Bitter Peach─この想いを、恋と呼べないまま─
10.潰れた和菓子
朝のひかりと珈琲の香りに誘われて、柚月はぼんやり目を覚ました。何度かまばたきをしてから身体を起こすと、そこはリビングのソファの上だった。
昨晩、ソファに横になってからのことはほとんど記憶がない。
輝生が何度か〝部屋に行け〟と言っていた気はするけれど柚月は起きられず、眠り続けてしまった。心の中がぐちゃぐちゃで、何も考えられなかった。何もしたくなかった。
なんとなく、輝生が優しい言葉をかけてくれた気がするけれど、思い出せなかった。慰めてくれていたような気もするけれど、それも思い出せなかった。もしかすると柚月の勘違いで、直幹にフラれたショックで敢えて幸せな夢を見ていたのかもしれない。
それでもただひとつ確かなのは、輝生は本当に柚月が嫌がることは全くしてこない。MOONのマスターが言っていたような心配は相変わらずないし、それどころか輝生は、部屋に勝手に入るな、というルールを守って柚月に彼の布団を掛けてくれていた。テーブルの上には昨夜からのティッシュと、その隣に水の入ったグラスがぽつんと置かれていた。
「起きたか? ──顔洗ってこい、ひどい顔してるぞ」
「目が重たい……」
水を一口飲んでから、柚月はまだ少し残る頭痛に抗いながら洗面所へ向かった。そして鏡で顔を見て泣き腫らした目蓋に直幹とのことを思い出したけれど、なぜかもう涙は出てこなかった。ゾンビのような自分の顔にため息をついて、目元を重点的に冷やした。
「今日、休みで良かったな」
リビングに戻ると、輝生はパンにジャムを塗っていた。柚月は週末を含んだ連休になっているけれど、アパレルで働く彼にそんなものはない。
「何か食うか?」
柚月は何も言わず、ただ首を横に振った。
「何か飲むか?」
「……カフェオレが良い」
二人とも牛乳は飲まないけれど、スティックタイプのカフェオレは常備していた。柚月の〝入れて〟という無言の要求に輝生は眉をひそめたけれど、黙ってそのままお湯を沸かしてくれた。
カップから上る湯気をぼんやり見ている間に、輝生は朝食を終えて仕事に行ってしまった。今日は早番のようで夕方に帰ってくるので、もし調子が良ければ何か作っておいてくれ、と玄関を閉めながら言っているのが聞こえた。柚月はまだ思考がはっきりしていなかったので、はーい、と文字だけの言葉を返した。
食欲はなかったので輝生が入れてくれたカフェオレを飲んだあと、ソファの隣に放置していた鞄からスマホを出して電源をつけた。直幹から連絡が入っているわけもなく、輝生からも何もなかったけれど、閉じようとしたときに母親からLINEが届いているのを見つけた。
『仕事と新居は慣れた? ところで昨日、直幹君から〝柚月が酔って寝てしまって、送りたいから住所を教えて〟って電話あったけど、無事に着いたん? お酒は飲みすぎたらダメよ!』
柚月がMOONで寝てしまったとき、直幹は柚月の実家に電話していたらしい。直幹は本当に柚月を心配してくれていたのに、怒らせて帰らせてしまった。悲しいけれど、きっともう、どうしようもない。
『新居は慣れたけど、仕事はまだまだ……。無事に送ってもらったよ』
直幹にフラれたことには触れず、無事に帰宅したことだけを書いて送信した。直幹とはもう会えないかもしれないし、もしかすると連絡をくれるかもしれないし、どちらにしても今は詳しく聞かれたくかった。
部屋に戻って鞄を置いて、とりあえず化粧を落とした。長く脚を締め付けていたスキニージーンズは脱いで、楽なルームウェアに着替えた。ジーンズのポケットから直幹と行った飲食店でもらったガムが出てきたけれど、また嫌なことを思い出しそうだったので勿体ないけれど捨ててしまった。
午後になり、ようやくお腹が空いてきたので何か食べようと冷蔵庫を開けた。すぐ見えるところにラップで包まれたおにぎりが二つ置かれていて、〝腹が減ったら食え。ラップで握ってるから安心しろ〟とメモが貼られていた。走り書きではあるけれど汚いわけではなく、柚月はそのメモを剥がしてしばらく見つめていた。やはり輝生は優しい人なのか、と思ったけれど、今はそれ以上のことは何も思わなかった。
