傷物だと国を追い出された私、獣人の国の皇弟殿下が「君は世界一美しい」と溺愛して離してくれません!?
第8話 ルルの目覚め
宮殿での最初の夜は、静かだった。
与えられた部屋は広かった。黒い木の家具と、深い青のカーテン。天井が高くて、暖炉が部屋の隅にあった。窓から見える帝都の夜は、エルフェリアとは違う種類の明るさを持っていた。聖山の白い光ではなく、街の灯りが点々と瞬いている。温かみのある、橙色の光だった。
メアリーが寝台の準備をしながら「今日は色々ありましたね」と言った。
「そうですね」
「皇帝陛下が玉座から降りてきて出迎えてくださるとは思いませんでした」
「私もです」
「陛下はとても気さくな方でしたね。それに殿下が」
「殿下が?」
メアリーが少し笑った。尻尾がぱたぱたしていました、と言った。
リネットは少し目を伏せた。あれは確かに、見てしまった。皇帝にからかわれた後のアークの尻尾が、不満そうに揺れていたのを。
「あれは不満を示しているんでしょうか」
「どうでしょう。私には獣人の方の尻尾の意味はよくわかりませんが、あの場の雰囲気で察するに、照れていたんじゃないかなと思います」
「照れ」
「はい。皇帝陛下に『余裕がない』と言われて、それを尻尾が証明してしまっていたわけですから」
リネットはその解釈を、どう受け取ればいいか少し考えた。アークが照れる、という場面が、うまく想像できなかった。
「おやすみなさいませ、リネット様。今日は本当によく頑張られましたから、ゆっくりお休みになってください」
メアリーが部屋を出た。
リネットは寝台に横になった。
天井を見た。黒い石の天井。エルフェリアとは違う天井。悪くない天井だと、昨日思ったことを思い出した。
今日だけで、たくさんのことがあった。魔法石の乗り物。列車。精霊たちが並走していたこと。帝都の中央駅の歓声。ウサギの獣人の少女が手を振っていたこと。馬車に乗れたこと。皇帝の言葉。
勲章だ、と言われた。
その言葉が、まだ胸の中にあった。じんわりと、熱い塊のように。
リネットは目を閉じた。
眠れていたのかどうか、よくわからない状態が続いていた。
意識があるような、ないような。夢の中にいるような、起きているような。体は寝台の上にあったが、頭はまだ今日の出来事を整理しようとしていた。
音がした。
廊下からだった。
最初は気のせいかと思った。宮殿は大きい。人も多い。夜中に廊下を歩く者がいても不思議はなかった。
だが、その音は普通の足音ではなかった。
重さが違った。四日目の夜、船の上で壁越しに聞いた気配に似ていた。苦しそうな、緊張した気配。それが今夜は廊下に出ていた。壁越しではなく、扉の向こうの廊下に。
リネットは体を起こした。
寝台から降りて、扉に近づいた。
扉に手をかけた。開けるべきか、と一瞬考えた。夜中に廊下に出ることは、宮殿の礼儀としてどうなのか。だが考えている間にも、廊下の気配が気になった。
扉を、少しだけ開けた。
廊下に人がいた。
アークだった。
壁に片手をついていた。頭が少し下がっていた。息が荒かった。荒いというより、抑えようとして、うまく抑えられていない、という感じの息だった。体温が高そうだった。暖炉のない廊下なのに、アークの周囲だけ空気が違って見えた。揺れているような、歪んでいるような。
リネットは扉を全部開けた。
アークが顔を上げた。琥珀色の目が、リネットを見た。焦点が少し定まっていなかった。
「……王女か」
「殿下、どうなさいましたか」
「大丈夫だ。部屋に戻りなさい」
大丈夫という言葉と、今の状態が、全く一致していなかった。壁に手をついていなければ、立っていられないのではないかと思えるくらい、体が揺れていた。
「大丈夫には見えません」
リネットは言った。
アークが少し目を細めながら「魔力過多だ。時々こうなる。慣れている」と言った。
「自室に戻れば魔道具がある。それで放出すれば落ち着く」
「自室はどこですか」
「……こちらから三つ目の扉だ」
「歩けますか」
「歩ける」
だがアークの足が、一歩動いた瞬間に少し揺れた。壁から手が離れかけた。
リネットは、考える前に動いていた。
アークの側に行った。アークの腕に手を添えた。壁とリネットの両方で、アークを支えながら廊下を進んだ。アークがリネットより頭一つ分以上大きかったから、支えるというより寄り添う、に近かった。
三つ目の扉まで、数歩だった。
