偽りの贖罪
1
その日は朝から黒く重苦しい雲が空を覆っていた。時折吹く風も湿り気を帯び、昼になる少し前にはついに雨が降り始めた。
「う、ううう、レオン……どうして……どうしてこんなことに、私はこれからどうすればいいの~」
降り出した雨が屋根を叩く音にも負けず、牧師の祈りの言葉をかき消す勢いで、嘆き悲しむ女性の声が教会の中に響く。
彼女は周りのことなど一切気にせず、ただ閉ざされた棺に縋り付いて泣き崩れていた。
そんな彼女を見て、弔問に訪れた人々はヒソヒソと囁きあう。
「あれが……」
「噂には聞いていたが……」
「イパール卿も何を考えて……」
「まるであっちが正妻みたいだ」
「どういう神経をしているのかしら」
「気の毒にな」
そう囁きながら人々が注目するのは、棺の傍らに立つもう一人の女性の後ろ姿。
すっと背筋を伸ばし、真っ直ぐに前を向いて凛と立つ彼女は、ただ静かにその場に佇んでいた。その後ろ姿からは、何の感情も読み取れない。
「あっちは泣いているのか?」
「泣き崩れているのが愛人で、立っているのが正妻……地獄絵図だな」
そして人々は蓋をされた棺に視線を移す。
そこに収められているのは、レオン・イパールの遺体の筈。しかし、本来開けられている筈の棺の蓋はぴったり閉じられ、その顔を見ることはできない。
「奥方と愛人は遺体を見たのだろう?」
「そうらしい。愛人の方は悲鳴も上げず、そのまま白目をむいて卒倒したと聞いた」
「銃の暴発だったか? 顔は見分けがつかないくらいぐちゃぐちゃで、腕は千切れ飛んでいたらしい」
「ひええ、恐ろしい……しかし、どうして暴発なんて? 武器の管理はどうなっているんだ。まさか粗悪品」
「いやいや、軍の関係者の話じゃ、本人の点検不備だとか……」
「じゃあ、自業自得か?」
「イパール卿なら有り得そうだな。昔からめんどくさがりで、サボることも多かったしな」
「しかし軍人としては、恥ずかしい死に方だな。しかも顔だけが自慢だったのに、その顔が吹っ飛んだんだから……」
「違いない」
そんな人々の野次馬的な囁きを聞いているクリステルの心は、完全に無だった。
彼らの噂話の殆どは間違っていない。
亡くなった夫のレオンは、本当に見た目だけが人より勝っているだけで、その他は人並み。努力するのが嫌いで、自己顕示欲とプライドは人一倍高かった。自分の至らなさを棚に上げ、自分の評価が上がらないのは周りの見る目がないからだと溢していた。
自分の耳に心地よいことを言ってくる者を重宝し、耳の痛いことを言う者を疎ましく思い遠ざける。
その結果、金銭的に何度も騙され家計は火の車だった。
そのうえ愛人まで囲う始末。
当然軍での給料だけでは家計は足らず、クリステルの父が遺した遺産は、どんどん減る一方だった。
そのことで苦言を口にすると、容赦なくクリステルを叩き、始末におえなかった。
そんな夫が死んで、何を悲しめばいいというのだろうか。
何もせず、ただ己の感情のままに棺に縋り付いて泣く夫の愛人、ユーミア。
故人への悼みなど欠片もなく、義務と好奇心で訪れた弔問客の噂話。
そして面倒事だけを起こし、後始末だけを押し付けこの世を去った夫、レオン。
本当は葬儀も何もかも、すべて放棄してしまいたかった。
これまで自分こそが正妻だとばかりに振る舞ってきたくせに、ユーミアは愛する人を失った憐れな境遇を悲観するばかりで、何もかもをクリステルに押し付けた。
(もしあの時、あの場所に行かなかったら……)
レオンと結婚して三年余り。
クリステルはずっと後悔してきた。
彼と結婚することを、二年前に亡くなったクリステルの父は最後まで心配していた。しかし、結局は娘の希望を尊重してくれた。
世間知らずで、レオンのことを上辺だけで判断していたクリステルは、そんな父の心配を一人娘を手放したくない故のことだと思っていた。
あとになって考えれば、クリステルに父の思いについて彼女に言ったのもレオンだった。
