いつか、心は赤い糸の結び目を忘れる。
牙を剥く楽園
「薫、お前ももう二十二だ。そろそろ我が柊家と、神楽家の未来を確固たるものにせねばならん」
柊家の厳格な当主である父の声が、重厚な応接室に響き渡る。
薫は梨央との結婚を認めさせるため、強い覚悟を胸にこの部屋へやってきた。
しかし、その決意は部屋に足を踏み入れた瞬間に打ち砕かれる。
父の傍らには、すでに冷徹な笑みを浮かべた神楽家の令嬢・神楽麗奈が、当然のような顔で座っていたのだ。
そして神様の悪戯か、その部屋のお茶出しを命じられていたのは、他ならぬ梨央だった。
「父上、お待ちください。私はかねてよりお話ししている通り、お付き合いしている女性が――」
「黙りなさい、薫」
遮ったのは、麗奈だった。彼女は一瞥すら梨央にくれないまま、傲慢に言い放つ。
「有象無象の羽虫との火遊びは、今日限りで終わりよ。あなたが選ぶのは、この私。それが柊家と神楽家の『契約』ですもの」
机の上に、冷たい音を立てて広げられたのは、すでに麗奈のサインが美しく並んだ「婚姻届」だった。
「さあ、書きなさい。さもなければ……その小汚い庭師の娘がどうなるか、分かっているわね?」
麗奈の細い指が、部屋の隅で凍りついている梨央を指さす。
その視線は、人間ではなく虫ケラを見るそれだった。麗奈の背後に控える黒服の男たちの手が、いつでも動かせるように不穏に動く。
(僕がここで拒めば……梨央の命はない)
薫の顔から血の気が引いていく。梨央を守るためには、今、この悪魔の契約に屈するしかなかった。
薫の震える手が万年筆を握る。梨央の視線が、痛いほど薫の背中に突き刺さる。
行かないで、と叫びたい。けれど、一般人の自分には何の力もない。
梨央はただ、涙を堪えて唇を噛み締めることしかできなかった。
カチリ、と冷たい音がして、薫は自分の名前を書き終えた。
それは、二人の純愛が、大富豪の権力によって無残に圧殺された瞬間だった。
「よくできました、薫。さあ、お父様方がお待ちよ。今後の段取りを話し合いに行きましょう」
麗奈は満足げに婚姻届を回収すると、薫の腕に強引に我が身を絡ませる。
薫は魂を抜かれた人形のような目で、振り返ることもできずに部屋を連れ去られていった。
――静まり返った応接室に残されたのは、溢れる涙を止められない梨央だけだった。
しかし、絶望はこれだけでは終わらない。
パタパタとハイヒールの音が近づき、部屋のドアが開く。戻ってきたのは、薫を置いてきたはずの麗奈だった。
麗奈は、床に崩れ落ちている梨央を見下ろし、フッと鼻で笑った。
「可哀想に。でも、身の程を知ることね。あなたのような泥水で育った女が、薫の隣に立てるわけがないのよ」
麗奈はゆっくりと歩み寄り、梨央の顎を鋭い爪で強引に突き上げた。
「だけど、これで終わりだと思ったら大間違い。私はね、自分のモノに手を出した泥泥(どろどろ)の害虫を、そのまま逃がしてあげるほど優しくないの」
麗奈の瞳に、邪悪な歓喜が宿る。
「明日から、私の『専属メイド』になりなさい。薫の妻となる私が、あなたを一番近い場所で仕込ませてあげるわ」
薫様の近くに居たら、気持ちが止まらなくなってしまう。
私は断ろうとした。だが、そのとき麗奈がきつい一言を放ったのだ。
「……もしかして、断るつもりじゃないでしょうね? 拒めば、あなたの実家の父親がどうなるか、分かっているわね?」
それは、愛し合う二人を永遠に引き裂き、いたぶり尽くすための、地獄の招待状だった。
