Bitter Peach─この想いを、恋と呼べないまま─

b2-2.町の人たち

 紫陽花まつりまで、あと数日になった。

 この日、柚月は朝から体調が悪かった。昨夜は寝るのが遅くなったので、寝不足かと思っていた。気合いを入れて出勤したけれど、仕事中に寒気がしてきたので午前中に早退をした。

 家に帰る前に向かったのは、冬木病院だ。
 大きな病院で、甲斐多町民からの信頼は厚い。ただし──院長はそれほど愛想は良くはない。

 診察室で診察を受けたあと、冬木院長は表情を変えずにカルテを見ていた。眼鏡の奥の目は冷たいし、口角も当然のように上がっていない。

「風邪ですね」
「ですよね……」

 熱っぽいことに加えて、頭痛、それから喉の痛みがある。

「無理をしましたか?」

 冬木院長は視線をカルテから柚月に移した。

「別にしてないですけど……」
「次の日曜日──紫陽花まつりは行く予定ですか?」
「え? ──今のとこ、そのつもりです」
「無理は禁物ですよ。楽しむのも良いですが、体調を優先してください」

 柚月は紫陽花まつりに誘われているけれど、相手が田﨑なので今のところそれほど気分は乗っていない。数日後に迫っているけれど、まだ〝友人を誘おうか〟と迷ってしまっている。
 冬木院長の言葉は正しいけれど、心の中で反論してしまう。

「失恋は意外と体力を削ります」
「……え?」

 思わぬ言葉に冬木院長を見ると、彼は既に視線をカルテに戻していた。指先で眼鏡を少し上げ、デスクの上のパソコンに処方する薬をカタカタと打ち込んでいく。

「精神的な負担は身体にも出ます」
「……そうなんですか?」
「そういうものです。特に失恋は、ダメージ大きいですよ」

 冬木院長は、パソコンを見つめたまま言った。

「春でしたか──、あなたの失恋の現場、見ましたよ」
「えっ」
「仕事帰りにたまたまですが」

 冬木院長はそれから淡々と柚月に薬の説明をした。熱が下がっても三日間は必ず飲むように、と言って、柚月の診察を終えた。

 会計を済ませて外に出ると、駐車場で茶トラの猫を見かけ、思わず足を止めた。
(あっ、蜜柑──違う、ちがう)
 元彼の直幹と付き合うきっかけになった茶トラの猫には、彼が〝蜜柑〟と名前をつけた。怪我をして捨てられていたのを柚月が見つけ、そのあと直幹が飼うことになった。蜜柑とは何度か遊んだけれど、もうきっと、会うことはない。


 処方された薬だけでは不安だったので、ゼリーやスポーツドリンクを買おうとスーパー壬生に寄った。
 すぐに帰るつもりだったけれど、運悪く店長に見つかってしまった。

「あれ? 柚月ちゃん、どうした? 顔色悪いけど」

 壬生店長は柚月を見つけると、大きな声で話しながら近づいてきた。

「風邪ひいてしまって……」
「わっ、大丈夫か? それなら──」

 壬生店長は柚月が持っていた買い物かごの中を見て少し考えたあと、近くの棚からプリンを取って柚月のかごに入れた。容器の裏側にツノがあって、器に乗せてプッチンするやつだ。

「えっ、ちょっと、何するんですか?」
「それから、えーっと、こっち!」

 壬生店長は柚月が持つかごを引っ張りながら店内をまわり、冷凍うどんとレトルトのお粥も勝手にかごに入れた。

「なんで入れるんですか」
「風邪の時は食え! 治る近道だ!」

 追加した分は俺が払うから別会計で、とレジのアルバイトに言いながら、壬生店長はかごの中身をすべて柚月に持たせた。
 柚月が戸惑いながら礼を言っていると、彼は思い出したように言った。

