Bitter Peach
3.卒業式の日
せっかくの春なのに、柚月はものすごくモヤモヤしていた。大学の卒業式のために着ている黒いスーツのように心も重く、荷物はほとんどないはずなのに、鞄も重かった。大学の教室に入って席に着き、大きなため息をついた。
輝生が車で運んできた荷物を彼の部屋に運んだあと、これからの生活の細かいルールを決めた。
お互いの部屋には勝手に入らないこと。
人を招くときはあらかじめ伝えておくこと。
家事はできるだけ分担すること──ただし、洗濯物は別にすること。
お風呂は基本的に、柚月が先に入ること。
帰りが遅くなるときは伝えておくこと。
『柚月、明日は友達と飲み会とかあんの?』
『いえ……ランチは行くかもやけど、そのまま帰ってきます』
『じゃあ──適当に何か作っとく』
『一緒に食べるんですか?』
『嫌?』
『いえ、別に……』
輝生は休みがあと一日あるようで、夕食を用意しておいてくれると言った。職場へ持っていく手土産を探しに、散歩がてら買い物の予定にしていたらしい。明日が卒業式だとは最初に伝えていた。
『料理できるんですか?』
『まぁ、それなりに。レシピはネットにいっぱい載ってるし』
柚月はこれまでほとんどキッチンに立つことがなかったので、できる料理は数えるほどしかない。家事を分担するとは決めたけれど、柚月が料理担当のときは何を作ろうか、と不安しかなかった。
「おはよう柚月! 何見てんの?」
友人たちが近くの席に座り、柚月に聞いた。柚月がスマホで見ていたのは、料理のレシピだ。
「そういえば柚月って、一人暮らしするんやったっけ?」
「だから料理覚えようとしてんの?」
「それがさぁ……、ちょっと、聞いてくれる?」
柚月は見ていたスマホの画面を閉じて、昨日の出来事を話した。ルームシェアする相手が年上男性だったと言うと、友人たちは悲鳴をあげていた。
「無理無理無理無理、私そんなん無理」
「その人さぁ、格好良いん?」
「いや、格好良くても、知らん男となんか無理やわ」
「しかも柚月さぁ、彼氏おるやん? バレたら修羅場やで」
輝生が悪い人だとは思わなかったけれど。
お風呂上がりで素っぴんパジャマの柚月のほうは見ないようにしてくれていたけれど。
それでも初対面の男性が隣の部屋にいると思うと、柚月は緊張してなかなか眠れなかった。おかげで少し寝坊したけれど、大学に早くに到着できたのは、輝生が朝食を作ってくれていたからだ。
「えっ、良い人やん」
「しかも、晩ごはんも用意してくれるんやろ?」
「うん、今日はあの人がごはん担当……」
冷蔵庫には柚月の母親が持たせてくれたものをいろいろ入れてあったので、そこから鮭を選んで焼いて、味噌汁も鍋で作ってくれていた。目玉焼きの黄身の固さが柚月の好み通りで、思わず感動してしまった。
「危ないなぁ、柚月、惚れんように気ぃつけや」
「ないない、良い人やと思うけど、ちょっと冷たいし。それに、彼氏のほうが格好良いし」
「出たぁー」
輝生もそれなりに格好良いけれど、本当に柚月は直幹のほうが顔は好みだった。大学も良いところだったので告白されたときは何の迷いもなくOKして、直幹は柚月の中で交際期間がもっとも長い恋人になった。一年が経つ頃にホテルに誘われて、そういう関係になった。直幹はきちんとしている人なので、今のところ月のものが来なかったことはない。
だから本当に、柚月も輝生には特に興味がない。輝生がどんなにモテる人だとしても、直幹を手放す選択肢は柚月にはない。
まだ輝生の仕事のリズムが分からないけれど、家で顔を合わせるのは基本的に朝と夜だけだ。異動と入社という二人とも新しい環境になる事情で歓送迎会が開かれる可能性がある以外は、帰宅前に寄り道してくる予定は輝生はないらしい。柚月は学生から社会人になるので生活のイメージが難しいけれど、せめて食事当番のときは早く帰りたい。
「柚月さぁ、彼氏と何年やったっけ?」
「えーっと……三年半くらい」
「長いなぁ。結婚の話しとかしてるん?」