少しは元気になったけれど考えることがまだ辛いので、深く考えなくてもできるカレーを作ることにした。野菜と肉を切って炒め、煮込んで灰汁を取って火を止めてからルーを入れる。これまでは煮込みの延長で加熱したままルーを入れていたけれど、火を止めるのが正解なのは輝生に言われて作り方を見てから知った。
「柚月、これ食うか?」
「なに?」
柚月が食事の用意をしていると、帰宅した輝生が鞄から何かを出してテーブルに置いた。輝生は店の従業員から、旅行のお土産のお菓子をもらったらしい。
「……ありがとう」
柚月が苦手なものではなく、好きで何度か食べたことがある和菓子だった。
「潰れてる……」
「ああ、悪い、もらって鞄に入れたの忘れて、上から物入れた」
味は変わらないだろう、と言う輝生の前で柚月は潰れたそれを見て、ため息をついた。
「まだ落ち込んでんの?」
「別に……そういうわけじゃ……。このまま田﨑さんとルームシェアしてると、彼氏できても同じことの繰り返しなんかな、って思って」
本当にルームシェアしているだけだ、と信じてくれれば良いけれど、言い出すのが怖い。
「それならさ、俺とルームシェアしてること、付き合う前に言っとけば?」
「……その時点で、嫌がられますよね。彼女の家に家族以外の男がいるって……。こっちも呼びたくても呼ばれへんし」
「そうだな。俺もそれ無理、吐き気する」
「ほら……。しばらく恋愛するのやめようかな……」
「──俺のせいにするな」
輝生は眉をひそめ、柚月は〝でも実際、影響してるじゃないですか〟と頬を膨らませた。
「でもまあ、仕事に集中するのはアリかもな」
柚月は何も言わなかった。
「まだ覚えきってないだろうし。打ち込んでたらそのうち、昨日のことも忘れるんじゃない? 同期と遊びに行くとか、大学の友達に会うとか」
輝生はお皿を持って立ち上がり、腹減った、と言いながら炊飯器からご飯を多めによそって、鍋からカレーを入れた。おかわりの二杯目も山盛りに入れるのを見て、柚月は少しだけ元気になった。
昨晩、ソファに横になってからのことはほとんど記憶がない。
輝生が何度か〝部屋に行け〟と言っていた気はするけれど柚月は起きられず、眠り続けてしまった。心の中がぐちゃぐちゃで、何も考えられなかった。何もしたくなかった。
なんとなく、輝生が優しい言葉をかけてくれた気がするけれど、思い出せなかった。慰めてくれていたような気もするけれど、それも思い出せなかった。もしかすると柚月の勘違いで、直幹にフラれたショックで敢えて幸せな夢を見ていたのかもしれない。
それでもただひとつ確かなのは、輝生は本当に柚月が嫌がることは全くしてこない。MOONのマスターが言っていたような心配は相変わらずないし、それどころか輝生は、部屋に勝手に入るな、というルールを守って柚月に彼の布団を掛けてくれていた。テーブルの上には昨夜からのティッシュと、その隣に水の入ったグラスがぽつんと置かれていた。
「起きたか? ──顔洗ってこい、ひどい顔してるぞ」
「目が重たい……」
水を一口飲んでから、柚月はまだ少し残る頭痛に抗いながら洗面所へ向かった。そして鏡で顔を見て泣き腫らした目蓋に直幹とのことを思い出したけれど、なぜかもう涙は出てこなかった。ゾンビのような自分の顔にため息をついて、目元を重点的に冷やした。
「今日、休みで良かったな」
リビングに戻ると、輝生はパンにジャムを塗っていた。柚月は週末を含んだ連休になっているけれど、アパレルで働く彼にそんなものはない。
「何か食うか?」
柚月は何も言わず、ただ首を横に振った。
「何か飲むか?」
「……カフェオレが良い」
二人とも牛乳は飲まないけれど、スティックタイプのカフェオレは常備していた。柚月の〝入れて〟という無言の要求に輝生は眉をひそめたけれど、黙ってそのままお湯を沸かしてくれた。
