仔猫のパティスリー
5・仔猫は拒絶する
梅雨もすっかり明け、廊下の窓からは夏の日差しが降り注いでいる。期末試験期間はあと一週間続くが、あたしの受講講義は今日で全ての試験が終わった。
あたしは冷房の効いていない研究室棟の廊下を、キャミソールにデニムのミニスカート言う涼を求めた服装で歩いていた。冷房対策で綿のジャケットは持っていたが、今は鞄の中だ。
「おーい、藤崎」
背後からあたしを呼ぶ声に足を止め、振り返るとそこにはあたしが本来希望していたゼミの教授、永井が爽やかな笑みと共に手を振っていた。
「永井先生」
永井は現代文学の教授で、現代女性作家の論文をいくつも書いている。指導も熱心で、生徒からの信用も厚い。自分の研究にばかり熱心で、教卓に向けて授業をする教授が多い中、永井は基本的な板書はしつつ学生の興味を引き出す、とても情熱的な教員だった。
「橘のゼミはどうだ?」
「意外と面白いですよ。ホントは永井先生のゼミが良かったですけど」
先生は自分の研究室に戻るところだったのだろう、あたしたちは並んで歩き出した。
「そうか。俺のゼミにも藤崎は欲しかったんだが、橘のラブコールがなぁ」
そう言うと永井は苦笑した。しかし、その表情は悪戯をした少年のようで、あたしは永井の言葉を待つ。橘は永井と特に仲がいいようで、飲みに行くことも多いと聞くが、橘は彼に何を話しているのだろう。
「付き合ってるんだろう?」
さらりとこの人は何か恐ろしいことを言った気がする。
「はい?」
何かの聞き間違いだろうか。付き合っている? いつから? 誰が、誰と? 一体、あたしと橘の関係はいつからそんなに親しいものになったと言うのだろう。いや、確かに教員と学生と言うには親密すぎる関係である自覚はしている。
頬が熱くて、あたしはそれを静めるように頬に手を添えた。
キスしたことも、看病のためとは言え一夜を共に過ごしたことも知っていると言うのだろうか。シングルベッドで寄り添いながら眠ったことも?
穴があったら入りたい思いで、口をパクパクと動かしたが声はでなかった。そもそもあたしは何を言おうとしていたのだろう。そんなあたしには構わず、永井は言葉を続けた。
「あいつとだよ。最近妙に機嫌がいいからな。あいつはわかりやすい」
お前もな、と付け加えると愉快そうに永井は笑った。
「ああああの、先生、あたしたちそんな関係じゃないですからっ!」
慌ててあたしが否定すると、以外だと言わんばかりに永井は目を丸くした。
「あ? そうなのか?」
こくこく、とあたしは声にならない声を発しながら懸命に首を縦に振る。そこへ唐突に聞き慣れた甘い声があたしの耳をくすぐった。
「素直じゃないね、仔猫ちゃん」
不意に掛けられた言葉に振り向くと、そこにいたのは当然――――橘だった。
「橘先生、誤解を受けるような言い方は慎んでください」
先ほどまでの動揺が嘘のようになくなって、あたしはツンと橘から顔を背ける。橘を前にすると、どうしてかひねくれた気持ちになって困る。言ってから後悔することもしばしばで、嫌われたんじゃないかと不安になって橘を見ると、彼はそんなあたしをお見通しだとでも言うように細く笑っているのだ、いつだって。それを見てあたしはまたひねくれる。そんなことの繰り返しだ。
「まぁまぁ、あんまり学校でいちゃつくなよ。バレるとうるさいからな」
永井研究室と表示されたドアの前に着くと、彼は軽快に笑ってドアノブに手を掛けた。橘は軽く手を上げ、あたしも研究室に戻る永井に軽く会釈し、ちらりと橘の横顔を窺った。彼は何事もなかったような表情で、一つ隣の自分の研究室へと入って行く。
