傷物だと国を追い出された私、獣人の国の皇弟殿下が「君は世界一美しい」と溺愛して離してくれません!?
第1話 傷モノ王女

 目が覚めると、いつも決まって右腕が痛い気がする。

 気がする、というのは正確ではないかもしれない。実際には負っていた傷はとっくに塞がっていて、侍医にも『これ以上は何をしても変わらない』と告げられて久しい。
 痛みなどというものはもう、とっくに消えている。

 それでも、朝の薄明かりの中で目を開くたびにリネットは決まって右腕に意識がいった。手首から肩、そして鎖骨のあたりまで走る白い筋を、視線ではなく感覚で辿る。そこにあることを確かめるように。そこにあることを、思い知るように。

 起き上がった。寝台の脇に畳んで置いてあった上着を引き寄せ、まず右腕を通す。それからゆっくりと立ち上がり、窓辺に近づく。

 エルフェリア聖国の夜明けは、いつものように今日も白かった。

 北の大陸に鎮座する聖山から流れ出す清らかな魔力が、国全体を薄い光で包んでいる。石畳も、白い壁も、川の水面も、全部が静かに輝いている。眩しいのに温かくはない。美しいのに、どこか遠い。

 窓の外に目をやれば、手入れの行き届いた庭が見えた。この屋敷の庭師が几帳面な人で、冬の間も枯れ枝をきちんと剪定し、春になれば清楚な白い花を咲かせる低木が並ぶ。
 王城に建つこの屋敷は、離宮と呼ばれるお屋敷だ。広すぎも狭すぎもしない、こじんまりとした構えだ。

 私――リネット・エルフェリアにとって、この二年近くの間、ここが、この屋敷の中が私の世界のすべてだった。



  ***
 

 身支度を整えて階下に降りると、食堂には既にメアリーがいた。

「おはようございます、リネット様。今朝は少し冷えますね」

 栗色の巻き毛に、くりくりとした茶色の目が特徴の侍女はテーブルに紅茶のカップを置きながら振り返った。二十一歳の彼女は、リネットより二つ年上だ。

「おはよう、メアリー」

「今日はカモミールにいたしました。最近少し眠れていないみたいですから……」

 メアリーはちらりとリネットの目の下を見た。何も言わなかったが、言わないことが逆に多くを語っている。よく私を見てくれているなぁって思う。

 リネットは席について、差し出されたカップを両手で包むように持った。湯気が頬に当たる。甘やかな香りが鼻を抜けていった。

「ありがとう、メアリー」

「いえ。……それからセリオ様が今朝早く市場に行って新鮮な卵が手に入ったらしいです。今朝はスクランブルエッグだと言っていました。召し上がりますか?」

「うん……少しだけ」

「わかりました、朝食の準備をしてきます」

 メアリーがそう言って食堂を出て行った。リネットは小さく苦笑をする。

 食堂の窓から庭が見えて朝の光の中に、風は吹いていないのに白い花がいくつか揺れている。

 あっ――いる。

 リネットは気づいて、目を細めた。

 花の間に、小さな光の粒がいくつか漂っている。人の目には何も映らないだろう。だが、リネットにはそれが見えた。丸くて柔らかく輝く粒が、白い花びらの上をころころと転がっては跳ね、お互いにぶつかって小さく弾けている。

 精霊だ。

 子供のような大きさの、水の精霊と風の精霊が三体ずつ、朝の庭で遊んでいる。リネットが窓越しに視線を向けると、気づいた一体が明るく輝いた。仲間に知らせようとしているのが、なんとなくわかる。

 リネットは唇の端を小さく持ち上げた。

(みんな、おはよう)

 声には出さなかった。声に出す必要もなかった。視線と、わずかな意識の向け方で、精霊たちにはそれが届くようだった。ぱあっと全員が輝きを増して、ぐるぐると円を描き始める。

 こうして精霊が見えることを、リネットは誰にも話したことがない。

 話したことがない、というより、話す相手がいなかった。そして以前は、これが当たり前のことだと思っていた。精霊が見えるのは、自分だけではないと。誰も話題にしないのは、あまりにも日常すぎるからだと、長い間そう思っていた。

 だが、皆とは違うことに気づいたのは十四のころだ。話の流れで精霊の話を口にしたら、一緒にいた女官が奇妙な顔をした。『王女殿下は精霊がお見えになるのですか』

 ……と、まるでとんでもないことを聞いたような声音で。

 そこでやっと、わかった。

 見える人間と、見えない人間がいる。そして見える人間のほうが、ずっと少ない。

 以来、黙っていることにした。ただでさえ、自分には後ろ盾がない。母の身分は低く、王女でありながら王位継承権もない。余計なことを言って目立つ必要はなかった。

 そんなことを考えていたらスクランブルエッグと焼いたパンが運ばれてきた。いい匂いがする。美味しそうだと思うのに、フォークを手に取り、一口ではなく、舐めた程度だ。

 メアリーの言う通り、少しだけにはならなかった。



    ***
 

 朝食を終えてから、リネットは書庫に向かった。

 この屋敷の書庫は、前の住人が熱心な読書家だったらしく、壁一面に本が並んでいる。歴史書、地理書、魔術の理論書、植物図鑑、料理の本、航海記録。リネットは一年半でそのほとんどを読んだ。

