いつか、心は赤い糸の結び目を忘れる。

ガラス越しの恋人たち

その庭園は、まるで外界の汚れを一切寄せ付けないために作られた、美しくも冷酷なガラスの檻のようだった。
日本屈指の財閥である柊家の広大な敷地。
その奥深くに佇むアール・ヌーヴォー調の温室の中で、柊薫は一人、本を広げていた。
しかし、その切れ長の瞳は頁の上の活字を追ってはいない。温室の入り口、一輪の白い薔薇を手入れしている一人の少女の背中に、じっと注がれていた。
小鳥遊梨央。
庭師の見習いとして柊家に出入りしている彼女は、この息の詰まるような大豪邸の中で、薫にとって唯一の「息ができる場所」だった。
「――梨央」
誰もいないことを見計らい、薫が低く、しかしひどく甘やかな声で彼女の名を呼ぶ。
梨央がビクッとして振り返り、すぐにその愛らしい顔を綻ばせた。
「薫さま……。だめですよ、誰かに見られたら」
「誰も来ないさ。この時間は、皆、本邸の方で格式高いお茶会の準備に追われているからね」
薫は椅子から立ち上がり、長い足を組んで歩み寄ると、梨央の小さな体を優しく抱き寄せた。
大富豪の御曹司として生まれ、一挙手一投足まですべてを『完璧』に縛られて生きてきた薫。
だが、梨央の腕の中にいるときだけは、彼はただの「一人の男」になれた。
「今日も、君は僕の薔薇よりずっと美しい」
「もう……薫さまは、いつもそうやって私をからかいます」
梨央は頬を林檎のように赤く染めながらも、拒むことなく薫の胸に顔を埋める。
薫の上質なカシミアのコートから漂う、洗練されたシトラスの香りが、梨央の心をどうしようもなく満たしていく。
二人の身分の差は、天と地ほどもあった。
薫は一国の経済を動かすほどの血筋。
対する梨央は、病気の父親を養うために、その日暮らしの生活から必死に這い上がってきた一般人。
交わるはずのない二人の世界。それでも、二人は激しく惹かれ合い、密かに愛を育んできた。
薫は、梨央の少し荒れた、けれど温かい手をそっと取り、自身の唇に寄せた。
「嘘じゃない。僕の心にある光は、君だけだ、梨央。この家も、名誉も、君のいない世界なら何の意味もない。いつか必ず、僕が君をこの檻から連れ出すから」
「薫さま……。私は、あなたのお傍にいられるだけで、それだけで幸せです。どんなに遠くから見つめるだけでも……」
梨央の瞳に、健気な、そして一抹の不安を孕んだ涙が浮かぶ。薫はそれを愛おしそうに親指で拭うと、ゆっくりと顔を近づけた。
温室を包む緑の葉の隙間から、柔らかな木漏れ日が二人を照らす。
重なり合う唇はどこまでも優しく、そして切ないほどに深かった。
お互いの舌が絡み合うたびに、心まで一つに溶けていくような錯覚を覚える。
「愛している、梨央。何があっても、僕のすべては君のものだ」
「私も、私も愛しています、薫さま。一生、あなただけをお慕いします」
何度でも愛を確かめ合うように、二人は強く抱きしめ合い、何度も口づけを交わした。
これから自分たちを待ち受ける、底なしの絶望の奈落など、この時の二人はまだ、知る由もなかった――。
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