「早くおいで、仔猫ちゃん」
「あ、はい」
あたしも慌てて橘の後を追い部屋に入ると、ようやく慣れ始めた香水の匂いがあたしを出迎えた。部屋は冷房が効いていて、蒸し暑かった廊下から入ってくると寒いくらい。でも今日は夏季休暇前の大掃除だと言っていたから、これから存分にこき使われて汗だくになるはずだ。これまで掃除と言う掃除などしたことがないような研究室なのに、一体どういう風の吹き回しだろう。
ひとまずあたしは荷物をソファーのすみに置くと、腕を組んで橘を見据えた。
「先生、外で適当なこと言うのはやめて下さい。誰と誰が付き合ってるんですか」
ああ、ほらまた。どうしてこうけんか腰にしか話が出来ないのだろう、この小娘は。本当は好きで好きでたまらないくせに。付き合えたらいいなって思ってるくせに。
橘はいつもと変わらない余裕の表情で机の上に積まれた書類を手に取っている。
「ん? 僕と君が、だよ。君は他に恋人がいるのかい?」
一通り目を通したらしい書類を再び机に戻すと、橘は視線を上げた。その瞳は本当に楽しげで、あたしは一瞬目を奪われる。余裕しゃくしゃくの紳士かと思えば、不意にこうして少年のような表情を見せるんだもの。
いませんけど、と弱く呟いてから、あたしはコホンと一つ咳払いして、橘に背を向けた。
「で、今日は大掃除なんですよね? 何から始めるんですか?」
ぐるりと部屋を見渡すが、掃除をしようなどと言う意志の見られない散らかりように、あたしは小さく溜息をついた。もしかしたら掃除なんてあたしを呼び出すための口実なのかもしれない、と頭の片隅で思う。
「まあまあ、まずはお茶にしよう。アイスティーでいいかい?」
ほら、やっぱり。
なんだかもう抗議すら馬鹿らしくなって、あたしは指定席になりつつあるソファーに無言で腰掛けた。橘の研究室には常に甘い菓子が用意されていて、どれも有名店のものばかりだ。
「今日はプリンがあるよ」
そして今日も数ヶ月待ちだと言われているプリンがアイスティーと共にあたしの前に出される。こうして研究室に来るたびにスイーツを心行くまで堪能して、帰る頃には少しだけ心も甘くなるんだ。餌付けされてる、あたし。それもかなーり甘いやつ。条件反射のように、今では食べる前から顔がほころぶ。
「プリン大好きなんです」
「じゃあもっと美味しい店があるから、今度取り寄せておくよ」
そこへ、トントンと控えめなノックが聞こえ、橘は小さくあたしに詫びてからドアへと向かった。ドアの前にはついたてがあり、あたしは訪問者が誰なのかわからない。学生は入れないと豪語しているのだから、教務の人だろうか。あたしは気にせず北海道の牧場から取り寄せられた濃厚なプリンを口へ運ぶ。
「あの、突然すみません。先生、今お時間よろしいですか?」
聞こえてきた女子学生の声に一瞬どきりとする。橘の研究室に出入りしていることが見つかれば、また以前の事件のようになりかねない。もう面倒ごとはこりごりだから、橘の研究室に入るときは学生に見られないように気を使っていたのに。ドアのすぐ前にはパーテーションがあるから彼女がこちらに気付くことはない、と思うけど。
「――――手短に、お願いするよ」
橘の声は柔かいが、いつになく冷たい響きを含んでいる。やはり学生が研究室に訪ねてくることを快く思っていないようだ。
なんだか盗み聞きをしているみたいで、居心地が悪い。けれど聞こえてくる声に耳を塞ぐことも出来なくて、あたしは彼女のとんでもない言葉を聞く羽目になる。
すなわち――――。
「先生、好きなんです」
これは告白、だろうか。心臓がドクドクと早鐘のように打ち付ける。あたしは持ったま