扉を開けた。アークの自室だった。リネットの部屋と同じ作りだが、書類が積まれた机と、魔道具らしき器具がいくつか置かれていた。暖炉の前に、魔力を放出するための器具があった。石の台座に、複雑な紋様が刻まれた水晶のようなものが乗っていた。
アークをそちらに向かわせながら、リネットは何か自分にできることがないかを考えていた。治癒魔法は使えない。使ったことがない。魔道具の使い方もわからない。
だが、アークの手が、魔道具に伸びた。触れた瞬間、魔道具が光った。だがその光はすぐに揺らいだ。アークの眉間に皺が寄った。追いついていない、とわかった。魔力の量が、魔道具の処理できる量を超えていた。
「……殿下」
リネットは何もできないのに、足が動いた。
アークの前に立った。アークが顔を上げた。リネットと目が合った。
「私にできることがあれば」
言葉がそこで終わった。続きが出てこなかった。何ができるのかを、自分でもわかっていなかった。ただ、何かしたかった。この人がこんなに苦しんでいるのに、扉の前で見ているだけでいることが、できなかった。
手を伸ばした。
アークの手に、重ねた。
魔道具に触れているアークの手の上に、リネットの手が重なった。
その瞬間だった。
何かが、動いた。
リネットの体の内側から、何かが流れ出した。温かくて、柔らかくて、光のようなものだった。流れ出す、というより、溢れ出す、という感じだった。
抑えようとしていたわけでもないのに、止めようとしていたわけでもないのに、ただそこにあったものが、外に出てきた。
光がリネットの手から広がった。
白い、柔らかな光だった。
それがアークの手を包んだ。手から腕へ。腕から全身へ。アークの荒れ狂っていた魔力が、その光に触れた瞬間に、凪いでいくのがわかった。嵐のあとの海のように、少しずつ、静まっていった。
アークの息が変わった。
荒かった息が、ゆっくりになった。体の揺れが止まった。壁にもたれかかっていた重心が、少しずつ正位置に戻っていった。
「……ああ」
アークが言った。声が、さっきとは違った。さっきは熱を持った声だったが、今は落ち着いていた。
「体が、軽い……」
呟くように言った。
リネットの手から光が引いていった。流れ出したものが、戻っていく感じがした。リネットは少し息を吐いた。疲れた、という感覚はなかった。むしろ、何かがすっきりしたような、自然な感じがした。
アークがリネットを見た。
先ほどまで焦点が定まっていなかった琥珀色の目が、今ははっきりとリネットを見ていた。
「君は、一体……いや」
アークは言いかけて、止まった。
「今、何をした」
「わかりません」
リネットは正直に答えた。
「手を重ねただけで、何かが流れ出したんです。私には何が起きたのか」
アークがリネットの手を見た。手の甲を見た。それからゆっくりと、視線を上げた。
「……精霊の光だった」
静かな声で言った。
「あなたから出た光は、精霊の光に近い。俺には見えないが、感じた。あれは通常の魔力ではない」
リネットは言葉が出なかった。
「精霊が見えると、言っていたか」
船の上で、「独り言の癖がある」と誤魔化した。だがアークは「何かが見えている」とずっと気づいていた。今夜もし本当のことを聞かれたら、答えるべきかもしれなかった。
「……見えます」
リネットは言った。
アークが少しの間、リネットを見た。驚いた顔ではなかった。やはりそうか、という顔に近かった。
「いつから」
「物心ついた頃から。ずっと見えていたから、みんなに見えるものだと思っていて、気づいたのは十四の頃で」
「誰かに言ったことは」
「言えませんでした。変に思われると思って」
アークが視線を下げた。考えているようだった。しばらくして「わかった」と言った。
「今日は遅い。長老に話を聞くのは明日にしよう」
「長老に」
「帝国には精霊について詳しい者たちがいる。自然・精霊信仰派の長老たちだ。あなたが何者なのか、俺よりも詳しく説明できるはずだ」
リネットは「何者なのか」という言葉を受け取った。自分が何者なのか。精霊が見えて、今夜手から光が溢れた。それが何を意味するのか、リネットにはまだわからない。
「殿下は、怖くないんですか」
思ったことが、口から出ていた。
「何が」
「私から、正体のわからないものが出てきたんです。それが怖くないんですか」
アークが少し首を傾けた。
「怖い、という感情が来るより前に、楽になった。順番の問題だ」
「順番の」
「あなたが俺を怖がらせようとしていたわけではないだろう。手を伸ばしてきたのは、助けようとしたからだ」
