Bitter Peach─この想いを、恋と呼べないまま─
b2-3.紫陽花まつり
六月二十一日、日曜日、紫陽花まつり当日。
雨粒が窓を叩く音で柚月は目を覚ました。
せっかくの日曜日だというのに曇り空で、低気圧のせいか僅かに頭も痛い。耳のマッサージをすれば良いらしい、と聞いたことを思い出して耳に手を当てる。
それを教えてくれたのは田﨑だった。
柚月は結局、紫陽花まつりに友人を誘えなかった。風邪が治るか分からなかったし、先に誘ってきた田﨑にも申し訳なかった。
今は雨が降っているけれど、午後からは晴れる予報なのでまつりは開催される。田﨑から〝ねこさん饅頭だけ頼む〟とメッセージが届いていた。彼は日曜日も仕事なので、ねこさん饅頭を買いに来られないことを残念がっていた。
ぼんやり窓の外を見ていると、首と肩で傘を挟みながら、育てた紫陽花を抱えて中央広場へ向かう人の姿が見えた。
柚月は気づけば、クローゼットから白いブラウスと、露草色のスカートを出していた。紫陽花の色に似ている気がした。
午後になり、窓の外は青空が見え始めた。
念のため鞄の中に折り畳み傘を入れて、柚月は中央広場へ向かう。町中の人たちが広場に集まり、噴水の周りに並べられたたくさんの紫陽花を見ていた。
「おっ、柚月ちゃん!」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、スーパー壬生のジャンパーを着た壬生店長が出店の支度をしていた。
「風邪は治った?」
「はい……。それ、油ですか?」
壬生店長の足元には一斗缶が並んでいた。
「そう! コロッケ売るんだ! 紫陽花に負けないくらいデカいやつ!」
「へぇ……。あとで買いに来ますね」
品評会のあと、午後三時から五時まで広場はキッチンカーや屋台が並ぶらしい。受付でもらったチラシには、〝ベーカリー姫子〟から紫陽花メロンパンとねこ型クリームパンも売られると書いていた。
もちろん、ねこさん饅頭もある。
製造する和菓子屋は受付の隣にテントを建て、数量限定で紫芋味のねこさん饅頭も販売されるらしい。
「だいぶ顔色は良くなりましたね」
「えっ? ……あっ、先生」
柚月が壬生店長と話すのを、後ろから冬木院長が見ていた。
「雨は上がる予報ですが、無理はいけませんよ」
「はい……」
それだけ言うと、冬木院長はどこかへ行ってしまった。
午後一時、鳩羽町長の挨拶で紫陽花の品評会が始まった。
住民たちは紫陽花に注目したいけれど、町長の挨拶が長い。
小さい子供はだるそうにしているし、大人でも欠伸をしている人はいた。柚月は初めての紫陽花まつりなので頑張って聞いた──けれど、町長が何を話していたかはほとんど記憶にない。
ただ〝デカい紫陽花は良いよね! 何でもデカいのが良いよね!〟という謎の演説を子守唄のように聞いた。
品評会の結果も気になったけれど、柚月は品評会を途中で抜けて和菓子屋のテントに向かった。既にねこさん饅頭目当ての住民たちが列を作っていて、柚月は最後尾についた。
数量限定の紫芋味のねこさん饅頭も買えそうで、待ち時間に田﨑にメッセージを送る。
『ねこさん饅頭、買えそうです』
『良かった。なるべく早く行く』
もともと彼からの長いメッセージは期待していない。
今は仕事中なので、そんな時間もない。
通常のねこさん饅頭と紫芋味のねこさん饅頭を二つずつ手に入れたあと、他の店の列にも並んだ。
そのあと紫陽花の品評会に戻り、最後の結果まで聞いた。
優勝した紫陽花は、柚月が見たことないくらい大きかった。
紫陽花まつりに来ていた人たちは、ほとんどが家族や友人、恋人と一緒だった。けれど柚月はまだ一人で、誘ってきた田﨑はまだ到着していない。
「柚月ちゃん!」
声の主は、壬生店長だった。