「そういや田﨑、深刻な顔してたぞ」
「え? 田﨑さん?」
「昨日な」

 田﨑とはよく話をするけれど、悩んでいるようなことは何も聞いていない。だからきっと柚月に話してもどうしようもない、仕事のことかもしれない。
 だから特に気にしない、はずだったけれど、彼から紫陽花まつりに誘われていることを思い出して、風邪が治らなかった場合のことを考えてしまう。

 壬生店長は、なぜか少し笑っていた。

「あいつ、柚月ちゃんの話したら黙ったけど」
「え?」
「あいつと行くんだろ? 紫陽花まつり」
「……なんで知ってるんですか?」
「やっぱり! なんとなく、そんな気がした! そっかー。あいつ澄ましてるし、仕事できるっぽいけど、難しい顔してたから! プライベートの悩みかと思って!」
「……田﨑さんはいつも、難しい顔してますよ」
「あ、確かに! ……あっ、ごめん柚月ちゃん、早く帰って休んで!」

 妙に明るい壬生店長に見送られ、柚月はスーパーを出た。
 田﨑が何に悩んでいるのか知っているか、とMOONのマスターに聞こうかと思ったけれどまだ営業時間ではないし、昼間は違う人が季節に合わせて甘味屋をしているらしい。柚月はまだ行ったことがないけれど、梅雨が明けたら散歩がてら休日に行ってみたいな、と思う。


 夕方、早めに夕食をとって薬を飲んで休んでいると、スマホにメッセージが届いた。

『風邪らしいな』

 差出人は、田﨑だった。
 彼に事情を伝えたのは、きっと壬生店長だ。どちらかというと冬木院長のほうが田﨑と性格は似ているけれど、壬生店長は住人たちと仲良くなりたがる。

 柚月と田﨑は特別親しいわけではない。それでも心配してくれる人がいることに、柚月は胸の奥が温かくなった。熱のせいでぼおっとしているのかもしれないけれど、連絡をしてくれた壬生店長や田﨑に感謝してしまう。この想いは、恋愛感情とは別だ。
 田﨑から〝冬木院長と壬生店長は恋人候補にどうだ?〟と聞かれたことを思い出して、この日の出来事を振り返った。冬木院長は相変わらず淡々としていて本心が分からないし、壬生店長は賑やかすぎてついていけなかった。

 だから柚月はやはり身近に恋人候補はいないし、田﨑もなんとなく嫌だ。
 彼が格好良いことは認めるけれど、そういう風に見たことはない。第一、柚月が直幹にふられた現場には田﨑もいたので、彼のせいでふられたとも言える。MOONのマスターも、冬木院長も、壬生店長も妙に柚月に田﨑の話をしてくるけれど、柚月はいまのところ、彼にはあまり興味がない。

 田﨑は甲斐多町の外にある有名アパレルの店長だ。職場には女性が多いし、学生の頃からモテる、と自分で言っているのも聞いたことがある。恋愛相手にはきっと、困っていないだろう。


 柚月が田﨑に送るメッセージには、感情は入らない。

『大丈夫です』

 送信してから数分後、スマホが震えた。

『紫陽花まつりまでに治せ』

 田﨑からのメッセージも、いつも短い。
 それよりも、まるで彼と紫陽花まつりに行くことが確定しているようで、ため息が出てしまう。
 話すときは難しい顔をしているし、ぶっきらぼうで、何を考えているのか分からない。
 紫陽花まつりに誘われた理由も、いまだに分からない。柚月に気を遣ってくれたのか、本当にねこさん饅頭が目当てだったのか、まつりのメインイベント・紫陽花の品評会なのか、教えてくれなかった。

 田﨑の勤務は三パターンあって、長い日は開店前から閉店後までと聞いたことがある。もしかすると彼は、柚月が起きているうちに、と早めに連絡をくれたのかもしれない。少しの休憩時間にメッセージをくれたのなら、長文の返事をしてもすぐには読んでもらえないかもしれない。

 柚月は『ありがとうございます』と打って、続きに『紫陽花まつりに治らなかったらすみません』と入れようとしていたのをすべて消した。
 何も返さなくても彼なら気にしないと思い、スマホを枕元に伏せてから目を閉じた。
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