乾杯はふたりだけの秘密
「降りますよ」
 と聞こえた時には、バッグと一緒に抱えられていた。
「足元、気を付けてください」
 言われて、結衣は反射的に電車とホームの間を跨いだ。
「ごめん。寝てた」
「マジで一瞬でしたよ」
 新田が可笑しそうに笑う。
「危なっかしいんで家まで送ります」
 後輩にそんなことを言われるなんて。
 それでも結衣は、その申し出を拒むことが出来なかった。
 徒歩五分の距離はあっという間で、マンションの前で「じゃあ、また明日」と言われた時には、名残惜しさで思わず彼の袖を掴んでいた。
「良かったら、コーヒーでも飲んでいって」
「はい、ありがとうございます」
 新田は断ることを知らない人種のようだ。

 はっとして目覚め、無意識にサイドテーブルの上を見た。
「嘘でしょ!?」
 結衣は思わず声を上げた。
《鍵はいつものところに入れておきます。新田》
 あろうことか、また記憶を飛ばしている。時計を見ると午前二時を少し回っていた。
 帰宅したのは十一時過ぎだったはずだ。新田とコーヒーを飲んだことは覚えているが、新田を見送った記憶も、ソファからベッドへ移動した記憶もない。けれど、今回はちゃんと服を着ていて少しほっとした。

 会社で顔を合わせた新田の様子がぎこちなく思えるのは、気のせいではないだろう。さすがに二度目となると、軽蔑の目を向けられても仕方がない。
 食堂で新田を捕まえ、結衣は声を潜めて尋ねた。
「私、寝ちゃった?」
「え、覚えてないんですか?」
 新田は軽蔑とも失望ともとれそうな表情を見せた。
「えっとぉ……何か、ごめんね」
 自分から誘っておいて、かなり失礼なことをしてしまったという自覚はあるが、覚えていないだけに、やんわりとした謝罪になってしまう。けれど、別れ際にもう少し一緒にいたいと思って引き止めたのは本心からだったと、はっきり言える。
「俺はすげえ楽しかったです。また誘ってください」
 それはきっと、憐れみの社交辞令だろう。
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