父は知っていたのだ。レオン・イパールという人物がどんな人間かを。
それでも男手一つで育てた娘の意思を汲み、最後に何許してくれた。
結婚後暫くは、レオンも優しかった。
そんなレオンに、クリステルはすっかり騙されていた。
彼は世間体のいい妻がほしかっただけだったのに。
(お父様)
夫の死には涙の一粒も流れなかったのに、父のことを思うと、未だに涙が込み上げてくる。
クリステルの父も、レオンと同じ軍人だった。
一年の半分は家を空けていて、クリステルが物心ついた時には、いつも母と二人だった。
それでも家にいる時は思い切り甘やかしてくれて、娘にデレデレで、まるで下僕だと母が揶揄っていたのを覚えている。
その母は、クリステルが六歳の時に亡くなった。
その日、父は遠征に出ていていなかった。クリステルは母親と手を繋いで、いつものように買い物に出かけた。
その時、横を通った馬車が荷台に積んだ荷物を固定していた縄が切れ、母とクリステルの方へ倒れてきた。
咄嗟に母がクリステルを突き飛ばしたので、彼女は下敷きにならずに済んだが、母は荷物の下敷きになり命を落とした。
クリステルも命に別状はなかったものの、転んだ時に石畳の石で右肩から肘にかけて傷ができ、それは一生消えることがないと言われた。
妻を亡くした父は娘のために一線を退き、代わりに士官学校の教員として働くことになった。
一線でまだまだ働きたかっただろう父に申し訳ない気持ちもあったが、毎日決まった時間に帰ってきてくれるのは嬉しかった。
レオンは士官学校での、父の教え子の一人だ。
男爵家の次男で、家を継ぐことができないため、仕方なく軍に入ったのだと言っていた。
整った顔だちに、明るい亜麻色の髪、晴れ渡った空のような青い瞳の彼は、確かに年頃の娘にとっては素敵な王子様に見えたかもしれない。
士官学校の訓練生を見るために公開練習の日には、大勢の年頃の娘達が押し寄せた。
クリステルも何度か父に会うため、公開練習の日には士官学校を訪れたが、彼女が目を留めたのはレオンとは別の人物だった。
「う、ううう、レオン……どうして……どうしてこんなことに、私はこれからどうすればいいの~」
降り出した雨が屋根を叩く音にも負けず、牧師の祈りの言葉をかき消す勢いで、嘆き悲しむ女性の声が教会の中に響く。
彼女は周りのことなど一切気にせず、ただ閉ざされた棺に縋り付いて泣き崩れていた。
そんな彼女を見て、弔問に訪れた人々はヒソヒソと囁きあう。
「あれが……」
「噂には聞いていたが……」
「イパール卿も何を考えて……」
「まるであっちが正妻みたいだ」
「どういう神経をしているのかしら」
「気の毒にな」
そう囁きながら人々が注目するのは、棺の傍らに立つもう一人の女性の後ろ姿。
すっと背筋を伸ばし、真っ直ぐに前を向いて凛と立つ彼女は、ただ静かにその場に佇んでいた。その後ろ姿からは、何の感情も読み取れない。
「あっちは泣いているのか?」
「泣き崩れているのが愛人で、立っているのが正妻……地獄絵図だな」
そして人々は蓋をされた棺に視線を移す。
そこに収められているのは、レオン・イパールの遺体の筈。しかし、本来開けられている筈の棺の蓋はぴったり閉じられ、その顔を見ることはできない。
「奥方と愛人は遺体を見たのだろう?」
「そうらしい。愛人の方は悲鳴も上げず、そのまま白目をむいて卒倒したと聞いた」
「銃の暴発だったか? 顔は見分けがつかないくらいぐちゃぐちゃで、腕は千切れ飛んでいたらしい」
「ひええ、恐ろしい……しかし、どうして暴発なんて? 武器の管理はどうなっているんだ。まさか粗悪品」
「いやいや、軍の関係者の話じゃ、本人の点検不備だとか……」
「じゃあ、自業自得か?」
「イパール卿なら有り得そうだな。昔からめんどくさがりで、サボることも多かったしな」
「しかし軍人としては、恥ずかしい死に方だな。しかも顔だけが自慢だったのに、その顔が吹っ飛んだんだから……」
「違いない」