 今日手に取ったのは、カスティラン帝国についての地理書だった。

 薄い本だった。エルフェリアの書庫にある帝国関連の書物は総じて少なく、内容も古かった。

【獣人の国。荒野多し。多種族が共生する。軍事力強大】

 この程度のことしか書いていない。まるで興味がないように。あるいは、知りたいとも思わないように。

 リネットは椅子に深く座り、読み進めた。

 帝国の首都はカスティラン・ノヴァ。黒曜石と金で作られた重厚な都市。南東の大陸に位置し、気候は温暖。多種族が共生し、実力主義が徹底されている――。

 ふと、目が止まった。

  “誰かを守るために負った傷は【誉れ】と呼ばれ、最大の名誉とされる。”

 何度読んでも、信じがたい一文だった。

 リネットは視線を落として、右腕を見た。長袖越しでも、その下に何があるかはわかる。手首から始まって肩まで、そして鎖骨のあたりまで続く傷跡。

 誉れ、なんて……

 その言葉を声に出してみようとして、やめた。喉の奥でかすかに息が詰まった。

 二年前の春のことを、忘れたくて、忘れられずにいる。

 あれは王家主催のパーティーへ向かう馬車の中だった。夕方の、柔らかな光の中だった。隣に座っていた婚約者のセドリック様は、髪が乱れないように気にしながら窓の外を眺めていた。リネットは手袋が少し緩んでいるのを直していた。それだけの、何でもない瞬間だった。

 馬車が突然止まった。

 御者の悲鳴が聞こえ、ドアが外から叩かれ――それから。

 リネットの記憶は、そこから先がひどく断片的だ。セドリックが何か叫んでいた。ドアが開かれた。人影があった。光が走った。

 気がついたら、右腕が熱かった。

 後から聞かされた話では、セドリックは馬車の反対側のドアから先に逃げ出したらしい。リネットが庇った形になったのは、『偶然そういう位置にいたためです』とオルブライト公爵家の弁護士は言った。
 セドリック本人は、それについて何も語らなかった。

 その後、婚約は白紙になった。

 白紙、という言葉が使われた。破棄ではなく、白紙。
 なかったことにする、という意味だ。リネットのほうに落ち度があったわけではないが【純潔維持法】という法律がある。王族と貴族は精霊に愛される容姿でなければならない。傷を負った者は、精霊の加護を失ったとみなされ、公的な場に出ることを禁じられる。

 そうして傷物王女、とすぐに呼ばれるようになった。

 最初に言ったのは誰だったか、もう覚えていない。気がついたら、それがリネットの名前になっていた。


 昼近くになって、庭に出た。

 冬の終わりかけの空気は、まだ少し冷たかった。白い花が咲く低木の間を、ゆっくりと歩く。庭師の姿は今日はなかった。リネットの他に人はいない。

 足元に気配があった。

 見下ろすと、草の間から小さな光が顔を出していた。今朝の精霊だった。丸くて柔らかく、花びらのような形をした水の精霊。昼間に近づいてくることは珍しかった。

「どうしたの?」

 呟くと、精霊が揺れた。嬉しそうな、というより、何か伝えたいような揺れ方だった。

「何かあった?」

 精霊は言葉を持たない。だが、感情は伝わってくる。この精霊は今、少し落ち着かなそうにしていた。そわそわとした、期待と不安が混じったような気配。

「わからないな」

 リネットはしゃがんで、精霊と目線を合わせた。精霊が近づいてきて、リネットの手の甲に触れた。ひんやりとした感触。それからゆっくりと、遠くを示すように揺れた。

 遠くへ、行くの?

 そんな言葉が、頭の中に浮かんだ気がした。精霊がそう言ったわけではない。ただ、そんな雰囲気だった。

「遠く?」

 リネットはその言葉を反芻した。

 わからなかった。自分には、これといって行く場所がない。この屋敷から出ることも、しばらくは許されていない。純潔維持法に抵触したリネットには、公的な場への立ち入りが禁じられている。
 社交界にも出られず、王城にも近づけず、王都の外れのこの屋敷で、日々をただ過ごしている。

