乾杯はふたりだけの秘密

イヴ

 小さな咳払いが壁越しに伝わってくる。ベッドに入った結衣は、真っ暗な天井を眺め、今日の出来事を思い返していた。
 賢吾が忘年会に参加した理由、感情を荒げた理由、探るような言葉、試すような態度、満足げな表情、そして、新田が賢吾だったということ――
 恋人以外の異性が家に来ることも、ましてや泊まるなんてことは今まで一度も経験がなく、落ち着かない。けれどそれは、何かが起こるかもしれないという緊張や不安ではなく、突然発覚した事実に動揺しているせいだろう。
 少しずつ、あの頃の記憶が蘇ってくる。
 年下のくせにやけに大人びていて、少し生意気な少年だった。
「ねえ、大丈夫?」
 学校帰り、公園のベンチにひとりで座る少年に思わず声を掛けたのは、彼の唇に血が滲み、顔には数ヶ所の傷があったからだ。どこかヤンチャそうに見えたその少年が、賢吾だった。
「え? ああ、大丈夫」
 賢吾はぶっきらぼうに答えた。
「でも、血が出てるよ」
「大丈夫だって言ってんだろ」
 賢吾は眉間に皺を寄せ、露骨に嫌そうな顔をした。それでも放っておくことができず、結衣は半ば無理やり彼を自宅へ連れ帰った。
 傷の手当てを終え、家まで送っていくと言ったが、「いい」とあっさり断られた。けれどその直後、顔を覗き込んできた賢吾は「ありがとう。でもマジで大丈夫だから」と付け加え、はにかみ顔を見せた。
 驚いたのは、賢吾が小学生だと言ったことだった。同い年か、少し上だと思っていたが、実際には三つも下だった。賢吾は、隣町に住む小学六年生だと言い、それから度々近所で見かけるようになり、話をするようになった。
 結衣が高校に入学すると、賢吾は中学生になった。ヤンチャの部類だった彼はあまり学校にも行っていないと言い、近所の公園やコンビニでたむろしているところをよく見かけた。悪さばかりしていてハラハラさせられたことも、一度や二度ではなかったし、両親の離婚で荒れた時期も知っている。けれど、思春期真っ只中だというのに、どこで誰といても必ず「結衣姉」と駆け寄ってくる賢吾は、可愛くて憎めない弟のような存在だった。
 最後に会ったのは、大学受験の前だった。「頑張れよ、結衣」と肩を叩かれた。その頃にはすっかり背丈も追い越され、生意気に「結衣」と呼び捨てする青年になっていた。

 結衣はベッドサイドのスマホに手を伸ばし、時刻を確認した。もうすぐ二時になろうとしていた。普段は寝付きがいいほうだが、ベッドに入ってから一時間近くも経っていた。けれど、まだ眠れそうにない。
 賢吾の気配を感じながら物思いに耽っているうちに、すっかり目が冴えてしまった。結衣は温かい飲み物でも淹れようとベッドを抜け出し、音を立てないように注意しながらキッチンに向かった。直後、布が擦れる音がしてソファのほうを振り返った。
「ごめん。起こした?」
「いえ。喉が渇いてちょうど目が覚めて」
 賢吾がソファから顔を覗かせた。
「何か飲み物入れるね。えーっと……お水かお茶か、スポーツドリンク」
「じゃあ、スポーツドリンクで」
「オッケー」
「わがまま言ってすみません」
「ううん、気にしないで。だって、看病して欲しくてうちに来たんでしょ?」
 思わずそんな言葉を口にすると、賢吾は照れ臭そうに小さく頷いた。
 よほど喉が渇いていたのか、結衣がスポーツドリンクを並々と注いだグラスを手渡すと、賢吾はそれを一気に飲み干した。
「おかわりいる?」
「あー……いえ、今は大丈夫です」
「冷蔵庫、勝手に開けてね。帰りにコンビニで買ったゼリーとかプリンも入ってるから」
「あ、それで帰りにコンビニ寄ってくれたんですか? すみません、ありがとうございます」
 結衣は湯気の立つハーブティーを手に寝室へと戻った。
 本当は、看病してあげたくて連れてきた、というほうが正しいのかもしれない。
 ソファで眠り込んだ賢吾の素の表情や、素直にアイスバッグを額に乗せて目を閉じている様子に庇護欲を掻き立てられた。会社では誰にも見せない弱さを預けられたことで、心を許されたような、密かな満足感を覚えた。
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