傷物だと国を追い出された私、獣人の国の皇弟殿下が「君は世界一美しい」と溺愛して離してくれません!?
第2話 命令という名の縁切り
翌朝になり、兄であるルーファス王太子が来た。
朝食を終えてすぐだった。食堂の窓から白い馬車が門をくぐるのが見えて、リネットはカップを置いた。王家の紋章が入った馬車を、この屋敷に迎えるのはいつぶりだろう。
一年以上、誰も訪ねてこなかった。弟や妹たちが何度か使者をよこしたことはあったが、リネットはすべて断ってきた。今更何を言いに来るのか、想像するだけで疲れてしまったから。
「リネット様、王太子殿下がいらしています」
メアリーが早足で食堂に入ってきた。その顔に緊張が浮かんでいる。
「わかったわ」
リネットは立ち上がった。昨日の手紙を受け取ってから、これが来るだろうとは予感していた。父王は手紙を寄越した。ならば次は王太子が直接やってきて、有無を言わせない流れに持ち込む。そういう動き方をする家だった。
応接室に向かいながら、リネットは呼吸を整えた。
扉を開けると、窓際に立って庭を眺めているルーファスがいた。金の髪が朝の光を受けて淡く輝いている。肩幅の広い後ろ姿は、父王よりも体格がいい。振り返った顔は整っていて、エルフェリアの王族らしく白く澄んでいた。青い目が、まっすぐにリネットを見た。
「ルーファス王太子殿下。お越しいただき光栄に存じます」
リネットは礼をとった。
「堅苦しいことはいい」
ルーファスは言った。声は、低くて落ち着いていた。
「座れ、リネット」
名前だけで呼ばれた。リネットはソファに腰を下ろした。向かいにルーファスが座る。しばらくの沈黙があった。ルーファスはリネットをただ見ていた。何かを測るように、あるいは探るように。
「手紙は読んだな」
「はい」
「返事は」
「まだ、出しておりません」
ルーファスの目が細くなった。
「断るつもりか」
リネットは少し間を置いた。
断れるとは思っていない、と正直に答えるべきか、別の言い方をすべきか。考えている間に、ルーファスが先に口を開いた。
「あなたは今となっては穀潰しだ」
言葉は、静かだった。怒鳴るわけでも、嘲るわけでもなく。ただ、そう述べているだけの声音だった。それがかえって、言葉を余分に重くした。
「何の役にも立たない。引きこもっていても生活するのに国家から金を出している。とても面倒だ」
リネットは俯かなかった。俯くまいと思ったわけではないが、視線はルーファスの方に向けたままだった。
「だが、王の血を引く者だ。だから王女として嫁げ。あちらは獣の国だが、リネットのその傷も受け入れられる」
ルーファスが立ち上がった。近づいてくる足音がした。リネットの正面に立ったルーファスが、片手を伸ばしてくる。顎に触れた。
指先が、顎の下に添えられ、静かに上向かせた。
「これは命令だ」
真上から、青い目が見下ろしていた。
リネットはその目を見つめた。王太子の目だった。感情が映っていない、と思った。いや、正確には感情を映さないようにしている、という目だった。その二つは、似ているが違う。
リネットには、断る言葉がなかった。
断れる立場でないことも、断った先に何も残らないことも、わかっていた。傷物王女と呼ばれて二年。王位継承権もなく、後ろ盾もなく、純潔維持法に引っかかって社交界からも排除されているリネットには、命令に逆らえるだけの何もなかった。
「……承知いたしました」
絞り出した声は、思ったよりも掠れていた。
ルーファスの手が離れた。
それだけだった。それ以上は何も言わずに、ルーファスは踵を返した。扉に向かう足音。
扉に手をかけたところで、ルーファスが一度だけ立ち止まった。
振り返りはしなかった。背中を向けたまま、少しだけ動きが止まった。それは一瞬のことで、すぐに扉が開いて、ルーファスは出て行った。
