仔猫のパティスリー
「どうかしたのかい?」
小さく笑ったあたしに、橘はハンドルを握ったまま怪訝な目を向けた。
「先生の香水、何ですか?」
「スカルプチャー・オム」
「スカルプチャー……いい匂いですね」
あたしは目を閉じて、シートに身体を預けた。熱はいぜんとしてあるようだったし、息苦しいのも相変わらずだったが、気持ちが楽になったせいか随分思考もはっきりしてきたようだ。
近くの総合病院へ着くと、受付を済ませて待合で一時間ほど待たされた。それでも総合病院にしては早いくらいだ。
診察と採血を終えて一度待ち合いに戻ると、橘はゆったりと微笑んだ。
「どうだった?」
「あ、はい…。風邪は風邪なんですけど、入院を進められました。通常入院するほどのことではないそうなんですけど、あたし、一人暮らしだって話したら……」
医師は人の良さそうな男性で、あたしのお父さんと年はそう変わらないように見えた。一人暮らしだと話したら、看病してくれる人がいないなら入院して様子を見ようと心配してくれた。確かに今回は橘が来てくれたから良かったようなものの、一人きりだったらどうなっていたかわからない。しかし入院と言われると、どうしたって怯む。医師は血液検査の結果を待つ間に考えたらいいと言った。
「確かに一人暮らしでは何かと不自由だろうね」
あたしは橘の隣に腰を下すと、深く息を吐いた。
「でも入院なんて荷物もあるし、学校だって……」
橘は組んでいた足を組替えて、あたしを見つめた。
「だったら――――僕が、君の看病をしよう」
また、この人は――――。
あまりにも簡単に言うから、あたしは思わずちいさく溜息をついた。
「こっちに頼れる親戚もいないんだろう? ゼミの担当教員は生徒の生活指導も兼ねているんだ。僕には君を保護する責任がある」
いけしゃあしゃあと言ってのける橘に、あたしは苦笑した。
「はぁ? また都合のいいように言いますね」
「君が心配なんだよ」
「誰のせいでこんな風になったと……」
言ってから焦って口を継ぐむあたしに、橘は「おや?」と首を傾げた。
「僕のせいだって言うのかい?」
どこか面白そうに言う橘に、あたしは答える事が出来ず黙り込んだ。そこへ助け舟を出すようなタイミングでアナウンスが流れた。
『藤崎柚季さん、二番の診察室にお入りください――――』
***
結局、医師は伯父だと自称する橘に言いくるめられ、あたしは入院を免れた。その代わりと言っては何だが、うら若き乙女の部屋には当然のように橘が居座っている。
「それで、どうして僕が君の風邪の原因なんだい?」
ベッドでスポーツ飲料を飲んでいたあたしは深く息をついた。売り言葉に買い言葉と言うか、いらないことを言い出したのはあたしだ。熱で体力を奪われていたこともあり、言い返す気力もなかったあたしは橘に聞かれるまま答えた。
「ストレスですよ」
ペットボトルのふたをしめて、それを枕もとに置くと、あたしは橘に顔を見られたくなくて横になり布団をかぶった。こんな情けない顔は見せられるわけがない。
「君へのひいきは止めたつもりだったんだけどね」
困ったような橘の声を背中で聞いて、心臓がきゅうと喘いだ。
「だから、です。散々、人を振り回しておいて、急に冷たくするから……」
「他の生徒と同じ対応をしただけだよ。君が望んだことだ」
そうだけど。
そう望んでいたはずだった。けれどそれがこんなにも辛いことだとは思っていなかった。
大学の助教授と学生では、ゼミ以外ではまったくと言っていいほど接点がなかった。橘の受け持っている専門学科の講義は既に履修済みであったし、ゼミ自体も学生が進行するため橘が話すのは終盤の十分ほど。個人的な話をする時間などは皆無だ。増して取り巻きの多い橘では、彼から声を掛けてくれなければ言葉をかわす機会などなかった。
以前はことあるごとに声を掛けられ、週に一度は研究室に呼ばれていたのに。
布団の中で黙り込んでしまったあたしを見かねてか、橘が再び口を開いた。
「黙っていると、僕は都合のいいように解釈するけどいいのかな、仔猫ちゃん?」
「――――……」
「仔猫ちゃん?」
優しい声が振ってきて、顔を見せなさいと布団をゆっくりはがされる。
「君は、化粧を落とすとあの日のままだね」
「あの日?」
橘はそれに答えることなく、ただ静かに微笑むだけだ。そうして優しくその額をあたしのそれにこつんと当てた。そのあまりにも親密なしぐさにあたしの頬が赤く染まった。
「薬がだいぶ効いているようだね。熱を測ろうか」
額を離した橘に渡された体温計を素直に脇に挟んで、あたしは何を考えているのかわからない彼を見つめた。
優しい沈黙が部屋を包む。時計は八時をまわり、いつの間にか雨は止んでいるようだった。
ピピピ…と、体温計が鳴って画面を確認すると、かろうじて38度は下回っている。