梨央は絶望の涙を流しながら、ただ「はい……」と、血を吐くような声で答えるしかなかった。
柊家の厳格な当主である父の声が、重厚な応接室に響き渡る。
薫は梨央との結婚を認めさせるため、強い覚悟を胸にこの部屋へやってきた。
しかし、その決意は部屋に足を踏み入れた瞬間に打ち砕かれる。
父の傍らには、すでに冷徹な笑みを浮かべた神楽家の令嬢・神楽麗奈が、当然のような顔で座っていたのだ。
そして神様の悪戯か、その部屋のお茶出しを命じられていたのは、他ならぬ梨央だった。
「父上、お待ちください。私はかねてよりお話ししている通り、お付き合いしている女性が――」
「黙りなさい、薫」
遮ったのは、麗奈だった。彼女は一瞥すら梨央にくれないまま、傲慢に言い放つ。
「有象無象の羽虫との火遊びは、今日限りで終わりよ。あなたが選ぶのは、この私。それが柊家と神楽家の『契約』ですもの」
机の上に、冷たい音を立てて広げられたのは、すでに麗奈のサインが美しく並んだ「婚姻届」だった。
「さあ、書きなさい。さもなければ……その小汚い庭師の娘がどうなるか、分かっているわね?」
麗奈の細い指が、部屋の隅で凍りついている梨央を指さす。
その視線は、人間ではなく虫ケラを見るそれだった。麗奈の背後に控える黒服の男たちの手が、いつでも動かせるように不穏に動く。
(僕がここで拒めば……梨央の命はない)
薫の顔から血の気が引いていく。梨央を守るためには、今、この悪魔の契約に屈するしかなかった。
薫の震える手が万年筆を握る。梨央の視線が、痛いほど薫の背中に突き刺さる。
行かないで、と叫びたい。けれど、一般人の自分には何の力もない。
梨央はただ、涙を堪えて唇を噛み締めることしかできなかった。
カチリ、と冷たい音がして、薫は自分の名前を書き終えた。
それは、二人の純愛が、大富豪の権力によって無残に圧殺された瞬間だった。
「よくできました、薫。さあ、お父様方がお待ちよ。今後の段取りを話し合いに行きましょう」
麗奈は満足げに婚姻届を回収すると、薫の腕に強引に我が身を絡ませる。
薫は魂を抜かれた人形のような目で、振り返ることもできずに部屋を連れ去られていった。
――静まり返った応接室に残されたのは、溢れる涙を止められない梨央だけだった。
しかし、絶望はこれだけでは終わらない。
パタパタとハイヒールの音が近づき、部屋のドアが開く。戻ってきたのは、薫を置いてきたはずの麗奈だった。
麗奈は、床に崩れ落ちている梨央を見下ろし、フッと鼻で笑った。
「可哀想に。でも、身の程を知ることね。あなたのような泥水で育った女が、薫の隣に立てるわけがないのよ」
麗奈はゆっくりと歩み寄り、梨央の顎を鋭い爪で強引に突き上げた。
「だけど、これで終わりだと思ったら大間違い。私はね、自分のモノに手を出した泥泥(どろどろ)の害虫を、そのまま逃がしてあげるほど優しくないの」
麗奈の瞳に、邪悪な歓喜が宿る。
「明日から、私の『専属メイド』になりなさい。薫の妻となる私が、あなたを一番近い場所で仕込ませてあげるわ」
薫様の近くに居たら、気持ちが止まらなくなってしまう。
私は断ろうとした。だが、そのとき麗奈がきつい一言を放ったのだ。
「……もしかして、断るつもりじゃないでしょうね? 拒めば、あなたの実家の父親がどうなるか、分かっているわね?」
それは、愛し合う二人を永遠に引き裂き、いたぶり尽くすための、地獄の招待状だった。
梨央は絶望の涙を流しながら、ただ「はい……」と、血を吐くような声で答えるしかなかった。