月影の彼方〜千年の約束〜

第十話 契約



「私と契約してくれない?」

葵乃姫の言葉に、リッカは目を見開いた。

しばらくの沈黙の後。

リッカは静かに首を振る。

「断る」

葵乃姫が目を瞬く。

「……なぜ?」

「お前は人だ」

リッカは目を伏せた。

「人は老い、死ぬ」

「ええ」

葵乃姫は静かに頷く。

「契約しても、その事実は変わらん」

「……」

「俺はもう、人とは契約せんと決めている」

葵乃姫は少し考えるように目を伏せた。

「置いていかれるのが怖いの?」

リッカの眉が僅かに動く。

「……違う」

けれど。

それ以上の言葉は続かなかった。

葵乃姫は小さく笑う。

「そう」

そして空を見上げた。

「私は、この家を守りたいの」

「なぜだ」

「父上も母上も、この家も好きだから」

葵乃姫が微笑む。

「私は幼い頃から病弱で、まだ何も返せていないわ」

「……」

「私は月島の姫だもの」

「せめて、この家の力になりたいの」

リッカは何も答えない。

答えられなかった。
その願いが、あまりにも葵乃姫らしかったから。

「でも」

葵乃姫が続ける。

「それだけじゃないわ」

リッカの視線が向く。

葵乃姫はまっすぐにリッカの目を見つめた。

「あなたを一人にしたくない」

「何を言っている」

「初めてあなたに会った時、とても冷たい目をしていたわ」

「……」

「でも私には、とても寂しそうに見えた」

リッカの表情が僅かに強張る。

「皆、あなたを妖としか見てこなかったのでしょう」

「守り憑きとして」

「名前を呼ぶこともなく」

「ただ、力として」

「……くだらん」

リッカが顔を顰める。

「私は本気よ」

葵乃姫は笑った。

「私と契約を結べば、あなたは月島の憑神になる」

「私がいなくなった後も」

「父上が」

「母上が」

「いつか生まれてくる誰かが」

「あなたの名を呼ぶわ」

リッカの瞳が揺れる。

「だから」

葵乃姫はそっと言った。

「月島を守って」

「私の代わりに」

「……もう、寝ろ」

そう言い残し、リッカは月明かりの中へ姿を消した。


それからしばらくして。

葵乃姫の体調は急激に悪化した。

夜に縁側へ出ることも少なくなった。

リッカは変わらず屋敷を訪れていたが、以前のように言葉を交わすことは減っていた。

ただ。

部屋の外から気配を感じることだけはあった。


ある夜。

「……リッカ?」

障子の向こうに気配を感じ、葵乃姫が小さく呼ぶ。

返事はない。

だけど。

障子の向こうから、そっと薬草の束が差し入れられた。

思わず笑みが零れる。

「ありがとう」

すると少し間を置いて。

「死ぬな」

小さな声が返ってきた。


また別の日。

「海、見てみたかったわ」

布団の上で葵乃姫がぽつりと呟く。

「……」

「どこまでも続いているのでしょう?」

「……ああ」

「綺麗なのかしら」

「綺麗だ」

葵乃姫は嬉しそうに笑った。

「見たかったな」

その言葉に。

リッカの拳がぎゅっと握られる。


その夜。

月明かりの下。

リッカは一人で空を見上げていた。

守りたいと思った。

初めてだった。

誰かに生きていてほしいと願ったのは。

人は嫌いだった。

何度も裏切られた。

何度も恐れられた。

それでも。

葵乃姫だけは違った。


翌夜。

葵乃姫が目を開くと、そこにリッカが立っていた。

「リッカ……?」

リッカはしばらく黙っていた。

そして。

「以前の話だ」

葵乃姫が目を瞬く。

「……?」

「契約する」

風が止まった。

葵乃姫の目が大きく見開かれる。

「本当に?」

「ああ」

「どうして……」

リッカは答えない。

答えられなかった。

お前に生きていてほしいからだ、など。

口にできるはずもなかった。


「契約には代価が必要だ」

リッカが静かに言う。

「その者が最も大切にしているものを受け取る」

葵乃姫は少し考えた。

そして。

優しく笑った。

「なら」

月明かりの下。

まっすぐリッカを見上げる。

「私の心をあげるわ」

「心?」

「ええ」

葵乃姫は頷いた。

「私が一番大切にしているもの」

そして。

少し照れたように笑う。

「だから」

リッカの手を取る。

「私がいなくなっても」

「私を忘れないで」


月が最も高く昇った夜。

縁側。

葵乃姫とリッカが向かい合う。

「お前は俺に名をくれた」

リッカ。

その名をくれたのは葵乃姫だった。

「だから今度は俺がお前を呼ぶ」

そっと手を差し出す。

「葵乃」

姫が目を見開く。

今まで誰も呼ばなかった名。

姫ではなく、一人の人として。


リッカが葵乃の額に触れる。

すると月明かりのような銀色の光が溢れた。

風が吹く。

木々が揺れる。

遠くで虫が鳴く。


「我が名は月下の妖リッカ」

「我が魂をもって汝を守護する」


葵乃も手を重ねる。


「我が名は葵乃」

「我が心を代価として捧ぐ」

「どうか忘れないで」


その言葉に。

リッカはそっと目を閉じた。


「忘れぬ」

風が止まる。

「お前が死しても」

月明かりが二人を照らす。

「百年の後も」

銀色の光が強くなる。

「千年の後も」

そして。

リッカは初めて、自らに誓った。

「俺はお前を忘れぬ」


その瞬間。

二人の足元に月の紋様が浮かび上がる。

風が渦を巻く。

銀色の光が二人を包んだ。

「契約は成った」


しばらくして。

葵乃が小さく笑う。

「ねぇ、リッカ」

「なんだ」

「もう一度、呼んで?」

リッカは顔を背けた。


「……葵乃」

その声に。

葵乃は嬉しそうに目を細めた。

まるで子供のように。



月だけが、変わらずそこにあった。

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