梅雨もすっかり明け、廊下の窓からは夏の日差しが降り注いでいる。期末試験期間はあと一週間続くが、あたしの受講講義は今日で全ての試験が終わった。
あたしは冷房の効いていない研究室棟の廊下を、キャミソールにデニムのミニスカート言う涼を求めた服装で歩いていた。冷房対策で綿のジャケットは持っていたが、今は鞄の中だ。
「おーい、藤崎」
背後からあたしを呼ぶ声に足を止め、振り返るとそこにはあたしが本来希望していたゼミの教授、永井が爽やかな笑みと共に手を振っていた。
「永井先生」
永井は現代文学の教授で、現代女性作家の論文をいくつも書いている。指導も熱心で、生徒からの信用も厚い。自分の研究にばかり熱心で、教卓に向けて授業をする教授が多い中、永井は基本的な板書はしつつ学生の興味を引き出す、とても情熱的な教員だった。
「橘のゼミはどうだ?」
「意外と面白いですよ。ホントは永井先生のゼミが良かったですけど」
先生は自分の研究室に戻るところだったのだろう、あたしたちは並んで歩き出した。
「そうか。俺のゼミにも藤崎は欲しかったんだが、橘のラブコールがなぁ」
そう言うと永井は苦笑した。しかし、その表情は悪戯をした少年のようで、あたしは永井の言葉を待つ。橘は永井と特に仲がいいようで、飲みに行くことも多いと聞くが、橘は彼に何を話しているのだろう。
「付き合ってるんだろう?」
さらりとこの人は何か恐ろしいことを言った気がする。
「はい?」
何かの聞き間違いだろうか。付き合っている? いつから? 誰が、誰と? 一体、あたしと橘の関係はいつからそんなに親しいものになったと言うのだろう。いや、確かに教員と学生と言うには親密すぎる関係である自覚はしている。
頬が熱くて、あたしはそれを静めるように頬に手を添えた。
キスしたことも、看病のためとは言え一夜を共に過ごしたことも知っていると言うのだろうか。シングルベッドで寄り添いながら眠ったことも?
穴があったら入りたい思いで、口をパクパクと動かしたが声はでなかった。そもそもあたしは何を言おうとしていたのだろう。そんなあたしには構わず、永井は言葉を続けた。
「あいつとだよ。最近妙に機嫌がいいからな。あいつはわかりやすい」
お前もな、と付け加えると愉快そうに永井は笑った。
「ああああの、先生、あたしたちそんな関係じゃないですからっ!」
慌ててあたしが否定すると、以外だと言わんばかりに永井は目を丸くした。
「あ? そうなのか?」
こくこく、とあたしは声にならない声を発しながら懸命に首を縦に振る。そこへ唐突に聞き慣れた甘い声があたしの耳をくすぐった。
「素直じゃないね、仔猫ちゃん」
不意に掛けられた言葉に振り向くと、そこにいたのは当然――――橘だった。
「橘先生、誤解を受けるような言い方は慎んでください」
先ほどまでの動揺が嘘のようになくなって、あたしはツンと橘から顔を背ける。橘を前にすると、どうしてかひねくれた気持ちになって困る。言ってから後悔することもしばしばで、嫌われたんじゃないかと不安になって橘を見ると、彼はそんなあたしをお見通しだとでも言うように細く笑っているのだ、いつだって。それを見てあたしはまたひねくれる。そんなことの繰り返しだ。
「まぁまぁ、あんまり学校でいちゃつくなよ。バレるとうるさいからな」
永井研究室と表示されたドアの前に着くと、彼は軽快に笑ってドアノブに手を掛けた。橘は軽く手を上げ、あたしも研究室に戻る永井に軽く会釈し、ちらりと橘の横顔を窺った。彼は何事もなかったような表情で、一つ隣の自分の研究室へと入って行く。
「早くおいで、仔猫ちゃん」
