月影の彼方〜千年の約束〜
第九話 契約前夜
その夜。
珍しく、リッカは眠っていなかった。
窓辺に座り、月を見上げている。
「眠らないのか?」
「……昔を思い出していた」
「……」
「前に、葵乃姫のことを聞いただろう」
「ああ」
「聞いてくれるか?」
————
——
「賀茂祭を見てみたいの」
縁側で、葵乃姫がぽつりと呟く。
「祭など人の集まりだろう」
興味なさそうにリッカが答える。
「そうだけど」
姫は少し寂しそうに笑う。
「私は行ったことがないの」
その夜。
リッカは一人、賀茂祭の賑わいを見に行った。
「どうだった?」
姫が目を輝かせる。
「うるさかった」
「それだけ?」
「あと、人が多かった」
「それだけ?」
「……」
姫が頬を膨らませる。
「楽しそうだった」
「そう。ならよかった」
「見て、リッカ」
葵乃姫の手が伸びる。
「月が、綺麗ね」
「月はいつも綺麗だ」
「ふふ」
「ねぇ、リッカ」
「なんだ」
「これからも、そばにいてくれる?」
「……」
「私の代わりに色んなものを見て、それを私に教えてほしいの」
「聞くだけでいいのか」
「私は行けないもの」
「俺が連れて行ってやる」
「え」
「行きたいところはあるか?」
「……そうね。海が見たいわ」
「海?」
「ええ。どこまでも続いていると聞くわ」
「今から行くか?」
「今?無理よ」
葵乃姫がくすりと笑う。
「そんなことをしたら、皆に叱られてしまうわ。今度連れて行って」
「わかった」
それから、毎夜のように葵乃姫と話をした。
リッカは木の上で、葵乃姫は縁側で。
その日見たもの、あったこと。
姫はどの話も楽しそうに聞いていた。
気付けば、月を見るたびに姫の顔を思い出すようになっていた。
それは、珍しく葵乃姫の体調が良かった日だった。
縁側から庭へ降り立ち、リッカがいる木の下まで歩みを進める。
そうして、静かに言葉を落とした。
「リッカ。あなたは憑神なのでしょう。人と契約し、その契約が切れるまで、その家を守る妖」
リッカの視線が揺れる。
「誰に聞いた」
「……昼間、ある妖を探している、と術師が尋ねてきました」
葵乃姫が目を伏せる。
「銀色の憑神」
その名に、リッカの表情がわずかに険しくなった。
「あなたのことなのでしょう」
「……」
風が吹く。
木々が揺れる。
「怖くないのか」
ぽつりとリッカが言った。
「何がですか?」
「俺が」
「怖くないわ」
「……」
「だって、あなたは私を傷付けないでしょう?」
リッカが固まる。
今まで恐れられることはあった。
退治されそうになったこともあった。
でも信じられたことはなかった。
「……なぜそう思う」
葵乃姫が笑う。
「あなたは優しいもの」
その瞬間、リッカは初めて感じる感情に戸惑うように顔を背けた。
胸の辺りがじんわりと暖かい。
くすぐったいような、奇妙な感情だった。
「リッカ」
「なんだ」
葵乃姫は少しだけ迷うように目を伏せる。
そして。
「私と契約してくれない?」