カップから上る湯気をぼんやり見ている間に、輝生は朝食を終えて仕事に行ってしまった。今日は早番のようで夕方に帰ってくるので、もし調子が良ければ何か作っておいてくれ、と玄関を閉めながら言っているのが聞こえた。柚月はまだ思考がはっきりしていなかったので、はーい、と文字だけの言葉を返した。
食欲はなかったので輝生が入れてくれたカフェオレを飲んだあと、ソファの隣に放置していた鞄からスマホを出して電源をつけた。直幹から連絡が入っているわけもなく、輝生からも何もなかったけれど、閉じようとしたときに母親からLINEが届いているのを見つけた。
『仕事と新居は慣れた? ところで昨日、直幹君から〝柚月が酔って寝てしまって、送りたいから住所を教えて〟って電話あったけど、無事に着いたん? お酒は飲みすぎたらダメよ!』
柚月がMOONで寝てしまったとき、直幹は柚月の実家に電話していたらしい。直幹は本当に柚月を心配してくれていたのに、怒らせて帰らせてしまった。悲しいけれど、きっともう、どうしようもない。
『新居は慣れたけど、仕事はまだまだ……。無事に送ってもらったよ』
直幹にフラれたことには触れず、無事に帰宅したことだけを書いて送信した。直幹とはもう会えないかもしれないし、もしかすると連絡をくれるかもしれないし、どちらにしても今は詳しく聞かれたくかった。
部屋に戻って鞄を置いて、とりあえず化粧を落とした。長く脚を締め付けていたスキニージーンズは脱いで、楽なルームウェアに着替えた。ジーンズのポケットから直幹と行った飲食店でもらったガムが出てきたけれど、また嫌なことを思い出しそうだったので勿体ないけれど捨ててしまった。
午後になり、ようやくお腹が空いてきたので何か食べようと冷蔵庫を開けた。すぐ見えるところにラップで包まれたおにぎりが二つ置かれていて、〝腹が減ったら食え。ラップで握ってるから安心しろ〟とメモが貼られていた。走り書きではあるけれど汚いわけではなく、柚月はそのメモを剥がしてしばらく見つめていた。やはり輝生は優しい人なのか、と思ったけれど、今はそれ以上のことは何も思わなかった。
少しは元気になったけれど考えることがまだ辛いので、深く考えなくてもできるカレーを作ることにした。野菜と肉を切って炒め、煮込んで灰汁を取って火を止めてからルーを入れる。これまでは煮込みの延長で加熱したままルーを入れていたけれど、火を止めるのが正解なのは輝生に言われて作り方を見てから知った。
「柚月、これ食うか?」
「なに?」
柚月が食事の用意をしていると、帰宅した輝生が鞄から何かを出してテーブルに置いた。輝生は店の従業員から、旅行のお土産のお菓子をもらったらしい。
「……ありがとう」
柚月が苦手なものではなく、好きで何度か食べたことがある和菓子だった。
「潰れてる……」
「ああ、悪い、もらって鞄に入れたの忘れて、上から物入れた」
味は変わらないだろう、と言う輝生の前で柚月は潰れたそれを見て、ため息をついた。
「まだ落ち込んでんの?」
「別に……そういうわけじゃ……。このまま田﨑さんとルームシェアしてると、彼氏できても同じことの繰り返しなんかな、って思って」
本当にルームシェアしているだけだ、と信じてくれれば良いけれど、言い出すのが怖い。
「それならさ、俺とルームシェアしてること、付き合う前に言っとけば?」
「……その時点で、嫌がられますよね。彼女の家に家族以外の男がいるって……。こっちも呼びたくても呼ばれへんし」
「そうだな。俺もそれ無理、吐き気する」
「ほら……。しばらく恋愛するのやめようかな……」
「──俺のせいにするな」
輝生は眉をひそめ、柚月は〝でも実際、影響してるじゃないですか〟と頬を膨らませた。
「でもまあ、仕事に集中するのはアリかもな」
柚月は何も言わなかった。
「まだ覚えきってないだろうし。打ち込んでたらそのうち、昨日のことも忘れるんじゃない? 同期と遊びに行くとか、大学の友達に会うとか」
輝生はお皿を持って立ち上がり、腹減った、と言いながら炊飯器からご飯を多めによそって、鍋からカレーを入れた。おかわりの二杯目も山盛りに入れるのを見て、柚月は少しだけ元気になった。