「先生、今日はもう大丈夫ですから。ありがとうございました」
「何度? ――――まだ熱があるじゃないか」
「でも、原稿とかあるんじゃないですか? それにスーツのままじゃしわになります。いろいろ買ってきて下さってありがとうございました。本当に大丈夫ですから」
これ以上橘に迷惑を掛けるわけには行かない。どれだけ好意を持たれていても、彼は大学の教員で、自分は生徒でしかないのだから。
それに。
こんな掃除もしていない部屋をこれ以上見られるなんて、羞恥プレイも甚だしい。下着を干しっぱなしにしていなかった自分を褒めてやりたかった。ワンルームということもあって、橘がいては着替えることも出来ない。
橘がいなくなったこの部屋を思うとどれだけ寂しいだろうとか、こうして橘に甘やかされるように看病してもらう心地良さとか、一人の不安を考えると一緒にいて欲しかった。この人だから、そばにいて欲しい。
でも、ダメ。好きだから、迷惑は掛けられない。
「君のそばにいさせてほしい。それに、僕がいないと泣いてしまうだろう?」
甘えん坊な仔猫ちゃん、と橘はあたしの額にキスをした。一瞬、橘が来てくれる前の涙がフラッシュバックして、頬が熱くなるのがわかる。
「橘先生っ……!」
「一度帰って着替えてくる。また、後で来るからね」
熱くなった頬に手を添えられて、あたしは思わずこくりと頷いてしまった。でもその瞬間、本当に幸せそうにほころんだ彼の口元を見て、あたしの心まで蕩けてしまいそうになった。彼はいつだって微笑んでいたけれど、こんなに嬉しそうな笑顔を見たのは初めてだったから。
そうして帰り支度をする橘を見て、あたしはベッドを抜けた。鞄の中を探ってイチゴのキーホルダーがついた鍵を取り出した。
「先生、スペアキーがないので…これ」
「仔猫ちゃん……――いけないな」
声を落として短く溜息をつく橘に、さっと血の気が引く。厚かましかっただろうか。こんな鍵なんて渡されたら、世話を強要しているようなものだ。けれど、橘はそんなあたしなどお構いなしに、強く抱きすくめた。
「可愛いことをするんじゃない」
低く囁かれた声は熱くて、熱くて、決して教員ではなく、それは男の声だった。
本当に、この人はあたしを好きなんだ。
一回り以上年下の、こんな生意気な小娘なのに。
あたしは重い腕を上げ、橘の広い背中に回した。
先生が、好き。
気付いてしまったこの想いを、あたしはどうしたらいいの――――。
小さく笑ったあたしに、橘はハンドルを握ったまま怪訝な目を向けた。
「先生の香水、何ですか?」
「スカルプチャー・オム」
「スカルプチャー……いい匂いですね」
あたしは目を閉じて、シートに身体を預けた。熱はいぜんとしてあるようだったし、息苦しいのも相変わらずだったが、気持ちが楽になったせいか随分思考もはっきりしてきたようだ。
近くの総合病院へ着くと、受付を済ませて待合で一時間ほど待たされた。それでも総合病院にしては早いくらいだ。
診察と採血を終えて一度待ち合いに戻ると、橘はゆったりと微笑んだ。
「どうだった?」
「あ、はい…。風邪は風邪なんですけど、入院を進められました。通常入院するほどのことではないそうなんですけど、あたし、一人暮らしだって話したら……」
医師は人の良さそうな男性で、あたしのお父さんと年はそう変わらないように見えた。一人暮らしだと話したら、看病してくれる人がいないなら入院して様子を見ようと心配してくれた。確かに今回は橘が来てくれたから良かったようなものの、一人きりだったらどうなっていたかわからない。しかし入院と言われると、どうしたって怯む。医師は血液検査の結果を待つ間に考えたらいいと言った。
「確かに一人暮らしでは何かと不自由だろうね」
あたしは橘の隣に腰を下すと、深く息を吐いた。
「でも入院なんて荷物もあるし、学校だって……」
橘は組んでいた足を組替えて、あたしを見つめた。
「だったら――――僕が、君の看病をしよう」
また、この人は――――。
あまりにも簡単に言うから、あたしは思わずちいさく溜息をついた。
「こっちに頼れる親戚もいないんだろう? ゼミの担当教員は生徒の生活指導も兼ねているんだ。僕には君を保護する責任がある」
いけしゃあしゃあと言ってのける橘に、あたしは苦笑した。
「はぁ? また都合のいいように言いますね」
「君が心配なんだよ」
「誰のせいでこんな風になったと……」
言ってから焦って口を継ぐむあたしに、橘は「おや?」と首を傾げた。
「僕のせいだって言うのかい?」
どこか面白そうに言う橘に、あたしは答える事が出来ず黙り込んだ。そこへ助け舟を出すようなタイミングでアナウンスが流れた。
『藤崎柚季さん、二番の診察室にお入りください――――』
***
結局、医師は伯父だと自称する橘に言いくるめられ、あたしは入院を免れた。その代わりと言っては何だが、うら若き乙女の部屋には当然のように橘が居座っている。