そんな人々の野次馬的な囁きを聞いているクリステルの心は、完全に無だった。
彼らの噂話の殆どは間違っていない。
亡くなった夫のレオンは、本当に見た目だけが人より勝っているだけで、その他は人並み。努力するのが嫌いで、自己顕示欲とプライドは人一倍高かった。自分の至らなさを棚に上げ、自分の評価が上がらないのは周りの見る目がないからだと溢していた。
自分の耳に心地よいことを言ってくる者を重宝し、耳の痛いことを言う者を疎ましく思い遠ざける。
その結果、金銭的に何度も騙され家計は火の車だった。
そのうえ愛人まで囲う始末。
当然軍での給料だけでは家計は足らず、クリステルの父が遺した遺産は、どんどん減る一方だった。
そのことで苦言を口にすると、容赦なくクリステルを叩き、始末におえなかった。
そんな夫が死んで、何を悲しめばいいというのだろうか。
何もせず、ただ己の感情のままに棺に縋り付いて泣く夫の愛人、ユーミア。
故人への悼みなど欠片もなく、義務と好奇心で訪れた弔問客の噂話。
そして面倒事だけを起こし、後始末だけを押し付けこの世を去った夫、レオン。
本当は葬儀も何もかも、すべて放棄してしまいたかった。
これまで自分こそが正妻だとばかりに振る舞ってきたくせに、ユーミアは愛する人を失った憐れな境遇を悲観するばかりで、何もかもをクリステルに押し付けた。
(もしあの時、あの場所に行かなかったら……)
レオンと結婚して三年余り。
クリステルはずっと後悔してきた。
彼と結婚することを、二年前に亡くなったクリステルの父は最後まで心配していた。しかし、結局は娘の希望を尊重してくれた。
世間知らずで、レオンのことを上辺だけで判断していたクリステルは、そんな父の心配を一人娘を手放したくない故のことだと思っていた。
あとになって考えれば、クリステルに父の思いについて彼女に言ったのもレオンだった。
父は知っていたのだ。レオン・イパールという人物がどんな人間かを。
それでも男手一つで育てた娘の意思を汲み、最後に何許してくれた。
結婚後暫くは、レオンも優しかった。
そんなレオンに、クリステルはすっかり騙されていた。
彼は世間体のいい妻がほしかっただけだったのに。
(お父様)
夫の死には涙の一粒も流れなかったのに、父のことを思うと、未だに涙が込み上げてくる。
クリステルの父も、レオンと同じ軍人だった。
一年の半分は家を空けていて、クリステルが物心ついた時には、いつも母と二人だった。
それでも家にいる時は思い切り甘やかしてくれて、娘にデレデレで、まるで下僕だと母が揶揄っていたのを覚えている。
その母は、クリステルが六歳の時に亡くなった。
その日、父は遠征に出ていていなかった。クリステルは母親と手を繋いで、いつものように買い物に出かけた。
その時、横を通った馬車が荷台に積んだ荷物を固定していた縄が切れ、母とクリステルの方へ倒れてきた。
咄嗟に母がクリステルを突き飛ばしたので、彼女は下敷きにならずに済んだが、母は荷物の下敷きになり命を落とした。
クリステルも命に別状はなかったものの、転んだ時に石畳の石で右肩から肘にかけて傷ができ、それは一生消えることがないと言われた。
妻を亡くした父は娘のために一線を退き、代わりに士官学校の教員として働くことになった。
一線でまだまだ働きたかっただろう父に申し訳ない気持ちもあったが、毎日決まった時間に帰ってきてくれるのは嬉しかった。
レオンは士官学校での、父の教え子の一人だ。
男爵家の次男で、家を継ぐことができないため、仕方なく軍に入ったのだと言っていた。
整った顔だちに、明るい亜麻色の髪、晴れ渡った空のような青い瞳の彼は、確かに年頃の娘にとっては素敵な王子様に見えたかもしれない。
士官学校の訓練生を見るために公開練習の日には、大勢の年頃の娘達が押し寄せた。
クリステルも何度か父に会うため、公開練習の日には士官学校を訪れたが、彼女が目を留めたのはレオンとは別の人物だった。