「ううん。親に会ったことはあるけど彼氏も学生のときやったし、最近はデートも……」
直幹は仕事の疲れが溜まっているようで、待ち合わせはいつの間にか土曜の午後のことが増えた。車で迎えに来てくれるのでありがたいし、柚月のことを考えてくれているのがいつも伝わってきた。だからドライブのあと夕食を食べてそれからホテルへ──、というワンパターンなデートになってしまっても、柚月は特に不満を言わなかった。将来の話はいつも流されてしまうけれど、それでも直幹と会える時間が柚月は幸せだった。
『アレルギーある?』
そんな短いLINEが届いたのは、柚月が友人たちとカフェで甘いものを食べていたときだった。大学の卒業式を終えてランチのあと、同じ方面に帰る友人たちが愚痴を聞いてくれた。
送ってきたのは、輝生だ。最低限の連絡は取れる方が良い、と同じ意見だったのでLINEと電話番号を交換は昨日のうちにしていた。輝生はこれから晩ご飯の買い物をするらしい。
柚月は少し眉間に皺を寄せてから、LINEの返信を打った。
『ないです。乳製品は好きですが牛乳単独とか牛乳の風味が強いやつは苦手です』
送信して少しすると、既読がついた。
『なにそれ?』
説明が面倒だったので、これとこれは苦手、と具体的に名前を出して教えた。
柚月が文字を打っている画面を、隣に座る友人が見ていたらしい。
「柚月、甘いの好きじゃなかったん? 今もチーズケーキ食べてるやん?」
「好きやけど、子供の頃から牛乳とかチーズとかバターとか苦手でさぁ。ちょっとずつ食べれるようになって今は好きやけど、牛乳が強いやつはいまだにあかんねん」
あれとかこれとか、と柚月が具体例に挙げるのは、お土産で定番のお菓子ばかりだ。あまりに有名すぎてもらう機会も多いけれど、何回チャレンジしても苦手なのは変わっていなかった。
『いつ頃帰る?』
『夕方には帰ります』
輝生がアレルギーを聞いてくれたのは嬉しかったけれど。
友人たちに輝生のことをいろいろ聞かれて、直幹に知られたらどうなるのかさんざん言われて、卒業式の午前よりもカフェでの午後のほうが疲れてしまった。
輝生が車で運んできた荷物を彼の部屋に運んだあと、これからの生活の細かいルールを決めた。
お互いの部屋には勝手に入らないこと。
人を招くときはあらかじめ伝えておくこと。
家事はできるだけ分担すること──ただし、洗濯物は別にすること。
お風呂は基本的に、柚月が先に入ること。
帰りが遅くなるときは伝えておくこと。
『柚月、明日は友達と飲み会とかあんの?』
『いえ……ランチは行くかもやけど、そのまま帰ってきます』
『じゃあ──適当に何か作っとく』
『一緒に食べるんですか?』
『嫌?』
『いえ、別に……』
輝生は休みがあと一日あるようで、夕食を用意しておいてくれると言った。職場へ持っていく手土産を探しに、散歩がてら買い物の予定にしていたらしい。明日が卒業式だとは最初に伝えていた。
『料理できるんですか?』
『まぁ、それなりに。レシピはネットにいっぱい載ってるし』
柚月はこれまでほとんどキッチンに立つことがなかったので、できる料理は数えるほどしかない。家事を分担するとは決めたけれど、柚月が料理担当のときは何を作ろうか、と不安しかなかった。
「おはよう柚月! 何見てんの?」
友人たちが近くの席に座り、柚月に聞いた。柚月がスマホで見ていたのは、料理のレシピだ。
「そういえば柚月って、一人暮らしするんやったっけ?」
「だから料理覚えようとしてんの?」
「それがさぁ……、ちょっと、聞いてくれる?」
柚月は見ていたスマホの画面を閉じて、昨日の出来事を話した。ルームシェアする相手が年上男性だったと言うと、友人たちは悲鳴をあげていた。
「無理無理無理無理、私そんなん無理」
「その人さぁ、格好良いん?」
「いや、格好良くても、知らん男となんか無理やわ」
「しかも柚月さぁ、彼氏おるやん? バレたら修羅場やで」
輝生が悪い人だとは思わなかったけれど。