「それで、どうして僕が君の風邪の原因なんだい?」
ベッドでスポーツ飲料を飲んでいたあたしは深く息をついた。売り言葉に買い言葉と言うか、いらないことを言い出したのはあたしだ。熱で体力を奪われていたこともあり、言い返す気力もなかったあたしは橘に聞かれるまま答えた。
「ストレスですよ」
ペットボトルのふたをしめて、それを枕もとに置くと、あたしは橘に顔を見られたくなくて横になり布団をかぶった。こんな情けない顔は見せられるわけがない。
「君へのひいきは止めたつもりだったんだけどね」
困ったような橘の声を背中で聞いて、心臓がきゅうと喘いだ。
「だから、です。散々、人を振り回しておいて、急に冷たくするから……」
「他の生徒と同じ対応をしただけだよ。君が望んだことだ」
そうだけど。
そう望んでいたはずだった。けれどそれがこんなにも辛いことだとは思っていなかった。
大学の助教授と学生では、ゼミ以外ではまったくと言っていいほど接点がなかった。橘の受け持っている専門学科の講義は既に履修済みであったし、ゼミ自体も学生が進行するため橘が話すのは終盤の十分ほど。個人的な話をする時間などは皆無だ。増して取り巻きの多い橘では、彼から声を掛けてくれなければ言葉をかわす機会などなかった。
以前はことあるごとに声を掛けられ、週に一度は研究室に呼ばれていたのに。
布団の中で黙り込んでしまったあたしを見かねてか、橘が再び口を開いた。
「黙っていると、僕は都合のいいように解釈するけどいいのかな、仔猫ちゃん?」
「――――……」
「仔猫ちゃん?」
優しい声が振ってきて、顔を見せなさいと布団をゆっくりはがされる。
「君は、化粧を落とすとあの日のままだね」
「あの日?」
橘はそれに答えることなく、ただ静かに微笑むだけだ。そうして優しくその額をあたしのそれにこつんと当てた。そのあまりにも親密なしぐさにあたしの頬が赤く染まった。
「薬がだいぶ効いているようだね。熱を測ろうか」
額を離した橘に渡された体温計を素直に脇に挟んで、あたしは何を考えているのかわからない彼を見つめた。
優しい沈黙が部屋を包む。時計は八時をまわり、いつの間にか雨は止んでいるようだった。
ピピピ…と、体温計が鳴って画面を確認すると、かろうじて38度は下回っている。
「先生、今日はもう大丈夫ですから。ありがとうございました」
「何度? ――――まだ熱があるじゃないか」
「でも、原稿とかあるんじゃないですか? それにスーツのままじゃしわになります。いろいろ買ってきて下さってありがとうございました。本当に大丈夫ですから」
これ以上橘に迷惑を掛けるわけには行かない。どれだけ好意を持たれていても、彼は大学の教員で、自分は生徒でしかないのだから。
それに。
こんな掃除もしていない部屋をこれ以上見られるなんて、羞恥プレイも甚だしい。下着を干しっぱなしにしていなかった自分を褒めてやりたかった。ワンルームということもあって、橘がいては着替えることも出来ない。
橘がいなくなったこの部屋を思うとどれだけ寂しいだろうとか、こうして橘に甘やかされるように看病してもらう心地良さとか、一人の不安を考えると一緒にいて欲しかった。この人だから、そばにいて欲しい。
でも、ダメ。好きだから、迷惑は掛けられない。
「君のそばにいさせてほしい。それに、僕がいないと泣いてしまうだろう?」
甘えん坊な仔猫ちゃん、と橘はあたしの額にキスをした。一瞬、橘が来てくれる前の涙がフラッシュバックして、頬が熱くなるのがわかる。
「橘先生っ……!」
「一度帰って着替えてくる。また、後で来るからね」
熱くなった頬に手を添えられて、あたしは思わずこくりと頷いてしまった。でもその瞬間、本当に幸せそうにほころんだ彼の口元を見て、あたしの心まで蕩けてしまいそうになった。彼はいつだって微笑んでいたけれど、こんなに嬉しそうな笑顔を見たのは初めてだったから。
そうして帰り支度をする橘を見て、あたしはベッドを抜けた。鞄の中を探ってイチゴのキーホルダーがついた鍵を取り出した。
「先生、スペアキーがないので…これ」
「仔猫ちゃん……――いけないな」
声を落として短く溜息をつく橘に、さっと血の気が引く。厚かましかっただろうか。こんな鍵なんて渡されたら、世話を強要しているようなものだ。けれど、橘はそんなあたしなどお構いなしに、強く抱きすくめた。
「可愛いことをするんじゃない」
低く囁かれた声は熱くて、熱くて、決して教員ではなく、それは男の声だった。
本当に、この人はあたしを好きなんだ。
一回り以上年下の、こんな生意気な小娘なのに。
あたしは重い腕を上げ、橘の広い背中に回した。
先生が、好き。
気付いてしまったこの想いを、あたしはどうしたらいいの――――。