リネットは頷いた。
「助けようとした人間を怖いとは思わない」
アークがそう言って、リネットを見た。
今夜一番、はっきりとした目だった。落ち着いていて、静かで、それでいて何かが確かにそこにあるような目だった。
リネットは視線を受け止めた。受け止めて、何も言えなかった。
アークが立ち上がると「体が元気になったし、あなたを部屋まで送る」と言った。
「お体は大丈夫ですか」
「さっきと比べれば、十分大丈夫だ」
廊下に出た。二人で歩いた。三つ扉を戻った。リネットの部屋の前に来た。
「今夜はゆっくり眠りなさい」
「はい。殿下も」
「ああ」
扉に手をかけて、入ろうとした。
「リネット」
アークが呼んだ。名前だけで。王女ではなく。
リネットは振り返った。
「ありがとう」
短い言葉だった。それだけだった。
だがアークが「ありがとう」と言うのを、リネットは初めて聞いた。誠実で真面目で不器用な人が、少しだけ言いにくそうに、それでも言った言葉だった。
「いいえ」とリネットは答えた。「お役に立てたなら、よかったです」。
扉を閉めて寝台に戻ると、横になった。
手のひらを見た。さっき光が溢れ出したところ。今は何もなかった。普通の手だった。右腕には傷跡があって、左手には何もなくて、両方ただの手だった。
精霊の光だった、とアークは言った。
リネットの中に、精霊の光があった。
それが何を意味するのか、明日長老に聞けばわかるかもしれない。怖いかどうかと聞かれれば、正直わからなかった。でも今夜、アークの荒れ狂っていた魔力が凪いでいくのを感じた。手の下で、嵐が静まっていくのを感じた。
それは不思議で、でも悪い感覚ではなかった。
リネットはもう一度、手のひらを見た。
それからゆっくりと、握った。
今夜はじめて、自分の手が何かの役に立ったと感じた。誰かを守るためではなく、誰かの苦しみを和らげるために。この手が、使えた。
目を閉じた。
眠れないまま夜明けを待っていたが、気づいたら眠っていた。
夢を見た気がしたが、内容は覚えていなかった。
明るくなった窓の向こうで、精霊たちが揺れていた。昨日は姿を消していたのに、今朝は戻ってきていた。いつもより数が多い気がした。部屋の内側の窓際に集まって、きらきらと輝いていた。
嬉しそうだった。
何かを喜んでいるような、弾んだ揺れ方だった。
「何がそんなに嬉しいんですか」
声に出さずに問いかけると、精霊たちが一斉に揺れた。
答えは返ってこなかった。言葉を持たない精霊たちの喜びの意味は、リネットにはわからなかった。
だが今朝は、不思議とその輝きが、昨日より大きく見えた。
宮殿の朝が始まっていた。
午前中に、アークが部屋を訪ねてきた。
「昨夜のことを話したいのだが、時間はあるか」
「はい」
「長老のラーグを呼んだ。来てもらえるか」
連れていかれたのは、宮殿の一室だった。
部屋には老人がいた。トラの獣人だった。白と黄の混じった縞模様の毛皮が、耳と頰に見えた。顔には深い皺があって、目は細く、だが鋭かった。杖を持っていたが、背筋は伸びていた。
こちらを見ると「王女殿下」と老人は言った。声は穏やかだった。
「ラーグと申します。帝国で自然・精霊信仰派の長老をしております。本日はお越しいただきありがとうございます」
リネットは礼をとった。
「殿下から伺いました。光が溢れ出したと」
「はい」
「精霊が見えると」
「はい。物心ついた頃から」
ラーグ老人が、リネットをじっと見た。細い目がさらに細くなった。それから、ゆっくりと膝をついた。
「ラーグ殿」
そうアークが言えば「殿下」とラーグが言った。跪いたまま、頭を下げた。
「この方は、ルルでございます」
部屋が静かになった。
聞いたことのない単語だと思った。
「それは、何ですか」
ラーグが顔を上げた。目に、涙が光っていた。老人が泣いていた。その姿を見て、リネットは戸惑った。
「ルルとは精霊王の寵愛を受けた者の呼び名でございます。百年に一度、現れるかどうかという希少な存在。エルフェリアでは長く現れなかったと聞き及んでおります。ですがルルは国に縛られるものではありません。精霊が寵愛する魂に宿るものです」
「私が……その、ルルなんですか」
「間違いございません。精霊が見えること。昨夜の光。そして」
ラーグがそう言って、窓の外を見た。
窓の外に、精霊の花が咲いていた。
昨日まではなかった。宮殿の庭に、白く淡く光る小さな花が、一輪、石畳の隙間から顔を出していた。