リネットはそのまましばらく、扉を見ていた。
あの一瞬が何だったのか、わからなかった。考える前に、考えるのをやめた。考えても何にもならないことを、この二年でよく学んでいた。
***
それから三日後、リネットは王城に移った。
輿入れの準備を城でするようにという指示だった。王女として必要な礼服や嫁入り道具の確認、帝国への引き継ぎ書類の整理。そういった手続きは王城でなければできない。
久しぶりに城の中を歩いた。
石造りの廊下は白く清潔で、光が当たるとわずかに輝いた。朝の時間帯は貴族たちや官吏たちが行き交い、廊下はそれなりに人通りがある。リネットはその中を、俯かずに歩いた。俯いたら余計に気づかれる、というのも二年で学んだことのひとつだった。
それでも気づく者はいた。
通り過ぎる際に、ひそひそとした声が聞こえた。
「傷物王女がまだいたのか」
リネットは歩みを止めなかった。
「陛下も困ったものね。もう二年も国のお金を使わせているのでしょう?」
「帝国に厄介払いできて丁度よかったんじゃないの」
声は後ろに流れていった。
リネットは廊下の角を曲がった。声が届かなくなった。
心が動いたかと言われれば、正直なところ、よくわからなかった。傷ついた、という感覚を、リネットはもうあまり持てなくなっていた。二年間、ずっとこうだったから。
最初のころは確かに痛かった。夜に泣いたこともあった。だが同じ言葉を何度も何度も浴びていると、そのうち言葉が意味を失い始める。ただの音に変わる。音は刺さらない。
それが良いことなのか悪いことなのか、リネットにはわからなかった。
ドレスの採寸は半日かかった。
カスティラン帝国の気候に合わせた素材を、と指示された衣装係が困惑していた。帝国の気候についての情報が少ないから、と言い訳をしながらも、手際よく採寸を進めた。リネットは指示された通りに腕を広げ、向きを変えた。
採寸の途中、衣装係の若い女官が右腕の採寸をする際に、一瞬だけ動きを止めた。長袖の裾が少しだけずれて、手首の傷跡が覗いた。女官はすぐに目を伏せて、何も言わずに採寸を続けた。
リネットも何も言わなかった。
帝国向けのドレスは、エルフェリアのものより袖が短い、と衣装係が言った。そのため傷を隠しにくいかもしれない、と続けた。リネットは「わかりました」と答えた。
帝国では、傷は誉れだと地理書に書いてあった。
本当ならいい、とまた思った。本当かどうかはまだわからないけれど。
城に移って四日目の午後、リネットはメアリーを呼んだ。
自室の窓際に立って、中庭を見下ろしていた。城の中庭は手入れが行き届いていて、白い石畳に整然と植えられた低木が並んでいる。精霊の姿は、ここには少なかった。王城は人が多すぎるのか、精霊たちはあまり近づかない。
「リネット様、お呼びでしょうか」
メアリーが入ってきた。
「座って」
リネットは自分もソファに腰を下ろした。テーブルの上に、革の袋を置いた。
メアリーが袋を見た。中でじゃらりと音がした。
「これは……」
「金貨です」
リネットはまっすぐにメアリーを見た。
「あなたには婚約者がいる。レインズワーズ家のご子息と、来年には婚礼をあげると言っていたでしょう? それを知っていながら今まで何も言わなかったのは、私が情けなかったから。ごめんなさい」
「リネット様、それは」
「あなたは、一緒に帝国に来なくていいわ」
メアリーが口を開こうとした。リネットは続けた。
「セリオにも同じことを伝えます。二人とも、ここで生活していけるだけのものはお渡しします。エルフェリアに家族も婚約者もいるのに、見知らぬ国まで来る必要はない。あなたたちには、あなたたちの人生があります」
静かな声で言えた。それは、この二年間で磨いた技術だった。感情を外に出さずに話す技術。そうしないと、声が震えてしまうから。