「あ、はい」
あたしも慌てて橘の後を追い部屋に入ると、ようやく慣れ始めた香水の匂いがあたしを出迎えた。部屋は冷房が効いていて、蒸し暑かった廊下から入ってくると寒いくらい。でも今日は夏季休暇前の大掃除だと言っていたから、これから存分にこき使われて汗だくになるはずだ。これまで掃除と言う掃除などしたことがないような研究室なのに、一体どういう風の吹き回しだろう。
ひとまずあたしは荷物をソファーのすみに置くと、腕を組んで橘を見据えた。
「先生、外で適当なこと言うのはやめて下さい。誰と誰が付き合ってるんですか」
ああ、ほらまた。どうしてこうけんか腰にしか話が出来ないのだろう、この小娘は。本当は好きで好きでたまらないくせに。付き合えたらいいなって思ってるくせに。
橘はいつもと変わらない余裕の表情で机の上に積まれた書類を手に取っている。
「ん? 僕と君が、だよ。君は他に恋人がいるのかい?」
一通り目を通したらしい書類を再び机に戻すと、橘は視線を上げた。その瞳は本当に楽しげで、あたしは一瞬目を奪われる。余裕しゃくしゃくの紳士かと思えば、不意にこうして少年のような表情を見せるんだもの。
いませんけど、と弱く呟いてから、あたしはコホンと一つ咳払いして、橘に背を向けた。
「で、今日は大掃除なんですよね? 何から始めるんですか?」
ぐるりと部屋を見渡すが、掃除をしようなどと言う意志の見られない散らかりように、あたしは小さく溜息をついた。もしかしたら掃除なんてあたしを呼び出すための口実なのかもしれない、と頭の片隅で思う。
「まあまあ、まずはお茶にしよう。アイスティーでいいかい?」
ほら、やっぱり。
なんだかもう抗議すら馬鹿らしくなって、あたしは指定席になりつつあるソファーに無言で腰掛けた。橘の研究室には常に甘い菓子が用意されていて、どれも有名店のものばかりだ。
「今日はプリンがあるよ」
そして今日も数ヶ月待ちだと言われているプリンがアイスティーと共にあたしの前に出される。こうして研究室に来るたびにスイーツを心行くまで堪能して、帰る頃には少しだけ心も甘くなるんだ。餌付けされてる、あたし。それもかなーり甘いやつ。条件反射のように、今では食べる前から顔がほころぶ。
「プリン大好きなんです」
「じゃあもっと美味しい店があるから、今度取り寄せておくよ」
そこへ、トントンと控えめなノックが聞こえ、橘は小さくあたしに詫びてからドアへと向かった。ドアの前にはついたてがあり、あたしは訪問者が誰なのかわからない。学生は入れないと豪語しているのだから、教務の人だろうか。あたしは気にせず北海道の牧場から取り寄せられた濃厚なプリンを口へ運ぶ。
「あの、突然すみません。先生、今お時間よろしいですか?」
聞こえてきた女子学生の声に一瞬どきりとする。橘の研究室に出入りしていることが見つかれば、また以前の事件のようになりかねない。もう面倒ごとはこりごりだから、橘の研究室に入るときは学生に見られないように気を使っていたのに。ドアのすぐ前にはパーテーションがあるから彼女がこちらに気付くことはない、と思うけど。
「――――手短に、お願いするよ」
橘の声は柔かいが、いつになく冷たい響きを含んでいる。やはり学生が研究室に訪ねてくることを快く思っていないようだ。
なんだか盗み聞きをしているみたいで、居心地が悪い。けれど聞こえてくる声に耳を塞ぐことも出来なくて、あたしは彼女のとんでもない言葉を聞く羽目になる。
すなわち――――。
「先生、好きなんです」
これは告白、だろうか。心臓がドクドクと早鐘のように打ち付ける。あたしは持ったま