愛を教えてくれた君へ

 お母さんのあの「爆弾発言」から数日、雨宮家のリビングは、まるで毎日が小さなお祭りのようだった。
 学校から帰ると、ダイニングテーブルの上にはこれでもかと伊豆の観光パンフレットや雑誌が広げられていて、蓮とお母さんが「ここは絶対に行く!」「あら、こっちの海鮮丼も美味しそうじゃない?」と大騒ぎしている。
「らなちゃん、ここはどう? 綺麗なガラス細工の体験ができるみたいよ」
お母さんにパンフレットを差し出され、私は恐る恐るそれを覗き込んだ。そこには、光を浴びてキラキラと輝く風鈴やコップの写真が並んでいた。
「……すっごく、綺麗です。私、こういうの、テレビでしか見たことがなくて……」
 ぽつりと溢した私の言葉に、リビングが一瞬だけ静かになる。おばあちゃんの家にいた頃は、どこかに出かけるなんて夢のまた夢、家の中で息を潜めていることしか許されなかったから。
 すると、隣に座っていた蓮が、私の頭を少し乱暴に、でも愛おしそうにクシャクシャと撫で回した。
「よし、ガラス細工決定な! それと、らなが行きたがってた海が見える遊園地も絶対行くぞ。お袋、宿の予約、海が見える一番良い部屋にしといて!」
「はいはい、分かってるわよ。もう、蓮はらなちゃんのことになると本当に張り切るんだから」
お母さんにからかわれ、「うるせー!」と耳を真っ赤にしてそっぽを向く蓮。そんな二人の姿を見ているだけで、私の心の中の冷たい隙間が、温かいものでどんどん満たされていくのが分かった。
「邪魔」と言われ続けた私が、こんなにも誰かの予定の真ん中に置かれている。その事実だけで、胸の奥がツンと痛くなるほど嬉しかった。
 そして迎えた、旅行当日。
 お母さんの運転する白い車は、海岸沿いの135号線を軽快に走り抜けていく。窓を開けると、潮の香りと共に、どこまでも青く広がる伊豆の海が目に飛び込んできた。太陽の光を浴びて、波がダイヤモンドみたいにキラキラと輝いている。
「すごい……! 本当に、海ってこんなに青いんだ……っ」
 私が窓に張り付くようにして声を上げると、助手席の蓮が振り返って、嬉しそうにニカッと笑った。
「だろ? 画面で見るのとは全然違うじゃん。らな、今日は遊び倒すからな!」
 最初に訪れたのは、大きな観覧車が目印の、海沿いの遊園地だった。
 お母さんと蓮に両手を引かれるようにしてゲートをくぐる。カラフルなアトラクション、楽しそうな音楽、ポップコーンの甘い匂い。すべてが私にとっての「初めて」だった。
「らなちゃん、まずはあのジェットコースターに乗りましょう!」
お母さんがお茶目に笑い、私たちは絶叫マシンに乗り込んで風を切った。大声を上げて笑うお母さんと、隣で「お袋、叫びすぎ!」と爆笑している蓮。私も気づけば、髪を振り乱しながらお腹の底から笑っていた。
 お昼には、蓮が念願だった海沿いの食事処で、こぼれ落ちそうなほどのいくらとマグロが乗った海鮮丼をたらふく食べた。蓮が「美味すぎてもう一杯いける」と言って本当におかわりしようとするのを、お母さんが「この後温泉宿のご飯があるんだから止めなさい!」と叱る一幕もあり、笑いが絶えなかった。
 夕方になり、私たちは宿泊先である老舗の温泉宿にチェックインした。部屋の窓を開けると、目の前には夕日に染まり始めた一面の海が広がっている。
「お袋、俺、ちょっとらなと散歩してくるわ」
 荷物を置き終えた蓮が、不意にそう言った。
「あら、良いわね。じゃあ私は一足先に温泉に浸かってこようかしら。二人でゆっくり歩いてきなさいね。あ、暗くなる前には戻るのよ?」
お母さんは私たちを見て、わざとらしくウィンクをしてみせた。
 宿を出て、波打ち際へと続く静かな浜辺を歩く。
 昼間の賑やかさが嘘のように、辺りにはザー、ザー、という規則正しい波の音だけが響いていた。太陽が水平線の彼方に沈みかけていて、空は燃えるような美しいオレンジ色から、深い紫色へとグラデーションを描いている。