「あれ? まだ一人? 田﨑と来るって言ってなかった?」
「そうなんですけど、田﨑さん仕事なんで遅れるって」
「ふぅん。あっ、そうだ、これやるよ!」
壬生店長は柚月に小さなレジ袋を渡した。
中に入っていたのは、コロッケと一緒に売られていた唐揚げだ。
「良いんですか?」
「うん! どうせ田﨑、腹空かせて来るだろうし、やって」
ありがとうございます、と柚月がお礼を言うのを聞きながら、壬生店長は去っていってしまった。
午後六時を過ぎた頃だった。
「すまん、待たせたな」
田﨑が到着した。
彼は車は家に停めてきたらしく、走ってきたのか少し息を切らしていた。
「もう、紫陽花の品評会も屋台も終わりましたよ」
「……みたいだな」
品評会の会場や屋台はすべて撤去されていた。
中央広場に残っているのは出展されたたくさんの紫陽花だ。日が落ちてライトアップされ、この時間は白と青の照明がにじむ。
「風邪は治ったのか?」
「……一応」
「無理するなよ」
長く一人で待っていたせいか、その一言が妙に嬉しかった。
「あっ、これ、ねこさん饅頭です」
柚月が饅頭を渡すと、田﨑の頬が緩む。
やはり彼はねこさん饅頭が目当てだったのかと思ったけれど、それは言わないでおく。
「あと、コロッケと唐揚げと、メロンパンとクリームパンです。唐揚げは、店長がくれました」
噴水に並んで腰掛け、コロッケと唐揚げを食べた。
壬生店長が言っていた通りコロッケは大きく、唐揚げを食べるとお腹いっぱいになった。パンは持って帰ることにして、ライトアップされた紫陽花をぼんやり見ていた。
ライブが始まったようで、音楽が聴こえる。
「これは……〝リルド&シリウス〟かな?」
「ああ、そこの雑貨店のアイドルか。なかなかやるな」
「あと、〝CJ〟と〝SODA FISH〟も出る、って貼ってましたよね」
「こんな小せぇ町に、よくこんなに……」
田﨑の言葉は途中で音楽に溶けて消える。
長時間なにも言わなくても、居心地が悪くはならなかった。
いつの間にかライトアップも、紫色に変わっていた。
「そういえば田﨑さん、紫陽花の品評会の優勝したやつ、これです」
柚月は優勝した紫陽花の写真を見せた。
「……デカすぎるだろ」
「ですよね。品評会が始まってから、一番大きいらしいです」
「──意味わかんねぇな」
田﨑はふたたび黙ってライブを聴いていた。
普段あまり見ない彼のリラックスした表情に、柚月は思わず直幹を思い出してしまった。直幹もこういう顔で笑っていた気がする。
紫陽花のライトアップが、淡いピンク色に変わっていた。
「確かピンクになったら、終わりの合図だって言ってたよな」
空を見上げると、月が出ていた。
「MOONだな」
「……ですね」
淡いピンク色にライトアップされた紫陽花と、空には上弦の月。
綺麗だと思う──けれど、田﨑にわざわざ言う言葉でもない。
本当なら柚月は、直幹と来る予定だった。
それは田﨑も、きっと分かっている。
それでも今日、誘ってくれたことには感謝していた。
「……来て良かったです」
柚月が言うと、田﨑は少しだけ視線を逸らした。
「そうか」
短い返事だったけれど。
ほんの少しだけ嬉しそうに聞こえた。
やがて会場のスピーカーから、閉会の案内が流れた。
「帰るか」
「はい」
立ち上がり、噴水の周りの紫陽花を見ながら並んで歩いた。
「そういえば、聞いたか? ショコラトリーのこと」
「ショコラトリー?」
「MOONの近くにできたらしいぞ」
「えっ、どこですか?」
「和菓子屋の隣らしい。確か、シロガネとか言ってたな」
月明かりが田﨑の横顔を照らしていた。
彼と紫陽花は似合わないけれど、その景色は綺麗だった。
そして柚月はふと思った。
来年ももし来るなら、一緒に来る相手は。
春からルームシェアをしている相手──田﨑かもしれない、と。