メアリーはしばらく黙っていた。
リネットは視線をテーブルの上の袋に向けた。ここ二年間、自分が使うあてのなかったものを少しずつ貯めていた。衣服代として支給されていた金を、衣服をほとんど買わずにいたから、思いのほか貯まっていた。
「……リネット様は」
メアリーがゆっくりと口を開いた。声が、いつもより低かった。
「二年間、私がここにいたのは、陛下から命じられていたからだと思っていらっしゃいますか」
リネットは顔を上げた。
「私は自分で選んでここにいました。最初は確かに侍女として配属されましたが、あの後王宮から異動の話が来た時、私が断ったんです。リネット様のそばにいたかったから」
リネットはすぐには言葉が出なかった。
「でも、婚約者が」
「ギルバートには話しています。リネット様のことを話したら、理解してくれました。それに」
メアリーが少し顔を赤くした。
「ギルバートも、世界を見て回りたいと以前から言っていましたし。帝国に行くなら、むしろ喜ぶんじゃないかなと私は思っています」
「……それは、私には決められない」
「そうですね。でも」
メアリーが、テーブルの上の袋に手をそっと置いた。
「このお金は、ありがたくいただきます。でも使い道は私が決めていいですか」
リネットは少し迷ってから「いいですよ」と言った。
メアリーが「ありがとうございます」と言いながら立ち上がった。何か決意したような顔をしていた。
セリオへの話は、もっと短かった。
廊下で呼び止めて、同じことを伝えた。セリオは二十四歳で、騎士家の出身の寡黙な護衛だった。リネットの言葉をすべて聞いてから「承知しました」と言った。金貨を受け取り、一礼して立ち去った。
その夜、リネットは一人で荷物をまとめた。
持っていくものは多くなかった。帝国でのドレスは王城で用意されていたから、私物は着替えと、いくつかの本と、母の形見の小さなブローチだけだ。
箱に本を積みながら、リネットは書名を確認した。歴史書。植物図鑑。カスティラン帝国の地理書。帝国の言語が載っている辞典。この二年で読んだ本のうち、帝国で役に立ちそうなものを選んだ。
もし本当に傷が誉れとされる国なら。
もし本当に、白い目で見られないなら。
だとしたら、自分はそこで何ができるだろう、とリネットは考えた。今までは何もできないのだと思い続けてきた。王女としての公務もなく、後ろ盾もなく、婚約者もなく、できることといえば本を読むことくらいだった。
だが帝国に行けば、少なくとも今よりは動けるかもしれない。
母の形見のブローチを箱に入れた。小さなブローチだった。エルフェリアの精霊の花をかたどった銀細工で、母がいつも胸元につけていた。母が逝って、もう十年になる。
母のことを、リネットはよく覚えていない。伯爵家の没落令嬢だった人が父王の側妃になったこと、王妃に子がなかなかできなかった時期に父王の寵愛を受けてリネットが生まれたこと。それが状況としてわかるだけで、顔も声も、うまく思い出せない。
父王は忙しい人で、リネットが小さいころに何度か会っただけだった。王妃が男児を、王太子を産んでからは、会うこともなくなった。
それでも、と思う。
この国は自分を必要としていないかもしれないが、向こうの国が必要としているかどうかも、まだわからない。ただ遠い国に捨てられるだけかもしれない。
だとしても。
リネットは手を止めた。
窓の外を見た。城の中庭に、今夜は月が出ていた。白い月光が石畳を照らしていた。精霊の姿は今夜も少なかったが、中庭の隅に一体だけ、小さな光が揺れているのが見えた。
明るく、丸く、柔らかな光。
それが、こちらを向いて揺れた。
リネットは窓に近づいて、そっと目を細めた。何かを伝えたいのかもしれなかった。だが今夜のリネットには、その意味を受け取るだけの余裕がなかった。