 潮風が昼間よりも一段と冷たくなり、私は思わず、自分の肩をぎゅっと抱きしめるように身を縮めた。
「……ほら、これ着とけ」
 ぶっきらぼうな声と共に、私の肩に、ふわりと大きくて温かいものが掛けられた。
 驚いて見上げると、蓮が自分の着ていた黒いジップパーカーを脱いで、私の身体を包むように着せてくれていた。蓮は半袖のTシャツ姿になってしまい、少し寒そうに腕を組みながら、わざと視線を海の方へと逸らしている。その横顔の、耳の端が真っ赤だった。
「蓮くん……。でも、蓮くんが寒くなっちゃうよ?」
「俺はサッカー部で鍛えてるから平気。……らなを風邪ひかせたら、俺がお袋にガチで怒られるし」
 そう言って、蓮はふいっと私の先を歩き出した。
 私は、蓮のパーカーの袖にそっと腕を通した。私の身体には大きすぎるその服からは、蓮の、あの深夜におにぎりを作ってくれた時の柔軟剤の香りと、彼の男の子らしい温かい体温が、ダイレクトに伝わってきた。
 その瞬間、ドクン、と心臓が大きな音を立てた。顔が夕日のせいだけじゃなく、火を吹くように熱くなっていく。
(あ……私、蓮くんのこと……)
 昼間、かれんちゃんに「家族みたいな安心感」と言っていた言葉が、あまりにも都合の良い言い訳だったことに気づいてしまう。
 私は、蓮くんのことが好きだ。お兄ちゃんとしてじゃなく、一人の男の子として、胸が苦しくなるくらい、愛おしくてたまらない。その『恋心』を自覚した瞬間、私の視界にあるすべての景色が、さらに鮮やかに輝き始めた。
「らな」
 前を歩いていた蓮が立ち止まり、ゆっくりと振り返った。夕暮れの光に照らされた彼のシルエットは、いつもよりずっと大人びて見えて、胸が締め付けられる。
「……うん?」
「お前さ、さっき遊園地でジェットコースター乗ってるときとか、海鮮丼食べてるとき、すげー良い笑顔してた。俺……お前のそういう顔、これからもっともっと見たいわ」
 蓮の黒い瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。そこには、一切の誤魔化しも照れ隠しもない、本気の熱が宿っていた。
「最初はさ、お袋も言ってたけど、いなくなっちゃった妹を重ねてたところもあったかもしれない。でも、今は全然違う。お袋も俺も、お前が『蘭奈』だから、一緒にいたいんだ。おばあちゃんに言われたことなんて、全部忘れるくらい、俺たちがらなを幸せにする。だから……もう絶対に、自分のこと『邪魔』なんて言うなよ」
 波の音が、どこか遠くで聞こえる。
 蓮の言葉が、私の心の一番深いところに、温かい雨のように降り注いでいく。
「蓮くん……」
 私は、大きすぎるパーカーの襟をぎゅっと握りしめ、溢れそうになる涙を堪えながら、蓮の顔を上目遣いでのぞき込んだ。
「私……蓮くんの家に来て、本当に、本当によかった。おばあちゃんの家にいた時は、生きてるのも辛かったけど、今は毎日がすっごく楽しいの。……でも、私、迷惑いっぱいかけるかもしれない。本当に……ずっと、蓮くんの隣にいても、いいのかな……?」
 愛された記憶のない私が、勇気を振り絞って口にした、精一杯の言葉。
 それを聞いた瞬間、蓮は目を見開いて、数秒間完全にフリーズしてしまった。
 次の瞬間、彼は顔を両手で覆い、指の隙間から真っ赤になった顔を覗かせた。
「……っ、居ていいのかな、じゃなくて、居ろよ! ずっと俺の隣にいろ! 迷惑なんて一回も思ったことねーわ!」
 蓮は叫ぶように言うと、恥ずかしさを誤魔化すように、私の手首を掴んで宿の方へと歩き出した。繋がれた手首から、彼の激しい心臓の鼓動が伝わってくるみたいだった。
 空には一番星が瞬き始めていた。私は、蓮の背中を見つめながら、生まれて初めて、心からの満開の笑顔を咲かせていた。
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