「私には、どこにも行けないわ」

 つぶやくと、精霊が小さく揺れた。否定するように。あるいは、それでも伝えたいことがあるように。

「……ごめんね、よくわからなくて」

 リネットは立ち上がった。精霊が名残惜しそうに後を追ってくる。

 空を見上げると、聖山の頂上が白く光っていた。晴れた日はいつも、あの光が国中に降り注いでいる。この国は美しい。本当に、美しい国だ。

 ただ、美しい国が美しくあり続けるためには、美しくないものは消えていなければならない。

 それがここの理屈だった。


  ***
 

 ある日の午後、手紙が届いた。

 メアリーが少し緊張した顔で持ってきた。王家の紋章が入った封蝋だった。

「父王から、ですか」

「そのようです。私は席を外しましょうか」

「いいえ、ここにいて」

 リネットはそう言って、封を開けた。

 読み始めて、数行で手が止まった。

 もう一度、最初から読んだ。

 三度目を読み終えた時、リネットはゆっくりと手紙をテーブルに置いた。

「リネット様、どうなさいましたか」

 メアリーが心配そうに覗き込んでくる。

「私に縁談、だそうです」

「縁談、ですか?」

「お相手は……カスティラン帝国の皇弟殿下。アーク・カスティラン・グレイフォートという方との。船で七日かかる国だそうです」

 声は、自分でも驚くほど平坦だった。

 カスティラン帝国。さっきまで読んでいた地理書に書いてあった国だった。獣人が多い、多種族共生の大国。エルフェリアからは海を渡って七日かかる、遠い場所。

 皇弟ということは、皇帝の弟ということだ。そんな方が私と?

 信じられなくてリネットはもう一度、手紙を見た。父王の手は几帳面な字を書く人だった。この手紙も綺麗で簡潔に書かれている。もう、美しさのかけらもない私は要なしだと言うように。
 そして【この縁談は帝国からの申し出であり、我が国にとっても有益である。返事は七日以内に】と書いてあった。

 断ってもいい、とは書いていなかった。

 リネットは手紙を折り畳んだ。断れない、と直感で分かった。傷物王女と呼ばれ、社交界からも弾き出され、屋敷に引きこもっているリネットには、断るための力も立場もない。断れば、国に何の益ももたらさないただの厄介者のままだ。

「……遠いですね」

「ええ」

「怖いですか?」

 リネットは少し考えた。

「怖い、というより」

 言葉を探した。怖いかどうか、と問われれば、確かに怖い。知らない国、知らない人、知らない常識。何もかもが未知だ。だが怖さよりも先に感じていたのは、もっとうまく言葉にならない何かだった。

「……ここを出ていいのか、わからないんです」

「え?」

「私がここにいなくなっても、誰も困らないと思うんですが。それでも、ここを出ていいのか。許されるのかどうか、わからなくて」

 メアリーが何も言わなかった。

 少しの沈黙があって、メアリーが「リネット様」と言った。続く言葉を探しているような間があった。それから、メアリーは静かに「どんな場所であっても、リネット様には幸せになる権利があると私は思っています」と言った。

 リネットはその言葉を、すぐには受け取れなかった。

 幸せ、という言葉が、ひどく遠く聞こえた。


 夜になった。

 リネットは書庫に戻って、カスティランの地理書をもう一度開いた。今度は別の目で読んだ。どんな国か。どんな文化か。自分が嫁いでいくかもしれない場所として。

 *誰かを守るために負った傷は【誉れ】と呼ばれ、最大の名誉とされる。*

 もう一度、その一文を読んだ。

 もし本当なら、と思った。

 もしその通りなら、この傷は、あの国では何かに変わるのだろうか。

 すぐに打ち消した。本の記述が正しいとは限らない。古い書物かもしれない。そもそも、外国から嫁いできた王女が、その国の価値観にそのまま溶け込めるとも思えない。

 だが、一文は頭の中に残り続けた。

 窓の外に目をやると、庭に精霊たちの光が見えた。夜になっても何体かがそこにいる。昼間よりも落ち着いた様子で、ゆっくりと揺れている。

 その中の一体が、またこちらを見ていた。

 遠くへ行くの、と問いたげに。

「……わからない」

 リネットはそっと呟いた。


「でも、行くことになるかもしれない」

 精霊が揺れた。明るく、どこか嬉しそうに。

 リネットには、その反応の意味がわからなかった。遠くへ行くことの何が嬉しいのか、精霊たちには分かることなのかもしれない。だが自分には、まだわからない。

 右腕に触れた。長袖越しに、傷の位置を確かめるように。

 七日後には返事を出さなければならない。

 七日間の猶予は、返事を考えるためではなく、おそらく輿入れの準備をするためのものだとリネットは薄々感じていた。

 手紙を折り畳んだ時から、もう、行くことは決まっているのかもしれなかった。

 リネットはカーテンを引いて、寝台に横になった。

 眠れない夜が続いていた。メアリーが今朝カモミールを選んでくれたのも、そのためだろう。気づかれていた。何も言わずに気遣ってくれていた。

 セドリックのことを考えた。二年前まで、あの人が自分の婚約者だった。優しかった。完璧だった。側にいてくれた。愛されていると思っていた。それが、あの夜を境に全部変わった。あるいは、変わったのではなく、始めからそうだったのかもしれなかった。

 

『幸せになる権利がある、と私は思っています』

 
 メアリーの声が、耳の奥で繰り返した。

 リネットはその言葉の意味を、まだうまく受け取れないでいた。幸せというものがどんなものかを、正確には知らなかった。自分にそれを受け取る資格があるのかも、わからなかった。

 ただ、精霊たちが今夜、庭でたくさん集まっていた。

 それだけが、少しだけ、不思議と温かかった。
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