仔猫のパティスリー
「あとで僕の研究室に来なさい」
「生徒は研究室に入れないんじゃないんですか?」
「入れる必要があるから言ってるんだよ。僕はもう講義はないから、君の都合のいい時においで」
 待ってるからね、と優しく微笑まれて。思わずどきりとする。
「あたしももう今日は授業、ありませんから……」
 橘の話とは一体なんだろうか。ゼミでふてくされていたこと? そんなまさか。でも他に思い当たることは何もない。
 それはちょうどいい、と橘は笑って自分の荷物をまとめた。ゼミ生に軽く挨拶をすると、教室を出る。ついて来い、ということだろう。取り巻きの視線が痛いけれど、助教授命令だ。あたしの意志じゃない。不可抗力みたいなものだ。あたしも教室を出て、彼の後を追う。
 彼の歩いた後は香水の香りがする。橘はあたしがついて来たのを確認すると、歩調を緩めた。あたしの歩幅に合わせてくれている。それが軟派で憎らしい反面、女の子扱いされているのがくすぐったくて。彼の取り巻きの気持ちが少しわかった気がした。
 研究室棟の一番奥の部屋が橘に割り当てられた部屋だった。昨年改築されたばかりの大学内はどこも綺麗で、橘の部屋も例外ではない。彼は部屋の鍵を開けるとあたしを中に促した。
「失礼します」
 橘の研究室は自分の著作と様々な研究論文や資料が立ち並んでいた。山積みにされた本が床にまで置かれている。唯一それがないのは来客用のソファーと、テーブルの上だけだ。
「仔猫ちゃん、甘いものは好きかい?」
「え、はい……」
 戸惑うあたしをよそに、橘は備え付けられたミニキッチンから紅茶とイチゴのロールケーキを出してくれた。
「さ、座って」
「あ、はい。失礼します」
「このロールケーキ、もらいものだけど美味しいんだよ」
「はあ…いただきます」
 粉砂糖が振りかけられたロールケーキはふわふわで、甘すぎないクリームとイチゴの酸味が絶妙だった。
「おいしい」
 思わず笑みがこぼれる。一人暮らしだからロールケーキなんてせいぜいコンビニの物しか食べない。まして切るだけとはいえ、人が出してくれたものを口にするのはいつぶりだろう。温かい紅茶の湯気もなんだか嬉しくて。
「お気に召したかな、仔猫ちゃん?」
 満足そうに微笑む橘が、あたしを見つめていた。なんだか妙に恥ずかしくなって、あたしは表情を引き締める。
「それで、話ってなんですか?」
「うん? ああ、まだ先のことなんだけど、卒論のことでね。君は松下先生の創作ゼミを希望していただろう。卒論は小説を書きたかったんじゃないのかい?」
 あたしは手にしていた紅茶のカップを握り締めた。確かにあたしは小説創作がしたくて、松下先生のゼミを希望していたのだ。彼の文学に対する情熱に憧れて。彼の指導で自分の小説が文学に遂げるのを見てみたかった。
「でも、ゼミはこちらに決まりましたから……」
 落胆するあたしを見て、橘は苦笑した。
「文学研究ゼミだからといって卒論も研究しなければならないとは限らない。小説を書きなさい。松下先生ほど指導が上手いとは言えないが、僕も作家端くれだからね。多少の指導は出来るつもりだ」
「え……」
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