上弦の月は、まだ満ちていく途中だった。
雨粒が窓を叩く音で柚月は目を覚ました。
せっかくの日曜日だというのに曇り空で、低気圧のせいか僅かに頭も痛い。耳のマッサージをすれば良いらしい、と聞いたことを思い出して耳に手を当てる。
それを教えてくれたのは田﨑だった。
柚月は結局、紫陽花まつりに友人を誘えなかった。風邪が治るか分からなかったし、先に誘ってきた田﨑にも申し訳なかった。
今は雨が降っているけれど、午後からは晴れる予報なのでまつりは開催される。田﨑から〝ねこさん饅頭だけ頼む〟とメッセージが届いていた。彼は日曜日も仕事なので、ねこさん饅頭を買いに来られないことを残念がっていた。
ぼんやり窓の外を見ていると、首と肩で傘を挟みながら、育てた紫陽花を抱えて中央広場へ向かう人の姿が見えた。
柚月は気づけば、クローゼットから白いブラウスと、露草色のスカートを出していた。紫陽花の色に似ている気がした。
午後になり、窓の外は青空が見え始めた。
念のため鞄の中に折り畳み傘を入れて、柚月は中央広場へ向かう。町中の人たちが広場に集まり、噴水の周りに並べられたたくさんの紫陽花を見ていた。
「おっ、柚月ちゃん!」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、スーパー壬生のジャンパーを着た壬生店長が出店の支度をしていた。
「風邪は治った?」
「はい……。それ、油ですか?」
壬生店長の足元には一斗缶が並んでいた。
「そう! コロッケ売るんだ! 紫陽花に負けないくらいデカいやつ!」
「へぇ……。あとで買いに来ますね」
品評会のあと、午後三時から五時まで広場はキッチンカーや屋台が並ぶらしい。受付でもらったチラシには、〝ベーカリー姫子〟から紫陽花メロンパンとねこ型クリームパンも売られると書いていた。
もちろん、ねこさん饅頭もある。
製造する和菓子屋は受付の隣にテントを建て、数量限定で紫芋味のねこさん饅頭も販売されるらしい。
「だいぶ顔色は良くなりましたね」
「えっ? ……あっ、先生」
柚月が壬生店長と話すのを、後ろから冬木院長が見ていた。
「雨は上がる予報ですが、無理はいけませんよ」
「はい……」
それだけ言うと、冬木院長はどこかへ行ってしまった。
午後一時、鳩羽町長の挨拶で紫陽花の品評会が始まった。
住民たちは紫陽花に注目したいけれど、町長の挨拶が長い。
小さい子供はだるそうにしているし、大人でも欠伸をしている人はいた。柚月は初めての紫陽花まつりなので頑張って聞いた──けれど、町長が何を話していたかはほとんど記憶にない。
ただ〝デカい紫陽花は良いよね! 何でもデカいのが良いよね!〟という謎の演説を子守唄のように聞いた。
品評会の結果も気になったけれど、柚月は品評会を途中で抜けて和菓子屋のテントに向かった。既にねこさん饅頭目当ての住民たちが列を作っていて、柚月は最後尾についた。
数量限定の紫芋味のねこさん饅頭も買えそうで、待ち時間に田﨑にメッセージを送る。
『ねこさん饅頭、買えそうです』
『良かった。なるべく早く行く』
もともと彼からの長いメッセージは期待していない。
今は仕事中なので、そんな時間もない。
通常のねこさん饅頭と紫芋味のねこさん饅頭を二つずつ手に入れたあと、他の店の列にも並んだ。
そのあと紫陽花の品評会に戻り、最後の結果まで聞いた。
優勝した紫陽花は、柚月が見たことないくらい大きかった。
紫陽花まつりに来ていた人たちは、ほとんどが家族や友人、恋人と一緒だった。けれど柚月はまだ一人で、誘ってきた田﨑はまだ到着していない。
「柚月ちゃん!」
声の主は、壬生店長だった。
「あれ? まだ一人? 田﨑と来るって言ってなかった?」
