愛を教えてくれた君へ
旅行から帰ってきた後、私たちの世界は完全に変わっていた。
日常の景色はどれも黄金色に輝いていて、お母さんのご飯を食べる時間も、蓮と一緒に学校へ行く時間も、すべてが宝物のようだった。学校では、かれんちゃんやみおちゃんが「らな、最近本当に可愛くなった! 表情がキラキラしてる!」と驚くほど、私は変わっていった。おばあちゃんの家に戻ったあの日の恐怖や孤独は、もう雨宮家の深い愛によって、綺麗に消し去られていた。
――けれど。運命というものは、時に残酷な牙を剥く。
その幸せの絶頂は、ある日の放課後、突然の終わりを告げた。
いつものように学校が終わり、お母さんと一緒に夜ご飯の準備をしていた時のことだった。
「ただいま……」
玄関のドアが開き、部活を終えた蓮が帰ってきた。いつもなら「お袋! 腹減った!」と大きな声を出すはずなのに、その声は掠れていて、ひどく弱々しかった。
「あら、蓮、おかえり。今日は早かったじゃ……って、蓮!?」
お母さんの悲鳴のような声に、私が振り返ると、そこには信じられない光景があった。
蓮が、壁に手を突きながら、荒い呼吸を繰り返していた。その顔は土気色に青ざめていて、額からは尋常ではない量の汗が吹き出している。
「蓮くん……!?」
私が駆け寄って彼の身体に触れた瞬間、指先から燃えるような熱さが伝わってきた。
「あ……らな……ごめん、俺、ちょっと、目眩が……っ」
そう呟いた瞬間、蓮の身体から完全に力が抜け、彼はそのまま床の上へと崩れ落ちてしまった。
「蓮!! 蓮、しっかりしなさい!!」
お母さんが叫びながら蓮の身体を揺さぶる。蓮は意識を失ったまま、ハァハァと激しい呼吸を繰り返すだけだった。すぐに救急車が呼ばれ、私たちはサイレンの音が鳴り響く中、近くの大学病院へと搬送された。
白い、無機質な廊下。
消毒液の匂いが鼻を突く中、私とお母さんは、手術室の前のベンチで祈るように手を握り合っていた。どれくらいの時間が経っただろう。やがて、重い扉が開き、疲弊した表情の医師が出てきた。
医師から告げられた病名は、聞いたこともないような、突発性の重い難病だった。
「非常に急激に進行するタイプの病気です。今夜が、一つの山場になるかもしれません。最悪の事態も、覚悟しておいてください」
医師の冷酷な言葉が、頭の中でカンカンと鳴り響く。
「そんな……嘘……蓮が、どうして……」
お母さんはその場に泣き崩れ、自分の顔を覆って声を殺して泣いた。いつも強くて温かいお母さんが、小さく震えている。
私は、許可を得て病室へと入った。
そこにいたのは、昼間まで元気にサッカーボールを追いかけていたはずの、私の大好きな蓮ではなかった。
顔中に酸素マスクが着けられ、両腕には何本もの細い管が繋がれている。ピ、ピ、ピ、と無機質な心電図の音だけが、静かな病室に響いていた。
「蓮くん……」
私はベッドの脇に座り、蓮の右手をそっと両手で包み込んだ。いつも大きくて、私を学校の廊下で強く引っ張ってくれた、あの温かい手。けれど、今のその手は、恐ろしいほど熱く、そして弱々しく震えていた。
どうして。なんで、やっと見つけた私の大切な人が、こんな目に遭うの……?
涙が溢れて、視界がぐしゃぐしゃに滲む。
私は、おばあちゃんから「邪魔」と言われ、誰からも必要とされずに育ってきた。だから、愛が何なのか、どうやって人を愛せばいいのか分からなかった。でも、今、目の前で命の火を消しかけている蓮を見て、胸が引き裂かれそうな、息ができなくなるほどの激しい痛みに襲われていた。
(嫌だ……。死なないで、蓮くん……。私を置いていかないで……っ!)
その瞬間、私は本当の『愛』の答えを知った。
お母さんや蓮くんに美味しいご飯を作ってもらうこと、優しくしてもらうこと。それだけが愛じゃないんだ。
自分の命を全部あげてもいいから、この人を失いたくない。この広い世界で、何があってもこの人に生きていてほしいと、魂の底から願うこと。誰かの幸せを自分のこと以上に祈ること――それこそが、私の中に芽生えた、蓮への本当の『愛』だった。蓮が、私に人を愛する心を教えてくれたんだ。
「蓮くん……お願いだから、目を開けて……っ。私、まだ蓮くんに、ちゃんと何も返せてないよ……っ」
私は蓮の手甲に額を押し当て、ボロボロと涙を流し続けた。
「私、蓮くんに、まだ『好き』って、言葉でちゃんと伝えてないんだよ……! だから、死なないで……私を、一人にしないで……っっっ」
それからの二週間、私は学校が終わると、一秒でも早く蓮の側にいたくて、毎日病院へ駆けつけた。お母さんと二人で、小さくなっていく蓮の身体をさすり、声をかけ続けた。お医者さんからは「もう意識が戻る可能性は低い」と言われても、私たちは決して諦めなかった。蓮が私をあの雨の日に諦めなかったように、今度は私が、蓮の命を絶対に諦めない。
そして、入院して十五日目の、静かな夜のことだった。
私はいつものように蓮の手を握りしめ、ベッドの横でウトウトとしていた。
すると、握っていた蓮の大きな手の指が、かすかに、本当に微かにピクリと動いた。
「……え?」
心電図の音が、心なしか少し安定したリズムに変わる。
「……ん……っ……ら……な……」
「蓮くん……!? 蓮くん!!」
私が叫ぶと、蓮の長い睫毛が震え、ゆっくりと、本当にゆっくりと、その黒い瞳が開かれた。
「ら……な……。そんな……泣き顔……すんなよ……」
「蓮くん……っ!! ああ、よかった……よかったぁ……っっっ」
蓮は、酸素マスクの奥で、本当に微かに、いつものひまわりのような優しい笑顔を作ってみせた。
「約束……しただろ……? お前を……ずっと守るって……。俺、まだ……死ねねーよ……」
「う、うん……! うん……っっっ!!」
病室に駆け込んできたお母さんも、蓮の目覚めを見るなり、蓮の身体を抱きしめて子供のように大声を上げて泣いた。
窓の外には、あの旅行の日と同じ、綺麗な夜空が広がっていた。
蓮の病気は、私たちの必死の祈りと、そして何より「蘭奈を守る」という蓮の強い意志によって、奇跡的に最悪の時期を脱し、回復へと向かい始めたのだった。