傷物だと国を追い出された私、獣人の国の皇弟殿下が「君は世界一美しい」と溺愛して離してくれません!?
第7話 帝都
翌朝、支度を終えたリネットが部屋を出ると、廊下でアークに会った。
こちらも支度を終えたばかりらしく、黒い長衣を着ていた。いつもの魔術師の制服だった。廊下で向き合う形になって、リネットは少し驚いた。アークは驚いていなかった。
「おはようございます」
「ああ。よく眠れたか」
「はい、おかげさまで」
「そうか」
短いやり取りで、アークが廊下を歩き始めた。リネットはその後について歩いた。
食堂で朝食をとった。昨日の屋台の料理とは違い、宿の食事は皿に盛られた形式だった。だが量は多かった。エルフェリアの食事の倍はある、という量が皿に並んでいた。
リネットは昨日の串焼きを思い出しながら、今日は少しだけ多めに食べた。
宿を出たのは、朝の光がまだ斜めに差し込む時間だった。
港を出て少し行くと、道の脇に見慣れない乗り物が停まっていた。
馬車ではなかった。
箱型の乗り物だった。馬はいない。車輪はあるが、それを引く動物がいない。
黒い金属で作られた箱で、側面に小さな窓がついていた。全体がわずかに振動している。内側から何かが動いているような感じだった。
「これは何ですか」
リネットは思わず聞いた。
アークは「魔法石で動く乗り物だ」と答えた。
「この先の山に鉱山があって、そこで採れる魔法石を使って動かしている。産業の一つでもある。列車には劣るが、結構早い。この近辺では使われることが多い」
「魔法石というのは、魔力を蓄積した鉱石のことですか?」
「そうだ。知っているのか?」
「本で読みました。理論上は可能だとされているが、制御が難しいために実用化が進んでいない国が多い、と書いてあって。帝国ではもう実用化されているんですね」
そう言ってから、喋りすぎたかもしれない、と思った。本で読んだことを並べるのは、場合によっては嫌味に聞こえる。
だがアークは特に顔色を変えなかった。
「詳しいな」
「本で読んだだけです」
「本で読んで覚えているのは、それだけで十分詳しい」
リネットは少し、言葉に詰まった。
褒められた。否定されなかった。本を読んでいることを「引きこもりだから」と揶揄する声には慣れていたが、それを「詳しい」と言われることには慣れていなかった。
頬が少し温かくなった。
「乗りなさい。馬車ではないから、大丈夫なはずだ」
確かに、馬車ではなかった。形が全く違った。リネットは、ハッとする。これはもしかしたら私のために用意してくれたのだろうか……申し訳なくなる。
だけど未知なものは恐怖が勝ることもある。恐る恐る乗り込んだ。内部は思ったよりも広くて、向かい合わせの座席があった。揺れは馬車より少なかった。動き出した時の感触も、馬車とは違った。滑らかに、静かに、前に進む感じだった。
リネットは窓の外を見た。港の街が後ろに流れていった。
隣の街、ウィンド・グロウまでの道中、アークがリネットにいくつかのことを話した。
帝国の産業のこと。鉱山から採れる魔法石の種類のこと。この沿岸地帯で採れる海産物のこと。リネットはそのどれにも、本で読んだ知識の断片を持っていた。アークが話すことの半分は知っていたが、半分は初めて聞くことだった。
「この地域の魔法石は、熱を発する性質があるんですか」
「そうだ。だからこの乗り物の動力に向いている。北の地域で採れる魔法石は光を発する性質があって、そちらは照明に使われる」
「種類によって性質が変わるんですね」
「鉱脈によっても変わる。同じ地域でも、深さが違えば性質が異なることがある。それを研究している学者が帝国には多い」
「研究者がいるんですか」
「叡智・開拓派と呼ばれる派閥が帝国にはある。知識と技術を重んじる人たちで、魔法石の研究もその中の一つだ。あなたが好きそうな話をしている人たちだ」
あなたが好きそうな。
その言葉の選び方が、少し意外だった。自分の何を見て、そう思ったのだろう。本を読んでいるところを見たからか。発音を練習していたからか。
「私はそんなに、わかりやすいですか」
「わかりやすい、というより目が変わる」。
「目?」
「本の話や知識の話になると、少し目が違う。さっきも、魔法石の話をした時にそうなった。とてもいい目だ」
リネットは自分の目に意識を向けようとして、当然できなかった。自分の目がどう見えているか、自分には見えない。
「……失礼でしたか」
「なぜ失礼になる」
「夢中になっているのを見られるのは、はしたないと言われたことがあって」
