乾杯はふたりだけの秘密
早朝、水音で目が覚めて寝室を出ると、キッチンに賢吾の姿があった。
「何してるの?」
「ああ、グラスを洗ってただけです。冷蔵庫のお茶、いただきました」
「ああ、うん」
「着替えたらもう出ますので」
「え?」
結衣はリビングの時計に目をやった。
「まだ六時だよ。どこ行くの?」
「帰るだけです」
「えっ、何もこんな時間に帰らなくたって……。熱はどう? 休みなんだし、ゆっくり寝てなよ」
「熱は多分もう下がってると思います。先輩、予定とかないんですか?」
「ないよ。こんな時間に予定なんてあるわけないじゃん」
ほんの一瞬、賢吾の目に揺らぎが走ったように見えた。
「今日イヴですよ?」
「あ、そういうこと」
「そうです。大丈夫ですか?」
「え、どういう意味? 彼氏いないの知ってるくせに」
結衣は苦笑いを浮かべた。
「そういう意味じゃないですよ。家族とか友達との約束とか……」
「ない。友達はみんな彼氏持ちだし」
「そうですか」
「だから気遣わないでゆっくりしてていいよ」
「あー……えっと、じゃあお言葉に甘えてもう少しだけ」
照れ臭そうに額を掻きながらソファに戻った賢吾は、再び静かに横になった。それを見届け、結衣もベッドに戻った。
休日の特権といえば大袈裟だけれど、満足するまで布団の中で過ごせる贅沢な罪悪感ににやりと笑ってしまう。
布団のぬくもりを心ゆくまで味わった結衣は、八時にはベッドから出て洗濯機を回し、朝食の準備を始めた。賢吾は九時過ぎに起きてきた。
「おはようございます」
「おはよう。ごめん、うるさかった?」
「いえ、ぐっすり眠れました」
無防備な寝癖に、賢吾の思いがけない素顔がのぞく。
「寝癖ついてる」
小声で呟くと、慌てて手のひらで隠そうとする仕草が愛おしくて、自然と笑みがこぼれる。
「ここ座ってて」
「はい」
ダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいた結衣は立ち上がり、キッチンに入った。鍋を火に掛け、さりげなく賢吾に視線を向ける。まだ寝癖を気にしているようだ。
鍋がふつふつと音をたて始めたところで火を止め、薄味の卵粥をお椀に装って賢吾の前に運んだ。
「食べれるだけ食べて、残しても構わないからね」
「ありがとうございます。いただきます」
賢吾は手を合わせ、息を吹き掛けてからゆっくりとれんげを口に運んだ。
「旨っ」
「薄味だけどね」
「優しい味が、すげえ沁みます」
賢吾が心を蕩かす笑顔を向ける。
「こんなに労ってもらえるんだったら、まだしばらく病人のふりしてたいくらいですけど。生憎、熱も下がってまあまあ元気になってしまったので」
後輩のふりは押し通すくせに。
賢吾の言葉はいつも冗談なのか本気なのかわからなくて、返答に困ってしまう。
結衣は向かいに座ってコーヒーを飲みながら、お粥を食べる賢吾の様子を眺めた。パジャマでのんびり過ごすイヴも、相手次第では悪くないなと思い始めていた。
「ご馳走さまでした。俺そろそろ帰りますね」
「ああ、うん」
心の中の勝手な想像が瞬時に打ち消された。
賢吾はスウェットを脱ぐと元のスーツに着替え、帰り支度を始めた。これで、もう引き止める理由はなくなってしまった。
「すげえ汗かいたから、シャワー浴びたいんで」
「そうだよね」
「ありがとうございました」
「ううん。熱が下がって良かった。ゆっくり休んでね」
玄関に向かう賢吾の後ろに着いていく。
「あの……」
不意に賢吾が振り向いた。
「一旦帰って、また後で来てもいいですか、とか言ったら迷惑ですよね?」
「え? あ、ううん、大丈夫。特に予定もないし……一緒にケーキなんか食べちゃう?」
結衣は動揺を隠すために、冗談めかして笑った。
「あー……まだそこまで食欲ないですけど、食べましょうか」
真に受けたように、真面目な返答があった。
「だよね。ごめんごめん」
結衣は自分の軽率な言葉を慌てて否定した。
「でも、一緒に過ごしたいです。駄目ですか?」
賢吾が真っ直ぐな眼差しを向けている。
「ううん。……駄目じゃない」
もう少し気の利いた返答があっただろう。何故「私も一緒にいたい」と素直に言えなかったのだろう、と後悔しても、もう遅い。にも関わらず、賢吾は「じゃあ、また後で」とはにかみ顔を浮かべた。
胸が高鳴る。期待してしまう。