「……おやすみ」
ガラス越しに、声には出さずに口を動かした。
精霊は揺れた。おやすみ、と応えるように。
***
輿入れの三日前、王宮の廊下でリネットは官吏たちに出くわした。
書類を抱えた三人の男たちで、リネットの姿を見て足を止めた。そのうちの一人が、ちらりと他の二人と目を合わせた。
「侍女にも護衛にも逃げられたとか」
声を落とすでもなく、そう言った。
「厄介払いとはいえ、準備くらいは王室でもっと整えてやればいいものを。まあ、傷物王女に手をかけてもしょうがないか」
リネットは歩を止めなかった。
視線を前に向けたまま、三人の横を通り過ぎた。言い返すことはしなかった。正確には、言い返すための言葉が出てこなかった。傷物には人権もない、と純潔維持法は定めている。それは法律上の話だが、法律が言うなら人々はそれに倣う。
振り返らずに歩き続けた。廊下の角を曲がった。
そこでようやく立ち止まった。
壁に背をつけて、一度だけ深く息を吸った。
侍女に逃げられた、という言葉が耳の奥に残った。正確には暇を出したのだが、外からはそう見えるのだろう。確かに、一緒に来てほしいとは言わなかった。金貨を渡して行かなくていいと言った。それを逃げられたと解釈されるのは、想定内だった。
想定内だったのに、なぜかその言葉は、他の言葉よりも少しだけ重かった。
理由を考えて、すぐにわかった。
自分から離してやったのだ、とわかっていても、誰もいなくなる、という事実が変わらないからだ。
メアリーとセリオがいなくなる。
帝国へは一人で行く。知らない国で、知らない人たちに囲まれる。その事実が、今更のように重さを持った。
リネットは再び歩き出した。
一人で行くのは、別に初めてではない。この二年間、ずっと一人だった。一人が怖いかと言われれば、慣れてしまっていた。慣れることと、怖くないことは違うけれど。
輿入れの前日の夜、メアリーが夕食を持ってきた。
いつもより品数が多かった。スープと、焼いた肉と、野菜の炒め物と、パンと、小さなタルト。
「作り過ぎました」
「ギルバートに作ったら量の加減を間違えて」。
リネットは目を瞬かせた。
「ギルバートさんが来ていたんですか」
「はい。少し話し合いたいことがあって」
メアリーは少し得意げな顔をした。だが何を話したかは言わなかった。
二人で夕食を食べた。
メアリーがよくしゃべった。ギルバートのこと、セリオのこと、城の中で今日あった小さな出来事。リネットはほとんど聞いている側で、時々短く相槌を打った。
タルトを食べながら、メアリーが言った。
「リネット様、帝国に行ったら、ちゃんと食べてくださいね」
「今でも、食べています」
「食べていません。今夜みたいに食べてください。いつもの三倍は」
「三倍はちょっと多いと思いますわ」
「多くはないです。リネット様は少なすぎるのです」
口調はいつもと変わらなかった。だがその言葉の底に、何かがあった。心配、というより、もっと切実な何かが。
リネットはタルトを一口食べた。甘かった。
「……明日、あなたはどうするの」
尋ねると、メアリーが少し間を置いた。
「明日は、見送りに行きます」
「それだけ?」
「それだけです」
リネットはそれ以上聞かなかった。メアリーが言わないのなら、理由があるのだろうと思った。
夕食を終えて、メアリーが食器を片付けた。
「おやすみなさいませ、リネット様」
「おやすみ、メアリー」
扉が閉まった。
リネットは窓の外を見た。夜の城の中庭に、月が出ていた。昨日より少し高い位置にある月が、白い石畳を照らしていた。
明日、ここを出る。
そう考えたとき、何の感情が来るかと待っていたが、来たのは思ったよりも静かなものだった。悲しくもなく、怖くもなく、ただ静かだった。
それが悲しいことなのかもしれない、と思いながら、リネットは目を閉じた。