言ってから、余計なことを言ったかもしれない、と思った。エルフェリアでの話を持ち込むつもりはなかった。
アークが少しの間、リネットを見た。
「帝国では、物事に夢中になれることを恥とは言わない」
それだけ言って、視線を窓の外に戻した。
リネットも窓の外を見た。
流れていく景色を眺めながら、今の言葉をゆっくりと胸の中で受け取った。
***
ウィンド・グロウの駅は、思ったより大きかった。
石造りのホームに、長い車両が停まっていた。列車だった。本で絵を見たことはあったが、実物を目にするのは初めてだった。黒い車体に金の線が入っていて、蒸気のようなものが少し出ていた。
「列車に乗ったことはないか」とアークが言った。
「初めてです」
「そうか。揺れは先ほどの乗り物より少しあるが、大きくはない。半日で帝都の近くまで行ける」
乗り込む時、アークが先に入って手を差し伸べた。リネットはその手を取った。昨日より自然に取れた。昨日と今日の差が、自分でも少し不思議だった。
一等車両は、広い座席だった。窓が大きくて、景色がよく見えた。向かい合わせの席に、リネットとアークが座った。
列車が動き出した。
最初はゆっくりで、それからだんだんと速くなった。窓の外の景色が流れ始めた。街が後ろに去って、野原が広がった。遠くに山が見えた。空が広かった。
リネットは窓に顔を近づけて、外を見ていた。
エルフェリアでは、こんなに速く景色が変わるものには乗ったことがなかった。馬に乗ることはあったが、それとも違う速さだった。同じ空間にいながら、外の世界がどんどん変わっていく感覚。
「山が見えます」
思わず言った。
「あの山は何という山ですか」。
「グレイ山脈の端だ。帝国の北側に連なっている。グレイフォートの北にも続いている」
「あんなに高いんですね」
「冬は雪が積もる。エルフェリアの聖山とは違うが、大きさは負けていない」
「聖山をご存知なんですか」
「資料で見た。エルフェリアとは国交があるから、地理の情報は入ってくる」
リネットは山を見ながら、アークが自国の情報を調べていたことを想像した。縁談が来る前から、来るかもしれないと思って調べていたのか。あるいは縁談が来てから調べたのか。どちらかはわからなかったが、どちらにせよ知ろうとしてくれたのだ、と思った。
精霊たちが、窓の外を並走していた。
小さな光の粒が、列車の速さに合わせてついてきていた。風の精霊だった。速いものが好きなのかもしれない。楽しそうに、きらきらと輝きながら飛んでいた。
リネットは口元が緩みそうになるのを、少しだけ抑えた。
窓に顔を向けたまま、精霊たちを見ていた。
「また何か見えているのか」
アークの声がした。
リネットはすぐに「いいえ」と言おうとして、止まった。
独り言の癖があると言った。三度口が動いていると言われた。今日は笑いかけていた。
気づかれている、とリネットは思った。何かが見えていることを、アークはわかっている。わかっていて、今まで深く問いただしてこなかった。
「……外が楽しそうで」
今日も、誤魔化した。だが嘘ではなかった。
精霊たちが楽しそうなのは本当だった。
アークが窓の外を見た。特に何もない空を、しばらく見ていた。
「そうか」と言った。
それだけだった。追わなかった。
リネットは、その「そうか」がどういう意味を持っているのか、少し考えた。信じているのか、疑っているのか、知っているのか。アークの「そうか」はいつも短くて、中に何が入っているのか掴みにくかった。
だが、それでも追わない人だということは、わかってきた。
列車が帝都の近くの中央駅に滑り込んだのは、昼を大きく過ぎた頃だった。
駅の外から、声が聞こえた。
列車の中にいながら、その声は聞こえた。どれほどの人数なのか、ざわめきというより地響きに近い音が、車体越しに伝わってきた。
「人が多いんですか」とリネットは聞いた。
「皇弟が帰ってきた、という知らせが広まったらしい。帝都では、こういうことがある」
「そんなに」
「久しぶりの帰還だから。グレイフォートを離れることは普段あまりない」
列車が停まった。
扉が開いた。
外の音が、一気に大きくなる。
リネットは扉から外を見た。ホームに人が溢れていた。ホームの外、広場にまで人がいた。皆がこちらを向いていた。
「アーク様!」
「殿下!」
「お帰りなさいませ!」
声が波のように押し寄せてきた。
リネットは一歩、外に出た。
音と、人と、視線と、全部が一度にやってきた。体が、思わず縮こまった。右腕を体の横に引いた。顔が下を向きそうになった。
アークが、リネットの肩を引き寄せた。