お風呂上がりで素っぴんパジャマの柚月のほうは見ないようにしてくれていたけれど。
それでも初対面の男性が隣の部屋にいると思うと、柚月は緊張してなかなか眠れなかった。おかげで少し寝坊したけれど、大学に早くに到着できたのは、輝生が朝食を作ってくれていたからだ。
「えっ、良い人やん」
「しかも、晩ごはんも用意してくれるんやろ?」
「うん、今日はあの人がごはん担当……」
冷蔵庫には柚月の母親が持たせてくれたものをいろいろ入れてあったので、そこから鮭を選んで焼いて、味噌汁も鍋で作ってくれていた。目玉焼きの黄身の固さが柚月の好み通りで、思わず感動してしまった。
「危ないなぁ、柚月、惚れんように気ぃつけや」
「ないない、良い人やと思うけど、ちょっと冷たいし。それに、彼氏のほうが格好良いし」
「出たぁー」
輝生もそれなりに格好良いけれど、本当に柚月は直幹のほうが顔は好みだった。大学も良いところだったので告白されたときは何の迷いもなくOKして、直幹は柚月の中で交際期間がもっとも長い恋人になった。一年が経つ頃にホテルに誘われて、そういう関係になった。直幹はきちんとしている人なので、今のところ月のものが来なかったことはない。
だから本当に、柚月も輝生には特に興味がない。輝生がどんなにモテる人だとしても、直幹を手放す選択肢は柚月にはない。
まだ輝生の仕事のリズムが分からないけれど、家で顔を合わせるのは基本的に朝と夜だけだ。異動と入社という二人とも新しい環境になる事情で歓送迎会が開かれる可能性がある以外は、帰宅前に寄り道してくる予定は輝生はないらしい。柚月は学生から社会人になるので生活のイメージが難しいけれど、せめて食事当番のときは早く帰りたい。
「柚月さぁ、彼氏と何年やったっけ?」
「えーっと……三年半くらい」
「長いなぁ。結婚の話しとかしてるん?」
「ううん。親に会ったことはあるけど彼氏も学生のときやったし、最近はデートも……」
直幹は仕事の疲れが溜まっているようで、待ち合わせはいつの間にか土曜の午後のことが増えた。車で迎えに来てくれるのでありがたいし、柚月のことを考えてくれているのがいつも伝わってきた。だからドライブのあと夕食を食べてそれからホテルへ──、というワンパターンなデートになってしまっても、柚月は特に不満を言わなかった。将来の話はいつも流されてしまうけれど、それでも直幹と会える時間が柚月は幸せだった。
『アレルギーある?』
そんな短いLINEが届いたのは、柚月が友人たちとカフェで甘いものを食べていたときだった。大学の卒業式を終えてランチのあと、同じ方面に帰る友人たちが愚痴を聞いてくれた。
送ってきたのは、輝生だ。最低限の連絡は取れる方が良い、と同じ意見だったのでLINEと電話番号を交換は昨日のうちにしていた。輝生はこれから晩ご飯の買い物をするらしい。
柚月は少し眉間に皺を寄せてから、LINEの返信を打った。
『ないです。乳製品は好きですが牛乳単独とか牛乳の風味が強いやつは苦手です』
送信して少しすると、既読がついた。
『なにそれ?』
説明が面倒だったので、これとこれは苦手、と具体的に名前を出して教えた。
柚月が文字を打っている画面を、隣に座る友人が見ていたらしい。
「柚月、甘いの好きじゃなかったん? 今もチーズケーキ食べてるやん?」
「好きやけど、子供の頃から牛乳とかチーズとかバターとか苦手でさぁ。ちょっとずつ食べれるようになって今は好きやけど、牛乳が強いやつはいまだにあかんねん」
あれとかこれとか、と柚月が具体例に挙げるのは、お土産で定番のお菓子ばかりだ。あまりに有名すぎてもらう機会も多いけれど、何回チャレンジしても苦手なのは変わっていなかった。
『いつ頃帰る?』
『夕方には帰ります』
輝生がアレルギーを聞いてくれたのは嬉しかったけれど。
友人たちに輝生のことをいろいろ聞かれて、直幹に知られたらどうなるのかさんざん言われて、卒業式の午前よりもカフェでの午後のほうが疲れてしまった。