フリーの男女がイヴを一緒に過ごすということは、それはもう――
「何してるの?」
「ああ、グラスを洗ってただけです。冷蔵庫のお茶、いただきました」
「ああ、うん」
「着替えたらもう出ますので」
「え?」
結衣はリビングの時計に目をやった。
「まだ六時だよ。どこ行くの?」
「帰るだけです」
「えっ、何もこんな時間に帰らなくたって……。熱はどう? 休みなんだし、ゆっくり寝てなよ」
「熱は多分もう下がってると思います。先輩、予定とかないんですか?」
「ないよ。こんな時間に予定なんてあるわけないじゃん」
ほんの一瞬、賢吾の目に揺らぎが走ったように見えた。
「今日イヴですよ?」
「あ、そういうこと」
「そうです。大丈夫ですか?」
「え、どういう意味? 彼氏いないの知ってるくせに」
結衣は苦笑いを浮かべた。
「そういう意味じゃないですよ。家族とか友達との約束とか……」
「ない。友達はみんな彼氏持ちだし」
「そうですか」
「だから気遣わないでゆっくりしてていいよ」
「あー……えっと、じゃあお言葉に甘えてもう少しだけ」
照れ臭そうに額を掻きながらソファに戻った賢吾は、再び静かに横になった。それを見届け、結衣もベッドに戻った。
休日の特権といえば大袈裟だけれど、満足するまで布団の中で過ごせる贅沢な罪悪感ににやりと笑ってしまう。
布団のぬくもりを心ゆくまで味わった結衣は、八時にはベッドから出て洗濯機を回し、朝食の準備を始めた。賢吾は九時過ぎに起きてきた。
「おはようございます」
「おはよう。ごめん、うるさかった?」
「いえ、ぐっすり眠れました」
無防備な寝癖に、賢吾の思いがけない素顔がのぞく。
「寝癖ついてる」
小声で呟くと、慌てて手のひらで隠そうとする仕草が愛おしくて、自然と笑みがこぼれる。
「ここ座ってて」
「はい」
ダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいた結衣は立ち上がり、キッチンに入った。鍋を火に掛け、さりげなく賢吾に視線を向ける。まだ寝癖を気にしているようだ。
鍋がふつふつと音をたて始めたところで火を止め、薄味の卵粥をお椀に装って賢吾の前に運んだ。
「食べれるだけ食べて、残しても構わないからね」
「ありがとうございます。いただきます」
賢吾は手を合わせ、息を吹き掛けてからゆっくりとれんげを口に運んだ。
「旨っ」
「薄味だけどね」
「優しい味が、すげえ沁みます」
賢吾が心を蕩かす笑顔を向ける。
「こんなに労ってもらえるんだったら、まだしばらく病人のふりしてたいくらいですけど。生憎、熱も下がってまあまあ元気になってしまったので」
後輩のふりは押し通すくせに。
賢吾の言葉はいつも冗談なのか本気なのかわからなくて、返答に困ってしまう。
結衣は向かいに座ってコーヒーを飲みながら、お粥を食べる賢吾の様子を眺めた。パジャマでのんびり過ごすイヴも、相手次第では悪くないなと思い始めていた。
「ご馳走さまでした。俺そろそろ帰りますね」
「ああ、うん」
心の中の勝手な想像が瞬時に打ち消された。
賢吾はスウェットを脱ぐと元のスーツに着替え、帰り支度を始めた。これで、もう引き止める理由はなくなってしまった。
「すげえ汗かいたから、シャワー浴びたいんで」
「そうだよね」
「ありがとうございました」
「ううん。熱が下がって良かった。ゆっくり休んでね」
玄関に向かう賢吾の後ろに着いていく。
「あの……」
不意に賢吾が振り向いた。
「一旦帰って、また後で来てもいいですか、とか言ったら迷惑ですよね?」
「え? あ、ううん、大丈夫。特に予定もないし……一緒にケーキなんか食べちゃう?」
結衣は動揺を隠すために、冗談めかして笑った。
「あー……まだそこまで食欲ないですけど、食べましょうか」
真に受けたように、真面目な返答があった。
「だよね。ごめんごめん」
結衣は自分の軽率な言葉を慌てて否定した。
「でも、一緒に過ごしたいです。駄目ですか?」
賢吾が真っ直ぐな眼差しを向けている。
「ううん。……駄目じゃない」
もう少し気の利いた返答があっただろう。何故「私も一緒にいたい」と素直に言えなかったのだろう、と後悔しても、もう遅い。にも関わらず、賢吾は「じゃあ、また後で」とはにかみ顔を浮かべた。
胸が高鳴る。期待してしまう。
フリーの男女がイヴを一緒に過ごすということは、それはもう――