ぴったりと、左側から。昨日の港と同じように。大きな体がリネットの左を覆う位置に、自然に入ってきた。
「顔をあげなさい」
リネットは顔を上げた。
目の前に、人々の海があった。
皆が笑っていた。手を振っている人がいた。大きな声で「いらっしゃいませ、王女様」と叫んでいる人がいた。子供が親の肩の上から身を乗り出していた。
白い目が、一つもなかった。
リネットは人々を見た。笑っている顔を見た。嬉しそうな目を見た。
その中に、またあの少女がいた。
違う少女だった。昨日の港にいたリスの獣人の少女ではない。今日はウサギの獣人の少女だった。白い耳が頭の上でぴんと立っていた。水色の服を着て、友人らしい同じくらいの年の人間の少女と並んでいた。こちらを見て、大きく手を振っていた。
リネットは右手を上げた。
今日も傷のある方の腕で、手を振った。
少女が弾けるように笑った。隣の人間の少女も笑った。二人が顔を見合わせて、また笑った。
リネットの胸の奥に、昨日と同じ感覚が来た。欠けていたものが少し補われる感覚。だが今日の方が、昨日より少し大きかった。
「王女殿下、ご歓迎申し上げます!」
声がした。壮年の男性の声だった。見ると、帝国の官服を着た人物がこちらに向かって礼をとっていた。
「グレイフォート領の代表として、本日は帝都まで出迎えに参りました。どうぞよろしくお願いいたします」
リネットは「ありがとうございます」と答えた。
帝国語で、と思い、昨日練習した言葉を口にした。
「……ありがとうございます」
帝国語で言えた。発音が正しかったかどうかはわからなかった。だが言えた。
男性が目を丸くした。それから顔をくしゃりとさせた。「王女殿下、帝国語を」と言いながら、今にも泣きそうな顔をした。大の大人が、泣きそうになっていた。
リネットは少し戸惑った。だが隣でアークが「覚えてきた」と短く答えているのを聞いた。
覚えてきた、という言葉の使い方が、少しリネットには引っかかった。覚えてきた、というのは、まるでリネットが帝国のために準備してきた、という含みがあった。そうなのかもしれなかった。そう言えばそうだった。
人々の声がまだ続いていた。
リネットは声の向こう向こうに手を振り続けた。
喜んでもらうことが嬉しかった。今まで、誰かに喜ばれることが怖かった。喜ばれた後にそれが裏切られることを、一度知っていたから。
だが今日ここで向けられている声は、何かを求めているわけではなかった。ただ嬉しいから嬉しいと言っている声だった。
その違いが、わかる気がした。
宮殿への馬車を待つ間、アークが少し離れた場所に立って、出迎えの官吏たちと話していた。
リネットはメアリーとシャロンの近くに立って、人々の様子を見ていた。
「王女様、とても堂々としていらっしゃいました」とシャロンが言った。
「そうですか」
「はい! 帝国語でお礼も言っておられて、男性が泣きそうになっていましたよ。私も感動しました」
「発音が合っていたかどうか、わからなかったんですが」
「合っていたんじゃないですか。あの方の顔を見れば」とメアリーが言った。
「それに昨日から王女様、少し変わりました」。
「変わりましたか」
頷いて「はい」とメアリーが言った。
「屋敷にいた頃のリネット様は、笑顔を人に見せることがありませんでした。でも昨日から、少し外に出てきた気がします」
リネットは少し考えた。
変わったかどうか、自分ではわからない。だが確かに、ここ二日で何かが少しずつ動いている気はしていた。手を振ること、串焼きをかぶりついて食べること、帝国語でお礼を言うこと。どれも、エルフェリアにいた頃にはしなかったことだった。
「帝国の人たちのおかげかもしれません」
リネットは言った。
「白い目で見ないから、こちらも縮こまらないで済むんです」
メアリーが頷いた。シャロンが「私たちのいる間に、もっとたくさん笑顔を見せてください」と言った。そのまっすぐな言葉に、リネットはまた少し戸惑った。
アークが戻ってきた。
「宮殿の馬車が準備できた。行こう」
馬車、という言葉が出た瞬間、リネットの体が少し固まった。
アークがそれに気づいた。気づいた上で「今日は近い。五分もかからない」と言った。
「普段は馬も用意する。だが宮殿が近いため、今日は馬車の方が礼儀上よいと判断した。どうしても嫌ならば変える」
リネットは少し息を整えた。五分。五分ならば、と思った。
「乗ります」
「俺が一緒にいる」
それだけ言って、アークが馬車の扉を開けた。先に乗って、手を差し伸べた。