「そうなんですけど、田﨑さん仕事なんで遅れるって」
「ふぅん。あっ、そうだ、これやるよ!」
壬生店長は柚月に小さなレジ袋を渡した。
中に入っていたのは、コロッケと一緒に売られていた唐揚げだ。
「良いんですか?」
「うん! どうせ田﨑、腹空かせて来るだろうし、やって」
ありがとうございます、と柚月がお礼を言うのを聞きながら、壬生店長は去っていってしまった。
午後六時を過ぎた頃だった。
「すまん、待たせたな」
田﨑が到着した。
彼は車は家に停めてきたらしく、走ってきたのか少し息を切らしていた。
「もう、紫陽花の品評会も屋台も終わりましたよ」
「……みたいだな」
品評会の会場や屋台はすべて撤去されていた。
中央広場に残っているのは出展されたたくさんの紫陽花だ。日が落ちてライトアップされ、この時間は白と青の照明がにじむ。
「風邪は治ったのか?」
「……一応」
「無理するなよ」
長く一人で待っていたせいか、その一言が妙に嬉しかった。
「あっ、これ、ねこさん饅頭です」
柚月が饅頭を渡すと、田﨑の頬が緩む。
やはり彼はねこさん饅頭が目当てだったのかと思ったけれど、それは言わないでおく。
「あと、コロッケと唐揚げと、メロンパンとクリームパンです。唐揚げは、店長がくれました」
噴水に並んで腰掛け、コロッケと唐揚げを食べた。
壬生店長が言っていた通りコロッケは大きく、唐揚げを食べるとお腹いっぱいになった。パンは持って帰ることにして、ライトアップされた紫陽花をぼんやり見ていた。
ライブが始まったようで、音楽が聴こえる。
「これは……〝リルド&シリウス〟かな?」
「ああ、そこの雑貨店のアイドルか。なかなかやるな」
「あと、〝CJ〟と〝SODA FISH〟も出る、って貼ってましたよね」
「こんな小せぇ町に、よくこんなに……」
田﨑の言葉は途中で音楽に溶けて消える。
長時間なにも言わなくても、居心地が悪くはならなかった。
いつの間にかライトアップも、紫色に変わっていた。
「そういえば田﨑さん、紫陽花の品評会の優勝したやつ、これです」
柚月は優勝した紫陽花の写真を見せた。
「……デカすぎるだろ」
「ですよね。品評会が始まってから、一番大きいらしいです」
「──意味わかんねぇな」
田﨑はふたたび黙ってライブを聴いていた。
普段あまり見ない彼のリラックスした表情に、柚月は思わず直幹を思い出してしまった。直幹もこういう顔で笑っていた気がする。
紫陽花のライトアップが、淡いピンク色に変わっていた。
「確かピンクになったら、終わりの合図だって言ってたよな」
空を見上げると、月が出ていた。
「MOONだな」
「……ですね」
淡いピンク色にライトアップされた紫陽花と、空には上弦の月。
綺麗だと思う──けれど、田﨑にわざわざ言う言葉でもない。
本当なら柚月は、直幹と来る予定だった。
それは田﨑も、きっと分かっている。
それでも今日、誘ってくれたことには感謝していた。
「……来て良かったです」
柚月が言うと、田﨑は少しだけ視線を逸らした。
「そうか」
短い返事だったけれど。
ほんの少しだけ嬉しそうに聞こえた。
やがて会場のスピーカーから、閉会の案内が流れた。
「帰るか」
「はい」
立ち上がり、噴水の周りの紫陽花を見ながら並んで歩いた。
「そういえば、聞いたか? ショコラトリーのこと」
「ショコラトリー?」
「MOONの近くにできたらしいぞ」
「えっ、どこですか?」
「和菓子屋の隣らしい。確か、シロガネとか言ってたな」
月明かりが田﨑の横顔を照らしていた。
彼と紫陽花は似合わないけれど、その景色は綺麗だった。
そして柚月はふと思った。
来年ももし来るなら、一緒に来る相手は。
春からルームシェアをしている相手──田﨑かもしれない、と。
上弦の月は、まだ満ちていく途中だった。


