「本当の西園寺遥」を受け止めてくれた上でのものだった。
「海月」
遥は海月の手をとり、水族館の少し薄暗い、人が途切れた通路の隅へと彼女を連れて行った。
青い水槽の光が、二人の影を長く床に落とす。
遥はポケットから、小さな、だけど丁寧にラッピングされた小さな箱を取り出した。
「これ……学園祭の時に、本当は渡したかったんだ。……開けてみて」
海月は驚きながらも、リボンを解いて箱を開けた。
中に収められていたのは、シルバーの細いチェーンの先に、小さな、透き通った青いクリスタルの「クラゲ」が揺れる、美しいネックレスだった。
「わぁ……綺麗……っ」
「君がどんなに地味子のフリをしても、俺にとっては、最初から世界で一番輝く特別な女の子だった。……これ、俺に付けさせて」
「はい……」
海月が後ろを向くと、遥は彼女の短い髪をそっと持ち上げ、首元に優しくネックレスをかけた。遥の冷たい指先が彼女の肌に触れるたび、海月の背中に心地よい戦慄が走る。
再び向き合った二人の距離は、ゼロに等しかった。
クリスタルのクラゲが、海月の胸元で、水族館の青い光を反射してきらきらと輝いている。
「海月。……俺、今まで『恋』っていう感情が、ずっと分からなかったんだ。みんなと同じように笑って、みんなと同じように接していれば、それでいいと思ってた」
遥の大きな手が、海月の頬を優しく包み込んだ。彼の琥珀色の瞳には、もうアイドルの仮面など微塵もなかった。そこにいるのは、ただ一人の少女を愛おしくてたまらない、情熱的な一人の男だった。
「でも、君に出会って、すべてが変わった。君が俺を見ないことに焦って、君が他の男と話すだけで狂いそうになって……君が泣いていると、胸が張り裂けそうになる。……これが恋なら、俺の初恋は、君に全部奪われたんだよ」
遥の声が、切なく、だけど確かな熱量を持って海月の鼓膜を揺らす。
「俺を……君の、本当の王子様にして。他の誰でもない、君だけの特別に、してほしいんだ」
それは、学園の頂点に立つアイドル・西園寺遥の、最も贅沢で、最も傲慢な、そして最も純粋な「完全降伏」の誓いだった。
ふたりは甘いキスを交わした。

水族館の青い光の中、海月の瞳から、ポロリと一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは悲しい涙ではない。あまりにも大きな幸福と、彼の愛の深さに胸が震えたからだ。
海月は、自分の顔を覆っていた分厚い銀縁眼鏡を、自らの手でゆっくりと外した。
そして、それを遥のジャケットのポケットへとそっと差し込んだ。
「……もう、眼鏡はいりません」
前髪の隙間から覗く、世界で一番美しい素顔。
海月はまっすぐに遥の瞳を見つめ、満面の、世界で一番眩しい「本物の笑顔」を咲かせた。
「遥くん。私……あなたが好きです。誰の目にも留まらない背景だった私を、見つけてくれて、愛してくれて、ありがとう」
海月は背伸びをして、遥の首の後に両手を回した。
「私だけの王子様。……これからもずっと、私の隣にいてください」
「――ああ。約束する」
遥は海月の腰を強く抱き寄せ、彼女の唇に、深く、甘く、すべてを捧げるような口づけを交わした。
水槽の中を漂うクラゲたちの光に包まれながら、二人の心臓の音は、完全に一つのリズムとなって響き合っていた。
それは、どんな物語の結末よりも美しく、どんな魔法よりも解けない、本物の恋の始まりだった。

数日後の鳳凰学園、2年B組の教室。
「おーい、西園寺、影山! 今日の放課後、みんなでマック行かないか?」
クラスの男子たちが、遥と海月の席へと親しげに話しかけてくる。
「あ、ごめん。今日の放課後は、海月と二人で『クラゲの飼育セット』を買いに行く約束があるんだ」
遥が海月の肩をごく自然に抱き寄せながら、満面の笑顔で即答する。
「うわ、出たよ! 西園寺の『海月しか見えてないモード』!」
「もうお前ら、教室でバカップルすんのやめろよなー!」
クラスメイトたちの呆れた、だけど温かいツッコミが教室に響き渡る。
海月は顔を真っ赤にしながらも、今度は前髪で顔を隠すことなく、遥の隣で幸せそうに微笑んでいた。
恋に興味のなかった学園のアイドルと、世界の背景になろうとした地味子。
二人のいびつですれ違いだらけだった放課後は、今、誰よりも特別で、世界で一番甘い、最高の青春へと変わったのだった。
< 4 / 5 >

この作品をシェア

pagetop