リネットはその手を取って、乗り込んだ。扉が閉まった。閉じた空間が、少し怖かった。だがアークが正面に座っていた。閉じているが、一人ではなかった。
馬車が動き出した。
リネットは膝の上に手を置いた。心臓が少しうるさかった。アークが何も言わずにいた。急かさなかった。喋らなかった。ただそこにいた。
五分経たないうちに、馬車が止まった。
扉が開いた。
リネットは息を吐いた。
外に出ると、大きな建物があった。帝国の宮殿だった。エルフェリアの白い王城とは全く違う、黒と金の建物。だが花が飾られていた。入口の両脇に、色とりどりの花が並んでいた。
「よく耐えたな」
リネットは顔を上げた。アークは前を向いていた。
「耐えたというほどでは」
「五分でも怖いものは怖い。それでも乗った。十分だ」
リネットはその言葉を、すぐには返せなかった。
十分だ。
そんなふうに言われたことが、なかった。できなかったことを責められることには慣れていたが、できたことを「十分だ」と言われることには慣れていなかった。
宮殿の扉が開いた。
中から人が出てきた。
リネットは、その人物を見た。
まず目に入ったのは、ピンクと金色が混じったグラデーションの天然パーマの髪だった。次に、大きなウサギの耳。それから、笑っている顔。ふっくらとした頬と、人懐こい目。どこか愛らしい外見をした人物が、玉座があるはずの宮殿の奥から軽やかな足取りで出てきた。
リネットは誰かを考えた瞬間に、気づいた。
皇帝だった。
カスティラン帝国の皇帝が、玉座から自分で降りてきて歩いてきていた。
「よく来た!」
豪快な声だった。宮殿の廊下に響いた。
リネットは礼をとろうとした。その前に、皇帝が先にリネットの前に来た。
「我が弟の番よ、歓迎する。遠路はるばるよく来てくれた」
リネットは礼をとったまま、挨拶をする。皇帝が目の前にいた。笑っていた。豪快で、あたたかい笑顔だった。
「顔を上げなさい。ここではそんなに固くしなくていい」
リネットは顔を上げた。
皇帝がリネットをまじまじと見た。
そして「アークから聞いていた通りだ。魂の美しい娘だな」と言った。それからリネットの右腕に視線が行った。傷のある方の腕。今日は袖が短くて、端が見えていた。
皇帝が言った。
「その右腕の傷、誰かを守って負ったものだと聞いた」
リネットは小さく「はい」と答えた。
「それは我が帝国では、どんな宝飾品よりも君を輝かせる勲章だ。胸を張りなさい」
廊下が、静かになった。
リネットは皇帝の言葉を、もう一度心の中で辿った。
勲章……傷物ではなく。汚点でもなく。
勲章、と言った。
目の奥が、熱くなった。涙が来るとは思っていなかった。止めようとしたが、間に合わなかった。目から、涙が一筋流れた。
「これは……泣かせてしまったか」
「い、いいえ、申し訳ありません」
「謝ることはない。嬉しいなら泣けばいい。遠慮しなくていい」
皇帝がリネットに近づいた。大きな手が、リネットの手を握ろうとした。
その瞬間、アークが動いた。
さりげなく、だが確実に、アークがリネットと皇帝の間に入った。リネットをその背後に収めるように、自然に位置を変えた。
「兄上、彼女は長旅で疲れている」
静かな声だった。だが、はっきりと言った。
「あまり触れて驚かせないでいただきたい」
皇帝が、アークを見た。
それからゆっくりと、にやりとした。
陛下はため息を吐くと「やれやれ」と言いながら肩をすくめた。
「これほど余裕のない弟を見るのは初めてだな」
「余裕がないとは心外です」
「尻尾が言っている」
一同の視線がアークの後ろに向いた。アークの黒い尻尾が、不満そうにぱたぱたと揺れていた。
アークが少し動きを止めた。
それから、何も言わなかった。
皇帝が楽しそうに笑った。リネットはアークの背中越しに、その様子を見ていた。皇帝とアークのやり取りが、兄弟のものだとわかった。皇帝がアークをからかって、アークが返しに詰まっている。
「リネット王女」
皇帝がリネットの名前を呼ぶ。
「歓迎する。ここはあなたの家だ。遠慮なく過ごしなさい」。
あなたの家、という言葉を、今日で二度聞いた。
アークがウィンド・グロウへ向かう道中で言った言葉と、同じ言葉だった。
リネットは「ありがとうございます」と答えた。今度は帝国語で。
皇帝が目を丸くした。それから、先程の官吏と同じように、顔をくしゃりとさせた。
「アーク、この娘は良い娘だな」
「はい、存じています」とアークが言った。
その言葉に、リネットは少し驚いた。
存じています、とアークが言った。短くて、だが迷いのない言葉だった。