「精霊の花が咲きました。殿下が帝国の地を踏まれてから、昨夜初めて咲きました。精霊の花は、ルルがいる場所にしか咲きません。百年以上、この帝国に咲いていなかった花です」
リネットは窓の外の花を見た。
白くて、小さくて、淡く光っていた。庭師が植えたわけではないのに、石畳の隙間から生えていた。
「昨夜の光は、浄化の力でございます。ルルの持つ力の一つ。植物を枯らさない、天候を安定させる、魔獣と対話できる、広範囲の浄化。それがルルの力です。そして、魔力過多の者のそばにいると余剰魔力を自然に吸収する力もございます。殿下の魔力が昨夜安定したのは、そのためかと」
アークがリネットを見た。
「知らなかったのか」
「全く」
「そうか」
アークが少し何かを考えるように視線を落とした。それからラーグに「昨夜の前から、俺の魔力は船の上から少し安定していた。それもこの力か」と聞いた。
「おそらくは。ルルの力は意識して使うものではありません。存在そのものが、周囲に影響を与えます」
リネットは、七日間の航海を思い返した。アークが毎夕訪ねてくるようになって、四日目の夜に苦しそうだった気配が、五日目以降は少なかった気がした。
無意識に、そばにいるだけで。
「あの……私が何もしていなくても、影響があるということですか」
「はい。ですが意識して使えば、さらに強くなります。昨夜のように、触れることで力が発動する場合もあります」
リネットは自分の手を見た。
何もない手だった。だがこの手から、昨夜光が溢れ出した。アークの嵐を静めた。
「怖くはありませんか」とラーグが聞いた。
「突然そのようなことを知らされて」
リネットは少し考えた。
「怖い、というより」
言葉を探した。
「何かが使えるとわかったことは、怖くないです。でも、自分が気づかないまま誰かに影響を与えていたことが、少し怖いです。意図せず何かを変えてしまっているかもしれないと思うと」
「それは優しい怖がり方でございますね。ですが、だからこそ、ルルになれる方なのかもしれません」
アークが「今日はここまでにしよう」と言った。
「リネットが受け取るには、今日だけで十分すぎる話だ」。
ラーグが頷いた。「またゆっくりとお話しできれば」と言って立ち上がった。礼をして部屋を出た。
二人になった。
リネットは窓の外の精霊の花を見ていた。
「受け取りきれていないか」
「少し」とリネットは正直に答えた。
「そうだな。今日は休んでいい」
「でも」
「休んでいい」
もう一度言われた。今度は少し語気が強かった。命令ではなく、心配から来ている語気だとわかった。
リネットは「はい」と答えた。
アークが立ち上がろうとした。リネットは思い切って口を開いた。
「殿下」
「何だ」
「昨夜のこと、私が部屋を出てきて、勝手に殿下の自室まで入ってしまって。失礼だったかもしれません」
アークが少し間を置いた。
「失礼だとは思っていない」
「でも」
「あなたが来なければ、魔道具だけでは今夜は厳しかった。助かった」
昨夜の「ありがとう」に続いて、また言葉にしてくれた。
リネットは「そうですか」と言って、少し息を吐いた。
「それと」とアークが言った。
「次も同じようなことがあれば、来てくれて構わない」
リネットは顔を上げた。
「来てくれて、構わない、ということですか」
「ああ。俺が困っていれば、来てくれた方がいい」
アークは何でもないことのように言った。だが、その言葉の意味をリネットは少し時間をかけて受け取った。
困っている時に、来てほしい。来てくれていい。
必要とされている、と感じた。
エルフェリアでは、リネットの存在は常に余分なものだった。いなくていい、という目で見られ続けた。
だがアークは「来てくれた方がいい」と言った。自分がそこにいることを、求めていた。
「わかりました」
リネットは答えた。声が少し掠れた。気づかれたかどうかはわからなかった。
アークが立ち上がった。部屋を出る前に、もう一度窓の外を見た。精霊の花が揺れていた。
リネットは窓の外の花を、長い間見ていた。
白く、淡く、光りながら揺れている花。
自分が来たから咲いた花。
エルフェリアでは、自分の存在は何かを損なうものとして扱われてきた。美しい国の美しさを傷つけるものとして。だがここでは、自分が来たことで花が咲いた。
それが本当なら。
もしかしたら、自分がここにいることは、何かの役に立てるのかもしれない。
その考えが、リネットの胸の中に入ってきた。


